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Novels(倭国伝説)

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Wakoku(倭国伝説)

原文 :「遣塞曹掾使張政等因齎詔書黄幢拝仮難升米為檄告喩之 卑弥呼以死」
読み下し文 :「塞曹掾使(さいそうえんし)張政(ちょうせい)等を遣わして、因って詔書、黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮せしめ、檄(げき)をなして、之を告喩(こくゆ)す。」
現代語訳 : 「(太守は)塞曹掾使の張政らを派遣して、(正始六年に賜った)詔書と軍旗を難升米に与え、檄文(触れ文)を作って言い聞かせ両者に停戦させた。」


「卑弥呼以死」=卑弥呼、それによって死す?

古代史。邪馬台国卑弥呼の時代、「卑弥呼は殺されたのか?」

No.1 はじめに

 2011-07-28

私たちのような日本人は、どのようにして形成されたのか

 日本人の持つ独特の感性、感覚。日本人が日本という国を意識し始めた(アイデンティティ)のは、いつごろなのか。私が古代史が好きな理由はここにある。
 記紀によると、皇祖は天照大御神ということになっている。そして歴史にはじめて現れた邪馬台国の女王、卑弥呼。私は、同じ人物だと思っているが、その物語を描いてみたいと、文才のなさもわきまえず思った。

過去に起きた事実、事件などをどう見るのか。

 見る人の視点でいろいろな解釈ができるが、過去の文献を読みあさり調べてみるといろいろなイメージが広がる。

 以前、弥生時代を創造した徐福について記した。
 童男童女を引き連れ、今から2100年ほど前に日本に移住してきた徐福、その想いとロマンに引かれ、いろいろと調べ「小説 徐福伝説」として書いた。

 これから述べたいと思っているのは、それから400年余り後の話である。
 開拓の時代が終わり、倭国という独自の文化を築くきっかけになった歴史的な事件が起こる。その時に登場したのが「邪馬台国の女王、卑弥呼」である。
 国家としてのアイデンティティを倭国の人々が意識し始めた時代、記紀に皇祖として描かれている天照大御神と同一人物ではないか。
 その紀元240年代、邪馬台国の女王「ヒミコ」の時代に「張政」という人物が歴史に登場する。邪馬台国連合と狗奴国との戦いの中で、彼が卑弥呼の死亡と何らかの関わりを持ち、卑弥呼の後継者、台与の擁立に重要な役割を果たす。
 歴史の一大転換期に、歴史に顔を出した「張政」という人物はいったい何者なのか。

 倭国の歴史は、当時の中国の歴史書によって多少は明らかになっている。
「日本」という言葉が、歴史に現れるのは、7世紀後半からと考えられる。
 当時の東アジア地域は618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。

 唐と倭国とのかかわりにおいては紀元663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦。

≪これが日本の歴史に大きくかかわるが、この物語の400年ほど後の話で政治の中心が九州から関西に移った。≫
 これを契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進める。
 689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号としての「日本」は誕生したと考えられる。
 つまり、それ以前の日本は「倭国」と呼ばれていた。
 国号を変えるということは、単純に考えると王朝が変わったということである。

≪ここが私が言いたいポイントです。≫
 中国の歴史書には「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としている。
 国号の変更の事情について、『旧唐書』が「小国だった日本が倭国を併合した」とするのに対し、『新唐書』が「倭が日本を併合し、国号を奪った」としている。
 いずれにせよ、これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。
≪私は、日本の歴史ではなくて、それ以前の日本列島の歴史について述べたいと思っている。≫

No.2 歴史の始まり


 日本の歴史、文明の始まりである「弥生時代」は、紀元前200年頃、中国からの大量の移民によって始まった。中原での戦乱からのがれ、多くの民が日本に押し寄せた。

 東方にあるという仙人の国、蓬莱に対するあこがれもあっただろう。
 気候が温暖で、倭と言われる友好的で温和な人々が平和に暮らしているという噂話もあった。その平和な生活を求めて、中国から東方に旅立った。
 それ以前から稲作は入ってきていたが、文化を持ち込んだということで、「小説 徐福伝説」を書いた。
 この時代以降、各地に「ムラ」「クニ」と呼ばれる政治組織が徐々に形成され、1世紀・2世紀前後に各クニの連合による倭国と呼ばれる大規模な政治組織が出現した。文化と共に、争いも持ちこまれた。

 その後、この連合的政治組織は、3世紀・4世紀頃に統一王権(ヤマト王権)へと発展する。この時、王朝の交代といえるような劇的な革命が起ったと思われる。

≪記紀に書かれてある神武天皇の東遷は、この歴史的事実が書かれたものだと思っている。≫

 紀元3世紀、魏志倭人伝に書かれてある「邪馬台国」の時代、この時代に何が起きたか。ひとりの人物の視点を使って俯瞰してみたいと考えた。
 この時代こそが、日本の歴史の創世記であり、日本国の皇祖である天照皇大神(アマテラスオオミカミ)が実際に生きて活躍していた時代だと私は思っている。
 神話ではすべての日本人の皇祖として、アマテラスが描かれている。

 それ以前から、いろいろな神が活躍しているが、われわれ日本人にとって、なぜかいちばん身近に感じる存在、それがアマテラスで、又の名を「日巫女(卑弥呼)」といいます。もちろん本名ではなくて、ある役職の名前である。

≪記紀の作者は、中国の史書も読んでいたはずだし、その史書に出てくる卑弥呼が、口伝によって伝えられている天照皇大神のことだと知っていたと思われる。ただ倭国の女王でヤマト王朝「日本」の直接の始祖ではないので、自国の歴史にうまく取り込んだと思っている。≫

 当時の「国」の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外である。
 九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が領域に組み込まれたのは、鎌倉時代に入ってからである(蝦夷)。
 この歴史的事実から、「邪馬台国」という地域の王権は九州北部に存在したと考えている。
 奈良王朝であるヤマト王朝とは、別の王朝であると考えた方が、以後述べて行く歴史的な出来事がすんなりと無理なく理解できる。

No.3 徐福の移民後


徐福が童男童女を引き連れ倭国に移民してきたのが、紀元前210年頃だと思われるが、その後彼らの子孫はどうなったのか、史書には書かれていない。

≪中国からの移民団は、童男童女1万人という、当時としてはものすごい人数であったが、佐賀平野を中心に集落をつくり生活を始めた。(個人的な仮説です。) 吉野ヶ里は彼らの集落の中心であったと思っている。≫

 魏志倭人伝には「漢の時朝見する者あり」と書かれているから、移住後も彼らは中国本土とのかかわりは持ち続けていたものだと推測できる。
 自分たちの故郷、世代が進むにつれて意識は少なくなっていくだろうが、民族のアイデンティティは、先祖からしっかりと引き継がれるものであるから・・・。

 この徐福の時代に、神道の原点であるシャーマニズムも中国から渡ってきた。徐福がもってきた「神仙思想」で、これが邪馬台国の女王卑弥呼の鬼道に繋がる。
 記紀に書かれてある日本神話「天照大神」は、邪馬台国の卑弥呼の伝説を意識して書かれてあると思っているが、それ以前の神話は、徐福の伝説から始まるのではないかと思っていた。

≪ 神話によると、イザナギ・イザナミの両神は葦原中国に降り、結婚して大八洲と呼ばれる日本列島を形成する島々を次々と生み出していく。さらに、さまざまな神々を生み出すが、この神話のイザナギ・イザナミこそ、徐福が移住してきた時の「童男童女」のことではないかと思っている。≫

 徐福から卑弥呼が登場する「邪馬台国」の時代まで400年あまりの時間が経つ。
 紀元前100年頃、漢書地理志によると、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国をなす」と書かれている。
 紀元57年、倭奴国が朝貢「漢委奴国王」金印紫綬。
≪志賀島で発見された有名な金印のこと。金印とはその国の支配者であると認めたものであるから、倭国は、漢の属国という意識だった。≫

 紀元107年、倭国王帥升の朝貢。
 この事実が、魏志倭人伝では次のように書かれている。
「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり今、使訳通ずる所三十国(魏志倭人伝)」
 つまり、倭人の国々の中でも、卑弥呼を共立して中国(魏)に朝貢してくる国は三十国であるということである。

No.4 倭国大乱


 紀元前後から、紀元150年頃までは、倭国の政治の中心は北部九州、玄界灘に面した地域であったろう。
 そしてもう1つ、中国からの帰化人?たちが創った「有明文化圏」吉野ヶ里を中心とした勢力があった。

 倭国王帥升が初代かどうかはわからないが、倭国には代々男子王がいた。
 倭王というぐらいだから、各部族の話し合いによって倭国王を決めたということだろう。
 その後、倭国は争乱状態となった。
 史書によると、桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)で、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い何年も王がいなかった。

 この争乱は70 - 80年ほど続くが、最終的に一人の女子を共立し王とした。
「共立」ですから、話し合いによって選んだのである。
 それが、「邪馬台国の女王、卑弥呼」で、これによって争乱は収まった。

 この倭国大乱の原因については、いろいろな説がある。
 まず想定されるのは、倭国王位の承継をめぐる争い。
 弥生時代の倭国は、多くの政治勢力(国)に分かれており、倭国王は政治勢力間の利害を調整するために置かれていたと推定される。
 しかし、利害調整を担いうる人物の不在あるいは調整不可能な程の利害対立の発生などにより、倭国王位をめぐる大乱が生じたのではないかと考えられている。
 また、2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けた土地収奪争いにあったとする説もある。
 直接の原因は「鉄の流通をめぐる争い」であり、その背景に「後漢の衰退」があるといわれている。

≪有名な三国志の時代。≫
 中国の政情不安が朝鮮半島にもおよび、また流浪の民が流れ込むこととなり、北九州諸国にも政情不安を引き起こした。
 具体的には、「伊都国の衰退」が奴国(旧王国)など30余国の地域的な紛争を呼び、そしてその紛争が拡大して北部九州全域にわたる「大乱」に発展したのではないかと考えている。
 鉄などの交易品は伊都国を介して交易されていたが、後漢の衰退により奴国(旧王国)など30余国がその権益を争ったと考えられる。
 そして、この倭国大乱が収まったのが、紀元238年頃。
 ここに邪馬台国の女王、卑弥呼が歴史に登場する。
 すでにかなりの高齢であった。


No.5 倭国大乱の裏話


 有名な三国志演義の物語の幕開けは、「黄巾の乱」からである。
 紀元192年、曹操により黄巾賊の残党が討伐され、その際、数十万に及ぶ青州の黄巾賊が投降し、曹操軍へと併呑された。
 この時の地名から彼らは青州兵と呼ばれるようになり、曹操軍の中で重要な部隊として活躍する。
 紀元220年、曹操が他界し、その葬儀の最中、彼等は突如隊を解散し故郷、山東省へと帰る。
≪「白い喪服をまとい、軍鼓を打ち鳴らしながら。行列はえんえんと連なり、いつまでも果てることのないかのように見えた。」史書にはこのように書かれている。≫

 その「青州兵」と呼ばれる彼らの一部が、北部九州に渡ってきたのではないかという説がある。三国志がらみで面白いのですが、妄想の域をでない。
以下、その妄想の続きになる。

 山東省といえば、どうしても私は「徐福」を想像してしまう。
 黄巾の乱は「大平道」の信者たちが反乱を起こしたのだが、彼らは「大平道」という神仙思想を信仰していた。
 自分たちと同じ民族が、倭国で国を創っているという話、蓬莱という神仙の世界への憧れ。同胞である「徐福」の伝説は知っていたはずだ。

 彼らは「剛強であるけれども略奪に走りやすく、統制の難しい軍団」と見られていた。彼らの宗教心に基づく戦闘力・団結力はものすごく、屯田制に組み込まれ平時は農作に従事していた農民でもあった。

≪人間の骨から人種を考える形成人類学という学問によると、吉野ケ里で発掘される弥生人は、山東半島で発掘された頭蓋骨の特徴と一致するそうである。西日本に広がる弥生人のルーツは山東半島付近から渡来してきた中国人と考えられると結論づけられている。≫
 彼らの力が加わることによって、有明海地域の「邪馬台国連合」の力が増し、ついに北部勢力の「伊都国」や「奴国」との争いに勝利し、糸島、博多湾周辺までを勢力圏に置いたのではないかと考えている。

 この時に北部勢力の一部は、遠賀川より東の地域に「東遷」し、今の行橋、中津あたりに移住し都を築いた?

 倭国伝説≪これを私は、第一次東遷と考える。詳しくは別項で・・・。≫

No.6 金印の謎


 邪馬台国の大夫難升米(なしめ)等が帯方郡に天子への朝貢を願いに行ったのが、紀元238年。その数年前、「倭国大乱」を経て、この北部勢力と有明海地域の国々が初めて統合され共立されたのが邪馬台国の女王、卑弥呼である。
 「倭国大乱」の後、旧勢力である伊都国や奴国の支配者は政権を失い「一大卒」(進駐軍)の監視下に入った。
≪邪馬台国の制度としての「大率」という職名である。≫

 なぜ、邪馬台国連合が伊都国に「一大卒」を置いたかがこれで素直に説明できる。単に、中国・朝鮮への窓口としてだけではなく、周辺の旧勢力に対して「にらみを利かす」ためだった。
 過去の栄光、「倭国王の印」としての意味を失った「漢委奴国王」金印が、志賀島の海岸近くの、一人では動かしにくい石の下に埋もれていた。倭王としての政権は失っても、これだけは後世に残したいと願う倭奴国の要人が、ひそかに、地中に隠匿させた、ためかもしれない。
 ちょっと横道に外れる。
 この発見された場所、志賀島の対岸にあるのが奴国と伊都国。この場所から、対岸を見れば、金印を隠匿した場所を、たとえば、「宝島(たからじま…福岡市西区今津の小島)左、雷山、石の下」というように、簡単な言葉で伝えることができる。

 つまり志賀島で、雷山山頂と宝島の左側が一直線に見える位置を決めれば、その直線上のどこかにある石の下に、金印が埋めてあるという意味になる。
 もっと分かりやすくいえば、「漢委奴国王金印発光之処」の碑の前から見ると、丁度、宝島の左側の背後に、雷山山頂が見える、ということである。
 こう考えると、「なぜ、志賀島という辺鄙な場所で金印が発見されたのか」理解できる。  支配者の象徴である金印を、新しい支配者に奪われたくなくて誰かが隠した。

この直線上に井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡がある。
この前原市の井原鑓溝遺跡からは、天明年間(1781~88)に、後漢鏡21面以上を出土しており、それらの後漢鏡は、まさに倭奴国王が金印を授かった頃のもの、と推定されている。 彼らの一部は追われるように、遠賀川の東部、宗像、北九州方面に逃れて行った。
≪これを私は、第一次東遷としている。≫

 つまり、完全に南部有明海の勢力に服従したわけではなかった。そして、彼らの一部は、邪馬台国のさらに南部にあった狗奴国と通じていたかもしれない。
敵の敵は味方だから。
 そして、この後、邪馬台国連合と狗奴国との争いが起った。


No.7 魏への朝貢


 倭国大乱が終わり、ようやく平和が訪れたわけでなく、まだ小さな争いは続いていたはず。今でいう「政権の交代」が行われたと思っている。
 倭国王として北部九州を統合した卑弥呼は、その権威づけのために中国の天使、魏への朝貢をしようと思った。
 つまり、それ以前の奴国を中心とした倭王の系列ではなかったから、新しい称号が必要だった。
 そして支配者としての象徴である「金印」を紛失したため、新たな金印を求めるためだった。
 さらに、当時の状況も関係している。

 邪馬台国の南部にあった狗奴国との敵対的関係。
 この数年前、中国で魏に対抗していた呉の国が、兵を求めるために、台湾や倭国に「人狩り」を行い失敗している。呉の脅威に対抗するためにも、魏の後ろ盾を必要としていた。 しかし、中国の状況、朝貢の通り道である楽浪郡も安定せず、なかなかタイミングがつかめない状態ではなかったかと思う。

 年表では、次のようになる。
 紀元236年、遼東の公孫淵が魏と開戦。
 紀元238年 魏の司馬懿が公孫淵を討滅し、韓北まで制圧。

≪公孫淵は滅んだがその背後には高句麗王がいた。高句麗は以前から魏に朝貢を行って臣属しており、司馬懿による公孫氏の平定にも兵数千人を遣わしていたが、魏が公孫氏を平定して国境を接すると、242年に西安平で寇掠を働き魏の将軍?丘倹による侵攻を招いた。
244年に1回目の侵攻が行われ、東川王(憂位居)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。
 ?丘倹は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属せず、
 翌245年に再び魏軍の侵攻を招いた。
 魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃沮へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。
 この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東?も高句麗を離れ魏に服属した。≫

 このような状況のもとで、倭国の使者である大夫、難升米らが帯方郡に天子への朝貢を願いに行くところから、この物語は始まる。紀元238年の6月であった。

≪余談≫
 山東省を中心とした地域から移住してきた「徐福の子孫である」有明海沿岸に移り住んだ人々は、呉の民とは親戚関係にあったと思われ、通商など交流が続いていたと思われる。
 特に熊本地方に移り住んだ狗奴国の人々と呉は、関係が強かったのではないかと思っている。
呉の国から、真東に向かって航海すれば、海流の関係で、数日で有明海沿岸に到達する。徐福の時代から、この航路を使って通商が行われていたという記録がある。
 その邪馬台国の女王、卑弥呼が呉の敵国である魏との関係を強化しようとしているのだから、狗奴国にとっては裏切りである。当然、関係が悪くなる。

No.8 難升米


 中国の年号によると景初2年(紀元238年)の春、邪馬台国の大夫、難升米(なしめ)は、邪馬台国の女王卑弥呼と向き合っている。
 邪馬台国連合に従う他の族長たちも同席していた。倭国にとっての政治的な政策の大転換、「安全保障会議」が開かれている。

 難升米(ナシメ)は大夫という地位にある。邪馬台国を代表して魏への朝貢の責任者となる。
 倭国連合は大陸との北の玄関口である伊都国に、「一大卒」という軍隊を配備していたが、彼はその責任者だった。対外政策の責任者、外務大臣兼防衛大臣といえばわかりやすいかもしれない。
 難升米(ナシメ)はもともと、今の博多湾沿岸にあった古くからの大国「奴国」の王族の血筋であり、邪馬台国連合の中でも、最大の実力者であったろうと思われる。
 その他、「住吉族」という海洋一族もいるが、彼らも今の博多湾を本拠地にしていた古く由緒ある一族で、神話でいう「海幸彦」の系列だと思っている。彼らは朝鮮系の一族である。
 それに対して、卑弥呼は山の部族の流れ、つまり「天孫族」の系列、中国系である。

 卑弥呼とは、各地の部族をまとめるための盟約で「姉と弟という関係」を結んでいた。  そして、親魏派であった。
 それに対して、南部の有明海地区の部族長などは親呉派が多かったのではないかと思っている。もともと呉の民が移住してきたのであるから・・・。

 時代が流れ、呉とは過去の関係ほどの繋がりは少なくなっていた。特にこの時代に行われた呉の孫権による「人狩り」政策は、倭の人々に反感と恐怖を与えたはずである。

 国としての独立の機運、国家という概念が芽生えてきたというべきかもしれない。部族同士が争う事をやめ、統一国家を作ろうという機運が生まれつつあった。それが「邪馬台国連合」という形で誕生したばかりであった。

 会議の場面に戻る。
 難升米が説くには、「今こそ魏との同盟関係を確立して、自国の安全を図るべき時である」という事であった。
「一昨年、遼東太守の座にあった公孫淵が独立し、魏と開戦しておりますが、ついに魏が討伐の兵を挙げたとの情報が入っております。 これまで、公孫淵には、我が一族である狗邪韓国(朝鮮半島南部にあった倭国の一部)の安全が脅かされ苦しめられてきました。魏との争いのために、朝鮮南部まで手が回らず、なんとか平和を保つことができたのは幸運でした。
 大国の魏が本気で公孫淵を討伐しようとするのですから、公孫淵の滅亡は時間の問題だと考えられます。もし、公孫淵が滅びれば、魏は朝鮮半島を南下して勢力を拡大しようとしてくると思われます。そうなる前に先に動かねばなりません。」
 難升米は、これまでの親呉政策をやめ魏と新たな同盟関係を結べと述べたと思われる。
≪公孫氏滅亡が、邪馬台国の卑弥呼が帯方郡(魏)に使を派遣することにつながった、との見方が有力である。これは当時の公孫氏政権が事実上の自立状態にあり、邪馬台国をはじめとする東方諸国の使者を遼東に留めて、自らへの朝貢をさせていたため、滅亡により陸路が通じるようになったという見解に基づくものである。≫ウィキペディアより

≪余談≫

 この難升米と邪馬台国の女王卑弥呼の関係については、日本書紀、古事記にも書かれているというのが私の考え方である。
 それが「スサノオとアマテラス」の盟約関係で、スサノオは、かなりの乱暴者として書かれている。自然災害を象徴しているとの説もあるが、米作りというテーマが中心にあるようです。高天原の米作りを妨害している話だから・・・。
 それが原因で、アマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。これは、死を意味していると思われ、ここで、卑弥呼の伝説と重なると想像してしまう。
 紀記ができるわずか四百年ほど前の出来事だから、伝説の女王である卑弥呼については、口伝で伝わっていて人々の記憶に残っていたはずだ。
 日本という国の重要な歴史的転換点の話と、私たち日本人の皇祖であるアマテラスは、読めば読むほど重なり合っている部分が多く、・・・感じるのです。

≪邪馬台国のあった場所≫
 当時の邪馬台国の都、女王卑弥呼の宮殿がどこにあったかについては、九州説でもいろいろと別れている。
 私は単純に考えていて、邪馬台国連合30カ国の一番南部にあったこと、戸数が7万戸という数字から、当初は筑後地方の南部、久留米・八女地区ではなかったかと考えている。
多くの民が生活するには、それだけの広い場所が必要だからで、そして北九州最大の平野が筑後平野である。
 熊本に本拠地があった狗奴国が、菊池から筑後八女地区まで進出しようとしてきており、この物語が始まる景初元年ごろは、女王卑弥呼はすでに木の国(基山)の北部、今の原田地区、筑紫神社のあるところ周辺に移り住み、その場所に卑弥呼の宮殿があったのではないかと推測している。
 もちろん、邪馬台国の本拠地は八女地方だが、北部との争い「倭国大乱」をえて宮殿を地区の中心地に移動する必要があったと思うし、その南部に勢力を伸ばしつつあった狗奴国に対する用心のためでもあった。
 後に狗奴国との戦いに敗れ、その責任を取らされる形で難升米によって卑弥呼は殺されたと考えている。

・・・難升米によって卑弥呼は殺された

 その後部族間の勢力争いののち、当時13歳の台与が共立され、争いが終る。狗奴国はすでに筑後地方の南部を支配下に置いており、追われるような形で遷都された。
台与の時代には、豊前宇佐・中津が邪馬台国の中心地だった。

 そして、卑弥呼の墓は、どこに築かれたのか・・・?

No.9 朝貢の使節団

 景初2年(紀元238年)の春、倭国にとっての政治的な政策の大転換、「安全保障会議」が開かれている場面に戻る。
 吉野ケ里の丘陵地にある高楼と環濠集落のような風景。周囲に兵隊が警護している中で各部族の族長が集まり、卑弥呼を取り囲んで会議をしている様子を私はイメージしている。
 邪馬台国の女王卑弥呼については、次のように史書に書かれている。
「一人の女子が現れた、名を卑弥呼と言い、年長になっても嫁かず、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、ここに於いて王に共立した。」
 かなりの年配であったと思われる。
 シャーマンの能力によって共立された女王だから、実際にどのくらいの権力を持っていたのかわからない。
 卑弥呼も外国の脅威に対する不安は感じていた。難升米の説は、よくわかっている。
「呉は我が祖先の故郷、その呉と敵対している魏のことですから当然、魏の侵略はありうるかもしれません。その呉の国も、一時は公孫淵と手を結び盟約を結んでいましたが今は敵対しています。呉は8年ほど前に、我が国に対して『人狩り』をしようとしました。我が国を植民地程度にしか思っていないことが明らかになりました。
 かの将軍たちが無能で運よくのがれることが出来ましたが、呉に対する親近感は無くなってしまいました。 倭国の独立と平和を守るために、とにかく油断できません。どちらとも距離を保ってうまく外交していければよいのですが・・・」

「この不安定な時期だからこそ、今、魏と同盟を結び、我が国の安全を図ればよいのです。」
 難升米か答えた。
 族長の一人が聞いた。
「なぜ、今が良いのか、第一、魏が朝貢を受け入れてくれるかどうかもわからないではないか。公孫淵を滅ぼした後、そのままの勢いで我が国に押し掛けてくるつもりかもしれないし・・・。」
「それは心配ありません。魏にとって公孫淵と我が国が仲よくすることがあっては困るし、呉と共謀して的に回るのも困るはずです。我が国を取り込むことによって、朝鮮半島での勢力を確保することができるし、呉に対する後方からの備えにもなります。まして、我が国まで侵略する意図はないはずです。なぜなら、遠すぎる背後に呉が控えているかもしれないからです。」
≪このような会話が交わされたのではないか。魏から難升米に密使が来たことは伏せていた。倭国にも親呉の勢力があり用心のためである。≫

「我が国も長年にわたる戦乱によって民の心も疲弊しています。やっと卑弥呼さまのお力によって、平和が訪れました。こういう時こそ外交によって、我が国の安全を確保すべきです。魏は中原に位置する大国であり、その国と同盟が結べれば、今後の我が国の安全と平和にとって一大転機になるでしょう。」
この時、族長の一人が反論した。
「呉がどのように動くか、もし我が国が魏と同盟を結んだことを知れば、兵を向けるかもしれぬ。直接動かずとも、球磨の狗奴国に圧力をかけ、戦を仕掛けてくるかも知れぬ。」
「確かに、その可能性は否定できません。しかし、どちらの脅威が怖いかといえば、やはり魏です。」
 狗奴国と魏をくらべれば明らかに、魏のほうが怖い存在だ。難升米は、こう説得したはずである。
「今回の公孫淵討伐には、魏の重臣、最大の実力者である司馬仲達さまが来られます。この機会に、我が倭国も討伐支援のための兵を送り、よしみを通じることができれば、必ずや同盟の件もうまくいくものと思います。今が千載一遇の機会なのです。」
 これは偶然とも思われるが、卑弥呼の命を受け、難升米たちが帯方郡へ朝貢の使節団として出かけたのが6月。ちょうどその頃、三国志の英雄のひとり司馬仲達率いる魏の軍四万が遼東に到着していた。
 その年の正月、都を発ったのだが長雨の影響や政治的な思惑があり到着が遅れた。それに合わせるように、難升米たちは帯方郡へ倭国の兵を引き連れて旅立つ。偶然というより、何らかの意図があったとしか考えられない。

No.10 孫権

 呉の悩みは兵力の少ないことであった。
「会稽の東、海の彼方に夷州と亶州とがあり、住民多く、かつ勇敢である。鹿角を武器として、しばし戦う。」孫権はそんな話を聞いて思いついた。
 しかし二人の将軍は、失敗した。
 亶州は遠すぎ航海を継続することができず、やっと夷州に辿り来たが、そこはそれほどの住民がいなかった。やっと三千人の住民をとらえたが、疫病によって連れて行った一万の兵のうち八千人ほどが死んでしまった。この責任を取らされ彼らは誅殺された。
 その後、遼東の公孫淵が部下を派遣して、臣従することを申し入れた。
≪中原で動乱が起こるたびに、遼東から朝鮮にかけては避難民でふくれあがった。
遼東の長官であった公孫度がここで自立し、高句麗と烏丸族を撃ち従えた。魏の曹操は彼に武威将軍の称号を与え、永寧候に封じた。
-おれば遼東の王だ。なにが候だ。
公孫度が送られてきた印綬を倉庫にほうりこんで、そううそぶいた話は有名である。
公孫度亡きあと、息子の公孫康があとを引き継ぐ。そして、その子である公孫淵の時代の話になる。≫
 魏が力をつけ、呉と蜀を圧倒するようになると困るのは公孫淵である。呉に対抗してもらわないと自分の安全が脅かさる。そこで使者を派遣した。

 孫権にとっても、うまくいけば魏を挟み撃ちにできるかもしれないと大いに喜び、公孫淵に対して、答礼使を送った。
「汝を封じて燕王と為す。」という国書を携え、一万の兵ともに重臣が大船団を組んで遼東に向かった。

 この知らせを聞いて、公孫淵は絶句した。
 公孫淵は魏に隠れて、こそこそと呉の尻を叩き魏に対抗させるつもりだった。これだけ大袈裟にされては、この情報は魏に筒抜けになってしまう。
 魏を怒らせてしまえば、遼東は危ない。
 公孫淵は言い訳を考えた。
「呉は先年、倭国に兵を求めに行きましたが成功しませんでした。そこで我らに、倭国の兵を呉に借りたいと仲介を求めに兵を携えて参りました。これでは魏の敵を増やすことになります。」
 答礼使の重臣をあっさりと殺してしまい、はるばる呉から持ってきた宝物を没収した。しかも、その首を弁明の書とともに洛陽に送った。
魏は公孫淵の忠節を褒めたたえ、大司馬の称号を与え、楽浪公に封じた。

 孫権は歯ぎしりして悔しがり、そして謀略を考えた。
―公孫淵は魏に対して不遜である。
 こういった流言を流し、明帝の耳に入るように工作したのである。
―公孫淵はひそかに呉と結び、魏を攻撃しようとしている。
 それを裏付けるような証拠をねつ造したりもした。
 それが功を奏し、景初元年(237年)、明帝は公孫淵に出頭するように命じた。
―汝には様々なうわさがあり取り調べしたきことあり、出頭せよ。

 これは最後通告というべきものであり、ここに至ってついに公孫淵は造反に踏み切る。そして虫のいいことに、呉に対し使者を送り魏の背後を衝くように要請した。
 当然、孫権は怒ったが、さすがに三国志の英雄の一人である。
「まて、一応同盟を承知してやれ。そうすれば公孫淵も魏との戦いにがんばるであろう。・・・どうせ勝てはしまいが・・・。」

≪余談≫
 三国志のおもしろさ、裏切り、謀略、駆け引きなど何でもありの世界。現代の価値観で当時を考えると理解できない。
 公孫淵が滅びた半年後、孫権は遅ればせながら遼東に将軍と兵を送り出したが、魏の守備隊を襲って男女数百人の捕虜を連れ帰るだけに終わった。

No.11 司馬仲達

 景初2年(紀元238年)の春、倭国の「安全保障会議」によって魏への朝貢が決定されたちょうどその頃、魏も兵をあげ遼東へ進軍していた。

 魏にとっては中原から遠く離れた遼東の地であり、公孫淵が地方でおとなしくしていればよかったのだが、自ら「王」を名乗り独立したのだから、ほおっておけなくなった。
 天才諸葛孔明が死去し、蜀との戦いが一段落してその軍勢を東に振り向ける余裕ができたからでもあった。
 公孫淵の背後に「高句麗」という新興勢力がいることもわかっていたし南の呉との関係も気になる。
 景初2年(238年)正月、曹操の孫に当たる魏の明帝は司馬仲達に対して、公孫淵討伐を命じた。その時の様子が史書に残っている。

 明帝がその計略を問うと、司馬仲達はこう返答した。
「公孫淵にとって、城を捨てて逃げるのが最善策です。遼水を拠り所にして抗戦するのは次善策です。襄平を守って防戦するなら生け捕りになるだけです。」
「それでは、敵はどのように出てくるか」と明帝は問うた。
司馬仲達は答えた。
「城を捨て去るなど、公孫淵の考え及ぶところではありません。敵が先手を打って遼水を防御し、その後は襄平の城にこもって守りを固めて対決するよう仕向けます。ともかく遠征する側は持久戦を不可と心得ます。」
明帝は、「往復に何日かかるか」と問うた。
「往きに百日、攻撃に百日、戻りに百日、六十日間を休息に当てます。このようにすれば、丸一年で事足ります。」 「呉はどうするか。」
「呉は公孫淵に怨恨があります。援軍を送るにも、海上によるほかはありません。気をつければ大丈夫でしょう。」

 この会話の裏側には、複雑な政治的な駆け引きがあった。
 魏の明帝にとっては実力者の仲達を都から遠ざけたいのが本音である。
 また、司馬仲達の思惑もあった。
 魏の重臣であり最大の実力者ですから、明帝にとっては油断できない存在であった。
 都を離れる政治的な理由があった。
 仲達にとっても保身のためには都を離れるほうが都合がよかった。それで、討伐にわざと時間をかけることにした。
 このときに、司馬仲達は倭国に対しても手を打ったと思われる。
「公孫淵は帯方の軍隊を取り込むかも知れぬ。それにその東南にある倭国には、戦士が多いとも聞く。  先年、孫権は人狩りに行ったようだが・・・」
 明帝は尋ねたはずである。
「倭には人を派遣しておきましょう。遼東の公孫淵に兵を送らないようにと。そして今後は呉とも結ばないように。」
 歴代の策士である仲達ですから、これぐらいの考え方はしたのではないかと思う。その魏からの密使が、難升米らを動かしたのである。

No.12 仲達の思惑

 その頃の魏は2代皇帝 明帝、曹叡(そう・えい)の治下であった。
曹操から数えて三代目にあたるが、曹氏による支配はにわかにかげりを見せはじめ、帝位簒奪をねらう司馬氏一派、(その筆頭が司馬仲達)と帝室の安泰をはかろうとする曹氏一族との間の暗闘が繰り広げられていた。
司馬仲達は、このころ魏の「太尉」という武官最高の地位にあった。

≪司馬氏一派の暗躍により明帝の皇子は次々に殺害されたという説もあるが、もちろん何の証拠もなくただの憶測である。魏の天命が尽きる時、偶然のように悲劇が襲った。≫

 黄初七年(226年)皇子 曹冏(そう・けい)死去。
 太和三年(229年)皇子 曹穆(そう・ぼく)死去。
 太和五年(231年)に誕生した 皇子 曹殷(そう・いん)もその翌年に死ぬ。

 その結果、明帝の実子は一人残らず死亡し、やむなく養子の曹芳(そう・ほう)を斉王に、曹詢(そう・じゅん)を秦王として皇子にたてるはめにまでなってしまった。

 曹氏の血統を残すためにはやむを得ない措置であった。しかし皇子殺害の確かな証拠もつかめぬまま次No,に巨大勢力となっていく司馬氏に対し、明帝をはじめとする魏の朝廷はなすすべがなかったのである。
 西には「蜀」がいまだ健在であり、南の江南には孫権率いる「呉」、また北の遼東には「くわせ者」の公孫淵があり、まさに内憂外患、魏の帝室にとっては実に多難な時期であった。

景初二年正月「太尉」司馬仲達に遼東の 公孫淵 討伐の命が下る。このとき仲達は考えたはずである。
「遼東の公孫淵は魏の大軍と戦って勝つ見込みはまずない。今回の遠征により公孫淵はおそらく死ぬだろう。蜀の諸葛孔明はすでになく、残る敵は呉の孫権だけだ。しかし、そうなると自分の運命はどうなるだろうか。
敵がいなくなると過大な実力を備えた家臣は必要がなくなり、それどころか君主の地位をおびやかす者として弑されるはめになるのは歴史の教えるところである。
 ならばこのさい、思いきって明帝を亡き者とし、残る幼帝を擁してさらに朝廷内の勢力拡大を図るにしかないのか。 そうなると遼東出撃の命が下ったのはかえって好都合である。」

≪余談≫

 仲達の用心深さは、三国志に詳しく書かれている。
蜀との戦いの最中に孔明は死ぬが、その策略を恐れて仲達は撤退する蜀軍を深追いしなかった。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という有名な言葉があるが、天才孔明によって翻弄された仲達を言ったものである。
 自分の能力を隠すためにあえて、仲達自身が広めたという話がある。名実ともに魏の実力者であるから皇帝に警戒されてはいけない。
 敵がいるから、自分の存在意義がある。敵がいなくなれば、皇帝にとっては邪魔な存在になる。
 功臣を粛正するのが歴代の皇帝で、中国の歴史はその繰り返しであった。

No.13 公孫淵の最後

 司馬仲達は、遼東へ進軍するにあたり、百済・弁韓そして倭に対して魏に協力せよと檄を飛ばした。
「魏軍の指揮下で呉の援軍を阻止しながら、帯方・楽浪郡に攻め上る。北方の高句麗に対しても、公孫淵の居る襄平と楽浪郡の交通を阻止させる」という作戦である。
つまり、仲達は公孫淵を孤立化させた。
「景初元年 (237年)7月、魏は渤海近くの青洲など四州に詔勅を降し大々的に海船を造らせた」という記録がある。 呉の海軍と対抗するための準備だと思われる。万全の対策を講じてから仲達は動いた。
6月に遼東についた仲達は、襄平を取り囲み、持久策をとった。
丁度その頃、難升米らは帯方郡に着いた。
「景初2年(238年)6月、卑弥呼は帯方郡に大夫の難升米と次使の都市牛利を遣わし、太守の劉夏に皇帝への拝謁を願い出た。劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。」と史書に書かれている。戦時中だったため、安全のために兵をつけて都まで送ったと考えられる。

≪しかし、実際に都に上った時期はいつかと考えると、実際はだいぶ遅くなる。その年の12月に着いたような記録がある。魏の明帝は病に倒れており、1月に亡くなる。≫

仲達も彼らのことは知っていたはずである。陣中で難升米と会ったかもしれない。
公孫淵にたいして、仲達は戦いを急がず持久戦をとった。
気候も悪かった。
7月、長雨によって遼河の水が増水し、もう少しで氾濫というところまで来たが兵を引こうとしなかった。
 城内は食料が尽き、死者おびただしく、「人相食む」という地獄絵図がくりひろげられた。

≪中国の史書にはよく出てくる地獄の光景を表す言葉である。この時期に倭国の大夫が朝貢を願い出るために、仲達のもとにやってきた。≫

公孫淵は講和をしたいと、人質を出すことを申し入れたが仲達は聞き入れない。
―降るか死ぬかいずれかである。

 8月、襄平はついに陥ちた。
仲達は入城し、兵を七千人余りも誅殺し「京観」を築いたといわれている。
「京観」とは、死体を積み重ねて山としたものである。
こうして遼東、帯方、楽浪それに玄?(げんと)の四郡は平定された。
襄平が包囲されたとき、公孫淵がいくら援軍を求めても呉からも朝鮮半島からも一兵の派遣もなかった。

No.14 運命的な出会い

 「~太守劉夏、吏を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ」。
この「吏を遣わし・・・」とは、世話役の役人を同行させたという事である。
≪この時「張政」は、20歳そこそこの若者で当時はまだ帯方郡という一地方の下級官吏である。 太守の劉夏から、倭人たちを洛陽まで案内するよう指示され、彼は難升米と運命的な出会いをした。≫
7月の長雨は河の氾濫などもあり、討伐軍の動きを封じており、司馬仲達は、陣中で部下と碁を楽しんでいた。
その時、部下から吉報が届けられた。
 倭人が、以前に自分が手配していた檄に応じてやってきたというのです。
 これは大変な手柄となる。
 遼東の先の帯方郡のさらにその先の東の果て、東南大海の中に浮かぶ東夷の国がよしみを通じてきた。
司馬仲達と太守の劉夏は、倭国の使者と対峙した。

「この度、倭国を代表して皇帝に拝謁したく、まかり越しました。」
流暢な中国語で、儀礼にのっとって倭人が挨拶をしたので、その態度に好意を持った。
 ―これはなかなかの人物だ。

「これはよくお出でいただきました。心から歓迎いたします。」

難升米は目の前にいる老人が、魏最大の実力者であることを知っていたはずである。今後の倭国の運命がかかっているのだから、十分に準備をしていた。
倭国の織物などの貢物の手配、文字も理解できたはずだから、卑弥呼の上表文を準備してこの場に臨んだ。
司馬仲達は、気分が良かった。
これはあきらかに司馬仲達が遼東の公孫淵を滅ぼして、朝鮮半島を魏の勢力圏として確保した功績になるからである。  親呉と思われていた倭国が魏の意向に従うということであるから、今後の朝鮮半島の安定のためにも、政治的にも重要な意味を持つ出来事であった。太守の劉夏に「つつがなく都まで送り届けよ」と命じた。

この末席に「張政」がいた。
生まれて初めて倭人というものを見た。
野蛮人というイメージはなく言葉も通じるらしく、身長は低く肌はすこし黒光りがするぐらいで、目も鋭く態度も堂々としている。意外だったのが、中国の言葉も文字も理解することができるという事実であった。
昔、秦の時代に呉の民が倭国に移住したという「徐福」のことは、史記に書かれてあるので、「張政」も知っていた。
彼らが言うには「自分たちは呉の泰伯(たいはく)の子孫である」とのこと。
呉の建国の説話によると、遠く周王室の長男であった泰伯が、末子の李歴(りれき)に王位を譲り南方に出奔して新しい国「呉」を作ったと言われている。
儒教的な長子相続の考え方からすると、呉こそ周王室の正統ともいえる。その流れをくむ一族。

「ほう、これが倭人か」
 まさか、自分が彼らと深くかかわるようになろうとは、その時は全く考えていなかった。 ただ、物珍しく見ていただけであった。

≪余談≫

 張政についての資料はあまりに少なく、史書にも数回程度顔を出すだけで、この人となりはよくわからない。今回、この物語を描き始めたきっかけは、「魏志倭人伝」を読んでいたときに、この張政の姿を感じたからである。この張政が日本の歴史に関わっていると感じ、いろいろな資料を調べはじめ。「これは、面白い。」
「徐福」以来、12年ぶりに感じた興奮であった。

No.15 陛下病む

 難升米らがいつ都に着いたか。張政も彼らの世話係として、初めて都洛陽を訪れた。 秋には到着していたはずですが、それどころではない事態が起こっていた。皇帝が病に倒れたのである。
8月下旬、司馬仲達が襄平城に入城してしばらく後、彼が放った密偵が都から重要な情報をもたらした。
―陛下病む。
しかも、かなりの重症とのこと。
 皇帝の死は、臣下にとっては死活問題で、地位を失うだけでは済まなくなる場合もある。皇帝をめぐる勢力争いが起きるからである。
明帝は36才であったが子供がいない。
 養子の曹芳(そうほう)と曹詢(そうじゅん)がいたが、順序としては、斉王の曹芳が後継者になる。しかし年はわずか7歳であった。
仲達は都に凱旋する途中、慎重に情報を吟味していた。
後継ぎが7歳では、後見役、事実上の摂政が必要になる。
明帝もいろいろと悩んだと思われる。

当初、伯父である燕王の曹宇(そうう)に後事を託そうとした。
大将軍に任命した。
このポストは、以前は司馬仲達が任命されていたが、大尉に転じて以来空席のままであった。つまり、燕王の曹宇が実権を握った。
彼にとって最大の政敵は、司馬仲達である。
「これまで通り、仲達を都から遠ざけておかなければならない」と考え、凱旋途中の司馬仲達に指令を送った。
「このまま洛陽に立ち寄らずに、長安へ赴くべし。」
≪司馬氏一族は、王朝内でもかなりの勢力を持っていたはずだし政治的工作もしていた。皇帝の血族ではないというハンデと、要である司馬仲達が都にいないというハンデがあった。この燕王の曹宇が実権を握れば身が危うくなる。彼の実力をもってすれば戦うこともできるが、大義がなく反逆という汚名が科せられてしまう。≫
仲達はどのような心境だったのか。
思案していたところ、そこへ第二の命令が追いかけるように彼のもとに届いた。
今度は、大将軍曹宇の名ではなく、皇帝からの直筆の命令文であった。
「急ぎ上京せよ」
―洛陽に何らかの異変あり。
仲達は詔勅に接すると、すぐに馬に鞭打って都に急いだ。

No.16 何らかの異変あり


 都では、燕王の曹宇に反対する勢力があり病床の明帝に対して強烈な巻き返しをはかった。もちろん、司馬一族の働きかけがあったことは間違いない。
 重病の明帝は、やはり精神的にも不安定だったのだろう。取り巻きの役人に対して「燕王は大任に堪えることができるだろうか」と相談した。
 実は、地方にいることが多かった伯父のことをあまりよく知らなかったのである。
≪王朝の内部では燕王の曹宇は人望がなかったのかもしれない。それとも官吏の本能がそのような行動を取らせたのではないか。今後、誰につけば良いのか。司馬一族の勢力が増している現状を肌で感じていたはずなのである。≫

 また、日頃から従順を装うために謙遜することが多かった燕王の言葉をそのまま利用して、役人は答えた。
「燕王はご自身でも、荷が重すぎるが・・・といっておられました。」
「では、誰がよかろう。」
「武衛将軍曹爽(そうそう)様がよろしかろうかと。」
「しかし、あれも心もとない。」
 曹爽は家柄もよく性格的には問題ないが、これといった実績もない人物であった。
「司馬仲達さまに補佐をさせれば、間違いございません。」

 仲達ならば実力に問題ないし、逆に有能すぎて危ないと思っていたのだが病床の明帝はふとその気になったのである。
「曹爽を大将軍とし、仲達に補佐をさせよう。」
ここで一気にたたみかけました。
「では、その旨の詔勅をお書き下さい。」
こうして、曹爽を大将軍とすることと仲達を都に呼ぶという二通の詔勅が出された。

 官吏のクーデターが成功した。燕王の曹宇は大将軍という職を解かれてしまった。

 都がこのような状態だったで、倭国からの朝貢、難升米らはどうすることもできなかったと思われる。
 張政は、皇帝に拝謁するための手続きをしていたが役所自体が混乱していた。
 「申し訳ない、このような状況でありしばらくお待ちいただかなければなりません。」
 魏の都、洛陽に着いた難升米の一行は、事態が落ち着くまでどうすることもできない。
「司馬仲達さまより内々の指示もあり、必ず意に沿えるよう取り計らいますので、ご辛抱下さい。都の見物でもしてお過ごしください。」
 難升米もあせりはあったと思うが、ここはどうしようもない。
 史書によるとその年の十二月、難升米は詔書をもらうことになるので、半年近く時間がかかったことになる。
 
 倭国の人間にとって、中国の都、洛陽はどのように映ったのだろう。高くそびえる城壁、高楼、広大な宮殿、そのスケールの大きさに目を丸くしたに違いない。

≪参考≫

『魏志倭人伝」による。
「景初二年(二三八年)六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣らしめ、天子に詣りて朝貢せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わして送りて京都(洛陽)に詣らしむ。」

その年の十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、
『親魏倭王卑弥呼に詔す。帯方太守劉夏、使を遣わして汝が大夫難升米・次使都市牛(ご)利(り)を送り、汝が献ずる所の男生口六人・斑布二匹二丈を奉じて、以て到らしむ。
汝が在る所、遥かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。
是れ汝の忠孝、我、甚だ汝を哀しむ。今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与えん。
・・今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青授を仮し、引見労賜し遣わし環す。
今、・・銅鏡百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付し、還り到りて録受せしめん。悉く以て汝が国中の人に示し、国家の汝が哀しむを知らしむべく、故に鄭重に汝に好物を賜うなり』

 格調高い文章に、その状況と感動が伝わる。

No.17 明帝死す

 司馬仲達は早馬を飛ばして帝の病床に駆けつけた。
まだ、明帝はまだ生きていて、何とか話ができる状態であった。
仲達は、遼東、帯方、楽浪それに玄?(げんと)の四郡を平定したこと。そして、倭国からの朝貢が来ていることを床にある明帝に報告したはずである。
以下の文章から、その時の明帝の喜びようが伝わってくる。
「汝が在る所、遥かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。
是れ汝の忠孝、我、甚だ汝を哀しむ。今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与えん。」

≪このとき「使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。」と書かれている。たいした献上品ではなかった。それに対して下賜品はすごい。≫

景初二年(238年)12月、倭国の支配者であることを認める金印を贈った。さらに、大使である難升米と副使である牛利に中国の官位を与えた。その他、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各々五十斤なども与えた。
朝貢は形式的な臣従の代償に、莫大な利益をもたらすものである。
しかも、使者が詔書・印綬を奉じて倭国に向かうことになった。

≪「親魏」という名称に特別の意味を感じる。東夷の属国に対して、対等の関係のような称号を与えるのだから、どれだけ特別扱いをしたかが解る。しかし、明帝の死によって、倭国に向かう時期が少し後になった。≫

景初三年(239年)正月元旦に何故か急逝した。
36歳であった。
帝崩御の直前に、養子曹芳(斉王)が皇太子に立ち、その日に帝位に就いた。

明帝は君主として誠に優れ素質を持っていた。沈着剛毅で決断力と見識に富み、心意気と相手に対する思いやりを持って行動する人物であった。
「三国志・魏書」によると、帝は司馬仲達に対して、「あとを頼む」と後事を託したとされるが、本当のところはどうか。
皇帝臨終の枕元で涙を流す司馬仲達を白々しい猿芝居だと感じていた者が少なくとも二人いた。
 一人は病床で今や息絶えようとする明帝その人であり、もう一人は皇族の最有力者、大将軍の 曹爽(そうそう)である。
明帝が本当に頼りにしたのは、親族でもあり若い頃から慣れ親しんだ曹爽であった。
「曹爽と力を合わせ、幼少の者を助けていただきたい。死んで、まっていおりますぞ。冥府で再会した時に、卿と遺恨など生じないように・・・」
(遺恨?)
仲達の実力を持ってすれば、魏王朝を簒奪することもできるはずである。しかし、それでは亡き明帝戸の間に遺恨が生じる。つまり、上記の言葉の裏に、仲達を恐れていた明帝の本音がある。
あとを継いで、若干8歳の養子斉王曹芳(そうほう)が即位(少帝)したが、まだ年少であったので、明帝の后であった郭(かく)皇后(大后)が皇室の実質的な代表者となり、大将軍の曹爽と太尉司馬仲達がこれを補佐するという体制となった。

 曹爽は若い頃から、そのころまだ皇子であった明帝に仕え、謹厳かつ重厚な人柄であったため、大変明帝に愛された。
この時期には魏の大将軍の地位にあって内政と軍事の両面を掌握し、皇族のなかの重鎮となっていた。
明帝死去のあと曹爽は幼帝を擁して、皇室=曹氏の権限の回復・強化を図る。
 そのため司馬仲達を地位だけは高いが実質的な権限のない大傳(たいふ)という名誉職に祭り上げた。
 司馬仲達を朝廷から排除しようとする曹爽の意図があからさまに示された人事で、身の危険を察知した仲達は、こののち病気と称して館に引きこもる。

No.18 魏王朝の滅亡

 その年の三月、呉の孫権は遅ればせながら遼東に将軍と兵を送り出したが、魏の守備隊を襲って男女数百人の捕虜を連れ帰るだけに終わっている。一応、公孫淵との約束を果たしたという、大義名分のためであった。
当時、中国では帝が変わるごとに改元する習わしがあり、翌年から正始元年(240年)と改められた。そして、魏王朝は明帝死後10年余りで終わることになる。
喪が明けて諸行事の再開があり、帯方郡吏は先の使節を伴って来日し、卑弥呼に約束の金印と銅鏡などを届けた。この時、魏使として倭国に来たのが、梯儁(ていしゅん)である。
≪倭国の物語と直接、間接にいろいろとかかわりがある。≫

・正始2年(241)
6月、司馬仲達が朱然に包囲された樊(はん)城の救援に向かい、呉の軍をおいはらう。 呉との戦いは続いていた。

・正始4年(243)
正月、 曹芳は元服の礼を行い、4月、甄(しん)氏を皇后に立てる。
12月、倭の女王俾弥呼が使者を派遣してきて捧げ物を献上した(少帝紀)。
「倭王、また使者大夫伊声耆掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・・を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。」

・正始5年(244)
3月、曹爽は、司馬仲達の反対を聞き入れず、大挙して関中から漢中に攻め込むが、大きな損害を受けて軍を引く。この年、高句麗滅亡。燕や高句麗の亡国民が大挙して新羅に流れ込むに至る。

・正始7年(246)
『漢晋春秋』によれば、この年、呉の大将朱然が柤中(そちゅう)に侵入した時、べん水を渡って避難。
  官民一万余家の処置について、曹爽と司馬仲達の意見が対立。曹爽は、自分の考えを押し通す。
帯方郡で難升米に黄幢を賜う。
←これはどういう意味か、このころから狗奴国との争いが起こっている。魏の後援のシンボルとして「錦の御旗?黄幢」が邪馬台国に与えられたという事なのか。

・正始8年(247)
このころ、曹爽が何晏・丁謐らと結んで政治をもっぱらにし、制度の改革を盛んに行う。
司馬仲達は病気と称して政治に関与しない。
卑弥呼が魏に救援要請。狗奴国と相攻撃し合う情況を説明する。
張政の来倭。
≪正始8年(247年)から壱与の即位を経て泰始2年(266年)までの20年間の内に倭国から魏朝への朝貢が絶えた。≫

・嘉平元年(249)
正月、司馬仲達がクーデターをおこし、曹爽とその一味の何晏・丁謐らを誅殺する。
この10年の間の大きな変化がこの物語の中心となる。
話を正始元年(240)に戻す。

No.19 魏使、梯儁(ていしゅん)

 卑弥呼に約束の金印と銅鏡などを届ける魏使として倭国に来たのが、梯儁(ていしゅん)。
≪「魏志倭人伝」の内容は、この時正始元年(240)、郡使の梯儁の情報と正始八年(247)に来倭した張政による倭国内での活動内容を記した『帰国報告書』を基に書かれたものである思われる。≫
 倭国に対するこの優遇の背景には、高句麗の存在がある。高句麗と敵対している魏にとって、その背後にある倭国を抱き込むことは、重要な軍事的価値があった。
 またもう一つは、「倭国による初の通貢」は「司馬仲達東征の手柄」として評価されたことが挙げられる。つまり司馬仲達の武功をことさら誇るためだった。
魏使、梯儁の随行員として、若き日の張政は初めて倭国の地を訪れた。そして、その七年後、今度は正使として再度倭国を訪れることになる。 br> ≪その任務は、倭国の国力の調査ではなかったかと思う。報告書に国名や戸数(戸・家)官、副の名前が記載されているが、戸数は倭国の国力の総体を示すものであり、納税・徴兵・兵糧の基礎となるものだから、なにをおいても第一に調査したはずである。≫
彼らは帯方郡から陸路で、朝鮮の南部にある狗邪韓国を経由して、その後、対海国(対馬)、一大国(壱岐)、末盧国を経て、伊都国に着いた。
≪実際には、大量の下賜品と一緒に船で伊都国まで来たものだと思われる。末盧国は、道筋とは反対の方向にある国だから。≫
倭国に到着した梯儁一行は、まず、常に郡使の留まる処である伊都国で旅の疲れを取り、卑弥呼との会見に備えたと思われる。
一方倭国側においても、同様に会見準備がなされた。そして、いよいよ会見だが、その時の模様が『魏志倭人伝』に記述されている。

「~倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し~を賜う。倭王、使によって上表し、詔恩に答謝す。」
間違いなく、卑弥呼と梯儁は会っている。
倭国では詔書が読めて、理解している・・・それだけの漢字読解能力があって、詔恩に感謝ができ、それに答える漢字記述能力もあった。
この時代、3世紀中、上表文を書くことができた。そこには「倭国王俾弥呼」と署名があった。
(倭国側では俾弥呼、魏(晋)側では卑字の卑弥呼表示である)
卑弥呼と梯儁の会見場所は卑弥呼の宮殿で行われたこと間違いないだろう。
それが、
1、年すでに長大なるも~
2、婢千人を以って自ら侍せしむ~
3、宮殿・楼観・城柵~兵を持して守衛する。

という場所の説明文だと思われる。
この情報は卑弥呼と直接会った梯儁のはずである。

>≪これだけの大きさの宮殿が、一体どこにあったのか。吉野ヶ里を何度も訪れている私には、ここしかないと思ってしまう。
筑紫郡原田地区にも宮殿はあったとも思っているが、何度も遷都していると思っている。
これ以外にも、春日原地区、大宰府市、甘木説もありましたっけ。山門郡瀬高、八女、久留米も候補地です。≫

No.20 調査報告書、魏志倭人伝

 魏志倭人伝の記述のもとになったのが、梯儁とともに倭国を訪れた張政の『調査報告書』ではないかというのが、私の考えである。歴史的な証拠はないが、役人らしく、かなり正確に当時の倭国の状況を調べたのだと思う。

「卑弥呼は鬼道を祭祀して人心を惑わし、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。 卑弥呼は1000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、めぐらされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。」
 シャーマンとしての卑弥呼の姿が目に浮かぶ。また、それだけの規模の宮殿を維持する国力もあったのだと考えられる。

 国の支配を補佐した、つまり実質的な支配者の「弟」とは一体誰なのか。日本の記紀をみると、その関係から、アマテラスとスサノウではないかと考える人が多い。
そして、取次ぎをしていた「一人の男子」とは・・・。
以下の記述を読むと、張政がいかに興味を持ち調査したかが分かる。
・倭人社会の風俗、生活、制度など「皆面黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っている。
・古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。
・男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
・着物は幅広い布を結び合わせているだけである。

――中国の南国地方、呉の海洋族の風俗とよく似ている。この報告書を素直に読めば、温暖な気候、海辺に邪馬台国があったと想像できる。けっして奈良盆地ではない。

・牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。
・兵器は矛・盾・木弓を用いる。
・土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。

――当時、馬はいなかった。
この後四世紀に、北方系の騎馬民族が、馬と共に北部九州に渡来したと考えられる。
ヤマト王朝は彼らが造ったものだと考えている。(騎馬民族渡来説)

人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。
他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。

――日常では肉も食べていたし、当時から酒を造っていた。
「汚れ」という思想が既にあった。

・倭の者が船で海を渡る時は持衰(じさい)が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。

――この持衰は、徐福伝説にも登場する。
この生贄のような考え方は、卑弥呼の死とも関係あるのではないかと言う人もいる。

・特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。

――中国古来の易が行われていたと思われるが、徐福が持ち込んだものと思う。

・長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。

――常識的に考えると、この半分程度が当時の寿命であった。それで、春と秋で2歳年を取ると、倭国では考えていたのではないかという学説がある。(二倍暦)
これで、記紀に書かれてある天皇の寿命を計算すると、アマテラスが卑弥呼の時代に生きていたと推測され、これを根拠に同じ人物だという。
張政にとっては、倭国は「蓬莱」と言われ、仙人がすむ桃源境だという先入観があったのかもしれない。
女は慎み深く嫉妬しない。
盗みはなく、訴訟も少ない。
法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。
――当時の倭国の家族制度がよくわかる。
人口を人ではなく戸で表わすのは、一族単位で生活していたことの証である。

No.21 神に使える巫女

 張政達は九州を海上から一周し、その実施探査の結果、倭国は「山島」であると理解した。これが倭国だと思った。
「東に倭種あり」と書かれているから、本州は別の国との認識であった。
 この七年後、張政は別の役目で倭国に再来することになる。
 当時伊都国にあった「使節のための迎賓館」に張政たちは滞在していた。そこで見聞きした内容が「魏志倭人伝」に書かれているのだから、かなり正確な記録であったはずである。
≪邪馬台国奈良説の人が言うように、南を東と書き間違えるようなことはしていないはずである。≫
 この時の張政は、ただの随員として倭国を訪れただけだが、彼にとって最大の興味は女王卑弥呼であった。
 難升米からかなりの情報を得ていたはずだが、シャーマンが支配する国という不思議さに興味を持った。
卑弥呼と魏使の梯儁との会談に、張政も同席した。
「ほう、意外と・・・」
 張政は仙女のような美しい姿を想像していたが、意外と年配で普通の人のよさそうな中年の女性というのが感想であった。
「鬼道を祭祀して人心を惑わし・・・」と難升米は批判的に言っていたので、怖いイメージを持っていたのだが、それは彼の偏見だったのだろう。
「南部有明海地方出身の卑弥呼に対して、北部の王族の出である難升米は、あまり親しくしていないのか・・・」
 卑弥呼は、下賜品を見て驚き、無邪気に喜んでいた。
 ただ、その脇に控えている男性、癖のありそうな大夫が張政は気になった。
 後で知ったのだが、目つきの鋭いその男性が「弟」として政治の実務を取り仕切っている実力者だという事であつた。
「この度の朝貢は大成功に終わりました。皇帝においては大変喜ばれ・・・」
 難升米が、あまりに親魏派なので警戒しているのかもしれないが、魏の歓待ぶりを得意げに話す難升米に対して、冷たい目をしているようにも感じられた。
 もちろん中国と比べれば、地方の民家みたいな宮室や楼観であり、周囲の環濠も、城壁ではなく木杭で囲われていて、小さな堀があるだけである。
 「我が国に比べれば、文明の程度はかなり低いし、戦争に対する備えもほとんどない。」
 ただ、宮殿の周りは、かなり多数の兵士が守りについていた。思っていたよりもかなりの数である。
 難升米に聞くと、女王卑弥呼は「王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしている」とのことで、倭国にとって「持衰」のような存在ではないかと考えた。
「中国では力のあるものが、皇帝となり権力をふるうのが当たり前だが、倭国では民を護るための存在、神に使える巫女が国を治めている。」
 新鮮な驚きを感じた。
張政は倭国に滞在している間に、できうる限りの情報を集めた。
≪アマテラスという言霊の意味は、すべての存在を照らす神、つまり卑弥呼は太陽神を祭っていたのだと思う。≫

≪余談≫
 世界に類を見ない日本独特の天皇制の原型がここにあります。権力者としての天皇の存在から、象徴としての存在に歴史的に変化してきましたが、この二元政治は卑弥呼の時代から始まりました。天皇家が天照皇大神を皇祖とする理由です。

No.22 仲達雌伏の時

 張政が倭国から帯方郡に戻ってから三年後。正始4年(243年)に女王卑弥呼は再び魏に朝貢をした。
使者として、「大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青ケン、緜衣、帛布、丹、木 、短弓矢を上献す」とある。
それに対して、魏の王朝は「掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拜す。」
景初2年(238)の遣使の際に、第一回目の使者、難升米は魏から率善中郎将の官職を得ているが、これは伊聲耆・掖邪狗らにも与えられている。
 こうした官職は外国からの使者に与える形式的な名誉職であり、魏の国内においても中郎将や校尉が黄巾の乱以後の戦乱の影響で任官が濫発されていた。
これが倭国からの第二回目の朝貢でした。→「最初の朝貢で味をしめた?」
司馬氏一派はことさらに大きくこの倭人の朝貢を宣伝したはずである。
明帝死去のあと曹爽は幼帝を擁して、皇室=曹氏の権限の回復・強化を図った。
当初は大先輩として仲達に敬意を表し重要事項についてはかならず相談していたのだが、取り巻き連中を要職に起用しグループを作り始めてからは司馬一族を遠ざけはじめた。
大傳という名誉職に祭り上げられた司馬仲達は、しかし悠然と構えていた。
――いまにボロをだすだろう。
これが、曹爽に対する評価である。
――こういうときは、動かないことが一番である。
周囲から自然に評価が高まるのをじっと待っていた。
人に会うと「この頃は、身体の具合も悪く、目も耳も悪くなりました。気力もなくなり衰えを感じています。」などと言って派手な動きもせず、雌伏の時を過ごしていた。
やっかみや妬みによって、排斥の口実を与えることを警戒していた。

曹爽にはなくて仲達にあるもの、それは実績である。
正始5年(244年)、大将軍、曹爽は戦功を求めて蜀を討伐しようとした。
長安で六万から七万の兵士を集め、漢中に攻め込もうという。
蜀から漢中への入り口は、山が険しく道が狭いために大軍が動くことは難しい場所で、ここを抑えれば蜀は中原への出口を塞がれることになる。
蜀にとっては「漢王朝の末裔」として建国以来の悲願、天下の再統一であったから、幾度となく天才諸葛孔明が仕掛ける形で司馬仲達と戦った。
≪余談だが、蜀の二代目皇帝は凡庸で蜀建国の志「漢王朝の再興」などはあまり考えていなかったのだが、宰相諸葛孔明は劉備玄徳との約束を死ぬまで守り、志を全うしようとした。周囲がたしなめても、ガンとして天下統一という大義名分をあきらなかった。どんなに苦しくてもそれがなくなれば内部から崩壊することが分かっていたからである。
三国志最終章の名場面、熱心に読んでたっけ。≫
 孔明の死後、蜀の勢いも低下し、中原への足がかりの場所、漢中を守ることだけで精いっぱいの状況であった。 漢中の守りは、三万足らず、漢中さえ落とせば、蜀は守りきれない。
――その戦功は魏建国以来、随一のものとなるだろう。
――これで司馬一族と対抗することができる。
太祖曹操でもできなかったことを曹爽はやろうとしたのだが、大失敗に終わった。
蜀の成都から援軍が来て、魏の大軍は散々な敗北をきっした。
結果、総退却することになったが、この遠征によって魏の西域である漢中は疲弊の極に達した。
住民たちの怨嗟の声だけでなく、当然その声は大将軍曹爽に向う。
――いまにボロをだすだろう。
司馬仲達の予想通りになった。人心が離れたのは間違いなかった。

No.23 狗奴国

 正始6年(245)頃から、倭国でも邪馬台国連合と狗奴国との間で「いざこざ」が起こっていた。にわかに歴史の流れがあわただしくなっていく。
≪同時期、魏の帯方郡に対して三韓が反乱を起こしており、帯方郡の太守が殺害される事件が発生した。≫
 もともと邪馬台国と狗奴国は同族である。(個人的仮説)
 徐福が童男童女を引き連れてきた時、彼の子供も一緒に倭国に移住してきた。
 徐福には、長男の徐市、次男の徐明、三男の徐林そして四男の徐福(同名であるが史書の通り記す)という四人の子供がいたが、佐賀の金立神社に残る伝承によると、祭神は「金立大権現」(徐福)と言われているが、三男の徐林が童男童女、百工ら七百人あまりを引き連れ佐賀の地に移住し、神社には徐林が祭られてあるともいう。
 また、次男の徐明は金華山をめざして熊本地方に移住したとなっている。
 彼らは、佐賀だけでなく、日本各地に分かれて移住したと考えられる。この史実が本当であれば、二男が熊本、三男が佐賀だから、同族と言っても対等の関係だし、むしろ熊本のほうが上という意識があったのかもしれない。 だから、「女王に属さない国」なのである。
≪和歌山には、さらに徐福と長男の徐市はさらに蓬莱山を求めてシラヌヒ海から紀州に至り、徐福はこの地(紀州の古座)に留まったが、長男の徐市はさらに東をめざし、スルガノ国に至って蓬莱山(富士山)を見つけたとの伝承も残っている。この地から神武天皇がヤマトに攻め入ったことを考えると、何らかの関係があったのかもしれない。≫
 その狗奴国の位置 については、次のような記述がある。
「~次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、男子を王となす(魏志倭人伝)」
 邪馬台国の南に狗奴国があるのだから、当然熊本地方になる。
≪もし奈良盆地に邪馬台国があるのなら、その南は奈良盆地ですから位置関係がおかしくなるのてある。≫
「女王に属さずに、素より和せず」と記述されている狗奴国の男王卑弥弓呼やその官の狗古智卑狗とは如何なる存在だったのか。

「素より和せず」とは長年の不仲を表している。
 そして狗奴国からの倭国に対する侵略・征服戦が始まった。
 すなわち、狗奴国は倭国を構成する(卑弥呼の共立)三十国の一国ではなくて、魏に通じていない。
 もともと出身地である呉との関係が強く、彼らにとって邪馬台国は「一族の裏切り者」だった。
 しかも倭国の王として「親魏倭王」の金印までもらっている。自分たちよりも上の立場に立とうとしているのであるから、名誉をかけた戦いになる。
 邪馬台国連合に対する狗奴国の戦いが始まったが、かなりの兵力、武器を持っていたと考えられる。ひょっとすると、呉からの何らかの働きかけや援助があったのかもしれない。
それゆえ、邪馬台国連合は魏に軍事支援を求めることになった。
正始6年(245)のことであった。

≪余談≫
正始6年(245)2月、呉の丞相(じょうしょう)の陸遜が死去。
三国志の英雄たちが亡くなっていく。


No.24 塞曹掾史張政

 卑弥呼は魏に救援要請し、狗奴国と相攻撃し合う情況を説明した。戦況が悪くなり、魏に救援を求めたのである。
 その結果、正始6年(245年)に皇帝から帯方郡を通じて、(卑弥呼やそれを補佐する男弟ではなく)難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられている。
≪ところが実際には、なぜか、帯方郡にそのまま保管されていた。そして、二年後。正始8年(247年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史(サイソウエンシ)張政が倭国に渡り、その際に難升米に黄幢と詔書を手渡している。≫

 この頃、魏の帯方郡に対して、三韓が反乱を起こしていた。帯方郡の太守が殺害される事件が発生しており、倭国に援軍を送るような余裕がなかったのかもしれない。

≪逆に難升米が率いる一大卒に、反乱軍鎮圧のための出兵を促していたのかもしれない。そのために、魏軍としての黄幢が与えられていたのであれば話が少し違ってくる。倭国の状況から、実際には出兵できなかった?≫

 難升米に授けられた、黄幢(コウドウ、魏の軍旗)、特に黄色の物は皇帝の指揮を表す。これが邪馬台国に与えられたということは、女王国への特別待遇を示している。そして、その使者として張政に白羽の矢が立った。
 初めての倭国訪問から五年ほど経ち、張政は帯方郡に務める官吏として日々過ごしていた。
 景初二年(238年)の第一回の朝貢以来、難升米との友好な関係は続いており、景初二年(238年)の倭国の使者などにも関わっていた。倭国の状況に一番詳しい「専門家」であった。
 殺害された帯方郡太守の後継者として王キが着任していたが、太守から呼び出され役所に登庁した張政に思いもかけない命令が下る。
 その太守の傍には、以前からの顔見知りである難升米の部下、載斯烏越が控えていた。

「以前から、邪馬台国と狗奴国との間にいざこざがあることは、そなたも知っていると思うが、この度の難升米からの報告によれば、邪馬台国で異変があり、魏に対して援軍を要請してきた。そなたに、塞曹掾史の役職を与える。これより直ちに倭国に向かい、黄幢と詔を難升米に渡してほしい。」
「えっ、・・・」
 突然の指示で戸惑った張政は、尋ねた。塞曹掾史とは武官だが、一軍の将という役職ではなく、軍事顧問というか、調査員のようなものである。通常は武力を背景に、進駐軍のような形で援軍を送るのが普通なのだが・・・。少数の警護兵は伴う。
「塞曹掾史としてですか・・・。」
「さよう、現状では援軍を送る余裕はない。そこで黄幢によって狗奴国との争いを調停するのだ。魏の軍事的な後ろ盾があることを示せば、狗奴国とて黄幢に弓を引くことはできまい。」
「檄を与えるのは難升米に対してなのですか? 女王卑弥呼に対してではないのですか。」
「実は、そのことについては、ここにいる載斯烏越(サイシウヲツ)が説明する。」

≪余談≫

載斯烏越(サイシウヲツ)
「斯(こ)の烏(からす)に載(の)って(海を)越えてきた」
烏とは、船のことを意味する。単なる音に漢字を当てたのかもしれないが、この烏という文字から、後の神武天皇をイメージした。奇想天外な物語になるが・・・。

 

No.25 卑弥呼すでに死す

 正始8年(247年)ついに張政が倭国に渡ることになった。この後、20年余り倭国に留まり、重要な使命を果たすことになる。
 張政は、倭国の状況についてはかなり詳しかった。狗奴国とのいざこざがあっているのは以前から知っていたが、大規模な争いなどと言う事態ではないということも知っていた。これを言い訳として、倭は帯方郡に反乱軍鎮圧の援軍を送らなかったことも、実は知っていた。
 君主国としても、表だって頼むことはできない。倭国軍の意思として援軍を送れば助かるという程度だったので、その旨を難升米に伝え時間稼ぎをしていた。

 載斯烏越。彼は大夫難升米の片腕であり、今回は重大な使命を帯びて帯方郡に来ていた。
 彼の顔色が、いつもと違う。

「女王は、すでに亡くなりました。各部族の長が、われこそは次の倭王であると名乗りを上げ、すでに小競り合いが始まりました。難升米さまは、この混乱を避けるためには魏よりの使者による調停が必要となると言われました。そこで私が密命を受け、太守にお願いにまいったのでございます。できれば、我が国の事情をよくご存じの張政さまにお願いできないかというのが、難升米さまの指示でございました。」

≪その時、卑弥呼の死についてはいろいろな説がある。日食説のほかに、狗奴国との争いで殺されたとか、寿命による自然死説もある。以下は個人的な妄想である。≫

 西暦247年(正始八年)3月24日、日本では日食が観察された。当時の倭人にとっては、まさに天変地異が起こった。
 倭人たちは恐怖におののいた。
 いつも中天たかく耀いている太陽が突如蝕まれ、昼の時刻というのにあたりはほの暗い闇に覆われていく。人々は恐る恐る空を見上げ、鶏や犬はおびえて鳴き騒ぐ。
このような状況ではなかったかと思われる。

 この混乱の責任は、卑弥呼にある。
 倭国中に「女王死すべし」との声が沸きあがった。つまり「その国が衰えたり不幸にあうのは、その王の霊力が衰えたからであり、これを改善するには霊力の衰えた旧王を殺して、かわりの新王をたてるより方法がない」という理屈である。
 この混乱を静めるために、みずから死についた。これが「持衰」としての卑弥呼の本来の役目であった。

「大いに冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。」

≪つまり、高塚(おそらく円墳)で、直径が百余歩(100歩≒25メートルほどか?)。≫

 張政は倭国に渡り、2年前にすでに出されていた黄幢(魏の軍旗)と詔書を使い、後継者争いの調停に乗り出すが、その後一年以上混乱が続いた。

「塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書、黄幢をもたらし、難升米に拜假せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。」

「倭国大乱」の時期に、男王では混乱がおさまらず卑弥呼を共立することで倭国の平和がかろうじて保たれていたのだが、その状況に対する不満もたまっていたのかもしれない。

「後継に男王が立つも国中が承服せず。」
「邪馬台国連合の国々は反目しあい、血を血で洗う政争がはじまり、その犠牲者は当時千人をかぞえた。」と記録に残っている。

 もともと張政はどのような目的で倭国に派遣されたのか。
倭国における張政の役割は伊都国にあって「呉朝動向の収集と監視」と「倭国・狗奴国の停戦監視」ではなかったかと私は思っている。
張政はこの時、狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗とも、休戦ということを交渉したはずである。

No.26 台与の擁立

 張政は卑弥呼に再び会うことはできずに「卑弥呼の葬儀」を目撃することになった。
「徇葬する者、奴婢百余人。」と書かれているが、この奴婢百余人とは、卑弥呼の宮殿内に侍していた婢(女性)千人の中から卑弥呼死後の世界でも又、生前と同じように侍ることを要求され、そのために殉死せざをえなかった婢(女)や宮殿を守衛していた兵=奴(男)だとおもわる。
 これが当時の風習であり、古い中国のやり方だったのかもしれない。・・・・やがて埴輪へと変更されていった。
西暦247年(正始八年)3月24日の日食から、一年後。
西暦248年(正始九年)9月5日に、二度目の日食があった。
 倭国中が後継者争いで騒乱状態の時に、タイミング良く再び日食が起こった。有力者が、相次いで死んだのかもしれない。
「天は再び、日巫女を求めている」ということで、共立の機運が盛り上がってきた。

 記紀には「八百万の神々が天の安河の川原に集まりどうすればいいか相談をした。」と書かれている。(天の岩戸伝説)
 そして、アマテラスが復活したのちに八百万の神は相談し、スサノウの命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。

≪この二つは歴史的事実であると思っている。女王卑弥呼の死去と台与の共立を表したものである。その後、追放されたスサノウの命は出雲国に行っている。≫

 張政は、この日食を利用し各地の国々の長を「天の安河の川原」に集めた。

≪この場所がどこだったのか、以前詳しく調べてみたことがある。
「天」という地方の「安河」という場所。邪馬台国連合にとって一番集まりやすい場所、中心であり、卑弥呼の宮殿とも近い場所。
 こんな条件で探してみると、福岡県小郡市に流れている宝満川が見えてきた。
 いまは、三輪町と合併して筑前町になっているが、今の津古あたりから山家にかけての地域で、私はここが「天の安河の川原」だと思っている。
この西に、筑紫神社がある。この神社が気になって仕方がない。
祭神は白日別神。別名、五十猛神(イソタケル)とも言われている。
素戔嗚尊(スサノオ)の子である。
 なお、スサノウとは卑弥呼の死後、「後継に男王が立つも国中が承服せず」と書かれた人物だと思っている。そしてこの人物は「難升米」本人だったのかもしれない。≫

「更に男王を立てしも、國中服せず。
更相誅殺し、当時千余人を殺す。
また卑彌呼の宗女壹與、年十三爲るを立てて王となし、國中遂に定まる。
政等、檄を以て壹與を告喩す。」

 その会議の席で、卑弥呼の宗女(一族の娘)で歳が13才という台与が擁立され邪馬台国連合内の争いがようやく収まった。

 張政はこの13歳の巫女に、なにを告喩したのか。いずれにせよ、張政が後見人のような形になったのは間違いない。 なお、「政等」とあるから、張政らは「軍事顧問団」として倭国に来たのかもしれない。

No.27 正始の政変

 張政が伊都国に留まり、倭国の混乱を収拾しようと動いていた頃、魏本国では大変なことが起こった。 →≪「No.22 仲達雌伏の時」を参照≫
 大将軍・曹爽は、蜀に大敗を喫し(244年)、威信を落としていた。相対的に司馬一族の勢力が強くなっていた。
 司馬仲達はライバルである曹爽の心境を巧みに見抜き、「歳をとって野心を無くした」演技をし続けた。病気と称して屋敷に閉じこもり、人がくると耳が聞こえないふりをしたり、客の目の前でおかゆの椀を取り落として見せたり、わざと脈絡のない話をしたり。
 正始10年(嘉平元年249年)春正月、少帝は明帝の墓参のため曹爽をはじめとする皇族の重臣たちを引きつれて洛陽の都を出た。
 司馬仲達はこのときをとらえ、ただちに兵馬を指揮して武器庫をおさえ、都に居残っていた郭大后を擁して首都を占拠すると、ついで城外にでて都を背に皇帝一行に対して部隊を配置し布陣を終ると、「曹爽に反逆の疑いあり」と上表した。
 まったくの言いがかりである。
 曹爽は皇帝と同行しており、その意味でいわば「錦の御旗」は曹爽の側にあった。しかし奇妙なことに曹爽は、その有利な条件を生かすことがなかった。

 曹爽の部下の中には「帝をこのまま『許昌』にうつし、都の外の軍隊を召集し、もって司馬仲達を討つべし」と進言するものもあったが、曹爽はなぜかこれを取り上げない。
 彼らがそういう戦略を立てているときに司馬仲達の使者が来た。
 その使者の手紙には、司馬仲達の挙兵の目的が洛陽の風紀の乱れを正す事であり、皇帝はもちろん、曹爽とその取り巻きに敵対心は持っていないので、速やかに都に帰ってくるようにと、優しく真心溢れる文章で書いてあった。

 曹爽は、すっかり騙されてしまった。そして「罪に服する」旨の使者を司馬仲達の陣営に送った。
 即刻大将軍の地位から罷免され、自宅謹慎となったのち死罪。
 曹爽には、「まさか皇族の自分を殺すことはあるまい」という甘さがあったのである。さらには曹爽の反逆に荷担していたとして、皇族(曹氏)の重臣たちはことごとく朝廷から一掃された。

 この後、朝廷内に司馬氏の障害となるものはいなくなった。この事件を世に「正始の政変」と呼ぶ。
 こうして司馬仲達は魏の実権を完全に掌握した。
 彼はこの2年後に病死するが、その遺志は長男の司馬師に引き継がれる。
 結局、彼の代には魏王朝を簒奪することはなかったから、明帝との約束は守ったことになる。
 長男の司馬師は、その後夏侯玄らのクーデターを未然に察知し、その一族を皆殺しにした。そして彼は、夏侯玄らの背後に皇帝・曹芳の意思が動いていたことを知ると、直ちにこの皇帝を廃位してしまった。
 成人に達した曹芳は、自分が司馬一族の傀儡に過ぎないことを怒り、密かに司馬師を暗殺しようとしていたのであった。
 司馬師は、自分の操り人形になりそうな皇族・曹髦を擁立した。
 彼は、この事件に憤って挙兵した?丘倹将軍の叛乱も鎮圧に成功。
 いよいよその地位を固めたところで病死する。

 その跡を継いだのは、弟の司馬昭であった。
 彼は、曹操が後漢の天下を奪うやり方をそっくり真似した。
 次第に昇進し「晋公」、ついには「晋王」になる。
 この様子を憂えた諸葛誕将軍は、呉と同盟をして「反・司馬昭」を合言葉に挙兵するが(257年)、あえなく敗れ去った。
 そして260年、司馬昭は一線を超える。
 自分の操り人形である皇帝・曹髦を殺害してしまう。

No.28 遷都

 一方、正始8年(247年)から壱与の即位を経て泰始2年(266年)までの20年間の内に倭国から魏朝への朝貢が絶えている。これは嘉平元年(249) 司馬仲達によるクーデターが原因だと考えている。
≪260年、晋が建国して6年後、中国国内が安定した頃、朝貢を再開した。この期間は、ほとんど情報が途絶え歴史的資料がない。当然、フィクションが多くなる。≫

 張政ら「軍事顧問団」にとっては、よりどころとなる勢力が無くなってしまったことになる。
 帰りたくても帰れない状態になった。本国からの命令はそのままだし、忘れ去られたような感じだったのだろう。
 この当時、張政ら顧問団は伊都国に留まり、倭国の政治の安定のために活動していた。それが本国から与えられた仕事であり、官吏として当たり前だったからである。

≪その時に書いた「倭国報告書」を参考に、のちの「魏志倭人伝」が書かれたと思われる。≫

 魏の政治的混乱は、相対的に張政ら「軍事顧問団」の地位も下がることになる。狗奴国に対する政治的影響力も少なくなり、歯止めが利かなくなった。
 以前から倭国内では、熊本を本拠地とする狗奴国の卑弥弓呼が筑後平野への進出をねらって、邪馬台国連合に戦を仕掛けていた。そして、卑弥呼の死により邪馬台国連合内部がごたごたしているすきに、今の八女地方まで勢力圏に納めていたと思わる。
 元々の邪馬台国の本拠地で、ついに古い都を征服したような感じではなかったか。自分たちこそが正当な「徐福の子孫」であるし倭国の王としての意識があった。
 また背後に呉の影響があったのかもしれない。
 邪馬台国連合内で共立された台与は、張政ら魏の影響下にある女王である。認めるわけにはいかない。

≪当初、邪馬台国は矢部川と広川に挟まれた高台、丘陵地一帯が中心ではなかったかと思っている。現在、古墳群がある場所。その勢力が拡大し、邪馬台国連合のような組織が出来上がった頃、アマテラスが活躍していたのは筑後地区の中心、今の小郡市の東、宝満川を中心とした一帯、さらに甘木、朝倉と移っていったと考えている。(邪馬台国甘木説)
近年、ここから平塚川添遺跡という大規模な環濠遺跡が出てきた。≫

 狗奴国の圧迫がひどくなり、台与は遷都を決意した。筑後平野から離れ、日田を経由して「京都郡」に都を移した。今の宇佐神宮のある場所の北部地区である。(邪馬台国宇佐説)

 宇佐神宮のある豊後、行橋市のある豊前、つまりこのあたりは「豊の国(トヨノクニ)」である。
「難升米等」と台与という名前は、地名が豊という国だったから台与という名前で呼ばれたのか、あるいは台与という女性がそこに住んだから地名が豊になったのか。いずれにしても、豊という人名とは、無関係ではないと思う。 「京都郡」という古くからの地名が残っている。かつては行橋も京都郡に属していた。
 北九州市・行橋市・築上郡との関係が非常に深く、旧豊前国の国府跡がみやこ町(旧豊津町)で発見されたため、この地域は豊前国の中心地であった。
 私の個人的仮説だが、張政ら、魏の影響下にある北部の勢力、難升米がいる奴国や伊都国などは、宗像、北九州と海路沿いに勢力を広げ、当時の豊の国もかなり開けていたのではないか。
朝鮮半島の騒乱を逃れ倭国に渡ってくる人々も数多く、豊前から日向、九州の東岸地区が開拓されていった。それらの勢力の中心地として、豊前は最も適した場所である。
台与の時代、この地区に一大勢力があったと思っている。

No.29 邪馬台国宇佐説

 台与の時代、邪馬台国の本拠地である筑後有明地区は、狗奴国の「九州王朝」の勢力下にあったが、中津を中心とする「女王国」はその勢力を拡大していった。
 なお魏志倭人伝には「女王國の東、海を渡ること千余里にして又國有り。皆倭種なり。」という記述がある。この記事の倭種(倭人)とは大和朝廷支配下の近畿地方のことだと考えられる。
そして、この国の東には海があったという事実を表している。
そして、「女王国」と書かれてあり、「邪馬台国」とは書かれていない。
ここがポイントである。
邪馬台国→女王は卑弥呼。
女王国→女王とは台与。
 依然として、邪馬台国は「九州王朝」の筑後にあったと私は思っている。これを同一視するところに、邪馬台国宇佐説の間違いがあると思う。

≪ネットで次のような記事を見つけた。抽出して紹介する。≫

 江戸中期の多田義俊氏は、天照大御神の都=高天原は豊前の国の中津(大分県中津市)にあたるとして、その理由を次のように挙げている。

≪天照大御神を台与だと比定すれば、間違いではない。≫

 豊葦原の中津国は、豊前の国の中津にあたる。豊葦原の 「豊」 の字はただの美称ではない。豊前豊後の 「豊」 を意味する。
 難波あたりでは、豊前豊後ふきんから出る米を中国米という。いにしえ、そこが中国だったからである。そのことは、豊前の国に都郡(京都郡)があるのを見てもわかる。
 豊前風土記には、「宮処の郡(福岡県京都郡)、いにしえ、天孫はここより発ちて、 日向の旧都に天降りましき。けだし、天照大御神の神京なり」 とある。
 日本書紀の景行天皇十二年の条に、「 筑紫に幸して、豊前国の長峡県に到りて、行宮を興てて居します」 とあるのも、神代の旧都を慕っての意味である。
 皇統のことを、代々問うための使いを、宇佐使(天皇の即位や国家の大事のとき、宇佐神宮につかわされて幣帛をたてまつった勅使)と名づける。これもまた、神都に報告する古くからの習慣ではなかろうか。

≪中略≫

 記紀は大和朝廷=天皇家の起源が九州と明言し、天皇家は九州での宗廟を宇佐神宮としている。

 九州に天皇家の宗廟が現存しないか不明であれば別であるが、宇佐神宮は伊勢神宮と並んで天皇家の二所宗廟とされ、道鏡事件でもわかるように、奈良時代には朝廷に対する影響力は伊勢神宮を上回っていた。
 また、奈良時代以降1100年間も天皇家は近くの伊勢神宮に参拝すらしたことが無いのに、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使が遣わされた。
 このように、天皇家の宗廟問題からすれば、邪馬台国(高天原)=宇佐とするのが妥当であろう。

≪天皇家の皇祖は、アマテラスとなっているが、ここに卑弥呼と台与という二人の人格が混同されている。これには何らかの作為があった。≫

 台与が天皇家の皇祖であり、宇佐を本拠地とした豊の国が、天皇家の起源、九州の宇佐であるのは間違いないと思っているが、台与が本当に邪馬台国の女王卑弥呼と姻戚関係にあったのかどうか、私は疑っている。 素直に考えれば、分家が本家を名乗ったという感じ。さらに、神武天皇はその系図のすみっこにいた人物だと思っている。

No.30 スサノウの追放

 熊本を中心とする狗奴国は、有明海を中心とする勢力で、歴史的にも呉との関係が強く、中国系の国ではなかったか。
それに対して、邪馬台国連合は韓国系の人々が多く、当然勢力争いがおきても不思議ではない。
 狗奴国が有明海地区を制圧し、「九州王朝」として以後の「大和王朝」とは別の発展を遂げたと考えている。
 邪馬台国→九州王朝→筑紫の岩井という流れである。
 記紀神話ではアマテラスを皇祖としているが、「卑弥呼ー台与」を象徴していると思う。
 これが正統な王朝の系列であり、この王朝が「東遷」して「大和王朝」になったのだと書いている。そして、それに対抗する勢力の象徴が「スサノウ」である。
 倭人伝によれば、卑弥呼が死去した後いったん男王が邪馬台国の国王となるが、国中が服せず千人を殺す内戦となり、この男王は結局追放されて、卑弥呼の宗女の台与が女王となった。
 これが記紀では、スサノウの高天原からの追放と、天照大御神が天の岩戸から出て再生したことに対応する。
 台与が共立されたときに、排斥された一派、「スサノウ」は北部の勢力の一部だと思うが、彼らが、邪馬台国連合の勢力圏から逃れ「出雲」方面に進出したと考えている。

 大国主命を中心とする出雲神話は、本来は出雲地方(出雲王朝)での独立した神話である。
 しかし記紀では、スサノウを「卑弥呼ー台与」の正統王朝に対抗する勢力の代表としたため、スサノウをかなり強引に出雲神話に結びつけた。

 なお、スサノウと出雲神話の結びつきは、スサノウが高天原を追放されて出雲に降り立ち、八岐大蛇を退治して奇稲田姫を救けこの姫と結婚することから始まる。

≪この物語は、日本書紀の本文だけではなく一書群にも登場する。したがって、日本書紀に先行する歴史書(6~7世紀成立と推定)において、スサノウを「卑弥呼ー台与」の正統王朝に対抗する勢力の代表とする物語の骨格は、すでに出来上がっていた。≫

 記紀などの日本神話が語る高天原は、のちに大和朝廷の中心となった勢力の祖先が、遠い昔にいた場所についての記憶を伝承の形で伝えたものではなかろうか、と思っている。
 そして、この台与の時代こそ、のちの大和朝廷の前史をなす大発展時代だった。

 つまり出雲方面にはそれなりの勢力が行き、国を築く。日向方面にも進出していった。
 台与の次の世代、神武天皇が活躍したのは、280年~290年頃だと思うが、大和方面に進出していく。

≪余談≫

 日向から、高千穂に進出してきたのが神武天皇の孫、阿蘇神社(熊本県阿蘇市)に祀られている阿蘇開拓の主、健磐竜命(たけいわたつのみこと)である。この健磐竜命は、日向国から五ヶ瀬川に沿って三田井(高千穂)、馬見原を通って草部に入られた。
 このとき一羽の白鳥が幣立神宮へ案内した。 命は御幣(ごへい)を立てて奉祀されたので「幣立神宮」の名が起こったといわれている。

No.31 張政の帰国

 この物語の主役である張政は、どう過ごしていたのか。晋の泰初(始)2年(266年)にやっと張政は帰国することになった。20年近く倭国に留まっていたことになる。

≪なお、陳寿の「魏志倭人伝」も張政顧問団の帰国を最後に筆をおいている。≫

 魏志倭人伝には、台与の朝貢記事が何時のことか記載がない。これは単なる記載漏れではなくて、執筆対象時代が「魏」であるため「晋」の時代である泰始2年(266)とは書かなかった。

「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の環るを送らしむ。
因って台に詣り、男女生口三十人を献上・・・」

 正始8年(247年)から壱与の即位を経て泰始2年(266年)までの20年間の内に倭国から魏朝への朝貢が絶えた。これは嘉平元年(249)司馬一族によるクーデターが成功し曹爽が誅殺されたからだと思われる。
 倭国としては、嘉平元年のクーデターをどう評価するのか司馬一族への不信感が生じたのではないかと思う。
 張政も魏の官吏として派遣されたのだから、下手に帰国すると身が危ないと感じたのかもしれない。自分が後見人となって共立した「台与」がどう政治をするのかを見ていたかったのかもしれない。
 司馬一族の当事者がすべてなくな、世代が変わった頃を見計らって、帰国の途についたと思われる。名残を惜しみ、台与は朝貢団を組織し「政等の環るを送らしむ。」

 年老いた張政が、涙ながらに別れを告げている光景が見えるようである。

 正始8年(247年)の来倭から泰始2年(266年)の帰国まで伊都国に常にとどまって、倭国を観察していたであろう張政の『倭国報告書』を参考に魏志倭人伝は書かれている。因って、その内容は細部においても正確に実情を把握していた。
 そこに登場した張政という人物について調べつつ思いのままに書いてきた。
 魏志倭人伝の一文字一文字が私の妄想をふくらまし、気かつけばだいぶん長い記事になってしまった。

 興味のない方には面白くなかったと思うが、私自身も消化不良である。もっとドラマチックな展開を考えたのだが、今回は「すじがき」のようになってしった。この「すじがき」を元に再度小説にチャレンジできれば・・・。
邪馬台国の女王卑弥呼について、張政という一役人の立場でいろいろと想像してみました。2011年頃に、暇な時間つぶしでいろいろと調べはじめブログに書いていたものです。 by yochi