Transactional Analysis 04

交流分析

認知の歪み
 & ゲーム

 人から聞いた言葉を、どのように受け取るか、どう判断するか、評価・解釈するかということを「認知」といいます。

 ゲームとは、何らかの理由で信頼と愛情に裏付けられた真実の交流がないためにマイナスのストロークを繰り返すことです。


No.1 認知の歪み 10タイプ 

 この「ものの受け取り方」は、その人の状態によって変わります。
 言葉の受け取り方(思い込み=認知)によって、自分のストレスが大きくなるか、小さくなるか。ストレスが大きい人、いやな感じを受ける方は、“認知”が歪んでいるのではないかと考えてみませんか。
 たとえば、「子供が不登校になった」場合、親が子供に対してどう考えるかですが、
マイナス思考→ワー大変だ、私の子供の人生は終わった、私の育て方が悪かった。
プラス思考→学校へ行きたくないこともある。人生この位のことも必要だ。子供は回り道をしていろいろ考えるんだ。
 そのときの自分の状態によって、感じ方が変わります。

認知の歪みの種類

①二者択一思考(白黒思考)(1-0思考)

物事をあれか、これか、白か黒かに解釈する
有能か無能か、成功か失敗か、極端な2つのカテゴリーで物事を見る
よい人、悪い人……学校へ行く子は「よい子」、行かない子は「悪い子」
          勉強する子は「よい子」、しない子は「悪い子」
          仕事をする人は「よい人」しない人は「ダメな人」

②過度の一般化(いつも・・・と言う人)

ある否定的事象を拡大・一般化すること
たった一度の嫌な出来事から、それが何度も繰り返し起こるだろうと、勝手に結論する
  「いつも失敗ばかりしている」「これからもどうせ失敗するだろう」
  いつも遅刻するんです、いつも他人に利用されてしまう
  「あの子はいつも・・・だから」が口癖

③心のフィルター(精神的フィルター)

・ほんの小さなことで全体を見てしまう、木を見て森を見ない
・選択的抽出→フィルターにかけて、良いものはすべて流して、悪い面だけ抽出する
彼のすべてが嫌になった
よくないことを思い出して、そればかり考える
「何をやっても駄目」「どうせ失敗する」とマイナスの面だけ数えあげる
“うつ病”の人は、状況の否定的側面だけ選び出して、肯定的側面を排除する
たくさんよい面を持っている子供に、「成績が悪い」ことだけで、「全部駄目な子」という考え方をする

④過大評価or過小評価

失敗や困難を誇張したり、肯定的なものを過小に見積もる
悪い方へ悪い方へ考える
よい出来事を無視して、「まぐれ」「たまたま」と考える
自分の能力を極度に低く考える
大した失敗ではないのに、“大失敗”と言う
“死ぬほどつらい”
ミス、恐れ、不完全に必要以上に注目する
破局の予想……「ひきこもり」の子供に対し、「もうこの子は駄目、もう人生終わった、一緒に死のう」と考える親
「長所」を“とるに足らぬ”という捕らえ方をする
正しい状況を一人よがりで結論付けてしまう
小さいことを「大変なことが起きた」と大きく判断してしまう

⑤べき思考

完全主義で心身症の人に多い
「しなければならない」「してはならない」基づいて何かを達成しようとする考え方
人に嫌われてはならない、仕事はいつも完全にしなければならない
べき主義を人(夫や子供)に向けると自分が腹が立ち、フラストレーショを感じる。
べき主義を自分に向けると、自己嫌悪、恥、罪悪感を感じる
「やったか?」と繰り返し聞く親に対し、子供は引き延ばして相手をいらいらさせる(消極的敵意)
「人は間違いをするものだ」と考えよう
人に何かをしてあげたとき、相手に感謝されなくてもともとと考えると、ずいぶん気が楽だ

 ↓ 別項にて、さらに詳しく考察します


⑥結論の飛躍(恣意的、独断的推論)

証拠、反証がないのに、悲観的結論を一足飛びに出す
心の読みすぎ
Ex.居眠り学生、挨拶しない友人、口をきかない主人に対して、“見下している””馬鹿にしている“と捕らえる
先取りの誤り
Ex.早合点、“うつは一生続く”、拒絶・失敗するかもしれない

⑦感情的論法

 感情が高まってくると、それに基づいて結論付けて、それが正しいと思ってしまう
・感情論→虫が好かないから、あいつは悪いやつだ
・情緒的推論→罪悪感→悪いことをしたに違いない
           絶望→解決不可能だ
           やる気がない→ベッドに横たわるしかない
・感情的決め付け→決断の引き延ばし
      片付ける気にならない→整理は不可能と引き延ばす
・情緒的理由付け→私は不適格な気がする、だから私は価値のない人間に違いない

⑧肯定的なものの格下げ
(格下げ、ポジィティブな側面の否認、価値の切り下げ)

あの位のことができるのは当たり前、大したことない
よい出来事を無視する、悪い出来事にすりかえる
運が良かっただけ、どうしようもない人間、「これはまぐれだ」「やっぱりそうなんだ」
肯定的な経験を無意味なものとして主張して拒絶する
Ex.子供がテストで95点取ってきた場合、
×「95点は当たり前」「100点ぐらい取らないと、」「1回ぐらい100点じゃ駄目」「何回もとらないと、」
誉めてあげよう

⑨レッテル貼り
(小さなことで全体をレッテル貼ってしまう)

自己や他者に否定的なレッテルを貼ってしまう
私はダメ人間だ→「自分にもいい所がある」という面を見ようとしない
完全にネガティブな自己像を作り出す
「役立たず」「人生の落伍者」「ろくでなし」「グズ」「のろま」「不器用」
人の価値はその人の犯す間違いによって決まる
極端な形の「過度の一般化」
1人相撲のゲームをしてしまう
「私って奴は、」など自己破壊的に言う場合はレッテル貼り

⑩自己関係づけ
(自己帰因説、個人化、責任の個人化など自分を責める傾向)

根拠がないのに外的出来事(よくない出来事を)自分自身に関係付ける
「みんな私が悪いのです」(罪の意識を感じる)
「子供の成績が悪い」(私はダメな母親です)
他人の事まで、自分の責任にする(自己犠牲的)(マゾキズム)
会社の倒産は自分のせいだ
子育てに関して、「私が悪いから」と一方的に自分を責める

何か出来事があったとき、10の認知の歪みを考えてみましょう

出来事 歪み 考え方の修正
しっかりしなければいけない べき思考 しゃんとする時もルーズにする時もあるこれが人間だ
拒食症
痩せは美しい
デブは醜い
過度の一般化 太った人もきれいな人はいる
太った人も活躍している人はいる
不登校
「学校へ行かない子」はダメな子
二者択一思考
白黒思考
学校へ行きたくないこともある
人生回り道も必要
学校へ行っても行かなくてもかけがえのない存在と考えよう

No.2 べき思想 

セルフ・コントロールについて

 日経新聞によると、日本人の約20%に強迫傾向がみられます。これが、ちょっとすすんで執着が強くなると、うつ病の傾向と考えられます。ウオシュレットは、外国にはあまりありません。
 電車の時間が正確で、丁寧なアナウンスなど、日本は強迫的な国と言われます。
 親の躾が厳しかったかどうかが強迫傾向に影響を与えるのです。小さい頃から、植え付けられた考え方、物の見方、受け止め方=「べき思想」があります。
 憂うつな傾向のある人は、「人の悪口を言ってはいけない」と、自分の中のP(両親の自我状態)が強い為、嫌なことを人に話してもすっきりしません。

【セルフ・コントロール】
→ 目標を100%以下に下げて、それを楽しみましょう。人生、8割でも6割でもいいじゃないかと考えましょう。
→ 背後の恐怖の原因を探る
 子供が不登校になったらどうしよう。もしそうだとしても、「なぜ落ち込むのか」「何が怖いのだろう」と考えてみる。
 不登校の子供を持つ親は、心配性で、1―0思考、恣意的推論(心の読みすぎ、早合点)のことが多く、「この子の人生は終わりだ」という考え方をしてしまいます。
→ 成し遂げなかったことよりも、やり終えたことを数える
 自分のおかしい行動には、おかしい心=マイナス思考が働いている事が多い。
 うまく行かなかったら、間違いから何か学べるのではないか、間違うこともあると考えましょう。
→ 何かあった時、「私はどう反応しているのか」と考えてみましょう。
→ 10個の認知の歪みを覚えよう。
→ 親しい人に不完全、不適切と感じることを話す。
「私もそうよ」「そういうことあるよ」という返事が返ってくることが多いが、もし、非難されたら、自分にも間違いを犯す権利のあることを静かに主張してみましょう。
→ 楽にできる仕事をたくさんして、成功をどんどん収めて、「よくできた」という感情を貯金しよう。
→ ありのままの自分を受け入れましょう。

No.3 ゲーム 

交流分析でゲームというのは、日常生活、職場、あるいは家庭生活などいろいろな場面で繰り返される人間関係の悪循環のようなものです。

 マイナスのストロークの交換が習慣になったのがGameです。そして、莫大な時間とエネルギーを費やしてもよい結果が得られないのです。

ドラマ三角形ゲーム

ゲームを演じる人は、それぞれ、下記のような役割を果たします。
 迫害者:排他的で、相手を見下したり、ミスを正そうとする役割。
 犠牲者:他者の助けを誘うような無力さが特徴で、三者のうち最も強力な役割。
 救済者:相手の自立・自助を損ない、依存心を高める役割。
 ふつう、ゲームを演じる人は、これらの三つの役割を交替しながらストロークを交換します。
 たとえば、母親を罵倒している息子がいるとします。
 この場合、母親は被害者で息子は迫害者です。
 母親は、父親に助けを求めます。この時、父親は救済者としてかけつけます。
 父親は息子に対して最初は物静かに注意をしていますが、息子の口答えのひどさやふてくされた態度に、とうとう我慢が限度に達し、息子を怒鳴ったり、なぐったりしてしまいます。その時点で、それまで迫害者だった息子が今度は被害者になり、救済者だった父親が迫害者に変わることになります。
 さらに母親が「お父さん、そんなに太郎を怒らないでー。もういいから。」などと言いだすと、訳がわからない状態になります。
 いつの間にか母親は救済者の立場を演じているからです。
 このように、迫害者が救援者になり、救援者が迫害者に変わり、迫害者が犠牲者になるような状態をドラマ三角形と呼んだりします。
 皆さんにも思い当たる経験があるのではないでしょうか。
 よく、家庭内での暴力や虐待、非社会的な犯罪を犯す人たちは、このストロークのやりとりに問題がある人たちの生き方なのです。とくに、人はストロークの欠如した状態になると、ゲームを演じることが多くなり、一見奇怪な行動をとることがあるのです。

おろかもの(はいでも)ゲーム

息子「お父さん、僕はバカなんだよ」
父親「お前はバカじゃないよ」
息子「イヤ、僕はバカだよ」
父親「お前はバカじゃないよ。この前の学芸会では、お前はとても上手だったじゃないか。先生はお前がグループの中で一番頭がいい子の一人だと思ってるんだよ。」
息子「先生がそう思っていたって、お父さんはどうしてわかるの?」
父親「先生がそう言っていたもん」
息子「でも、先生はどうして僕の事をトンマなんて呼ぶんだい?」
父親「あれは、お前をからかっているんだよ」
息子「僕はバカだよ、自分でもよくわかってるんだ。僕の学校の成績を見てごらん」
父親「もう少し頑張ればできるようになるんだってば」
息子「僕は、もう何度も頑張ってみたよ。でもダメさ。お父さんの子だから、僕の頭は悪いんだ」
父親「お前の頭は悪くなんかないよ。お父さんにはわかってるんだ」
息子「お父さんが何て言ったって、僕はバカなのさ」
父親(大声で)「お前はバカじゃないよ」
息子「いや、僕はバカだよ」
父親「お前はバカじゃないよ。何度言ったらわかるんだ。このバカ!」

 交流分析では、さまざまな反復的な交流のなかで、次の公式にあてはまるものをゲームと呼びます。

Con + Gimmick = Response → Switch → Cross-up → Pay-off
(仕掛け) (よわみ) (反応)   (交叉的交流) (混乱)   (報酬・結末)

 まず、仕掛人は隠れた動機を持って、ゲームにひっかかってくる相手を捜し求めます。その結果、弱点を持つ相手がわなにかかって反応を示すと、ゲームが進行しはじめるのです。
 しばらく時間が経過すると、次に交流の過程に何らかの転換が生じます。
 これは、通常、行き違い、対立といった交流の交叉の形であらわれ、両者の関係に混乱をもたらします。最後にゲームは、思いがけない結末をもって幕を閉じます。
 この時点で、客観的には仕掛人の動機は明白になり、その正体が暴露されるのですが、多くの場合、当事者たちは、不快な感情を味わうだけで、その意味に気づかないままで終わります。

 上記の例のように、家庭内暴力によくみられる「はい、でも」(水かけ論)のゲームでは、青年はまず親に対して質問したり、問題を提起したりします。親はこの誘いにひっかかって、こまかな説明を与えたり、「・・・したらどうか」といった類の解決法を示したりします。すると青年は「はい、でも・・・」と反論しながら、相手の意見や提案をことごとく退けたあと、自分はその程度のことはしっているなどと、親を軽蔑します。
 この種のやりとりが長々と続きます。
 多くの場合、親はついに当惑し、沈黙します。時には、いらいらが昂じて、わが子に思わぬ雑言を浴びせてしまいます。しかし、これが青年の思うつぼなのです。青年はその時点で勝利を収めることになります。彼は、親の○Cを欲求不満に陥れたり、失言を取り消して謝罪させるなど、本来の目的を達成するのです。
この種のゲームを演じる青年は、裏面で「私はどんなことがあっても、自分の考えを曲げない」、あるいは「私を変えようと思うなら、やってみるがよい。絶対に親のいうとおりにはならないから」といった態度で、自分の立場を守ろうとします。こういう人は、幼少時からすべてに答えを与えようとした干渉的な親に、互いの交流をこじらせ、混乱させるという形で反抗しているのです。

ゲームの処理の方法としては、
 (1)非生産的な交流に多くの時間を費やさない
 (2)結末でくりかえし味わう不快感に気づき、それに長く浸らない

など、反応態度を変える必要があります。


No.4 悪い私と良い私 

 誰の中にも「悪い私」と「良い私」がいることに気づきましょう。普通、心の調子が悪いと体の調子も悪い、逆に体の調子が悪いと心の調子が悪くなります。

悪い私―刹那的に瞬間的に出てくる良い私
・ああ、もうダメだ(どうしようもない自分)
・お前は情けない人間だな
・何で自分がそこまでしなきゃならないんだ
・いちいち干渉するな
・あまり調子に乗るな。ほーら、見ろ、また失敗するぞ
・どうせ長続きするわけないじゃないか
・親の言うとおりにはならないぞ
・もう死んだら(自殺を考える私の心の声)
・そんなに喜んでいいのか?(愉しむことはいけないんだ)
・少しでも気を緩めると、徹底的にやっつけるぞ
自己否定、自己嫌悪、自分をいじめる、自己破壊など、自分を大事にしない気持ちに気をつけましょう。
思春期の女性に多いのが、「ヤセは美しい」という声を聞くと、体の管理より、過食症、拒食症になってしまう例です。
また、最近多いのが、飲酒運転です。「酒を飲んだら運転するな、運転するなら、酒を飲むな」という至極当たり前のことが実行されない例です。
心が不健康な場合、「アタマの私」と「カラダの私」がはっきり線がついていて、コミュニケーションが取れないのです。
意外に、感覚中心で、カラダの私の声を聞いてしまうのです。
アタマの私は理性で考えて言葉をよく使うのに対して、カラダの私は感覚中心で体そのものです。
良い私と悪い私が、十分内部対話して、不安や空しさ、怒りが主導権を握っている。
悪い私を良い私が抑えてコントロールすることができると、健康な心になったといえるのです。
うんと可愛がられた、喜びの気持ちをうんと感じ「愛されている」「楽しい」と思い、大事にされた、よい意味で褒められた経験が多いと「良い私」を持ちやすいといわれます。
自分の中で次のようにつぶやく声がありませんか?
・ 我慢してよかった
・ この幸せを壊してなるものか
・ 何とかしよう(困った時、死ぬことを考えず、何とかしようと考える)
・ 「悪い私」に勝つことはいい気持ちだ
・ 「悪い私」のそそのかしは、聞き流せばいいのだ(コントロールしよう)
・ 私だってできるじゃないかという自己肯定の感情
・ 親に感謝しよう(憎らしいけれど、生んでくれて、殺さないでここまで育ててくれたと考える
・ 私は周りの人に恵まれている(やっかみから解放されている)
・ 「悪い私」に対して、お前は間違っている、あっちへ行け
・ 他人は他人、私は私

「私は生きる価値がある」「私は愛されている」「やればできる」といった健康なイメージ(自己像)を持つことができる“自己肯定感情”(自尊感情)を持つことはとても大切なことです。誰の中にも「前向きな建設的な自分」がいる。潜在的な前向きのプラスの建設的な力をどんどん使っていきましょう。
悪い私の感覚良い私の感覚
・ 何か責められているような気持ち
・ 泥沼に落ち込んだよう
・ いつも不安(一日中強い不安があるのなら、悪い私が強いということ)
・ むなしい気持ちに駆られる
・ 自分の思いが通らないと、カッとなる(キレる)
・ いろいろな悪知恵がポンポン出てくる
・ ブレーキが効かない
・ 止め処もなく拡がる不快な気持ち
・ やさしくなることは、自分が崩れる感じ
・ ここぞとばかり、揺さぶりをかけてくるなど
・ 肩の荷を降ろしたような安堵感
・ 自然な明るさ
・ 自分をいとおしく思う
・ 気持ちが優しくなる
・ 物事をはっきり判断できる
・ さわやか、ほのぼのした感じ
・ 私の中に「よい私」と「悪い私」つまり「2人の私」がいると分かると安心感が持てる
・ 体が軽くなる感じ
・ 落ち着いた自信
・ 素直になれた感じ
悪い私の特徴良い私の特徴
・ 犯罪を犯すことは悪いなど、価値観を含むものではない
・ 自分の中で、自分をそそのかしたり、脅かしたりするもの
・ 自己破壊的で、自分を必要以上に苦しめたり、悩ませたりする
・ いつも何かに責任を転嫁する(~のせい)
・ 自然な体の声を聞こうとしない(「ヤセは美しい」というCMの影響を受け、生理が止まるまでやせる、仕事中毒」
・ わずかなきっかけを見つけて自分の心が脅しをかけてくる
・ 身体的不調につけ込んでくる(疲れたとき悪い私が主導権を握り、意地悪になる)
・ 思い込みが強い(妄想的)
・ 自己評価が下がっている
・ 悪いのは自分の一部、全体ではない(よい私が戦っているのに、悪い私が勝って主導権を握ってしまっている状態)
・ 品行方正など、価値観に基づくものではない、道徳的なものではない、
・ 本来の自分(人間らしい自分、こうなりたいという理想の自分)
・ 無理のない自然な私
・ 自分をいい方向へ引っ張っていく
・ 自分の中の{悪い私」の存在を指摘できる
・ 感情を言葉で表現できる(寂しい、腹が立つ、悔しいという感情を言葉で表すことができるようになることは、健康な道が開けてくるということ)
・ 治る(よくなる)為に、自主的に努力する
・ 「悪い私」にはっきりノーと言う
・ 不安を自らコントロールできる
・ 自己評価が上昇している

No.5 Column 

ストロークとゲームについて

 ストロークとは、「あなたはかけがえのない大事な人なのです」という気持ちを、言葉、目つきや態度で伝えることです。例えば、スキンシップ、誉める、認める、ありがとうなど、相手の存在や価値を認めるようなさまざまな刺激をストロークと呼びます。
 ストロークとは、もともと「なでる、さする」など体を愛撫する意味の言葉です。これに精神的な意味を加えたものを、交流分析ではストロークといいます。言葉で褒めたり、目で同意を示すといった動作や、もっと広く「私は、あなたがそこにいるのに気づいていますよ」「あなたは、かけがえのない大事な人なのですよ」と、相手の存在や価値を認めるようなさまざまな刺激をストロークと呼びます。
 ゲームとは、何らかの理由で信頼と愛情に裏付けられた真実の交流がないためにマイナスのストロークを繰り返すことです。


≪余談≫  態度がひどい生徒の話

  私の親しい先輩Y氏が求職者対象の職業訓練で、就職支援対策の講座を担当した時の話です。
 「なぜ、私の話を聞こうとしないのか」と講義の合間に声をかけてしまいました。余りに態度がひどかったのです。その生徒さんは、講師の私から顔をそむけ、机にうつぶせになり、講義がいやそうな顔をしていました。

  こんなことして何になるのか。
  私の苦しみは、誰も解ってくれない。
  もっともらしい話をするな。
  自分をバカにしている。
  無視されている。
  今の自分は、それどころではない。

 そのような態度でした。
 社会人で、こんなあらかさまな態度をとる人がいるとは、今まで経験したことが無かったので、ビックリしました。注意したことで、ちょっと態度は改善したのですが、マイナスのエネルギーを感じて、授業に集中できませんでした。気になって仕方がなかったので、休み時間に、思い切って彼に話しかけてみました。
 話を聞くと、お父さんと同じ先天的な遺伝子の病気をもっていて、自分は40歳ぐらいまでしか生きられないと言うのです。
「どうせ、・・・」という自暴自棄の状態です。
「結婚もできないし、夢も希望もない。」その言葉に、なぜか違和感を感じました。
 「お父さんは、もうなくなられたの。」
 「いや、働いていますけど。」
 その生徒さんは、30歳後半の人ですから、彼の父親は60歳以上のはずです。同じ病気の父親がまだ生きて、働いているのです。
 では「40歳で死ぬというのはあなたの思い込みではないのか」の質問に「自分は40歳で死ぬ」としか言いません。彼はもちろん独身です。

 「子供は好きですか」と聞けば「好きだけど、同じDNAの子供が生まれたら可哀想だから作らない」と言います。40歳まで食べていければそれで良い、どうせそれまでの命と言い放つ。
 以前製造業で勤めていた時、なんかのはずみで女性の胸に手が当たって、大騒ぎされその会社を辞めたと言い、そして「ババアーの胸なんか誰が好きで触るか」といって興奮しているのです。
(周りとのコミュニケーションが取れなくて、辞めさせられたのでしょう。)
   自分を生んだ親を恨み、自分も嫌いで、自尊感情が持てない状態です。
 なぜ、この職業訓練を受けているかと問うと、「とりあえず生活があるし、就職はしたい」との答えでした。
 彼は授業が終わると一番に帰って行ったそうです。何がそうさせたのか、わからない、講師の自分も落ち込んでしまった。エネルギーを吸い取られているようでした。

 どう言えばよかったのだろう。
今の私には荷が重過ぎる。答えを出すことはできなかった。

 このような話を、Y氏はため息をつきながら、私にしました。

「なかなか、こんな事例を体験することはできませんね。これはいい勉強ですよ。」と Y氏に言いました。最近の私は、すべて必然だと思うようにしています。いろいろな問題が起るのは、何かを気づかしてくれるために起るのです。逆に、これは面白いなと思いました。


No.6 交流分析による分析 

 繰り返しになりますが「人と人とのふれあい」を、精神分析を背景にもつ交流分析ではストロークと言います。人は、「人と人との楽しいふれあい」(プラスのストローク)を求めています。
 信頼と愛情に裏付けられた真実の交流(プラスのストローク)がないと、人は「自分はふれあいがほしいという気持ち」を素直に表現することができず、ストロークを補うために、「人に嫌われてもいいから、自分を認めてほしい」と言うマイナスのストロークを受け取るように行動してしまいます。「背に腹は代えられない」「ないよりまし」ということです。これをゲームと言います。

 たとえば、子どもが親から肯定的なストロークをもらえないと、ことさら人がいやがるような事を言ったり、行ったりして関心をひこうとします。そして、「うるさいわね」とか「なんでお前はいつも・・・・」とか否定的なストロークを得るようになります。 子どもにとって否定的なストロークをやり取りする状態が止まらないと「ゲーム」に発展してしまいます。

 交流分析でゲームというのは、日常生活、職場、あるいは家庭生活などいろいろな場面で繰り返される人間関係の悪循環のようなものです。

講師から顔をそむけ、机にうつぶせになり、講義がいやそうな顔をしていたその生徒さんの態度は、まさにそのゲームを仕掛けていたのです。
他人を不快にさせ、後味の悪さは残りますが、自分の存在を相手に認めさせるという目的は達成しますので否定的であれストロークは得ることができます。

 上記の事例は、マイナスのストロークでY氏を挑発しているのです。

 叱責や罵詈雑言でもいいから、「私に注目してほしい」というシグナルを出しているのです。この生徒さんは、ゲームを演じています。
 その原因は、彼を生んだ両親のマイナスのエネルギー、彼に対する罪の意識、自分を責めるマイナスのストロークです。
 その親を責める気持ちはマイナスのストロークですから、長年その残高は蓄積していき、現在のパーソナリティを形成しています。そして限界に近づいている状態だと想像できます。

 ストロークの蓄えは、銀行預金にたとえることができます。他人と交換するストロークは、当然、収支があります。プラスの肯定的ストロークを与えすぎて、預金高が底をつく状態になると、疲労感や憂うつな状態に駆られ、閉鎖的になります。

 これが 「貧しい者はさらに貧しくなり、富める者はますます富を増す」というストローク経済の法則と呼ばれるものです。
ゲームは肯定的ストロークが不足しているため、否定的ストロークでそれを補うことが習慣になってしまった人によって演じられる行動です。
 したがって、ゲームをやめる最も基本的な方法は、相手に対してもっと肯定的ストロークを増やすことなのです。
 自分にストロークの貯金が無いと大変に難しいことなのですが、次のような方法しかありません。

「人は“あなた”という人間が大事なのよという無条件のストローク、無条件の肯定的関心(尊重)で変化、成長する。」と言われます。
 「どんな気持ち?」「話して」「わかりたいよ」とじっくりと相手の立場に立って、わかってあげる。

 人は分かってもらえると、愛されていると感じます。

「言ってきかせる」「指示する」「説明する」「叱咤激励する」「説教する」「アドバイスを与える」「教える」などは肯定的ストロークではないのです。 肯定的ストロークを活用して、訓練することで、自分自身のストロークを増やすことができます。  その人に対する愛がないと難しいと思います。
 ストロークを吸い取られて自分も不快な気持ちになってしまいますから、難しいですよね。
 叱咤激励や励ましではなく、「誰からもわかってもらえないことはつらいよね」と相手の気持ちをわかってあげることです。

「じっくり話を聞いてあげること」
「そばにいて、つらさをじっくり味わうこと」です。
 相手が沈黙しても、役に立っていないと考えないでください。
 これが基本です。

≪心理学的な対処方法≫
 Y氏としては、黙って傾聴することしかできなかったし、それだけで良かったのではないかと私は言いました。
 Y氏に不快感を味あわせ、「お前はダメなヤツだ」と思わせるのが、彼の無意識の意思ですから、いろいろなアドバイスをしても無駄なのです。
 聞いてあげて、『フレンドリーサポート』をするしかないのです。
 問題を解決できなくても、共感の姿勢を示すことによって、実際にはどうにもならなくても、以前よりはずっと安定した心境になれることが多いのです。

 世の中には、原因が判ったからと言って、直ちにそれを取り除いて、問題の解決に進むことができない場合が多くあります。
 こうしたときは、当事者とそれを助けようとする相手との間に、以心伝心といった形で、暗黙の妥協が成り立つことがあります。
 職場環境によるストレスに悩んでいる相手に、上司としてその身の上話を聞いても、自分ではどうしてもやれないという無力感と罪悪感を感じることがあります。
 相手も、上司の力の限界に対する不満を受入れて、それ以上、深入りせず、暗黙の諒解が成立します。
 これが成り立つと、それ以上心理的なことはふれあわなくても、その後、顔を合わせたとき「無言の言葉」を理解しあっているのだという、暖かい交流が持続するものです。
 部下は、自分の深刻な人生相談やそれに対する気持ちを自分が信頼する上司に判ってもらっているというだけで、実際にはどうにもならなくても、以前よりはずっと安定した心境になれることが多いのです。
 これは、フレンドリーサポート(友交的な支持)と呼ばれる心理的な技法で、部下の「真の友人」となるわけです。

No.7 哲学の視点

池田晶子さんの文章より

哲学の視点から、このストロークについて考えてみます。
 ちょっと話が広がりすぎますが・・・

「あなたが今までの人生で最もうれしかったことはなんですか。」

 突然の質問ですが、その時の場面を想像してみてください。その時、あなたの顔の表情はどうですか。きっと満面の微笑で「やった!!」といっているかもしれませんね。
 その時、あなたの周りに人はいませんか。その人も一緒に喜んでいませんか。
 自分が信頼できる人、愛している人、尊敬できる人、仲間とともに喜んでいる自分がいませんか。

 もし、私だったら、その生徒さんにどう対処しただろうかと考えた時、まず傾聴と共感によって、彼のゲームが終わるのを待って、上記のようなプラスのストロークの事例を思い出させるような方向に話しを進めるのではないかと思います。
 もちろん時間も必要ですし、きちんとした場所も必要になります。
 以下の文章のように、自分の感情に気づくことは、カウンセリングだけでは難しいと思いますが・・・。


 その場面には、喜んでいる自分の周りに、その感情を「共感」している仲間の笑顔があるはずです。
 つまり、人はひとりで生きているのではなく、その喜び、感動は、人と人の共感のなかに生まれるものなのです。
「人は人によって支えられている」といいますが、人生の喜びとは、この「人と人との共感」のことではないでしょうか。

 この感動体験の経験、繰り返しが人の感情の幅を広げて豊かにし、人を成長させます。 人に共感する能力も、この感動体験によって鍛えられていきます。

「人は感動するために生まれてきたのです。」

 人と人のふれあいが、私たちの人生を支えています。人間が生きていくためのもとの力となるもの、生命にとって最も大切なものは「ふれあい」だと思います。人は「ふれあい」を求めるために生きているのです。
 単なる対話ではなく、お互いの時間を共有し、ふれあい、理解しあうことが、私たちの人生に感動を与え、生きる力を与えてくれるものだと思います。
 セミナー等でこのような話を始めますと、嫌な顔をする人がいます。「考える」こと自体を嫌がる人がいます。
 人は信用できない。
別にあなたに言いたくもないし、聞きたくもない。
私のことはほっといてほしい。

 このような感情がその人の顔の表情に表れて、講師の私に訴えてきます。少人数の講座でも、何百人のセミナーでも、数人の人が同じような反応を示します。
 その講師の印象が悪いのか、「自分の言っていることに反感を持っているな」と講師は不思議とわかります。
 皆さんは、人の話を聞きながら「私の苦しみは、誰も解ってくれない。もっともらしい話をするな」とか、「自分をバカにしている。無視されている。今の自分は、それどころではない」など感じたことはありませんか。
 なぜ、自分はそう思うのか。
 なぜ、自分はその人を信用しないのか。
 なぜ聞きたくないのか。
 考えたことはありますか。
 自分の心の中に、本当は「何かを求めている自分、助けを求めている自分」はいませんでしたか。
 人は誰でも自由に「思う」ことができます。これは本当に不思議なことです。
 人生はつまらないものだと思えば、人生はつまらないものになります。だって、その人は人生をつまらないと感じているのですから、何事もつまらなく感じてしまうのです。
 人生を素晴らしいものだと思えば、人生は素晴らしいものになります。だって、その人は人生をすばらしいと感じているのですから、何事もすばらしいと感じてしまうのです。

 つまり、何もかも、その人が思ったとおりになります。
 人生は自分が思ったとおりの人生になっています。
 人は思うことで、人生の運命を自由に創造することができるのです。
 これは、なんと素晴らしく、かつ厳しいことでしょう。
 人生や苦しみに「意味がない」と思えば、人生や苦しみに意味はないものとなるし、人生や苦しみに「意味がある」と思えば、人生や苦しみに意味があるものとなります。

「今の苦しみには意味があることなのだから」と考えると、立ち向かう勇気がわいてきます。後で、あの苦しみがあったから今があると言うことができます。

自分で、選択してください。
その基準は、価値観は、自分の中に明らかに存在しています。

「私たちは、なぜ生きているのでしょうか。」

よく考えると、わかりません。
人は自分の生まれた時のことは覚えていないし、いつ死ぬかも自分ではわかりません。 自分の意思で生まれたわけではなく、自殺しない限りは、自分の寿命をコントロールすることは不可能です。
 「私たちが生まれたことには、何らかの意味、目的があり、その原因と結果があるはずだ」という方もおられますが、ただの偶然であり、何もないのかもしれません。
ただ、私たちは宇宙の原理・自然の法則に従って生かされているということは何となく理解できます。
空気や水、日光など、何らかの奇跡によって生命が誕生し、膨大な時間の中の結果として、現在、私たちが存在しています。
唯一の認められる真実、「今」があることだけは確かです。今、生きている自分がそのように感じているからです。

多くの人は、時間は前に流れるものだという間違った思い込みで生きています。それで、いろいろと予定したり計画したりして、忙しいとか時間が無いとか文句を言っているわけですし、それはすべて自分でそう思っている思い込みにすぎません。
時間と言うものは、本来、流れるものではなくて、過去から未来に流れるものではなくて、ただ「今」があるだけなのです。今という時間があるだけなのです。だから、過去を嘆いたり未来を憂えたりしているのは、今の自分以外の何者でもないのです。

「なぜ人は、人生に意味や理由を求めるのでしょうか。」

意味や理由を求めて悩むのは、何か意味や理由があるからと思っているからです。でも、なぜそう思っているのでしょうか、思っていること自体が、ひょっとしたら間違いではないでしょうか。
神が宇宙を創ったのでなければ、なぜ、ビッグバンは起こったのでしょう。現代の科学では説明できません。
では、なぜ宇宙は存在するのでしょう。
宇宙が存在することに、意味や理由を与える神のようなものが存在しないとしたら、宇宙が存在していることに、どうして意味や理由が存在するのでしょう。
人は、宇宙にある無数の星が永遠に生成されたり消滅したりしていることを繰り返しているということに、意味や理由があるとは、ほとんど思いません。
でも、それなら、「地球という星になぜか存在し、生まれたり死んだりを繰り返している人間の人生にも、意味や目的はないはずではないか」と思いませんか。
宇宙がただそのように「在る」だけのように、人生には意味も理由もなくただ「在る」だけでは、なぜ人は困るのでしょう。
人は、人生を生きる苦しみや死ぬ恐怖に出会って、そのことの意味や理由を求めます。 そうしなければ、その苦しみを納得できないからです。

最初に戻りますが、宇宙は存在します。
皆さんは、なぜ存在するかわからない宇宙が、なぜか存在しているということが納得できますか。
 理解も納得もできないことが存在している。これを奇跡といいます。
 そして、私たちの人生も、存在すること自体が奇跡なんですから、そこで味わう苦しみも奇跡です。

 驚きです。
 むなしさを感じた時、苦しみを感じた時、この感情ですら、奇跡だと納得できれば、その苦しみも消えていることに気がつきます。
 なにか騙されているようで、訳が解らないと思われるかもしれませんが、ぜひ「考えて」いただきたいのです。
感謝という感情があります。
 人に何かをしてもらった時、感謝して「ありがとう」と言いますが、もともとこの「ありがとう」は、奇跡の感情を言います。  在る理由のないものがなぜか在る、この驚
きに発する言葉です。
 だから、存在への驚きを知る人や敬虔な信仰をもつ人は、苦しみにすら感謝して「在り難う」と言います。
 苦しみや、むろん喜びという経験を、この身に経験することができるのは、宇宙や自分がなぜか存在するからで、これはやっぱり在り難いことだと思いませんか。
 (こういう風に物事を考える考え方を哲学と言います。)

 生かされて生きる、いのちへの「気づき」が私たちの心を根底から安定させるものです。  このいのちに対する感謝の気持ちがあれば、傲慢になったり、不安になったりする自分に対して、客観的に観察することができるようになり、自分の気持ち「想い」と向き合って素直に自分を認め、自分の力で成長することができるようになるのではないでしょうか。
 人は自分の力で成長したり悩みを解決する能力を持ち、自分の可能性を自律的に実現していこうとする傾向を持っています。
  他人から強制されたり指示されたり、あるいは干渉されたりするよりも、自分の力で成長することを望んでいるからです。

 Y氏から話を聞いて、人生とか、命とかについて考えてみました。ずいぶん話が広がってしまいました。


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