Sonsi(孫子)

*****はじめに*****

 「孫子」十三編は、今から役二千五百年前、紀元前五百年頃の春秋時代に中国の斉(今の山東省)に生まれた天才的兵法家孫武が著したものといわれている。
 「孫子」を生んだ春秋戦国時代は、諸侯が割拠して食うか食われるかの戦争に明け暮れる時代であった。
 戦いの状態が当たり前で、平和という概念自体、存在しなかったその時代に、「この世の森羅万象にこの兵法の原理が通用する。戦いは同じ展開は一つもなく、よって単なる戦術書は役にたちそうで実際には役立たない。」ということを孫武は見抜いただけでなく、 「兵法の極意は"宇宙の原理"にかなっている。」と考えた。
戦わずして勝つ」という孫子の兵法はいかに革新的な考えで優れていたのか、また、太平の世の中をつくりそれを維持していくことがいかに大変なことであったか、現代のわれわれが想像することもできないような時代に、その最も難しい「目標」を掲げてそのノウハウを著した書、それが「孫子」なのである。
孫子」は中国最古の兵書であり、しかも必要にして十分な内容をもっている。その後も多くの兵書がでているが、孫子を読めばそれらを読まなくてもよい。
もっとも優れた兵書であるといえる。
 日本伝来は、735年、吉備具備によるとされている。
 平安時代には、「孫子」研究は知識人の間でさかんになり、宇多天皇(在位889-897)の勅命で作られた「日本国見在書目録」には、「孫子兵法」二巻のほか五種類の孫子本が記録されている。
 しかし、中世・中国兵書を管理する大江家は「孫子」を朝廷の秘書としたため、一部、源氏家のみに伝えられた。
 源氏の流れをくむ、武田信玄が掲げた「風林火山」は、この兵書からの引用である。
 江戸時代には、家康が「甲州流軍学」として武田軍法を取り入れたため、武士の教養教育の主流を占め、広く普及した。
 忠臣蔵にでてくる「山鹿流の陣太鼓」も孫子の研究家である山鹿素行の兵法からだし、新井白石、吉田松陰も孫子の注釈をしている。

経営論

「孫子」十三編を経営の観点から現代風に書き直してみると、次のような文章になるのではないかと思う。
 なお、「孫武」氏なら、こう言うであろうと考えて書いたものであり、その内容については(もちろん筆者の解釈であるが)、原典の「孫子」の書き方、構成にそって注釈したものであり、本来の「孫子」から逸脱したものであるので、「孫武」氏にご迷惑をおかけするかもしれないが、あらかじめお断りしておく。

現代語訳

「孫子」十三編を現代語に訳して読みやすくしました。解釈の違いは、わたしの知識不足によるものですから大目に見てください。

「孫子」の内容は次の十三編に分かれている

(序論)
第一  計 編  戦争の前によく熟慮すべきこと
    (始計)  状況判断の大切さについて
(総論)
第二  作戦編  戦争を始めるについての軍費、計画、状況判断の基準となる金とモノ
第三  謀攻編  謀による攻撃つまり「戦わずして勝つ」為の戦略について
第四  形 編  攻守の態勢について
(軍計)
第五  勢 編  その態勢から発動する勢いについて
(兵勢)
第六  虚実編  主導制の把握について
(各論)
第七  軍争編  戦術の原則
第八  九変編  戦時における各種矛盾の解決策について
第九  行軍編  合理的な情報活動
第十  地形編  リーダーシップの本質
第十一 九地編  人間と組織の管理について
第十二 火攻編  火攻めの論、戦争の哲学
第十三 用間編  スパイに関する論、情報の本質>

*各編の名称は、現在中国で発行されている「宋本十一家注孫子」に基づいている。

*****孫子を現代に生かす*****

 孫子の述べる兵法は、単なる作戦ではなく、現代にも通じる「人間論」であり、「組織論」であり「経営論」でもある。
 また「水に常形なく兵に常勢なし」といっているように、万物は常に変化し発展するのが本来の姿であるとし、老子的な考え方も感じられる。

 兵法とは「人間を対象とした術」であり、知・情・意をそなえた人間を相手にしたものである。
 人間というものをよく知らない以上できる事ではない。
「敵、身方の心理をたなごころの上にのせているがごとく良く知り、その変化を察しその機変を利用して、欲するところに引きずり込んで勝ちを制する」のが兵法だという。
 その応用面の広さ奥深さは、古典というにふさわしく、現代にもりっぱに通用する普遍的な書物といえる。
 その本質は、「人間の心理の解説」であり、相手の心理を読む「読心術」である。
 その内容は、ちょっと読むと原則的、常識的な事を書いてあるだけなので、これをどう感じ、読み、どう生かすかということは、読者の能力による。つまり、読む人間の能力により、「都合よく」解釈できる一面もあり、自己の正当化に利用したりする場合も生ずる。
 また、「策」の面が強調されているし、目先の利益にとらわれすぎる読者にとっては、その奥にある「究極の平和、原則」を求める心を忘れてしまいがちになる。そこに、この書のおもしろさがあり、むずかしさがあると考える。
 この「孫子」には、人間は本質的にはどうあるべきかとか、どの様な生き方をすべきであるとかの「宗教論」、「人生論」等は語られていない。ノウハウの書であり、即、実戦に役立つ書である。
 当時は、いつ侵略され滅ぼされるかわからない状況にあり、とにかく"戦いに勝ち生き残れるか"が、絶対的な目標であり、そのような「志」を考える余ゆうもなかったものと思われる。
「上下、欲を同じうするものは勝つ(謀攻編)」とあるが、上下が欲を同じくするのは「利」だけでなく、「愛」とか「情」とか「志」とかの概念も含まれる。
 表面的には、冷たいほどの「超合理性」やきびしすぎる「非人間性」、そのなかでいかに、「戦わずして勝つか」という平和主義的な「志」が基本的なテーマであり、ここに現代社会に生きる私が共感できる部分があるのではないかと考える。

 次のような言葉がある。どう感じるか、感じないか。
災難にあわないのが最上の幸運なのに、人はこれを普通の事とし、災難にあって奇跡的に助かると非常な幸運とする。

 戦いは人間同士の争いである。単に物理的な力の格闘ではない。
心理の占める割合がおおきい。相手の兵が精鋭であり、將がまた有能である事がわかると相手は、戦わずして心がおびえ、十の内四五分の力しか出せなくなる。あるいは戦わずして屈する。

 戦いは、相手から仕掛けさせ、退路をふさがず、逃げ道を与えて、追撃を加えて完全にとどめを刺す。

 兵法とは人間を対象とした術である。
知・情・意をそなえた人間を相手にしたものだ。人間というものをよく知らない以上できる事ではないのである。

 生まれながらの王侯というものは、賢明であればあるほど、だまされまいとの意識が強く、猜疑心が強い。

 婉曲な言い回しでいってもわからないような者は、正面きっていっても決して聞き入れてくれない。黙っているに限る。

 逆境に沈んだ事のない人間には良いところもあるが、弱点がある。
他人の心理を読むに暗いことである。人に対する同情心が乏しく他人の信頼を失い、相手の出方に対する考慮不足の戦術を立てる事が多い。

 敵、身方の心理をたなごころの上にのせているがごとくよく知り、その変化を察し、その機変を利用して欲するところに引きずり込んで勝ちを制するのが兵法である。

 戦争は、常に戦う体制を整えた上で、相手にすきを見せず、「戦わずに勝つか」であるが、常にその覚悟があれば、安易に譲ることはしない。
 一歩を譲る事は百歩を譲る事になる。
「廉潔は、はづかしめられる」という言葉があるが、変な、見栄や、自尊心があるばかりに、「負ける」決心ができにくいものである。負けは負けと自分に認めて、次の手を考えることが大切である。

 これしかないと、覚悟を決めてはじめて、道は開ける。

 人間は、調子に乗って意気が高揚すると、不思議なくらい冴えてくる。
この冴えが肝心なときに長く続く人が、英雄・豪傑・天才などといわれる。
 厳格な意味においては、生涯、天才であり、生涯英雄であり、生涯豪傑である人はいない。

 冴えている期間が長く、かんじんな時と一致している人がそう呼ばれるようになるのである。つまり、冴えと運がそなわなければならない。

 部下の手柄は、その仕事の前では、頼りにしているが、うまく行くと、そのものの手柄となる事にたいしておもしろくない感情が起こる。
 功は人に与えるに限る。

 人と世の中との関わりに付いては微妙なものがある。
ある時期には大いに有用であり、役に立った人物でも、その時期がすぎて、次の時期に移れば、もう用をなさない。

 人は「論」で説得するものでなく、「情」で説得するものである。

 そのものがいいから買うのではなく、そのものが自分にとって「利」があると考えるから買うのである。

以上は、孫子に関連した書物からの抜粋であるが、興味のある人には、深く感じるし、感じない人には、つまらなく感じる言葉ではないだろうか。

*****中国人のものの見方*****

 われわれの日本文化と中国の文化は、儒教・仏教・道教に、原型を求めることができるが、似て非なるものといえる。それは、「孫子」の理解の仕方の違いにも現れている。
 そもそも、中国文明を貫いている思想とは何か。儒教と道教について次のような評論を見つけた。

1.中国文明の特質は、バランス感覚である。
 中国人が考える宇宙は次のようなものである。
 「陰」と「陽」、この二つが存在し、陽がきわまれば陰になり、陰が極限に達すると陽に転化する。常にバランスをとり、対立と同時に融合し、融合と同時に転化する。このバランスのうえにすべてのものがなりたっている。
 このように、中国人は、二元的なものの見方をする民族なのである。
 日本人は、裏表のある人間を好まず、「竹を割ったような性格」をよしとするが、中国人は、裏表がなければいけないと考える。公と私、内と外、二つのことをはっきりと区別できることが教養であると考える。

2.大局的な視点を持つ。
 物事を上からみる。上からみるから、陰と陽があるのがわかるのであり、そのバランスが理解できるのである。
 日本人は、平面的にしか見ないし、物事を直視する傾向がある。
 明治以降、日本人は、西洋志向になり、二者択一的な考え方に染まっていった。そして、その日本人の考え方が、現在行き詰まりを見せているのである。

「孫子」は、この中国的な発想に基づき書かれたものであり、これを理解するためにはそのバランス感覚を理解する必要がある。
「兵は奇道」であると説いているが、「正道」があってはじめて、成り立つ理論であり、平面的にとらえると、その言葉の裏を理解できなくなる。
「利」というと、「何かいやなものみたい」に考える日本人にとって、孫子の言う「利」の奥深さは、なかなかむずかしい概念かも知れない。
 私が、この孫子に感じたのは、その宇宙感であり、また、そこに、新しさと共感を覚えた。

*****「孫子」との出会い*****

 私が38才の頃、住宅販売の営業という仕事に限界を感じていたときに、「男子戦わずして勝つべし(孫子)」という本を見つけ、何気なく買い求め、読んだのであるが、その時にはそれほど引き込まれる事はなかった。
 何事も、出会いとか、チャンスとかは、本人の意識の問題が重要であるが、40才になり、何気なく本棚の奥から取り出して読み返したときに、「これは!!」ピンとくるがあり、興味を持った。
 2年前には感じなかったのに、不思議なものである。これが「天の時」というのであろうか。
 今から2500年以上も昔の書物に、自分が悩み苦しんできた「営業」という仕事に対する解決策がズバリと書いてある。
「これはすごい!!」と、おもわず引き込まれてしまった。
「孫子」と書いてある書籍をさがして買いあさり、何度も読みふけってしまった次第である。
 企業の冷たさ、きびしさは、実感してきたものであり、その立場で「孫子」を読むと、一流の「営業論」「経営論」「組織論」になるような気がした。これは研究する価値があるのでないかと考えたのである。

*****自分流の孫子*****

 ただ、感じた事であるが、「原典」が、難しいけれども一番、すばらしいと思う。どんどん文字間に世界が広がり、想像が膨らみ、たった一行の文章でうなってしまう。
 また、後で知ったことであるが、原文には乱丁もおおく、後の加筆もあるようなので、「あれっ」と思うような記述もあるし同じことの繰り返しのような記述もある。
 いろんな方が、その解説を書いているが、それぞれ解釈が多少異なっており、自分の感覚にぴったりこないのである。「ここは、ちょっと違うのではないか。こんな風に解釈ができないか。」と考えてしまうのである。
     ・・・・ ・・
 そして、自分流の「孫子」を書いたらどうなるか。

 現代社会の第一線の一兵卒であった私が、私自身が生きてきた経験や感性を基にして、「孫子の兵法」を書くとすればどの様な孫子になるかと考えた。
ただし自分流の解釈であるから、自分自身のつたない経験に基づいており、また、そこには私自身の「宗教感」、「人生観」があると考えるので、他の「先生」には納得できない論もあると考える。「これは、孫子ではない。そんな解釈はおかしい。」とのご批判は覚悟の上である。しかし、読者それぞれの自分流の「孫子」があってもよいのではないだろうか。営業現場の第一線で苦労している人には、必ず共感していただけるものと確信している。