Short Column

過去のブログより

密教と超能力について

2011/12/04~ 記をもとに、再編集。

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密教にはまる 

 若いころ、真言宗のお寺によく遊びに行っていた関係で、真言密教の勉強をしたことがありました。よくわからないまま、仕事が忙しくなり、必要なくなっていったのでしょう。本棚に古い書籍は何冊かありますが、ただの飾りとなっていました。
 ふと、その本を見つけ、読んでみました。当時はわからなかったことが、なんとなく理解できるような気がして、再度読み直してみようと思ったわけです。

 密教とは、「秘密の教え」です。語るものではなくて体感するものと言われていますので、説明は難しいかもしれませんね。
 若いころは、この秘密という言葉と、超能力を得ることができるというような感覚で、とらえていたように思います。 「自分は普通の人間ではない、特別な人間なんだ」という自己の存在承認を得るために勉強しました。何もできない自分、自信のない自分を変えたいという思いもありました。
 そして、30年ぶりに本を手に取りました。60歳ごろの話です。
 ある仏教系の新興宗教の教祖さん(結構有名な方)が書かれた本なのですが、その怪しさといいますか、笑ってしまうほど幼稚な理論だったり、あちこちから都合のいい理論だけをくっつけていたり、そうとういい加減な本でした。(私の個人的見解です。)

 スピリチュアルの世界と同じように、本当に怪しげで危ない世界です。だから面白いのですから、私も懲りないですね。 ヨガとも通じるところがあります。というより、ヨガの考え方を適当に?付け加えています。

 これから述べたいと思っているのは、今から40年も前、1972年に書かれた本「密教、超能力の秘密」という本の話です。実は、父が購入したもので、ところどころに赤線が引いてあります。私と同じように、父も「怪しげなもの」が好きだったんですね。


気学は当たらない?

 父は、鉄工所を経営する傍ら、「気学」に興味をもちまして、生命学やら四柱推命やら姓名学やらとやたら本を買い集め読んでいました。
 奈良の東大寺で僧侶の資格?をとったり、日本神社庁の顧問として、神主さんに気学を教えていたりしていました。変わった父親でした。
 家にそれらの本があるものですから、何気なく私も読んでいました。
 父は40年近くそれらの学問?を勉強してきて、次の言葉が印象に残っています。

「おとうさん、気学とは当たるとね?」
「40年近くいろいろと勉強してきたが、よくわからん。当たらん。勉強?やめとけ。」

 この父の言葉で、興味をすっかり失ってしまいました。気学を勉強しても何も分からないということは、気学という学問自体がいい加減という意味なのです。そう言いつつも、方位学など、風水の考え方は、正しいと言っていました。
 「80%程度は、確実にわかるし当てることができる。しかし、どうしても例外的な事象が起こる。これが解らない。これを研究してきたが、どうしても解らない。」

 印鑑の吉凶「印相」なんていうのは、甲府の印鑑屋さんが大正時代ごろ考え出したもので、まったくのでたらめと言っていました。姓名の画数による姓名判断などは、旧仮名づかいなどで変わるから、これもよくわからない。ただ言霊、言葉の持つ響き、音は大切だとも言っていました。


 実は、同じように、宗教もよくわからないというのが真理なのです。その解らないものを、いろいろな視点からわかろうと無駄な努力をしているのが宗教家というのかもしれませんね。
 この「よくわからない」というのを前提に、密教を考えてみようと思っています。

密教の基本知識 

 コピペになりますが、密教についての基本知識をまとめておきます。

 ネット辞書によりますと、「密教とは、秘密仏教の略称であり、「秘密の教え」を意味するともされる。密教徒の用語では「金剛乗」(vajray?na、ヴァジラヤーナ)ともいう。これは、大乗(mah?y?na)、小乗(h?nay?na)と対比した表現である。あるいは真言乗(mantray?na、マントラヤーナ)とも言う。」と書かれてありました。


 一般の大乗仏教(顕教)が民衆に向かい広く教義を言葉や文字で説くに対し、密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する点に特徴があります。
 「秘密の教え」という意味の表現が用いられる理由としては、顕教が全ての信者に開かれているのに対して、灌頂の儀式を受けた者以外には示してはならないとされた点で「秘密の教え」だともされ、また、言語では表現できない仏の悟り、それ自体を伝えるもので、凡夫の理解を超えているという点で「秘密の教え」だからだとも言います。

 師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい、教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶の如し(瓶から瓶へ水を漏らさず移しかえたようだ)」といいます。
 インド密教を継承したチベット仏教がかつて「ラマ教」と俗称されたのは、師資相承における「師(ラマ)」に絶対的に帰依する特徴を捉えたものです。
 これらとは異なり、密教の「密」とは、顕に対する密ではなく、ソグド語で「日、太陽」を意味する「ミール」(Mir)を漢字で「密、蜜」と音訳した物とする説もあります。
 密教は一般に仏教のひとつだとされています。

「密教の伝来」

 日本に密教が初めて紹介されたのは、唐から帰国した最澄(伝教大師)によります。当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教(念仏)に関心を寄せていました。しかし、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していた訳ではありませんでした。
よって、本格的に紹介されることになるのは、唐における密教の拠点であった青龍寺において密教を本格的に修学した空海(弘法大師)が、806年に日本に帰国して本格的に日本に紹介されてからです。
 あるいは空海に後れをとるまいと唐に留学し密教を学んだ円行、円仁(慈覚大師)、恵運、円珍(智証大師)、宗叡らの活躍も挙げられることもあります。

≪余談≫
 いわゆる仏教とは全く違う、世界観を持った『科学的な理論』というのが最初に感じた感想です。
 曼荼羅を見ていますと、その宇宙は、次元の違う世界が重なり合っている現実の世界そのもののように思えてきます。
 密教が密教である理由は、伝える相手の霊的レベルが一定のレベルに上がらないと理解できないからなのです。言語では表現できない仏の悟り、それ自体を伝えるもので、凡夫の理解を超えているという点で「秘密の教え」だからだともいいます。
 同じように、相手の考え、心を理解しようとすると、その時の相手の感情の状態に「共感できるかどうか」が問題となります。

密教の原点 

 真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、深いつながりがありますが、、密教即真言宗、真言宗即密教というものではありません。
 真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を独自の形に体系化し、組織化したものであって、密教そのものではないのです。

 密教の一つの体系ではあるけれど、密教そのものではない。

 それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を、日本密教の祖空海が、独自の見解と叡智によって、一つの体系に作り上げたということなのです。

 同じように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、これもまた一つの流れです。
 そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても一度、密教の原点に立ち戻って考えてみなけれればなりません。

 密教は、最初、ひとつの手法(技術)でした。けっして、最初から密教という一つの宗教があったわけではありません。
 ゴータマ・ブッダが現れて、仏教というあたらしい教えを説き始めるはるか以前、バラモンの時代から、インドには、人に超能力を与える一つの手法がありました。
 そういう手法が完成されて、一部の人たちの間に伝えられていました。それは、精神と肉体のきびしい錬摩から得られる神秘的な力で、彼らは、それを一つの技術にまで作り上げました。ヨガはその一つの流れです。
 この超能力を開発する技法は、仏教が現れる以前においてはバラモンに取り入れられ、仏教が現れると、仏教もまたこれを取り入れました。

 ゴータマ・ブッダは彼自身、この手法を学んで、これにより超能力をもったが、弟子たちにはこれを学ぶことを禁じました。
 なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれらはすぐにそれがブッダの言う「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行の妨げになるからでした。ただし、一部の素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許したそうです。

 古代インドの「ヒトの心と体に想像を絶する飛躍と昇華を与える技術を紹介します。「こころの統制と自在力」、つまり超能力を開発する方法です。


四神足 

 ゴータマ・ブッダは、仏道を完全に成就するためには超自然的な力が必要であるとし、その訓練法を説いています。 「四神足」または「四如意足」といわれる超能力開発法です。

菩提を成就するためには、単に知性や理性を磨くだけでは不十分だと考え、知性や理性の限界を打ち破る力が必要であると考えたのです。そのために、三十七種の技法から成り立つ行法をつくりあげました。

「四神足」というのは、その中心となる技術で、神通、如意を得るための定を四種類の手法に分けて説明しています。

欲神足――願望、理想、想像のためのトレーニング
勤神足――身体と心のトレーニング
心神足――潜在意識のトレーニング
観神足――深層意識のトレーニング

 このシステムは、一部の弟子たちの間に伝えられ、のちに大乗仏教が行き詰った時に、これを打破するために、大乗仏教の中に取り入れられ体系化されました。
 つまり、密教は二つの面をもっています。一つは、超能力の開発技術、一つは、大乗仏教の教義、この二つです。この二つのものが結ばれることにより、大乗仏教よりさらに高度な教義が完成されて「金剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生しました。これが密教です。

1.欲如意足(欲神足)
 すぐれた瞑想を得ようと欲求し、意識を集中統一する。欲(志向思念、意志力)を修習して、欲求に対して意識を集中統一し、志向し続ける。欲求(志向)に集中統一して得られた心の静止状態は、欲三摩地という。

2.精進如意足(精進神足)
 すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。為すべきことを実行して(四正断)、精進に対して意識を集中統一し、実行し続ける。努力に集中統一して得られた心の静止状態は、勤三摩地という。

3.心如意足(心神足)
 すぐれた瞑想を得ようと心(思索)に集中し、意識を集中統一する。心(思索)の想像に対して意識を集中統一し、想像し続ける。心(思索)に集中統一して得られた心の静止状態は、心三摩地という。

4.観如意足(観神足)
 すぐれた瞑想を得ようと、深められた洞察力をもって観察に集中し、意識を集中統一する。思惟観察や自覚に対して意識を集中統一し、観察自覚し続ける。観(観察力・自覚)に集中統一して得られた心の静止状態は、観三摩地という。


秘密仏教の行法 

 大乗仏教には教えだけがあり、技術はありません。行き詰るのは当然で、金剛大乗、真言密教が生まれました。これには五つの能力開発技術があります。

①第四次元の理解
②複雑な全体をとっさに把握する能力
③第六感の獲得
④無限に発達した道徳意識
⑤とくにわれわれの悟性には不可解な精神的特質

 これらすべてが、大乗仏教に取り入れられたわけではなく、指導者は、この技術を信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れました。
 一般的でないと思われるものは捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけ伝えられ、あるいは変形されました。
 こうして、秘密仏教という新しい教義と体系が完成しましたが、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容させられてしまいました。あるいは、形骸だけがとどめられました。これが、秘密仏教の「行法」でした。

 これを究極的に完成させたのが、日本密教、すなわち真言宗の開祖、空海です。当時、秘密仏教は、また完全には出来上がっていませんでした。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る真言宗という形にまとめ上げ、整然たる宗教にしたのが空海です。それは大天才のみが成し遂げることのできる偉業でしたが、同時にあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまいました。

 それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげに隠れ「法」は様式化された宗教儀式になってしまったのです。そうしなければ宗教として存立することができなかったのですが、やむをえない事で、「法」では真の能力開発は困難です。
 その原点に戻り「法」を技術としてシステム化しなければなりません。そして誰でも学べる体系を編成することができれば・・・。それは「法」の解体ではなく、法が生きることになると思うのです。

≪感想≫
 このあたりから、真言宗から逸脱している著者の姿勢が明らかになってきました。真言宗やヨガからいろいろな知識をとりだして、独自に宗教を構築しようとする意志が感じられます。(40年前の本です。)

求聞持聡明法 

 集中力は訓練することができます。
 宗教上の目的を追求する間に、インドの多くの宗派は、持続的な鍛練を通じて集中力を極度に発達させる方法を何世紀も前から知っていました。また、数えきれないぐらいの本が書かれています。これらが注目を集めないのは、この集中力の訓練が宗教的な儀式としておこなわれ、神秘的な儀式に結びついた超自然的な技術とみなされるからです。
 現代の教育、ものを教え込み覚えさせることで知能を高めるという方法がとられますが、これには重大な欠点があります。ものを覚える能力の低い人には通用しません。
 もっと根本的に、知能の根源、知能発生の場そのものに直接働きかけてその能力を高めるという技術はないか。つまり、頭を良くするために勉強するのではなくて、頭を良くしてから勉強する技術です。この技術が密教の中にあります。

「求聞持聡明法(くもんじそうめいほう)」です。

 ひとたび修得するや、目はカメラになり、耳はテープレコーダに変化して、ひとたび目にし、ひとたび耳にしたことは永久に忘れなくなる技術です。単なる記憶術ではありません。脳のメカニズムを一変してしまう恐るべき技術です。もの覚えが良くなるだけで、よい仕事ができるはずはありませんし業績を残すこともできません。多量の情報を活用して、いかに新しい知識を生み出すかということです。

 知能とは記憶と創造です。この二つの働きを開発するシステムが求聞持聡明法です。

≪余談≫
 弘法大師空海は、19才の時 室戸岬の波打ち際の洞窟(御厨人窟みくろど)で「虚空蔵求聞持法」を修しました。
 岬から1キロほど離れた海岸に、「御厨人窟 (みくろど) 」という海食洞穴があります。 この洞穴にこもり、虚空蔵菩薩への祈りを唱え続けていた真魚の口に、ある日突然“光り”が飛び込みました。
 その瞬間、世界のすべてが輝いて見えたらしいのです。
 洞穴から見える外の風景は、「空」と「海」だけでしたが、その二つが、今までと全く違って、光り輝いて見えました。そのときから、真魚は「空海」を名乗るようになりました。
 「光り」が入ったときに、空海は“悟った”のでした。求聞持法を会得し、無限の智恵を手に入れたのです。
 求聞持法会得に至るまで、空海は四国のけわしい山々で修行をするのですが、このとき修行したといわれるところが、「四国八十八ヶ所」のお寺になりました。
 精神のコントロールによって集中力を高める技術が、神秘的な儀式と結びついているために注目されませんでした。
≪求聞持聡明法をネットで調べると、怪しげなサイトで数多くの説明がされています。この記事もその一つですが・・・。≫


システムとしての求聞持聡明法 

 求聞持聡明法とは、真言密教によって編成された法です。仏教の一派であり、すべての法は宗教的儀式、宗教的様式のもとに編成されます。もともと知能開発の技術があり、それを秘密仏教が取り入れられて、秘密仏教の中の知能開発法として編成され、求聞持法と命名されました。
 技術が儀式化され様式化されたため「目的と手段の混乱」が生じました。
 宗教的儀式のなかに、秘められた技術を摂取することのできる才能と力量をもつ指導者があるうちは混乱は避けられましたが、ひとたび断絶すると、その断層は決定的なものになりました。技術は見失われ意味不明なものになり、それはかえって宗教的には不純なものとみなされ、取り外されて、後に儀式と様式のみが残ったのです。

 印を結んで、真言を唱える、それを何万回も繰り返す。これらの様式だけが残りました。



求聞持聡明法の真実 

 大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見える。目の前のやや上方、2メートルから3メートルのところに浮かんで見える。その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させると、冷たい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目の中でまばたく。
 それが、ちょうど明星そっくりに見える。
 ある特殊なトレーニングにより、この部位の刺激が、目の中に光を浮かばせるのである。
 目をある角度に向けると、目をあけていても閉じていても、ぽっかりと光が浮かんでいるように見える。この光が見えるようになると、記憶の座が自由に操れるようになるばかりではなく、さまざまな、奇跡としか思えぬような力がついてくる。
 著者は、自分が初めてこの秘密をつかんだと言っています。
「これは生化学と生理学をもとにした技術であり、正しい指導者のもとに訓練を積めば、必ず誰でもできるようになる技術である。」と言っています。
「正しい指導者」というのがポイントで、オーム真理教の麻原彰晃のような狂人が、実際にこれを利用しました。
 実際に麻原は、この新興宗教教団にいたことがあります。

≪感想≫
 このように具体的な数字をあげると、いかにも本当らしく見えますね。これが、空海が体感したものと同じなのかどうかよくわかりませんが、誰でも出来ますよと言われると、頭のいい人ほどその気になるかもしれませんね。

 天才、空海が、密教の危険な部分を封印し、単なる宗教儀式として役に立つ部分だけを利用しようとしたのは、正しい選択であったと思います。いつの時代も、この道からはみ出して、鬼っ子のような悪さをする輩が出現しているという歴史的事実があります。

 1995年の地下鉄サリン事件は、日本初の本格的なテロ事件でした。その教義によく出てくるのが、ヨガの専門用語です。
 エリートと言われる人が、社会から疎外され、カルト化していくという衝撃は、いまだにその謎が解明されていません。以前、社会心理学の面から考察したことがありますが、変身願望のようなものが、その原因の一つだと思っています。
 このヨガによる技術、超能力を身につける技法というものを信じ込み、実践するうちに人格が破壊され、あのようなカルト集団になっていったのではないかと思っています。

軍茶利明王の秘密 

 筆者は密教の本質は、ヨガからきていると言います。
 最近は単なる健康法として人気がありますが、その根本には、このような超能力開発の技術という側面があります。とくに「クンダリニー・ヨガ」は大変危険なものです。
 グンダリ二―・ヨガでは、「そのクンダリニーは、普段は尾てい骨付近のムラーダーラチャクラに眠っているが、修行によって活性化し始め、最終的には頭頂のサハスラーラを押し開け解脱に至る。」と説明されています

 この「グンダリ二―」は、蛇にたとえられます。これが眠っているということは、ヒトが持つ「獣性」だと私は思います。
 尾てい骨の先には、サルからヒトの進化過程で無くなった「尻尾」がありました。骨は少し残っています。「霊性」が宿ることで、サルがヒトに進化したと考えていますが、まだすこしの「獣性」がヒトの肉体に残っています。
 その「獣性」を修行によって活性化させるということは、「神性」を「獣性」によって破壊しようとすることかもしれません。ムラダーラ・チャクラの性的なエネルギーは、「獣性」のエネルギーです。ヒトを野獣に「進化?」させ、野獣が持つテレパシーや運動能力を高めようというのが、グンダリ二―・ヨガの目的なのかもしれない。
 異常な性欲を持ったり、発狂したりしてしまうのは当然のことです。そうなる修行をしているのですから。


 真言密教の軍荼利明王とは、グンダリ二―そのもので蛇の形をして、背柱の下部に眠っています。
 この用王の真言は「オン アミリテイ ウン ハッタ( Aum Amrte Hum Phat)」「オン キリキリ バサラ ウン ハッタ ( Aum Kili-Kili Hum Phat)」邦訳すれば、「オーム、甘露尊よ 浄めて下さい、砕いて下さい。」という意味。

≪追記:オームとは、バラモン教をはじめとするインドの諸宗教において神聖視される呪文。聖音。仏教の経典『守護国界主陀羅尼経』では「a」は法身、「u」は報身、「m」は応身の三身を象徴し、すべての仏たちはこの聖音を観想する事によって成仏すると説かれる。≫

 真言密教において、法をおこない加持をするとき、いかなる修法、行法でも、はじめにかならずこの明王を念じこの真言をとなえます。これを「加持香水」といいます。
 煩悩、垢穢を除去したまう尊であるとし、この二つの真言を「去垢の真言」といいます。煩悩をとり去り、心身の垢、けがれをいっさいとりはらう明王ということです。

 その行法は、護身法を修したあと、念珠を左手にとり、右手に小三古の印をむすんで念珠にあて、檀上の水器に向けて二十一遍上下します。このとき真言のいずれかをとなえ、明王を心に念じる。
 これは、グンダリ二―を呼びさますというものですが、様式化され単なる型になってしまっています。

「この尊は三部弁事明王なれば、甘露軍荼利、金剛軍荼利、蓮華軍荼利の三部各別、三身の軍荼利あり。甘露軍荼利は虚空蔵菩薩の所変、蓮華軍荼利は観世音菩薩の所変の説あれば、金剛軍荼利はおのずから金剛手菩薩の所変と称するを得べし」

   グンダリ二―と求聞持聡明法の本尊である虚空蔵菩薩との関係を暗示しています。グンダリ二―の覚醒によって、求聞持聡明法の開発はおこなわれ、その開発がそのままグンダリ二―の覚醒につながるのです。


明星の秘密 

弘法大師空海は、19才の時 室戸岬の波打ち際の洞窟(御厨人窟みくろど)で「虚空蔵求聞持法」を修しました。この洞穴にこもり、虚空蔵菩薩への祈りを唱え続けていた真魚(空海)の口に、ある日突然“光り”が飛び込みました。明星が飛び込んだという口伝ですが、著者が言うには、この明星とは、現実の明星ではないというのです。
 著者は、求聞持聡明法、三度目の修法の時、明星の秘密を発見したというのです。以下、ドキメンタリー風になります。


 それはほぼ百日目、私の法のシステムでいって百度目のトレーニングのときであった。
 真言宗に伝わる求聞持法の九種の印明、それに古代ヨガに伝わる特殊な呼吸法、古代ヨガの秘法から私が創案した特殊な手印とポーズ、この三つのトレーニングで、私の体と大脳皮質と脳髄は、微妙な変化をおこしつつあることが感じられていた。
 チャクラの開発も順調に進んでいた。
 機が熟しつつあることを、私の第六感は感じていた。
 夜明けーー。
 まどろんだ様な感じであった。しかし、ねむりではなかった。しびれの感覚であった。
 かるい失心、めまいに似ていた。没我の一瞬であった。
 その刹那、
 「ああっ!」と私は苦痛の叫びをあげていた。

 脳髄の一角に電流がながされた感覚が走った。落雷があったと感じた。目の前を紫電が走った。次の瞬間、眼前でフラッシュがたかれたように、私の視野は真っ暗になった。失明!という考えがもチラリと脳裏をよぎった。と、そのときであった。
 頭の内奥、深部に、ポッカリとあかりがともったのだ。そして、それは、私の脈拍とおなじリズムで、しずかに、しずかにまたたきはじめた。
 ちょうど、この修法をはじめる数十日前、山にこもって見つめたあのときの暁けの明星のように――
それは冷たく、黄ばんだ白さでまたたいた。
「そうか、これが明星だったのか!」

≪著者は幼少のころ剣道をしていたそうです。面をとられたとき、目からバッと火が出て、プ―ンときな臭いにおいを嗅いだ。本当に火が出る。この感覚は剣道の経験者ならば誰でも経験している。≫

 その火なのだ。そのとき私の視野をかすめた閃光は―――。
「目がら火が出る」ほどのこの衝撃は、いったいどうしたというのであろうか?
 外部から私の頭部を打ったものはない。すると私の内部でなにごとかがおこったというのであろうか。それとも何かの錯覚であったのか?

 私は再び一定のポーズをとり、頭をある角度からある角度にしずかに移しつつ特殊な呼吸法をおこなって、定にはいっていった。と、なんの予告も感覚もなしに、さっきと同じ場所に火を感ずるのである。同時に、頭の頭部にある音響が聞こえはじめた。
 私はまたさっきの電撃に似た痛覚を頭の一角に感じるのかとひそかにおそれつつ少々「おっかなびっくり」にそれをやったのであったが、今度は全然痛みもなにも感じなかった。そうして頭の内奥の上部に「明星」が再びまたたいた。



視床下部の異変 

 まさに――、私の脳の内部に一大異変が生じているのは間違いなかった。
 しかし、それはどういう異変であろうか?
 それは、一種の化学反応によるショックであったのだ。

 脳の深奥「視床下部」に異変が起きたのである。すべての秘密は視床下部にあった。ここが秘密の原点だったのである。
 私が先に内分泌腺の機構を説明したのは。これを知ってほしいためであった。

 ここが、ヨガでいうプラーマ・ランドラ(梵の座)であり、サハスララ・チャクラなのである。
 視床下部は、下垂体系を通じて全内分泌器官を統御する。それではなにをもって統御するかというと、それはもちろん「神経」である。したがって視床下部には重要な神経がたくさん集まっている。
 私は古代ヨガの中から、この部分を動かすポーズとムドラ―を創案してここに強い力圧をくわえ、同時に、強烈な思念(念力)を集中していた。
 百日の間、たえまなく、私はここに、物質的、精神的、両面にわたる強いエネルギーを集中した。
 その結果――、ここの神経線維に一大異変が生じたのだ。
 その異変により、神経線維が異常分泌をおこしたのか、それともそこにある分泌液、神経液に変化が起きたのか、そのいずれかはわからぬが、それらの分泌液が複雑に混合しあって、化学反応を起こしたのだ。
 あの火は、その化学反応による衝撃が、視床の神経をはげしく打って、網膜に閃光を走らせたのだ。
 その衝撃はここの神経線維にシナプスをむすび、その火はいつでも私の思うまま私の脳の内奥に明星をまたたかせることになった。
 同時に私の脳の構造も一変した。
 求聞持聡明法の成就である。
 求聞持聡明法とは、脳の内部の化学反応による脳組織の変革であったのだ。

≪本では、生理学的な視床下部の説明がされていますが、割愛します。≫

 視床下部の機能を生理学的にみてみると、「目の異常」と「人格の変化」が注目される。精神的症状という病的変化と「人格の変化」とは、次元が違う。
「人格の変化」は必ずしも病的なものとは限らない。

 人格が変化する場所――、「変身の部位」であることを生理学も認めているのである。
 密教は、サハスララ・チャクラとしてこれを用い、人格の変化に利用するのである。

 密教は、「絶対の健康」「超人的記憶力」「グンダリ二―覚醒の原動力」という超人への転換の場としてこれを用いる。

≪余談≫
 空海は、密教と出会う前に体験しています。
 著者の体験は、事実だろうと思うし。彼の直観は正しいかもと思うのですが、それと空海が体験したことが本当に事実であったのかどうか、どうしても疑ってしまう私がいます。

 この本が書かれた後、40年後だから客観的にみることができるのかもしれません。当時、この本を読んだ父にとっては、新しい知識と考えに感動したのかもしれません。

 教団、出版社、食品販売、占いやカウンセリング。この本を書いた当初のころの求道の志とはちがった活動をしてきています。その教義の変化もしています。○○学会の名誉会長と同じように、名誉学位が大好きです。お金で買っています。
 そこまで知った上で、この本の中にある?「真理の部分」を見つけてみたいと思い、本を読み始めました。もう少し我慢してみます。



グンダリ二―の覚醒 

 あかあかとひときわ高く燃え上がる火焔に蘇油をそそごうと、檀上の大杓に手をさしのべた途端、私は、背中に、力いっぱいの鉄のかたまりでも、たたきつけられたような衝撃を感じて、声もなく、うしろにのぞけった。
 つぎの瞬間、私は虚空をつかんで登高座から転げ落ちていた。
 息つく暇もなく苦痛がたてつづけに襲い、私は胸をかきむしり、身をよじり、息も絶え絶えにあえぎにあえいだ。
 一体何事が起きたのか、考えるいとまもなく、私の全身はうち震え、わななき、崩れた。
 全身の血管は膨張し、苦痛に大きくみひらかれた瞳は血を噴いて飛び出すのかと思われ、息が詰まってあえぐ私は、ささくれだった堂内の板敷きを腹這いつつ拳で乱打し、私の拳は血にまみれた。
「食中毒」
 しかし、私はこの山奥の堂にこもったこの三日間、断食を続けていた。
「誰かに毒を盛られたのか?」
「仏罰か?」
 のどと胸をかきむしりながら、頭の中をきれぎれに声にならない言葉が走った。

 深夜の護摩行、定にはいり、護摩の火を凝視しつつ、チャクラのトレーニングをしていた。
 定にはいると、自然に手指が動き、あたらしい朱印がつぎつぎと生まれ、いうなれば「ムドラ―三昧」に入っていた。
 その夜、新しいムドラ―が生まれていた。パドラ―・ムドラ―(と今は名づけられている)を組んだ瞬間、例の「明星」が、ふっと護摩の火の上に浮かんだ。それが、いつもと違って、常のようにまたたかず、静止したまま、しだいに明るさを増しつつ大きくなっていく。
 ついにそれは、手のひら大になった。
 次の瞬間、それは静かに回転しはじめた。ゆっくりと、同じテンポ、変わらぬリズムでそれは回る。頭の中ではなく、明白に護摩の火の真上の空間である。

 頭の角度を変えると消えるが、目を閉じて、閉じたまま眼球をある角度に向けると、ふたたび明星は目の中に生ずる。その時、高く積んでいた壇木が焼け落ち、ひときわ高く火が燃え上がった。
 蘇油をそそごうとして、檀上の大杓に手をさしのべたとき、私は背中に鉄の塊を力いっぱいたたきつけられたような衝撃を感じて、うしろにのぞけり倒れた。
 じーんと強い電流が背骨を走った。
 次の瞬間、全身に悪寒が走り、投資するぞと思った瞬間、今度は腹の底からカッと熱くなった。
 交互にこれが数回起こった。
 ふと、閃いて叫んだ。
「グンダリ二―だ。グンダリ二―の覚醒だ。」

 その後、私は苦痛に身を任せ、喘ぎながら耐えた。身をよじりつつ制止を待った。それはおよそ、二時間ほど続いた。
 夜が明け始め、すべてが終わり我に返った私は、ふっーと大きくため息をついた。
 夢のような出来事のように感じたが、いまだかつてない爽快感。
 私は生まれ変わっていた。
 私の内なる何かが目覚めていた。すべてのものが明るく輝き、光が流れていた。

 私の耳は、地球の発する巨大な轟音を聞いた。
 その一瞬、私は時間も空間も超えていた。

 ―――これが、私のグンダリ二―覚醒の瞬間であった。

宗教とは、結局、「まず信じるかどうか」ですね。疑い出すと、きりがありません。


 私(筆者)の場合、密教からヨガに入っていった。
 まず、「求聞持聡明法」の修行から始めたのだが、様式化された真言宗の修法では何の変革も与えられず絶望した。 身を転じ、古代ヨガに入って行った。結果として、それがそのままヨガの奥義、グンダリ二―の覚醒に繋がっていたのである。
 ヨガの「行法」に欠けたものを埋めるものが真言密教にあった。たとえば、サハスララ・チャクラの開発技術に求聞持法の九種の印明がある効果を発揮する。真言密教の九種の印明は、ヨガの技術といっしょになって、大脳皮質の開発に非常に良い働きをする。
 同様に、軍荼利明王の五種の印明と観想が、グンダリ二―覚醒に大変重要な効果を発揮する。
 このことは、ヨガの修行者、指導者の誰も知らず、真言密教の修行者、指導者の誰も知らなかった。数千年来、この橋はかけられぬまま、誰も渡るものがいなかったのである。私は、この体験をもとに、古代ヨガの技術を真言密教に取り入れて、独自の宗教システムをつくりあげた。

≪余談≫
 二十代の始め、キリスト教学の先生と論争したことがありました。
 東洋的な倫理観とどうしても合わない部分があるということで、論戦を挑み、結局疑問の行きつく先は、「キリストの復活」という奇跡でした。
 この奇跡を信じているのが。キリスト教徒なのです。これを信じることができなければ、信仰は生まれないということがわかりました。
 これを、私はどうしても信じることができないということで、論争は終わりました。

≪福音書の記述をみても、イエス・キリストの復活した場面を目撃した者は誰も記されていない。遺体がなく空になった墓の記述と、イエス・キリストが復活した後、多くの弟子に現れたことが記されているのみである。≫

まとめとして 

このドキメンタリー?の後も、チャクラや超能力の説明が続きますが、「オーム心理教」のエリートたちは、これを信じて修行して、・・・。


 私の父が40年前に購入し、読んで赤線までつけていた書物、本棚の隅にあったこの本を見つけ、読み進めてきました。なぜ、こんなものに父が興味を持ったのか、残念です。
 肝心な部分については、なかなか先に進まず、いろいろな文献を切り貼りしたような本でした。この著者は、自分の学識に劣等感を持っているような気がします。
 チャクラというヨガの考え方、カルマ・ヨーガと出あったことは、いい体験になりました。この点については、この本に感謝しています。
 心理学やスピリチュアルについて学んできて、霊的な存在と「気」という波動の関係もなんとなくわかりつつある現在。ヨガという視点から、道を眺めてみると、全体の形がぼんやりとでも見えるかもしれないと感じています。必然的な流れだったのかもしれません。
 この私の考え方も、ある人に言わせれば、「偏った思考。 自分だけの狭い世界からの意見」です。

 客観という言葉の中に、主観が隠されています。もっともらしい言葉の中に、思惑みたいなよこしまな考えが隠れています。今回紹介した、この本の中にある「怪しさ」を感じていただけたでしょうか。どんなに素晴らしい言葉を使っても、どんなに権威のある化学的な論文を書いていても、その裏には、著者の願望や意見が隠れています。ほとんどすべての本には、その著者の心が書かれています。その波動が、美しいかどうか、それがわかるようになりました。

密教の知識

 密教に関連した面白い考え方の紹介です。

インドラネット

「帝釈天」という神様、フーテンの寅さんで有名ですが、調べてみると面白い神様です。
 帝釈天は、密教の守護神である神様の一人で、サンスクリット語で「インドラ」といわれます。
「本来のインドラ神は、阿修羅とも戦闘したという武勇の神であったが、仏教に取り入れられ、成道前から釈迦を助け、またその説法を聴聞したことで、梵天と並んで仏教の二大護法善神となった。」と書かれていました。
 帝釈天のお話は華厳経にも詳しく描かれていますが、私が面白いと思ったのは、帝網(たいもう=インドラネット)という言葉です。
≪羅網(らいもう)と書かれてある記事もありました。≫
 帝釈天の世界には帝網(インドラネット)という網が世界中に張り巡らされています。その結び目はすべてを照らし映している水晶の宝珠でできています。それが帝釈天の世界に住む人々の心なのです。この心がとなりの網の結び目の心に話しかけると、水晶の宝珠は鈴に変化し次々に鈴が現われ帝釈天の世界はいつも妙なる交響曲を奏でています。仏教では「空」といいますが、すべての人の心は繋がっています。一つの変化が、すべてに伝わる世界。

 これって、「イントラネット→インターネット」と似ていませんか?

 一人が情報を発信すれば、一瞬にして世界中の無数の人に伝わる、まさに一即多の世界です。そして個々の無数の意見が交わされ、それらがいくえにも重なり反映し、新たな思想を誘発し、社会全体も自己も変貌していきます。それが、須弥山(しゅみせん)の頂上に住むという帝釈天の宮殿の大広間に張りめぐらされているのです。
 この世界が、インターネットという技術で実現しているのが、現在です。今まで世界とは違う世界、人類がかつて経験したことがない世界が、現に生まれつつあります。ひょっとしたら、密教は、このことを予言していたのかもしれません。
 この密教の世界観、一体誰が考えたのでしょう。曼荼羅といいます。聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表したものです。有名なのは、両界曼荼羅といわれるもので、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅があります。調べてみました。

曼荼羅

 いろいろな曼荼羅がありますが、大宇宙の生命の神である大日如来、その大日如来を中心として無限に生命が産まれる。様々な生の諸相、それが曼荼羅の世界です。単なる絵画ではなく、いろいろなイメージが浮かんでは消え、万華鏡のような感覚を覚えます。
 ある海外の有名なエンジニアの方が曼荼羅を見たとき、その図形がコンピューターに使われる集積回路と酷似していると言ってとても驚いていたそうです。
 密教に対して、密教以外の仏教を「顕教(けんぎょう)」 といいますが、密教は秘密の教えで、顕教は顕(あらわ)になった教えです。つまり、顕教は修行をつんで仏になる教えであり、密教はいきなり仏になって、そのまま、仏になって生きるための教えといえます。

 密教にとって仏とは大宇宙そのものです。一切を包みこんだ大宇宙そのものを仏と称しています。その大宇宙の仏の名が「大日如来」です。
 宇宙のすべてのものは、大日如来の普遍のいのちの現象で有り、さとりの世界から物質の世界まで、すべてのものが、この「いのち」を共有して、尽きることなく交流し、自由自在に融けあい通じあっているのです。

≪あるサイトに、次のようなことが書かれていました。真偽はともかく、おもしろいなと思いましたので紹介します。≫

 大日如来の言葉は、人間の言葉ではなく、宇宙の真理は宇宙語でなくては表現できない。――宇宙語?
 特殊な修行によってその言葉をマスタ-せねばなりません。お釈迦さまがその通訳として、我々人間に宇宙の真理を理解可能になるように教えてくれるのが「顕教」です。
 その意味で本来、大日如来の教えは、一般大衆には秘密であり、密教が秘密仏教といわれる所以です。


≪こんな風に密教を説明したものは、はじめて見ました。≫
 
 言語では表現できない仏の悟り、それ自体を伝えるもので、凡夫の理解を超えているという点で「秘密の教え」だからだとも、別の本には書かれていました。

≪ここで、私の独断と妄想。秘密にすることで、教えを守るという考え方。カルト的な教団、秘密結社のやり方と似ています。組織を守るために、その教え自体を秘密にするやり方です。≫

 こんな風に考えてしまう私は、不敬だといわれるかもしれませんが、その曼荼羅の絵を眺めていると、ものすごく合理的であり、理論的で、宇宙の構造、真理を説明している科学的な設計図のようにも感じています。

胎蔵界曼荼羅

中央に陣取っている「中台八葉院」の中心に大日如来が描かれています。そのまわりには四如来と四菩薩が配置されています。

 東(上・発心) 宝幢(ほうどう)如来
 南(右・修行) 開敷華王(かいふけおう)如来
 西(下・菩提) 無量寿(むりょうじゅ)如来
 北(左・涅槃) 天鼓雷音(てんくらいおん)如来

 南東(右上・浄菩提心) 普賢(ふげん)菩薩
 南西(右下・智慧) 文殊(もんじゅ)菩薩
 北西(左下・菩提) 観自在(かんじざい)菩薩
 北東(左上・涅槃) 弥勒(みろく)菩薩

 また四隅には宝瓶(ほうびょう)が置かれています。

 胎蔵曼荼羅の大日如来の真言はナウマク・サマンダ・ボダナン・アビラウンケン で、種子はアークです。
アビラウンケンの5文字自体が、五大を表し、ア=地、ビ=水、ラ=火、ウン=風、ケン=空です。また種子のアークには 発心(ア)、修行(アー)、菩提(アン)、涅槃(アク)という4つの文字が隠れています。
≪種子(しゅじ)とは密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。≫

金剛界曼荼羅

 金剛界曼荼羅の中央部には成身会があり、そこの中央に大日如来が描かれています。
 胎蔵曼荼羅との最も大きな違いは結んでいる印で、胎蔵曼荼羅では禅定印だったのが、金剛界曼荼羅では智拳印になっています。金剛界のほうが精神性が高いというわれるひとつの象徴にもなっています。

 金剛界曼荼羅の大日如来の真言はオン・バザラ・ダド・バン。種子はバンです。これはギリシャ神話の古い神「パン」にも通じ、宇宙のビッグバンが発生した音の象徴でもあります。卒塔婆の裏面にこの種子が書かれることもありますがこの文字から大日如来が生まれ、大悲水となって全ての煩悩を洗い流してくれることを祈るものです。

 成身会の大日如来のまわりにも四如来が見られます。 
  東(下)阿?(あしゅく)如来
  南(左)宝生(ほうしょう)如来
  西(上)阿弥陀(あみだ)如来
  北(右)不空成就(ふくうじょうじゅ)如来

  真言は下記の通りです。
  阿シュク オン・アキショウ・ビヤ・ウン
  宝生   オン・アラ・タンナウ・サンババ・タラク
  阿弥陀  オン・アミリタ・テイゼイ・カラ・ウン
  不空成就 オン・アボキャ・シッデイ・アク
 密教の「密」とは、顕に対する密ではなく、ソグド語で「日、太陽」を意味する「ミール」(Mir)を漢字で「密、蜜」と音訳した物とする説もあります。
 太陽を「大日如来」という概念で表わしています。大日とは「偉大な輝くもの」を意味し、元は太陽の光照のことで、のちに宇宙の根本の仏の呼称となりました。
「別名、毘盧遮那(びるしゃな)如来で奈良の大仏のことです。」という説明をみたのですが、調べてみるとその通りでした。

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