Short Column

過去のブログより

魂について考える

2011/02/17~2011/04/08 記

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我欲とは恐ろしいもの 

 突然ですが、我欲とは恐ろしいものです。カウンセリングの現場で実感していることなのですが、相談者の悩みの根底に「我良し」の感情、自分のことだけしか考えていない人が非常に多いです。
 心を病んでいる人の多くは、この我欲が原因だと断定してもよいと思います。
 「他人を守りたいとか、人のために役に立ちたいという思いやりの心を持つことができれば、あなたの悩みは無くなります」と言いたいのですが、我慢してじっと聞いています。
 症状がひどくなるにつれて、その人の声は、ネトッとした下品な感じにかわり、気持ち悪くなります。段々と「人の神性」が魔物に喰いつくされて、人間が爬虫類に退化するようなイメージです。目つきも悪くなり、表情も無くなってきます。

サギなどで捕まった人の顔を見ると、よくわかります。人間の顔ではありません。
 その人の神性は、顔に現れます。たとえば、皇后陛下のお顔などは、紫色の高貴なオーラで包まれていますね。初詣の皇居参拝のニュースを見ていて感じました。

 ここまでくるとどうしようもありませんから、できるだけ近づかない、関わらないようにしています。そんな人のカウンセリングをした後は、自分の精神状態を元に戻すまでに時間がかかります。本人は無意識なのですが、ガンガンとマイナスのエネルギーをぶつけてきます。
 人を選ぶことができませんから、仕方ないのですが大変な仕事です。
 最近は、適当にバリアを張ることができるようになりました。顔の表情を作り、心の鏡を見せるようなイメージで、対応しています。
 これはどなたでも使えるテクニックなのですが、自分に我欲がなければ、恐いことはありません。心が透き通っていれば、そのマイナスのエネルギーは反射することもなく通り抜けてしまいます。そしてブーメランのように相談者に返ります。 相談者の感情がそのまま返ることになりますから、本人は話せなくなってしまいます。なぜか居づらくなり、そそくさと相談者のほうから話しをうち切ります。
 まだ魂が幼いだけで、気づくことができれば変わるような相談者の場合には、感謝の大切さを話すようにしています。温かな微笑みで包みこみ、相談者を安心させることから始めます。
 甘えたいのです。魂が幼いがため、我欲をコントロールすることができませんし、すぐに膨らんだりしぼんだり安定していません。
 年齢は関係ないのですが、三十代の男性に多いように感じます。最近は、このタイプが増えてきました。

我欲を祓う

「全ての苦しみの根源には我欲がある」というのが、真理です。この我欲が多いか少ないかで、その人の人格とか霊格を評価すると解りやすいです。
 ただ、我欲が強い人は、パワフルで怪しげな魅力があるのも事実ですから、近づきたくなるのですが、結果はマイナスになる場合が多いです。

 若い頃の自分を考えると実感できます。苦しみや辛さの原因であり、自分の心や肉体だけでなく、周りの人間をも巻き込んで、苦しみを与えていたのだと思います。その結果、いろいろな困難が発生し、ますます苦しくなっていったのです。
 全てを無くし、「感謝」という気持ちが芽生えました。人生で初めて、気づいたのです。この「感謝という祓い」によって、心の汚れを少しずつ祓う事が出来てから、生活が好転し、今に至っているように感じます。

 年を取っていくと、罪・穢れの大元である「我欲」が少なくなるはずなのですが、今は逆に年を取れば取るほど我欲が出て、ガンコジジイ、ガンコババアになっている人が多いですね。笑
 そして、そんな人のほうが長生きしているような気がします。「苦しむために生きている」ようにも見えます。それでも生きたいのですから、それはそれでよいのかもしれません。
 しかし、これは神の摂理に反することです。若いときは肉体の力が強く、体力があるから、自分の我欲で生きようとします。それでしかたないのですが、それをなくすために、わざわざ自然の摂理は人間の体力を衰えさせています。
 すると我欲のみで生きることができなくなり、いろいろな摂理を考えるようになる。罪・穢れを祓う事を考えるようになる。これが普通であり、つまりそれが年を取るということです。
 ですから、人生というのは祓いそのものなのです。

 罪・穢れとは、そもそも我欲のことで、これを"祓う"ことは我欲を捨て感謝の生活をすることだったのです。

 人間を肉体と霊体にわけて考えていますが、この存在を「魂」と呼ぶこともあります。ただ、そう呼べば、「前世」とか「永遠」といようなイメージが憑いてきて、よりわからなくなりそうなので、いままで「魂」と言いませんでした。


人格と霊格 

 ところで、霊格とは何でしょうか。
 私が使っているこの「霊格」という考え方の基本には、次のようなイメージがあります。
 光の波動と同じように、一番波長が高いのが、神界。
 それから波長が段々と荒くなり、霊界、幽界、魔界、人間界というように、無数に次元が分かれているというイメージです。スピリチュアルや、仏教の世界観などに基づいています。
 そして「人間とは、肉体をまとった霊」という考え方が私の基本にあります。

 生物が光を求めて行動し、植物が光を求めて成長するように、人間もより高い次元の世界へ進みたいという本質的な欲求を持っていて、それぞれの人間には「霊的な段階=霊格の違い」があるという考え方です。

 よく考えてみますと、科学的な根拠はありません。

 これに対して「人格」という考え方は、まだ一般的で理解しやすいです。しかし、「人間性・人間としての在り方」と辞書には載っていますが、よく考えるとこれも曖昧ですね。
 どんな在り方が良いのか。何か理想的な概念が存在し、それに近ければ人格が高い、その理想像からと受ければ人格が低いなどと評価するのでしょうか。
 「人間として成長する」ということの意味を、「人間の本質は霊」という前提に立てば、「人格が上がる」と「霊格が上がる」はイコールになります。

 しかし、霊格というと怪しくなりますね。

 私は次のように考えています。
 人間は、物質的な「肉体」とエネルギー体としての「霊体」に分かれ、その「霊体」の核として、宇宙の摂理とか大霊とか「サムシンググレート」と言われる存在と繋がっています。私は、自分という肉体の中に在る神を「内在神」と言っています。
 この内在神は神の分霊であり、神そのものだと思っています。そして、自分という存在の本質です。
 ところが、物質的な肉体の内部に「霊体」を閉じ込めたものだから、いろいろな幣害が出てきました。肉体は有限であり、常に変化し続けます。その過程で、いろいろな汚れがついてしまうのです。

 私たちの肉体が生存していく上でどうしても避けられないものが、汚れです。
 たとえば、水蒸気が水になり、雨となって、川を流れていくといろいろな汚れがついてきます。元の水が変化したわけではないのです。ただ物理的な存在に変化した時から、いろいろな汚れがついてくるのです。

つみ・けがれ

 これを日本の神道では、「つみ・けがれ」といいます。
 罪・穢れと言いますが、「つみ」というのは体を「包む身」という意味です。

「つみ」というのは泥棒をしたとか、そういうことではないのです。ああいう当て字を書くからわからなくなります。
「つみ」という日本語は、神さまからの体、「霊体」を包んで隠してしまうということです。
「けがれ」というのは、穢れという字を書いていますが、汚いというのではなくて「気枯れ」です。
 我々を生かしてくれる神さまの気、「霊体の中心に在る内在神」を枯らしてしまうものが、「けがれ」なのです。
 そういうもろもろが体についてしまったために、もともとのすばらしい姿が見えなくなった状態が、病気であると考えるわけです。
 どんな泥水でも、水は変わっていません。泥が混ざっただけだから、泥を取ったらまた澄んだ水が出てくる。こういう考え方をします。
 人間の体も水と同じで、どんな病気が来ようと、もともとは神と同じ、すばらしい体であり、それに罪・穢れという異物がくっついているだけなのだから、それを消せばもとの体が出てくると考える。
 私ば、それが正しいと思います。

 それで、神道では「祓い」という行為を行います。その汚れを払うことによって、元のすばらしい体に戻すという考え方です。この祓いというのはすごいもので、世界で日本人だけが考えたものです。
 なぜ、その汚れがついてしまうのでしょうか。
 その原因は、すべて「我(が)」です。罪・穢は全部「我」によっておこってくるのです。我欲があるから、いわゆる病気になったり、いろいろ悩み、悲しみが出てきます。だから、我欲を祓いなさいというのが「祓い」ということです。
 人生とは、祓いの連続ですね。

「汚れ」を払いながら人は生きていく。人生はこの繰り返しです。
 人格とか霊格とかの話をしましたが、つまり霊格が上がるとは、その汚れが少なくなり、神に近づくということだと思えば、理解しやすくなりますね。


魂が汚される 

 もちろん、これらの概念は科学的に証明できるものではありません。どれだけ考えても、わからないというのがわかります。しかし、感じることができるのです。
 その前提となるのが「私」という存在です。
「私」という存在がどのようなものなのかはよくわかりませんが、存在そのものは否定できません。「私」がなければ、生もないし死もないし、社会も自然も宇宙も存在しないからです。
 そして、この「私」とは物体ではありません。
 たとえば、けがをして腕を無くしても、「私」という存在は変わりません。では、何なのか、哲学という学問は、これを考え続けています。

 この「私」を『魂』と考えると、なんとなく理解しやすくなります。宗教的な価値観によって捉えるからでしょうか。
「私」の中心に在る「私の本質」が「魂」という概念だと私は考えます。
「私」とは脳であるというような科学的な考えもありますが、その脳とは何かもよくわかっていませんし、私は違うと思います、ではなく感じます。
 人間は無意識のうちに「自分の魂」というと、自分の胸の辺りを指差すからです。頭を指差すことは一人もいません。

もちろん考え続けることは大切なことであり、前提なのですが、考えるよりも感じることのほうがより早くて、正確で正しいと思っています。それを理解したうえで、人は考えるべきだと思っています。

「私」という存在が、どのあたりに在るのか、感じているからだと思います。
 人は、「私」という存在は尊くて大切なものだと感じているので、「自分の魂が汚された」などと怒ります。この怒りは、その人の本質的な怒りであり、一番大切な価値観、倫理観などを意味します。この場合、相手を殺すというような行為を犯しますし、その行為は正当化されます。

 宗教とは「魂」に対して直接働きかけ、「私」を汚してしまうので恐ろしいと思っています。

 「私」の肉体が消滅しても、「魂」という存在は生き続けるという考え方が、全ての宗教の考え方です。

 そう考えないと、宗教の前提が壊れてしまうからです。人間という存在が、科学的に合理的に分析でき「自我」をコントロールすることができれば、悩みとか迷いとかは存在できなくなり、宗教も必要とされません。


 その魂とは、「自分という存在の本質」ですから、「自分は生き続ける」ということになります。正確にいうと、肉体という物体は無くなりますが、魂は永遠に生き続けるということです。しかし、その魂とは、「自分そのもの」ではなく、「自分という本質のみ」であり、「我」という「自分の個性」は、肉体の消滅と同時に無くなりはじめます。
 仏教的な考え方をすれば、すぐに無くなるのではなくて、49日間程度の時間をかけて少しずつ、昇華していくと考えます。 それを成仏といいます。
「我」が強すぎると、それは因縁として残り、その汚れを浄化するために、また現世に生まれ変わることになります。魂という「自分の本質」に、現世で生きていくうちに、因縁とは別のいろいろな汚れがつき、「自我」が形成されていく。その「自分の本質」を汚すのは、自分の行為だけでなく、周りの環境、人、そして「前世」で体験して、まだ残っている、いろいろな穢れみたいなものです。
 その汚れが憑いたり、その穢れを祓ったりすることは、肉体という物体を持つ現世でしかできません。他の魂と関わり、その魂に共感したり同化することで、「我」は変化することができます。魂とは、個として存在しているのではなく、全体と繋がっており、その一部だからです。

 命とは、水のような存在であり、水は交われば、それはそれで1つの水です。もちろん、いろいろな水を混ぜれば、それぞれのヨゴレも混ざり合いますが・・・。

 つまり、ある目的を持って、私たちは生まれてきたのです。
 その目的とは、罪・穢れを祓って「自分の本質」を磨き、神の分霊としての「自分の本質」により近づくこと。私は「霊的成長」と言っています。


魂とは何か 

 ひとりの人間を構成するものは、「肉体と精神と魂」という言い回しがあり、なるほどと思ったことがあります。その人を他の人ではなく、その人たらしめているところの「そのもの」、それが「魂」というものなのか。
 それは「私」ではなく、「心」でもなく、「魂」という言い方をします。
「これが自分の心です」というより、「これが自分の魂です」という方が、より強い表現になりますし、なんとなく納得できます。自分という存在の根本に在るもの、それが魂です。
 先に私は、「ひとりの人間には肉体と霊体が在る」と言いました。その霊体の中心に「内在神」が存在していると言いました。
 神というと、絶対無二のものであり、純粋なものというイメージがありますが、「魂」というと、その人固有の性格みたいなものも含まれるようにも感じます。

 そこで、だんだんわからなくなってきます。
 そして、魂というと、輪廻の思想と関連してきます。『生まれ変わり』という考え方です。

 皆さんは自分の「前世」に興味ありますか、それを知ってどうなるのでしょうか。今、現世を生きている「私」は、「前世」の「私」ではありませんし、知ることでそれにとらわれるという弊害もあります。『魂』というとそのような怪しげなイメージを抱くこと自体が幣害ですかね。
 一人ひとりの魂は、この宇宙、自然を構成している大切なエネルギー体の一部であり、生命という奇蹟そのものなのです。これは、私の個人的な解釈です。

魂を解釈、分析する

 魂を論理的思考によって理解しようとすること自体が無理なのかもしれません。
 たとえば、凶悪な事件を起こした犯人、「一体なぜなのか」と考えるけれど、腑に落ちない。
 社会学者は社会が悪いというし、教育学者は教育が悪いと言います。
 心理学者は性格形成や幼い頃からの成育歴を言い、あれは脳の病気だと指摘する脳科学者もいます。
 つまり、どの説にも共通しているのは、その犯人を理解できると思っていることです。そう思っているからこそ、自分の説によって解釈しようとしているのです。
 この解釈や分析というのは、自分の知っている理屈によって、自分の知らない対象を解釈、分析することなわけで、そのことによって、自分の知らないことを知ったことになると、普通、人は思うわけです。しかし、そもそも自分の知らないことを、自分の知っている理屈によって知って、はたして本当に知ったことになるのでしょうか。
 その時知ったのは、自分の理屈による自分の知り方だけであり、自分の知らない対象そのものではないのではないのか。こんなふうに考えだすと、自分の解釈の限界というものを感じます。
 もともと別次元の存在で、理解不能なものを、この次元の論理で解釈、分析しようとすることが不可能なのです。

 しかし、なぜか知りたいと感じる。
 あるかないかわからない存在を・・・、なぜなのか。
 在ると感じるからです。
 自分の内部に在る「魂」が在ると言っていると感じるからです。

 この感覚は、うまく説明できません。
 そして、この前提で、この世の中の出来事を理解した方が、「合理的」に解釈、分析できるからです。

 また、ここでわからなくなってしまいました。

同じ人間ではない人間

 他人を「同じ人間」だと思って理解しようとするから、逆に理解できなくなります。自分と同じ人間の形をしているから「同じ人間」だと思って話すと、チンプンカンプンな会話になる場合があります。

 病気なのかとも思いますが、人間とは思われないような目つき、オーラを持った人をカウンセリングの現場で、たまに目にします。 そんな時は雰囲気ですぐわかりますから、無意識に身構えてしまいます。こちらの言葉を全く聞きいれませんし、会話がかみ合いません。下手にアドバイスするようなら、逆に追及されます。それなりに対応しますが、二度と来られません。

 それは、当たり前で、私は「別の世界に住む別種の魂」だと思うことにしています。そう考えれば理解しやすくなります。
 どう考えても、この世界の人間ではないと思われるような人が、何食わぬ顔で普通人に交じって生活しています。街角などで、観察すると面白いです。わたしは暇な時、時々遊んでいます。 スターウォーズの場面のように、地球人とは思えないような「いろいろな宇宙人」が歩いています。
「人間の形をしていて目の前にいるこれ、これはいったい何なんだ」そういう印象を受ける人がいるのです。 どう考えても理解できません。
 魂という概念を、「この宇宙、自然を構成している大切なエネルギー体の一部であり、生命という奇蹟そのもの」であると述べましたが、その宇宙、自然は1つではなく、別の宇宙も在ると考えれば、納得できます。ひょっとすると、一人ひとりの魂のなかに、それぞれの宇宙が存在しているのかもしれません。そして、それぞれ別の「魂たち」を全包括するような性質の「魂」が在るだろうと想像してしまいます。
 これが「神」という概念に近くなります。

 魂について考えることは難しいですね。

遺伝子は魂なのか

 生命の設計図と言われる遺伝子というものがあります。たった四つの元素で構成され、全ての生命体が同じような構造を持つものです。
 遺伝子はDNAが複製されることによって次世代へと受け継がれます。
「生まれつきこういう性格」とか、「親そっくり」などと言われるのは、この遺伝子によると言われています。この遺伝子を操作することができれば「同じ人間」を作り出すことができます。
 その時の、それぞれの人の「魂」は、全く同じ魂ということになるのだろうか?
 クローンと言われる技術ですが、それぞれの肉体をもつ1つの生命になったとたん、別の環境によって影響を受けるのか、全く同じ生命として存在することはあり得ません。
 これは、1つの生命の内部には1つの宇宙が存在するからなのか?
 機械的なロボットの場合は、全く同じ機能と性格を持ちます。当然です。声明ではないのですから。
 何がちがうのか。「魂」があるかないか、その違いなのか?

 しつこいと言われるかもしれませんが、魂とはそれほど難しい概念なのです。

 遺伝子は、顕微鏡で見ることができる「物質」です。たしかに存在しています。そして物質ですから、質量もあります。

 では、「魂」も物質ではないだろうか?
 こう考えた人もいました。重さを量ろうとしたのです。今にも死にそうな人をはかりに乗せ、死んだ瞬間に「魂が抜けることによって」重さが変わるのではないかと考えたのです。実験自体が怪しげなもので、科学的には証明されませんでした。 その学者は、質量が変化したと言っていますが・・・。
 この存在が科学的に解明されれば、素晴らしいことですが、逆にどうでもよいような気もします。

 「魂」とい尊ぶべき価値があるものが存在し、その奇蹟の存在を大切にしようと思えばよい。それだけでよい。


≪話が少しずれます。≫


国魂という大切なもの 

 国魂(くにたま)とは、神道の観念の一つで、国(令制国)または国土そのものを神格化したもので、国霊とも書きます。古来、国を治めるのは為政者だけでなく、その土地に鎮座する神の力も働いて成就されると考えられていました。

 日本という国には、神道という独特の宗教があり、世界に類のない歴史があります。これは、一種の奇蹟です。戦前の悪い意味ではなく、まさに「神国」だと思っています。
 その理由の1つが、天皇制という世界に類がない不思議な制度を持ち、建国以来、他民族に侵略されることなく存在しているという奇蹟です。
 室町時代、盗賊が街々を荒していても、御所に盗みに入ることはありませんでした。平安時代は350年、江戸時代などは、250年間も内乱は無く平和が続きましたが、これは世界史で考えると、奇蹟です。
 多神教の国ですし、教義や経典がない神道と、外来の仏教が不思議と融合しています。これも不思議です。

 私たち日本人は、自分たちの魂の集合体として、国魂という存在を無意識のうちに信じていて、それに対する畏敬の念をもっているのではないかと思っています。

 日本という国の形が、「龍」の形をしています。火山帯というエネルギー体が、背骨であるとも感じるのです。


 この意識を「霊格が高い」という表現で以前説明しました。当然の共通認識ですから、西洋諸国のように、一神教的な教義は必要ありません。
 以前、「国家の品格」という本がありましたが、「国家の霊格」というテーマで本を書いたら面白いかもしれません。季節の変化、四季を持ち、豊かな自然と恵まれた環境、人の気持ちを思いやる文化、誠実な国民性、他の国と比べると、ありがたいなあと思います。
 この文化は、日本の最大の強みだと思いますし、この文化を世界に広めることが、私たち日本人に与えられた使命ではないかと考えるようになりました。>

≪またまた話が少しずれます。≫

鬼というものについて

 この世の中には、「人と思われないような人」も存在します。これは昔から、当たり前のように存在していました。 それが昔話に出てくる「鬼」です。悪い物、恐ろしい物、強い物を象徴する存在ですから、それを望む者にとっては、逆に魅力的なのかもしれません。
 怨霊の化身とも言われます。別の次元から現れ、人を向こう側の世界に拉致する悪魔です。
「おに」の語はおぬ(隠)が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味しました。そこから人の力を超えたものの意となり、後に、人に災いをもたらす伝説上の存在になりました。
 現代にも、人間のような姿をしていますが、鬼や魔物が街を歩いていると感じます。もちろん、独論です。

 もともとは普通の人間だったのですが、憎しみや嫉妬の念が満ちて人が鬼に変化する場合もあります。顔が全く違って見えます。

 『鬼』のような母親とか、いいますが、どうやら男性より女性のほうが変身しやすいようですかね。男性の場合は、元々から魔物の遺伝子を持って生まれてくるような気がします。


 普通の人間とは違う、人間の知識では理解できない存在を、私たちは『鬼』、「化け物」と言ったり「魔物」と言ったりします。当たり前?の価値観を破壊するのが、このような存在です。
 彼らは、苦しみや妬み、争いや破戒を好み、暗闇へ引きずり込むのが喜びです。私は「憑依」とか、「魂座を喰われる」という言い方をよくします。
 ニュースで時々聞く事件の中に、このように考えるしかない事件があります。そう考えないと、理解できないのです。
 憑依とは、悪い霊が取りついたり、狐憑きとしてって動物霊などか取りついたりする例です。本人が持つマイナスのエネルギー、恨みや妬みなどの波動が、憑依を呼び込みます。動物霊が憑依した場合は行動や容貌がその動物に似てくる場合もあります。これらの存在は、「霊的成長」は、自分たちの存在できる環境を悪くするものですから、隙を見つけて人を落し込めようとします。

魂の群れ 

 私たち人類の歴史、すなわち魂の群れの移動は、善の極と悪の極の間を大きく振れ、繰り返しながら、しかし、らせん状に上昇して、最終的には善を目指していると感じます。誰にも教えられたわけではなく、倫理感というものが存在し、何が善であるかということを理屈ではなく、人は知っているからです。
 善を善と知っていて、それを欲しないということはないはずだからです。
 善を善と知っていることが善、したがって努力するということであり、善を善と知らないことがすなわち悪、したがって堕落するということです。

いきなり難しい言い方になりますが、哲学的な思考というより、妄想ですかね。

 この世の中には、いろいろな人がいます。魂レベルで言うと、いろいろな魂が、存在しているということになります。
 その魂は、善を目指すのだけれど、そのレベルにはいろいろな段階があり、それを私は「霊格」と言っています。そして、善を目指す魂の群れだけでなく、堕落した魂や、堕落しようとする魂も存在しているという事実があります。そして、最近は堕落した魂のほうが多くなっていると感じているのですが、これが「末世」という事でしょうか。

 ところで、善とも悪とも無縁の『堕落した』というレベルとも違う不可思議な魂が、この世界に時々出現することがあります。「鬼畜」とか「悪魔」といわれるような魂で、私たちの世界に忽然と現れ、横断して衝突し、深い傷を与え、また忽然と姿を消します。
 いきなり他人を傷つけたり、小さな子供を殺す。「通り魔」事件の犯人などを見ていますと、そうとしか考えられないのです。
「善と悪との深淵を、自身を求めて永劫の時間さまよわなければならない魂」を見ると、私にはとても哀れに見えます。

 感謝という善のエネルギーを使い、意識することで、私たちの魂は、善の極に向かって上昇することができると思っています。「霊的成長」は人としての本能であり、善の善なるものですから、喜びや感謝にあふれ、楽しいはずです。

 突然ですが、売春をしている未成年に「なぜ好きな事をして悪いのか、お金ももらえるし・・・。」と問われれば、何と答えればよいのでしょう。
 本人の魂は、わかっているのです。何が善で何が悪か、知っているのですが、気づかないふりをしています。それで、変な理屈を振り回します。そんな幼い魂に、合理的な説明では納得させる言葉できません。
 私なら『あなたの魂が悲しんでいるから』と答えます。「その行為をしている時、あなたの魂は喜んでいますか。楽しいですか。」

堕落しようとする魂

 暴力などによって他人の肉体を傷つけることはできますが、他人の魂を傷つけることは難しいものです。先に自分の魂が傷ついていきます。

 自己の快楽のために、他人の魂を傷つけることも同じことです。買春する人も自分の魂を傷つけています。

 肉体と精神は繋がっていますから、他人の肉体を傷つければ、その精神も傷つきます。しかし、その中心に在る魂まで傷つけることはなかなか大変です。それで、ますます意固地になって、暴力がエスカレートしますが、自分の魂は、孤独という地獄に堕落してゆくことになります。
 また、自分の肉体を傷つけることで、自分の魂を傷つけようとする場合もあります。薬物などに頼る場合もあります。
 肉体的苦痛によって、精神的な緊張感や異常な興奮を感じる場合があり、その一時の「悪の誘惑」によって、魂は堕落していくことになります。
 妬みや恨みなどの悪のエネルギーも、らせん状に魂を堕落させていきます。
 堕落しようとする魂は、その原因やきっかけがあります。
 善を知らないか、善を感じる体験をしたことがないか、忘れているか。
「悪の誘惑」の強烈な魅力に負けるのか。
 どうやら、環境が影響を与えるのではないかと思っています。
 ひょっとしたら、私たちの魂は善を求めて、「霊的成長」をするのが本能だと述べましたが、その魂を破壊し、喰らおうとするウイルスのような存在もあるのかもしれません。

 自分の魂を喜ばせることを考えましょう。笑いとか微笑みとか感謝です。


脳死と人の死 

 自分は普通の意見を述べているつもりですが、人から見ると過激かもしれません。私の好きな哲学者「池田晶子」さんの著書に、次のようなエッセーがありました。要約して紹介します。

  良くわからないのが「脳死」という言葉です。「全脳機能が完全に失われた状態」という説明ですが、「死」とはどう違うのでしょうか。
 生命は維持されているが「脳」は死んでいる状態とは、はたして、「私」は生きているのか死んでいるのか?
 近年、臓器移植の現場で、取り上げられている概念ですが、どうも詭弁のように感じるのです。

『脳死は人の死』という場合の「人の」という表現、これは何か。
「脳死は死」と言わず、「人の死」と言おうとするのか。

おそらく、「脳死は死」と定義することによって必然的に生じる矛盾を回避するための意図的な詭弁である。もし、「脳死は死」と定義するなら、「死体から生きている臓器を取り出す」ことになる。しかし、臓器が生きているなら、それは死体ではなく生体である。生体から臓器を取り出すのはまずい。そこで「人の死」すなわち「人の生」とは「脳の生」と定義することで、「脳死体からならば生きている臓器を取り出してもよい」。

『脳死体』とはいったい何か。
 それは死体か生体か。
 この決定的かつ深刻な判断を下すことを回避するための、これは明らかな詭弁である。
 百歩譲って、「人の生」とは、「脳の生」と認めるとして、まそにその同じ理由によって、やがて臓器移植の必要はなくなるだろう。なぜなら、臓器が死んでも、水槽内で脳のみ生きているなら「人」のはずだからである。「脳の生」が「人の生」のはずだからである。
 決められないものを決めようとするから、決めたものが詭弁になるのは当たり前である。そして、「臓器移植する場合に限り、脳死は人の死」と法律で定義されました。つまり、同じ脳死の人でも、移植する人は死んでいて、移植しない人は死んでいないというわけなのです。
 これって無茶苦茶な論理ですよね。こんな当たり前のことに気づかない方がおかしいと思います。
 むりやりに作り上げた法律でいったい何がしたいのか。要するに、人を殺して臓器を取り出したいだけなのです。生肝が欲しいのです。

 臓器が欲しいのは、臓器を欲しがる人がいるからで、欲しがる人にあげるのは医療の役割であるという理屈は正しいのでしょうか。
 「なぜ、そんなに生きたいのでしょうか。」
 人の臓器をもらってまで生きたいと私は思わないので、この理屈が良くわかりません。ただ、生きることが目的ではなく、善く生きることが目的だからです。
   私は臓器を人にはあげません。しかし、私があげたいと思う人があれば、あげます。
 その要件は?
「生きるに値する美しい人格」を持っていることです。
 自分が生きるために人の死を願う人が、「美しい人格」をもっているとは思えません。

「人の役に立つなら」、善意の人はそう思っています。しかし、自分が生きるために人の死を願うような人が、『人の役に立つ』ようなことができるでしょうか。
 自分の子供か孫であれば、「愛」のためにあげるかもしれませんが、臓器売買や人からの寄付によって、臓器移植を受けたいと願うような人は、「生きるに値する美しい人格」者なのでしょうか。高い費用を出して、海外までいって臓器移植をうける人がいますが、アフリカなどの貧しい国では、治療も受けられずに死んでゆく子供たちがいます。
 自分の命だけが何よりも貴い。どうしても私の臓器をそんな人にあげる気持ちになりません。そして、最低限の契約ごととして、「他人の臓器をもらって生きた人は、文字自分が死ねば自分の臓器をすべてあげる」と決めるべきです。

 人生は、長く生きることが善なのではなくて、善く生きることだけが善なのです。
 そして、必ず人は死ぬのです。
 私は、ただ生きることだけに価値があるとは思っていません。病気のまま、寝たきりで生きることが、価値のある人生だとはどうしても思えないのです。
 死ぬまで、人のため、人に役に立つ生き方ができれば、価値のある人生だったと思うことができます。
 限られた、与えられた命を精いっぱい生きるだけで善いのではないでしょうか。

 自分の魂はかけがえのないものであり、他人の魂をもらって生きることで、自分の魂を汚したくないと、わたしは思います。美容整形やアンチエイジングのために薬を飲んだりすることも、程度の差はあれ、自分の魂を汚していると考えてしまいます。あるがままに生き、あるがままに死にたいと思っています。
 肉体が自然なら、病気も自然、自然を排除する社会は、それこそ不自然です。不自然に従って生きる人生が幸福だろうか。生きること自体が価値なのではなくて、善く生きることだけが価値だからです。

あるがままに生きる

 「私は自分が生きるために、悪い臓器を取り換えたいだけで、人の死を願っているのではない」と、言う人がいますが、人が死ななければ臓器が手に入らないのですから、それはうそです。そんな人は、『私』をどんなふうに考えているのでしょうか。その悪い臓器は「私」ではないのでしょうか。

 「人とは魂である」という考え方をすれば、人の魂を自分の魂に取り入れることになります。以前の魂と以後の魂は、別の魂になります。他人の魂が混ざるということは、ある水に、別の水が混ざるようなものだと考えています。つまり「私」はもとの「私」ではなく、「別の私」になることになります。


「脳」だけが「私」ならば、他人の体に、「私の脳」を移植して、生きることもできるようになるかもしれませんが、それは「私」なのでしょうか。SFの世界、脳だけが生体で、あとは機械の体で生きているなんてことができるかもしれません。
 悪い臓器も私ですから、私が私であるためには、それを受け入れて生きるだけでよいと私は思います。生きていくとき、事故で手や足を無くしても、その手や足がない自分を生きてゆくしかないのです。私は、医療すべてを否定するものではありません。
 この問題には、宗教的な価値観が関係してきますが、どこまでが医療行為として認められるかは、一定の基準を設けるべきだと思います。

 ネットなどで「魂」について調べると、いろいろな定義が書かれています。「心」と同義であったり、「意識と無意識を合わせたもの」とか・・・。
 現代の科学では、「わからない」し、手がつけられないというのが正解です。「心」とは何かもわかりませんし、聖書や仏典、あるいは偉大な思想家、宗教家の言葉に学ぶしかありません。


≪余談≫
 魂について考え続けています。

ぼくは幸せ
     宮﨑 涼
お家にいられれば幸せ
ごはんが食べられれば幸せ
空がきれいだと幸せ

みんなが
幸せと思わないことも
幸せに思えるから

ぼくのまわりには
幸せがいっぱいあるんだよ

 この言葉のすごさ、わかりますか。たまたま見た番組での、宮崎涼君の「笑顔の素晴らしさ」に圧倒されました。12歳で亡くなった魂の詩です。パソコンにこの詩を取り込み、時々眺めています。また拡大してコピーし、額に入れて居間に飾っています。
 ある社員研修の最後に、この詩を紹介しました。じっと眺めているだけで、いろいろな感情がわきあがり、「感動」というものがわかったような気がします。 いろいろなハウツーの研修よりも、この一言のほうが力があります。

 魂について考え続けています。
「人との出会いが人生を創る」といいます。言いかえれば、「魂と魂の出会い」とも言えるのではないでしょうか。これを意識して、人と接すると別の感情が生まれてきます。私は、「その人の魂」を見るように心がけています。

 思いつくままに述べているので、話がころころ変わります。

魂が強い人 

 魂とか、霊とかを信じない人には、次の2つのタイプがあります。

 1つは、強力な先祖の守護霊の加護があり、本人が健康であり魂が強い人。
 普通の霊や精霊は、本人に近寄れません。それで何も感じない。明るい人物に多いタイプです。本人は気付いていませんが、霊感も鋭く、人の心の中の想いを一瞬にして見抜きます。運命とか、考えることもないし必要も感じません。毎日明るく生活しています。物事を前向きに考えますから、明るいし魅力的です。

 霊的には、先祖の加護が強く、家族の絆も強く、霊線も大きい人です。

 私の近くにもいますが、私が霊的な話をしますと、「また始まった」といって聞こうとしません。逆に、すごいなと思ってしまいます。

 2つめは、愛情や思いやりが無い人です。
 感応力がありません。これでは魂や霊を信じられないし、感じることもありません。興味は無いのですが、逆に占いなどに頼る傾向があります。物欲が強く、自己中心的ですし、さびしそうな笑顔が特徴です。人にだまされやすい人です。

 霊的には、先祖に対する感謝の気持ちもなく、両親との関係が弱く、霊線が細っている人です。


 私のように魂とか、霊とかを信じている人にも次の二つのタイプがあります。

 1つは、魂の存在はありがたいと信じている人。自分という存在自体が奇蹟だと感じています。魂は大切なものであり、自分の良心(内在神)に従って生きたいと考えている人。

 霊的には、先祖の加護は強いのですが、なんらかのカルマを持ち、その浄化が現世での使命であり、霊線の繋がりは不安定な人です。


2つめは、魂とか霊とは、自分に災いをもたらすものだと信じている人。その災いから逃れるために、新興宗教などに救いを求め、教組に助けてもらっていると信じている人。

 霊的には、先祖の加護が弱く、カルマか強く、それに左右されやすい人です。霊線の繋がりも不安定な人です。

 私自身は、ご先祖に守られていると信じていますが、いろいろと複雑なカルマを抱えていることも自覚しています。その試練から学び、霊的な成長のためにすべきこと、何かわかりませんが、使命が与えられていると思っています。


心とは脳が機能して生じる

 最近は「脳科学」という学問が知られてきて、心を脳というハードで解析しようとしています。それによると、人間が自らの肉体を自在に操る仕組みが、脳からの指令という観点で、完全に説明できるそうです。

 もちろん、私は?です。皆さんは以下の考え方、どう思いますか。


① 「心」とは、存在するのではなく、脳が機能して生じる。
 脳科学では、「脳と心は、独立して働く」とする心身二元論ではなく、「心は、脳の働きから生まれる」とする心身一元論が大前提です。私たちが生きるためには、自分の置かれた環境(家庭・学校・会社・地域社会)に適応しなければなりません。そのためには、自分の置かれている状況を知る必要があります。私たちが置かれている状況を理解することで、喜・怒・哀・楽の感情やその環境に適応しようとする意志としての「こころ」が生じると考えます。

② 「体」で「心」を表現して、環境に適応させます。
脳は、生じた知・情・意としての「心」を「体」で表現(感情表現、言語表現、行動表現)して、人とコミュニケーションを図ることで「心」を環境に適応させます。「快」と情動評価した環境(状況)に対しては、喜びや楽しさの感情、積極的な意欲が生じて、安定した「精神活動」を営む。しかし、「不快」と情動評価した環境(状況)に対しては、悲しみや怒りの感情が生じ、その環境に適応しようとする意欲が失われ、「精神活動」が不安定になる。

③ 「不快」な環境に「心」を適応させるとは?
私たちが社会生活を営むためには、例え、「不快」な環境に置かれても、その環境に適応しなければなりません。脳は、「不快」な環境に適応しようとすると「不安」を生じさせます。その「不安」は、精神的危機を感じさせる環境への警戒信号であり、又、その環境に適応する方法を模索させるためのものです。しかし、環境から受ける「不快」な刺激が強すぎると、異常な脳の興奮によって<脳機能>が低下するので、思考力、集中力、注意力が低下します。
 そして、私たちの「心」は、「情動不安」(激怒・恐怖・不安)や、その反動による無力感に支配され、理性でコントロールできなくなります。こうして不安定な精神状態になると「精神疾患」が起こり、「心」を環境に適応させられなくなります。

 全て、脳というハードが、心というソフトを創りだしているという考え方ですが、逆のように感じます。心というソフトがハードである脳を物理的に動かしていると考えた方が自然だと思います。そして、そのソフトは誰が創ったものなのか?


 つまり、脳がなくなると心も無くなるのだから、脳死によって、心は死ぬ。このように考え、「脳死は人の死」という考え方になります。

大脳の働きと心の関係

 医学の分野などでは心というのは、頭の中にある脳という部分が担っている働きといわれています。人が何かの感情を心に抱いたり、感じたりするのは脳の中でおこなわれていることなのです。そして、脳の中でも特に、大脳と言われる部分が人が物事を深く考えたりするときや、言葉を話したりするときまた好き嫌いなどの好みを感じたりする時に働いているのです。
 文字などを記憶したり、複雑な計算をしたり、思考をするのは大脳の表面部分であるといわれています。感情などが起こるのは大脳のもっとも深い部分になります。脳のもっとも主要な部分といえます。
 大脳は左と右の半球で働きが大きく分かれており、それぞれの部分を脳梁(のうりょう)という部分で結んでいます。
 大脳の半球の表面には多くのしわやひだがあります。表層部分は大脳新皮質(だいのうしんひしつ)と言われる部分で覆われており、神経線維が多く通っている内部を大脳髄質と呼んでいます。
   補足しますと、終脳、間脳、中脳をあわせて、大脳と呼びます。終脳の表面は、灰白質の大脳皮質というもので覆われており神経繊維が多く通っている内部を前述の通り、大脳髄質と呼びます。
 大脳は、外的な環境に適応するための極めて高次な精神過程に関係しているといわれています。ですから、私達が普段、心で思っていると感じていることのほとんどは大脳の中の働きによってそう感じるということでしょう。
 何か心の中に変化が起こると、私達の体にも様々な変化が現れますが、それは大脳が外的な状況などに影響を受け、感情に変化を与え、それが肉体に変化を与えるからなのです。
 たとえば、悩みを持つと、お腹には何の異常もないのにお腹が痛くなってくるなどです。
 脳は心や感情だけではなくて、体の働きも調節している部分になりますから、脳は体の様々な部分と神経というもので繋がっており、人が生きていくための様々な働きを支えてくれているのです。

 医学的な説明としては正しいと思います。ここには、魂などという概念はありません。



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