Short Column

自分に気づく

心理学的な考察、心がけている言葉

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June 06, 2010


Colum No.1(自然と遊ぶ) 

 仕事の現場は、楽しいことも苦しいこともあります。苦しいこともぜんぶ含めて楽しむことができれば、すべてを受け入れる覚悟をすることができれば、気持ちが楽になります。

苦しむことを楽しむ。
 いい言葉だと思いませんか。以前、たまたま、テレビで見たある冒険家の言葉です。また、「自然に遊ばしてもらっている」ということもいっておられました。
 自然に逆らうから苦しいのであり、自然によって生かされている我々なのだから、自然の流れにまかせて逆らわずに、肩の力を抜いて生きてゆけば、楽しむことができます。苦しいことでさえ、楽しむことができるのです。
 その境地が、「自然と遊ぶ」ということです。
 他人の期待に応えようとする我欲が「自然と遊ぶ」という境地を忘れさせ、苦痛しか感じないようになってしまいます。
 この冒険家も、他人の重圧によって心を病い、自殺してしまったそうです。社会的な責任とか、成果を期待されるというようなプレッシャーは、想像以上に人の心を痛めつけるものです。
 その子供のような笑顔の素晴らしいこと。写真から、そのはにかんだような笑顔、子供のような純粋な波動がつたわってきました。
 自然が与えてくれる生きる苦しさや楽しさに、『遊ぶ』ことができた人が、自分で自分を追い詰めてしまい、苦しさだけを感じたのです。世間の大人のように、したたかにふるまうことができず、自分を責め自らの命を断ってしまわれました。

すべてを受け入れる
 安心感を持てない人に、上記の言葉を聴かせてみたいですね。どんな反応をするでしょうか。

 人生とは、自然というような考え方をすることが無理だ。すべてを受け入れるなんて、きれい事だ。変化することが最大の恐怖なのですから、楽しむなんてとてもそんなことはできない。

 こんな風に言われるかもしれません。自信のない自分、大嫌いな自分を「受け入れる」ということは、いやな自分を認めることですから、とても無理です。
 しかし、変化し続けるのが自然ですし、人間も常に変わり続けています。安心感なんて、持てないのが普通なのです。安心を求めているから、満たされないのであり、求めなければ何も必要ありません。
何も望まなければいいのです。逆らわずにすべてを受け入れましょう。そこにすべての安心感の元があります。

それができないから苦しんでいる。どうすればよいのか。

 人から、よい人だといわれたいために、今までどれだけ犠牲を払ってきたのでしょう。
 いやな自分。考えたことはありますか。
 自然な感情を我慢して、笑顔をつくり、人がどう思うかを考えて、答えを考える。つまらない自分。すべてを受け入れて、もっと自然に生きてみませんか。おい、自分よ?!

 いろいろな苦しみで、自分の時間を盗られるのは、残念だと思いませんか。その今を受け入れることができれば、前向きにその事実に立ち向かうことができますし、対策を考えればよいのですから、苦しむことから解放されます。
 苦しんでも解決しないのですから、考えればよいのです。その苦しみを乗り越えた時、その苦しみの意味を理解することができます。
「なぜ苦しんだのか」が理解できます。
 その理由を考えると、他人ではなく、原因が自分にあったのだと理解できます。そこで、成長することができたという満足感を得ることができるはずです。苦しみが深ければ深いほど、その喜びも大きくなるはずです。それを信じて、すべてを受け入れましょう。

信じたほうが、信じないより絶対に楽しいはずです。信じることができないと苦しいですから。信じることに根拠や理由は必要ありません。ただ、信じればよいのです。



Colum No.2(変化を楽しむ)

 常に変わり続けているのが、人であり社会であり自然です。それが当たり前の自然であり、時間の流れなのですが、それを理解していない人が多いです。いつ誰が作ったのかもわからない原理原則を守り、それを維持しようとすることで、その恐怖から戦っているように感じてしまいます。
 その背景を考えますと、原理原則などは、意外といいかげんなものであったりします。この変化に対する不安は、うつの傾向がある人にとって最大の恐怖です。

 仕事は何よりも大切なもので、自分の生活を犠牲にしても働くべきであると考え、月に100時間以上も残業し、体を壊して会社を辞めざるを得なくなる。
 自分がいなければ、プロジェクトが進まないと頑張って働いたが、体を壊し会社を休んでしまった。しかし、何の変わりもなく、プロジェクトは進んでるという事実に愕然とする。何が正しくて何が間違いかなどとは、よくわからないものなのです。

 話がそれますが、一番いいかげんなものが、「正義」という言葉だと思っています。幕末のころは「尊王攘夷」が正義であり、多くの志士が死にました。正義を振りかざす人を信用できません。
 またまた話がそれますが、一度作られた日本国の平和憲法を、絶対に変えてはいけないという主張は、一見素晴らしいようですが、世界の常識とはかけ離れています。
 時代の変化によって解釈は変えているのに、その言葉は絶対のものらしいのです。平和の概念も間違っています。単に戦争と戦争のあいだという意味であり、人類の歴史は、そのまま戦いの歴史です。これが常識です。
 だからこそ平和は尊いのであり、それを守りたいと思うのは当たり前なのですから、平和を望むのであれば、常に戦いの準備を怠ってはいけないのです。
 自分を守るという基本的な姿勢がなければ、他人も守れません。他人を守るという覚悟がなければ自分も守れません。
 人間の存在自体が、自然を破壊していますし、人間の存在自体が争いの原因です。
 人は他の命を食べて、生き続けています。他の命を奪わないと生命を維持できないのです。

 自然界の中にあって、動物である人間だけが特別の存在ではありません。

 変化を楽しむという心境は、自然の摂理に従うということです。与えられた命を、いかに使うかを問われていると考えれば、どうあがこうと死からは逃れないのであり、楽しむことしかできないのではないでしょうか。
 今を楽しむだけで良いのではないでしょうか。変化を楽しむことができたら、生きることはずいぶん楽になるはずです。

すべては必ず変化して行く
 人は生まれれば必ず死にます。これは否定しようのない事実です。
 今がどんなに苦しくても、これも変化してゆきます。必ず終わりが来ます。
 変わらないで、今の苦しみが永遠に続くと想像するから、その苦しみは恐怖となるのです。つまり、苦しみを創っているのは自分の想像力です。自分の間違った思い込みが、自分を苦しめています。
 では、なぜ間違った思い込みをしてしまうのか。自分の欲に囚われているからだと思います。成功したい、失敗したくない、人から良く思われたい、等。

 いま在る自分に感謝することができれば、生かされていることに感謝できれば、自然の流れにまかせて、すべてを受け入れることができるのではないでしょうか。
 逆に成功者と言われる人は、自分の実力で今の地位を築いたと考えていますから、自分が生かされているとは思い難いかもしれません。
 この世だけで消える成功が逆にハンディキャップとなり、自分の実力で生きている、自分が多くを生かしてあげていると錯覚をしがちです。この錯覚は、その成功の終わりを早めますし、ストレスによって自分の寿命にも影響するものです。成功している方ほど、自分が生かされている事への感謝が必要だと思います。

 いまが苦しい人も、いま成功していると感じている人も、すべては必ず変化して行くという事だけは、心の隅に置いてください。これだけを知っていれば十分です。いまが苦しくても、必ず耐えて行く事が出来ます。いまが楽しくても、うぬぼれたり傲慢になったりすることもありません。

 この世の物事は、良い事も悪い事もすべて消えて行きます。だから今が大切だと思います。そして、なにか他人の役に立つようなことができれば、最高です。これ以上の人生の成功者は、いないと思います。


Colum No.3(手を抜くな)

 自分の思い通りにならなかったことを反省してみると、一つのことに気がつきました。 自分自身の取り組む姿勢です。
 原因は準備不足であったり、仕事に対するなれであったり、「これぐらいで大丈夫だろう」と安易に考えていた時、事件は起こるようです。それから、相手に対する誠意を忘れた時も、事件が起こります。

 職業訓練という仕事をしていますが、テキストに書いていないことを説明していた時、生徒さんから不満の声が上がりました。
 「書かれていないから、よくわからない。資料がないから、なぜそうしなければならないかわからない」というようなことです。本音は、自分が授業のスピードについてゆけず、イライラされていたのだと思います。
「しまった」と心の中で思ったのですが、私の心の中に、生徒さんのレベルの低さに対して「どうせ・・・」というような気持ちがあったからだと思います。
 もともと、専門的な授業ですから、現場を知らない人が学ぶような内容ではないのですが、わからないのは教え方が悪いのです。ついつい、話す内容のレベルが高すぎてしまいます。
 知らない人に対して、教えるのが私の仕事なのですが、教える内容のスピードのことばかりを気にして、相手に対する思いやりが足らなかったからだと反省しました。
 その後、午前中は、教え方がギクシャクしてしまいました。

その生徒さんに対して文句を言うのは簡単ですが、余計な自分のエネルギーを使うことになります。何の効果も生みません。気持ちを入れ替えて、気にせずに進めることが大切です。

 ある方にデータのコピーを頼まれました。新しくパソコンを買ったので、古いパソコンにある会計ソフトのインストールと過去データのコピーをしてほしいとの依頼でした。
 簡単だとたかをくくり、してみると、テータベースエラーが出てうまくいきません。どうやら通常の揺り方ではダメで、特殊な処理が必要だったようです。結局、ソフトメーカーに問い合わせ、再度出なおしてやり直すことになってしまいました。
 これも、自分の心構えが原因です。 
「手を抜くな」 ← 内なる心からの声が聞こえました。
 いままで何度も同じようなミスをしてきたのを、ついつい忘れてしまっていました。きちんと最初に調べ、確認してから取り組めば、時間の無駄もなく、すぐに終わった仕事でした。 これも反省です。

 どのような簡単な仕事でも、きちんと基本的な事柄を確認し、誠意を持って取り組めば、思い通りに行くはずです。それが、自然の流れに従うことです。それかうまくいかない原因は、外にあるのではなく、自分の心の内にあるものなのです。

原因は自分にある

 目標を設定すると、どうしても人を評価してしまいます。できた人は良い、できなかった人は悪いと考えるようになります。そうすると、その評価が、講師である私の先入観になり、「あの人はダメな人だ」などと気がつかないうちに決めつけてしまうということになってしまいます。

 講師である私の感情は、相手にも伝わります。その内にある不満を、別の形で表現するのです。すべて原因は自分にあります。言葉では、わかっていたはずです。「自分の感情が相手に伝わり、自分に帰ってきます。」

 昨日の話ですが、生徒さんからのマイナスのエネルギーが「原因は自分にある」ということに気づき、落ち込んでしまいました。
 人生において起こるどのような事も、何かを気づかしてくれるために起こります。あとで「あのことがあったから・・・」というようになるまで、今をそのまま受け止めて、学ぶ必要があります。
 毎日が、自分に問いかけてきます。どのように受け止め、どのように考え、どのように行動するかを試しているのです。
 昨日は、まだまだ混乱していましたが、今朝になって、このような心境になることができました。毎日の生活の中に、いろいろな学びがあるなあと感じています。
 次の日、私の講座は、少し雰囲気が変わりました。講師である私の考え方が変わったからでしょう。すこし、やさしい講座になりました。余計なことを考えず、今に集中することで、わかりやすく楽しい講座になりました。生徒さんの顔つきを見ていればわかります。
 素直な目で見てみると、できないなりに、一生懸命講座に取り組んでおられます。その努力、姿勢が、昨日は見えていませんでした。
 原因は、自分にあったのです。



Colum No.4(今に集中する)

 現在、生きることに苦しんでおられる方がいます。本当に、今が苦しいのでしょうか。
キャリアコンサルタントとしてのカウンセリングの現場でよく体験します。
① 今の状況が、ずっと続くと考えてしまう。未来に対する絶望感。
逆に、もっと真剣に考えなさいというような方もおられます。
② 失敗をするのではないか?現状の幸せを失くしてしまうのではないかと言う恐怖感。
変化に対する恐怖感、昇進に対する不安で、会社を辞められた方もいました。
③済んでしまった過去に対する後悔。
 過去を引きずっている状態です。行動できない自分に対する言い訳です。

 このような相談が多いのです。つまり、今の自分を苦しめている問題とは、意外にも「現在の状況では無い」場合が多いのです。「今は何とか生きていますけど・・・」と言って、くどくどと同じようなことを訴えてこられます。
 今は存在していない苦しみを、自分で勝手に想像しているだけなのです。そして、この「甘え」を人に認めてもらいたいだけなのかもしれません。

 これは、動物には無い苦しみです。動物は、今、気持ちイイか、痛いかだけです。人間だけが、今は無い苦しみに苦しむことができます。不可思議ですね。
 苦しみが今だけなら、人は何とか耐えることができます。今現在、生きているのですから。この苦しさが、永遠に続くと思いこんでいるから苦しいのです。

  • 今日一日を生きよ
  •  明日のことを考えず、今日一日を何とか生きることに集中することができれば、明日は必ずやってきます。眠れない夜を過ごし、朝になると、新たなアイデアが浮かんでくることもありました。そして、偶然が二つ三つと重なって、人との出会いによって人生が良い方に変化してきました。
     仕事に行き詰まり、会社が倒産し、将来が全く見えなくなった時、このように自分に言い聞かせて乗り切ってきました。その時、実感しました。
    「なんとかなるもんだなあ」と。
     お金が払えないと断ると、待ってくれました。素直に謝り、自然の流れに身を任せてみると、周りが自分を助けてくれました。その時、生かされているということを実感したものです。


    Colum No.5(今何をすべきか)

    「どのような仕事をすればよいかわからない。」
     このような相談を受けることが度々あります。
    「現在は、派遣社員として製造現場のラインとして働いていますが、物覚えが悪く、仕事ものろいので、嫌がられます。今月いっぱいで派遣は終わりなのですが、どんな仕事をすればよいか・・・。」
     この方は、30歳の女性でした。
     専門学校卒業後、いままでまともに働いたことはなく、一、二年で転職を繰り返してきた方でした。一見しただけで、うつの症状であると解りましたので、傾聴を心がけ、カウンセリングをしましたが、決論など出るはずもありません。前日述べたような、将来に対する不安とか、現状に対する不満とか、過去に対する後悔の状態ではありません。まだ、悩まれておられるだけまともです。
     もっとレベルが低く、「考えない」状態です。

    この仕事をしていて、現場ではこのような人が多いという事実を実感しています。

     本音は、仕事が嫌いであり、働きたくないのです。「仕事」という概念もありません。

     仕事とは、他人のため会社のため社会のために役に立つという志を持って働くことです。自分のために働くのは、仕事ではありません。単なる労働です。
    「お金をもらうために働く」ことと「働いてお金をもらう」の違いです。今まで労働しかしたことのない人は、いつまでたっても仕事に就くことはできないと感じます。

     会社で、ダメな人だと言われ。迷惑をかけていることが辛いと言いますが、努力ということについては、自分のことだけで余裕がないと言われます。では、もっと楽な仕事をさがせばよいのではと問いかけますと、生活があり給与が高い方が良いと言います。楽な仕事はないかという相談なのですから、答えようがありません

     カウンセラーとしては失格です。まずは病気を治すことが先決です。以下のように言いたかったのですが、ニコッと笑い「また来てくださいね」と言ってカウンセリングを終わりました。
     根が深い「禁止令」を受けていますから、簡単に病気はなおりません。専門的な治療を受けても、時間がかかるように感じました。何もアドバイスはできませんでした。

    「今何をすべきか」と考えるのではなく、「今自分に何が求められているか」と考えてみる。
    「自分は何をしたいのか」ではなく、与えられた仕事を誠実に頑張ることで、何を求められているかがわかります。「ありがとう」と言われれば、喜んでもらえているわけで、仕事の価値とはそこにあります。
    文句を言われるということは、求められていることを十分にこなしていないということになりますから、仕事だとは認めてもらえません。どこが悪いのかを考え、自分で改善することを心がける。これができれば、労働が仕事に変わります。 企業はそのような人材を求めています。


    Colum No.6(やるかやらないか)

     できるかできないかではない。やるかやらないかです。できないからやらないのでなく、やりたくないからやらないというのが本音です。そこで「できません」と言い訳をします。

     わたしはそんなずるい人間が大嫌いなのですが、これは、能力があるくせに自分に自信を持てない人です。そして、能力はあるくせに努力しない人です。
     このような人のカウンセリングは、比較的簡単です。褒めることによって承認を与え、勇気づけることが必要です。やつてみればできるかもしれません。とにかく、やってみることが大切です。

     逆に、できないくせにやりたがる人もいます。たとえば、無理というより無謀なのですが、知識も経験もないくせに、ブランドのある企業の就職試験を受けたいという方がいます。

     これは能力がないくせに自分を過信している人です。人の意見を基本的に聞きませんから、このような人のカウンセリングは、難しいです。単に頭が悪いのか、性格が悪いのか。

     いずれにせよ、やってみればわかります。結果が全てです。
     ただ、始末が悪いのは、こりないのです。何度も同じ間違いを繰り返します。その原因は、自分にないと信じていますから、自分を認めてくれない相手を非難するようになってしまいます。

     行動しなければ結果は出ません。
     まずは、やってみる。
     そして、その後で考え、反省し、そしてまたやってみる。
     その繰り返ししか、自分を向上させることはできません。


     カウンセリングの現場にいますと、やらずに考える人がいかに多いか。
    「どうでしょうか・・・、大丈夫でしょうか・・・。」
     私にもわかりません。やってみるしかないのです。悩みのほとんどは、自分が創りだした想像です。自分で自分を苦しめているだけなのです。

     自分の悩みで他人を苦しめることはできません。自分の悩みの原因は、他人であっても、それによって自分は悩みますが、その原因である相手は気づいていませんし、気にもしていません。
     つまり、あなたを苦しめていると悩んでいません。
    悩むような人間ならば、あなたを苦しめません。あなたの苦しみが相手を変えることはできないのです。

     人はどれだけ無駄な時間をすごしているのでしょう。自分が創りだした想像で、自分の心と体を痛めつけ、だれが喜ぶのでしょう。自然の流れに身をまかせて逆らわずに、すべてを受け入れることができれば・・・。


    Colum No.7(自分と異なった人は嫌い)

     いろいろな人がいます。良いとか悪いとかではなく、いろいろな考え方で生きている。それが自然であり当たり前なのに、自分と同じような人は良い人で、自分と異なった人は嫌いな人です。この感情は、どうしようもなく生じるもので、自分の感情をコントロールすることはなかなかできません。
     何が違うのか。それが価値観の違いです。
     いろいろな行動は、その人の考え方、価値観によって異なってきます。それを見た時、共感することができればよい人で、嫌悪感を感じれば、いやな人です。
     人は、すきか嫌いかで物事を判断します。合理的?な理屈は後で考えます。
     正直に本音を述べる人の方が、人としては好きなのですが、本音を隠してりっぱなたてまえを言う人の方が尊敬されます。人から認めてもらうという目的で、人は意見を言います。でも顔の表情を見ていると、その人の価値観を一瞬で感じることができるようになってしまいました。
     言葉は必要なく、その人の持っているオーラを感じるだけで、よい人か嫌な人かを判断するようになってしまいました。 これではいけないと思いつつ、どうしようもないのです。楽しく生きてゆくためには、嫌な人とは話さないようにしている自分がいます。近づくことも、話しかけることもしないようになってしまいました。相手も同じように感じているのでしょう。私に近づいてきません。

     類友の法則というのがあります。同じような心的状態の人間は寄り集まってくるものです。いつも不平・不満を口にしている人のところには、似たような人間が寄ってきます。そして、いつも失敗ばかりしている人のところには、失敗者が集まってきます。

     誰とでも仲良くという立派なご意見もありますが、それは自然ではありません。人を嫌いになれない人は、人を好きにもなれません。それが人間の本質だと感じます。
      以前から、「鏡の法則」で述べていますが、人間関係は鏡のようなものです。相手の自分に対する態度は、自分が相手に対する態度そのものです。
    よく「わたしは友達運がない。不快な人とばかり出会う」といったいい方をする人がいますが、そういう人は、自分がいかに他人に不快感を与えているかに気づいていないのです。そして、そんな自分であっても、自分を好んでくれる人がいます。どんなに嫌な人であっても、その人を好きだと思っている人が存在しているという事実は、どう判断すればよいのでしょう。

    「あんな嫌な奴と仲良くしている奴は、嫌な奴だと思うけど、あの人は他人からも人気があるし、いい人なのに、どうしてあんな人と付き合っているのか。」

    自分だけが「嫌な奴」と感じているだけで、他人はまた別のように感じているからなのです。自分と同じように感じているのは、自分しか存在しません。自分の世界に住んでいるのは、自分だけなのです。妻であっても子供であっても、別の世界に住んでいて、別の景色を見ています。まして、他人は自分とはまったく違う世界に存在しています。

     自分自身の性格を一言でいえば、人に指図されるのが嫌いな性格です。自分なりに納得できなければ行動したくありません。人の意見を素直に聞けない性格です。好きか嫌いか、楽しいかどうかで行動していまう癖があります。


    Colum No.8(人に指図されるのが嫌い)

     自分は自分なのだからと、人に指図されるのが嫌いな人がいます。じつはわがままなだけです。
     人に指図されないと何一つ行動ができないのに、そんな人に限って「しかたなく」行動します。指図した方はいい気分がしません。なぜ素直に気持ち良く従わないのか、ついつい感情的になってしまいます。そして態度に現れてしまいます。

     自分のやりたい方法と違っていると、そのやり方をかげて非難していることがあります。従うしかないのですから、前向きに取り組めば良いのに、「自分なら・・・」とよく文句を言っています。

    「何時に帰ってくるの?」と妻から聞かれて、「うるさいな、いちいち」などと文句を言う人がいます。「何時頃」と答えれば済むのに、なぜか感情的になってしまいます。
     夕食の準備もあるし、とりあえず帰宅の時間を聞いているだけなのに、別に遅く帰ることを非難しているわけではないのに、聞かれた方は責められていると感じてしまうのです。そんなことは本人も理解しているはずなのですが、なぜか不愉快になってしまいます。理由もなく不愉快になるのは、何か自分の欲求を自分が隠しているからです。
     自分が隠しているものの中で最も一般的なものは、幼児性です。  自分が妻を自分の思うように支配したいと思っている夫は、妻が自分に対して忠実であるかどうかを常にテストしていないと気持ちが落ち着きません。自分が妻から指図されるのは大嫌いなのに、自分が妻になにかと指図しようとします。
     逆に妻の行動について自分が全て知っていないと不安ですし、嫉妬や疑い深い性格です。その背後には幼児性があります。
     これが、親子の場合だったらどうでしょうか。子供を管理することで、自らの隠れた依存心や甘えを満たそうとするのですから、たまりません。子供が自立することでさえ、押さえつけようとしてしまいます。
     子供は、依存することでその関係をたもとうとしますから、いつまでたっても自立することができなくなってしまいます。つまり、人から指図されるのが嫌いな人は、子供のころ親から指図されて育ってきた人であり、そのために、依存する幼児性をのこしたまま大人になってしまった人なのです。
     人に自分の考えをおしつけたり行動を指図したりするとき、自分の内面にある幼児性によって行動しているのではないだろうかと、考えてみると良いのではないでしようか。
     客観的に合理的な理由によって、相手の助けを必要としているのであれば、その指図の方法、言葉使いも違ってくるはずであり、相手も素直に指図に従うものです。
     その時、相手がつい感情的な反応をしたら、その内面にあるものに気づいてください。
     自分の心の中にも不安感や嫌悪感が広がるはずですから、きっと気づくはずです。


    Colum No.9(人を疑ってしまう)

     人を疑ってしまう人は、自分の依存性を抑圧している人です。隠された依存性がある人、愛情欲求の不満な人などは、心の底で自分に失望しているのではないかと思います。
     心の底で自分を信頼していれば、いつも忠誠や好意を示すことを強要しないものです。心の底で自分に失望しているから、ついつい疑い深くなってしまうのです。
     自分への失望があるから、他人から尊敬されたい、愛されたいと思ってしまう。人の評価や愛情に依存しているわけです。
     本当に人は自分を尊敬しているのだろうか愛してくれているのだろうかといつも不安な気持ちがあり、人に好意や愛情を強要するような言葉を言ってしまいます。

    「本当にわかってくれた?」「私のこと好き?」

     ある美人のキャリアウーマンがいます。一応皆からちやほやされますが、どうしても長いこと親密になれる男性ができません。男性は二度や三度はつき合いますが、やがてその女性といることにプレッシャーを感じてしまいます。その女性の愛情欲求が激しいからです。いろいろな要求によって、男性は息苦しさを感じてしまいます。
      隠された依存心を持っている女性は、自分にも男性にもその依存心を隠します。そして、隠すことで、今度は男性を支配しようとするのです。その女性自身が、安心して男性と一緒にいることができません。その女性自身が、男性から拒否されることを恐れています。
     それだけに余計に男性に対する要求が大きくなり、支配的になります。拒否されるかもしれない不安を、支配的になることで解消しようとしているのです。

    「あなたの好きなようにしていいよ」という言葉は、逆に相手を縛る言葉です。
     この言葉を言われた相手は、プレッシャーを感じてしまいます。実際に自分の好きなように行動すると、必ず文句を言われてしまうのです。それは無意識のレベルでは、もっと私を満足させて、もっと私を大切にして、もっと私のことだけを考えて、などと訴えているからなのです。
     小さい子供が母親に対して、いろいろと要求し、甘え、そして母親が自分の思い通りに自分をあつかってくれないと、駄々をこねます。このレベルと同じです。この女性も、無意識のレベルでは男性をなじっているのです。
     男性と女性、どちらも依存性を持っている場合は、この二人の関係は当然こじれてきます。
     この男性は隠れた依存心を持ち、心の底には無力感があります。すると相手の女性になじられることでいよいよ傷つきます。心の底に無力感がありますから、相手の女性に迎合し、相手の依存的欲求をかなえることで関係を保とうとします。隠された依存性を持つ者どおしは、傷つけあいながらも、相手に依存しようとしていますから別れることができません。傷つけあいながらも相手に気に入られたいという弱みがあります。
     もともと愛情欲求が満たされていれば、相手に気に入られたいなどとは考えません。関係が壊れ、別れることは相手を失うことです。愛情欲求を満たされていない者にとっては、これほど辛いことはありません。


    Colum No.10(どうでもいいこと)

     私の車の前を、制限時速40キロで、のろのろと運転している人がいます。広い道であり、前があいているのにスピードを上げようとしません。これが大嫌いなのです。
     私も別に急いでいるわけではないのに、なぜ、スピートを上げないかとイライラしてしまいます。追い越し禁止ですから、追い越すわけにもいかないし、追い越したからと言って、そんなに早く目的地に着くこともありません。自分に言い訳している自分がいます。
    「そもそも、60キロぐらいのスピードで走るのが常識?なのに、人の迷惑を考えろ。前の車と車間をあけると、逆に自己を起こしやすく危ないのに・・・」 聞こえるはずがないのに、車の中で怒鳴ったりしています。
     冷静に考えると、どうでもいいことなのに、本人はそのように考えません。他人から見たら、なぜそんなことにこだわるのかと感じてしまいますが、本人にとっては大切なことです。そして、どうでもよいことなのに、自分の思いと違ったとき、なぜか不機嫌になってしまいます。
     たとえば、バスから降りる時、ベルを押そうとしたら、誰かに押されてしまった。なぜかしまったと思ってしまう。子供ならば、泣き出すかもしれませんが、大の大人ならばそんなわけにはいかない。照れ笑いでごまかします。情緒的に未熟であるから、そのような感情がわくのです。

     いくつになっても、自分は精神的に未熟だなあと思うことが良くあります。
     つまらないことにこだわったり、自分の思いと違うことをさせられると、すぐ不機嫌になってしまいます。
     最近は違いますが、若い頃、あなたはデリカシーがないと言われたことがありました。
     その時は、別に気にしていませんでした。自分の正直な気持ちを言葉に出しただけなのですから、なぜ非難されるのかよくわかりませんでした。そして、内心では反発していました。
     人生を本音だけで生きていけたらいいのに、と言ってタテ前を言う人を、軽蔑したこともありました。他人の心を理解することができず、言葉で相当他人を傷つけていたと、今頃になって気づきました。

     この世には、未熟な大人が多いのではないかと考えることがあります。子供の心を全く理解できない小学校の教師、子供の心を理解できない親が、なんと多いことか。心に葛藤がある人は他人の心を理解できません。子供のころ、甘えの欲求を満たされていない人がそうです。
     逆にいえば、そのような人に自分の心を理解してもらおうとすることは、無駄な努力だということです。
  • 人間なのだからお互いに理解できるはずだなどという人は、たいてい他人に対して支配的な人です。他人の心の痛みを無視して、平気で他人を傷つける人です。そして、他人を深く傷つけながらも、そのことに気づいてすらいない人です。
  •  そのような親に育てられた子供は、自分の心を理解されないと感じるのが当たり前です。子供が感じていることを「どうでもいいこと」として処理しようとします。
     逆に、心に葛藤がない素直な人は、他人の心を理解できます。そのような親は、子供が「どうでもいいこと」に怒ったり悲しんだりすることに深い理解を示し、そのような子供の心を受け入れることができます。

     若い頃の私は、他人を信用することができませんでした。特に、母親を信用することができませんでした。人の悪口ばかりをいう母親が嫌いでした。そういう自分が、他人の好意を素直に受け取ることができませんでした。たとえば、贈り物をもらったときのお返しとか、儀礼的な挨拶とか、近所との付き合いとかも嫌いでした。表面だけの付き合い(と思いこんでいました)が苦痛でした。


    Colum No.11(他人を理解する)

     他人を理解できるということは、心が健康な証拠です。他人を理解できない人は、他人を信用することができません。他人が自分に好意を持っていても、その他人の心を感じ取ることができないのです。
     自分の心を他人に投影し、それを実際の他人だと錯覚するからです。ありのままの他人を見ることができません。
     わかりやすく言いますと、自分が自分を好きでないのですから、他人が自分を好きということを信じられません。他人の「好き」という言葉に安心できませんし、信じられません。
     自分が嫌いなのです。そして、自分が自分を嫌いだという感じ方から眼をそむけています。抑圧と言います。
     そして、その抑圧したものを他人に投影しますから、「他人は自分を嫌いだ」と思います。どんなに他人の好意に接しても、他人のいうことを信じることができません。
     他人の好意を得ても、それを失うのが不安な人、なんとなく居心地を悪く感じる人、そんな人は、本当は自分を心の底で嫌っているのではないかと反省してみましょう。
     他人があなたを好きだというのは、無条件です。もちろん嫌いな欠点があるかもしれませんが、それでもそれは「好きなあなたの欠点」であり、あなた自身を嫌いなわけではありません。あなたへの好意が変わるわけではありません。
     それなのにあなたは、「嫌いなあなた」の好きな点だと理解してしまいます。それで、いいところを見せないと、見捨てられてしまうと錯覚してしまいます。
     自分に自信がある人は、自分に短所があるからといって、他人に拒絶されるとは思いません。そう考えることが、自分に自信があるということです。欠点だらけの人でも、自分に自信を持ち、生きることを楽しんでいる人がいます。逆に欠点の少ない「いい人」が、生きることを恐がっていたりします。
    ≪余談≫
     最近になって、やっと自分が欠点だらけの人間であったことを認めることができるようになりました。若い頃の自分は、嫌いな自分から眼をそむけていたのではと、感じています。
    中学生のころの自分。
     その頃の私は、自分の何を他人に隠そうとしていたのか、何を知られるのを怖がっていたのか・・・。
     私は自分に自信がないことを知っていました。心の底で自分に失望していましたが、そのことを人に知られたくありませんでした。

    ≪目立ちたがりで人気があり、生徒会の会長になりました。勉強もできないのに、何も考えずになったものですから、何をすればよいかもわからず、結果的に何もできないダメな生徒会長でした。≫

     だから、他人にはいかにも自信がある「ふり」をしていました。だんだんと疲れ、その場から逃げだしたくなりました。誰も自分を知らない世界に、逃げたくなったのです。それで、地元の高校には進学せず、親元を離れ、奈良の私立高校を受験し、寮に入りました。


    Colum No.12(他人に好かれる)

     他人に好かれるか嫌われるか、親しくなれるかなれないかは、案外単純です。実際の自分を他人に知られたくなくて隠そうとします。そして、心の底で感じでいる実際の自分と違った自分を、他人にも印象づけようとします。そうすることで、嫌われることが多いのです。
     ほんとの自分を知られたら、軽蔑されるのではないか、不安になります。知られたら嫌われると思い、必死に本当の自分を隠します。実はそれが嫌われる原因なのですが・・・。

     実際の自分と違った自分を印象づけることに成功する場合があります。

     自分が、他人から過大評価されることがあります。たとえば、お笑い芸人などが実力もないのに、たまたまブームによって人気者になったりします。一発屋といわれる人などは、最後のほうは、見るのも辛くなってきますね。

     しかし、そのことによって生きることが楽しくなることは決してありません。実際の自分と乖離していくだけですから、自分が誰であるかがわからなくなり、アイデンティティが崩壊してしまいます。やがては生きていることが不安になったり、恐くなったりしてしまいます。
     もともと他人を理解しようとせず、自分中心に世界が回っていると考えています。他人に自分をどのように印象づけようかとばかり考えています。

    自慢話ばかりをする人は、自分に自信がない人です。聞いている人は、表面でうなずきながら、内心は呆れています。そして、自慢している人は、その事に全く気付かないのです。

     自分はすごいのだぞということを示そうとして失敗すれば、もうこれでも捨てられると不安になります。失敗の言い訳をくどくどと話し始めます。
     他人から好かれるということは、相手にことさら何もしてあげる必要はありません。
     好かれるということは、何もしてあげなくても相手は自分を好きだということです。
     神経症ぎみの人はこれがわかりません。何かしてあげなければ、好きになってもらえないし、好きになってもらっても、また見捨てられると思ってしまいます。だから、物をあげたりお金を与えたりしようとします。いろいろと無理したり、役にたとうと頑張ります。役に立てなければ、相手の好意を保てないと考えてしまうからです。
     好かれるということは、相手は自分に満足しているということです。何をしてあげなくても、自分一緒にいるだけで満ち足りているということです。
    ≪余談≫
     私を好きな人もいれば嫌いな人もいるでしょう。自分に自信がある人は、他人にどのように思われているかなど、気にしません。自分は、欠点も含めて自分なのですから、それでいいと考えています。そんな自信に満ちた人を、他人は好きになります。
     ところで、そんな人は何パーセントぐらいでしようか。意外と少ないようにも感じます。
     私は、・・・ダメですね。

     こんなエラそうな文章ばかり書いていると、現実の自分とのギャップで、少し恥ずかしくなります。むしろ、自分を見つめる中で、気づいたことを述べていますから、自分に言い聞かせているようなものです。ここまでたどり着くまでに、どれだけ回り道をした事でしょう。


    Colum No.13(ひいきされる)

     人に好かることと、ひいきされることは別です。
     人に好かれているということを信じることに何か違和感を感じている時があります。
     ひいきされているという感じ方です。心の底で自分に満足していない人は、好かれているということは感じられませんが、ひいきにされているということは感じることができます。
     そして、ひいきされていることをうれしく感じます。うれしいということは、自己中心的であり、他人を理解する能力がないことを示しています。

     なぜか。
     ある人をひいきする人は、普通の人より依存心の強い人です。相手の自由を許しません。つまり、ひいきされるということは、自分の自律性を犠牲にしてひいきされるということなのです。
     ひいきする人は所有欲の強い人です。
     ひいきされて喜んでいる人は、相手を理解していないから喜んでいるにすぎません。
     相手を理解する能力があれば、自分をひいきする人の心の中を感じることができるはずですし、そのことが決して自分にとって喜ばしいことではないことがわかるからです。

     ひいきしたりひいきされたりする関係は、共生的関係になります。お互いに相手と自分の自律性を犠牲にしたうえで付き合いが成り立っています。
     外部から見ると、一見ものすごく理想的な関係に見えることがあります。お互いの間にいさかいもなく、意見の対立も、感じ方の違いも表面化することはありません。これは当たり前で、自分の意見を捨てているのですから、対立はありえません。自分の感じ方を抑圧していますから、感じ方の違いが表面化することもないのです。

     共生的関係にある人は、お互いに親密であると錯覚しています。お互いの個性を犠牲にしていますから、自分の中に核となるものもなければ、自分の世界もありません。自分の世界を持つということは、相手を裏切ることになります。
     本当に親密な関係であるとは、お互いに自分の世界を持っています。相手が自分と直接関係のない世界で、幸せであることを喜ぶことができます。
     これをゆるせないとか、面白くないと感じるのであれば、共生的関係であると疑われます、相手に対して、自分の世界で幸せであることを隠そうとしますし、またそのことに罪悪感を持つことになります。
     この世界でのみ、自分は幸せであると思いこもうとしますし、相手も喜んでいると思っていますし、安らぎを感じると思いこんでいます。
     親子関係が長く共生的であれば、大人になっても他人と親密になることができません。親密になることを恐れますし、親密になるということがどういうことか理解できません。親密になるとは、お互いに自分の世界を持っているし、その中でそれぞれ幸せである事を喜び、そのうえで共通の世界を持っているということなのです。

    共生的関係の見分け方

     自分が今親しい人と共生的関係なのか、それとも本当に親密なのかは、次のことでわかります。

     もし、心の底に無力感があり、生きることにおびえていれば、それは共生的関係です。すぐに虚勢を張ったり、かと思うとすぐに弱気になって失望感にとらわれます。
     心理的に成長することによって、他者と親しくなれるか、また他者と親しくなることで心は強くなります。つまり、虚勢を張る必要もなくなります。
     また、共生的関係は、独特の雰囲気があり、何となく他人が入り込めません。他人を拒絶することで、相手に対する忠誠心を示そうとするからです。いずれにせよ、狭い世界で生きています。
     「あばたもえくぼ」と言いますが、相手の欠点は欠点であると認識しつつ、それにもかかわらず相手が好きということであれば、共生的関係ではありません。
     「あばたもえくぼ」と思っていたものが、あばたであるときづいた時、全部嫌いになるのは、共生的関係です。
     絶賛しあっていた恋人同士が、激しく恨みあい、罵倒しあうというのは、共生的関係です。
     親子の共生関係が壊れていく時もすさまじいまでのドラマが展開されます。ある種の宗教的集団の異端者へのとりあつかい、ざまざまなグループのリンチ、それらは共生的関係が壊れて行く時のドラマです。
     「あの人と付き合うなら、私たちとは付き合わないで」などと、グループの仲間に言うような関係も、共生的関係です。
     自分たちの結束は強いと信じていますが、実はもろいものです。お互いの個性の犠牲の上に成り立っている関係だからです。心理的成長の犠牲の上に成り立っていますから、一人一人は心の底で無力感を持っています。
     グループで決めた「きまり」を異常なまでに守り、ちょっとした個性の違いや意見の違いにも過剰な反応をするのは、この無力感のためです。表面的には団結が固いように見えながらも、心の底では自分は守られていないと感づいているから、逆に外の世界のことをものすごく気にします。
     共生的関係では、自分たちを外の人がどう見ているかを大変気にします。彼らは、外の人に対しては演技しつつ、実は外の人の気持ちが全く分かっていません。外を排斥しつつ、外に迎合します。

    ≪余談≫
     本当に犬が好きな人は、血統書つきの犬ばかりを飼おうとしたり、可愛がるわけではありません。本当に犬が好きな人は、たまたま自分と縁があった犬を大切にして可愛がります。その犬が雑種であり、いろいろな欠点があり、一般的に血統書つきの犬より価値がないこともわかっていますが、その上で自分の犬を大切に可愛がります。
     人間関係もおなじです。心の優しい人は、縁があって知り合った人を、あの人はこんな欠点があるからといって無理に見捨てようとはしません。自然の成り行きにまかせます。


    Colum No.14(本当の思いやり)

     次のような母親がいるそうです。
     野球の試合を母親が見にくる。そしてその子がヒットでも打つと手を叩いてその子を応援する。そして、練習が終わって帰る時にはその子のバッグを持ってあげる。しかし、子供にインスタントの食事をさせているというのです。

     直接的な愛情と間接的な愛情と言えるかもしれませんが、この母親は、料理に自信がないのか、自分の作った料理をおいしそうに食べないと怒るとのことでした。
     おいしい料理を作ることに精魂込めるのではなくて、おいしく食べることを要求するのです。
     インスタントの料理を食べさせて、バッグを持ってあげる母親は、自分の感情を子供におしつけて、愛情と思っているだけです。子供が本当に必要としているものがわからず、べったりとした親子関係を続けることは、共生的関係にあるといえます。
     本当の思いやりとは、子供が野球の練習から帰ってくるのを待てる母親です。ユニホームの汚れや破れた個所などを黙って、直してあけることのできる母親です。子供の「ただいま」の返事で、子供の様子を感じることで出来る母親です。子供にべたべたしている母親は、実をいえば、あまり思いやりのない母親です。

     自分と相手が、共生関係にあるかどうか、見分けるひとつの方法があります。
     プレゼントの選び方です。
     誕生日であれ、何かを達成した日であれ、その日のプレゼントをさがすのにエネルギーを使うことのできる人は、共生的関係ではありません。
     共生的関係の人は、いつもべたべたしているくせに、その人のために何かのプレゼントをすることに時間やエネルギーを使いません。そんなことで疲れるのは嫌ですし、あるいは忘れています。つまり、自分こそが相手の世界でなければいやですから、自分に直接関係ないことで相手を喜ばすことができません。相手はこんなことをすれば喜ぶのではないかと考えないのです。

     親子が共生的関係にあるとき、親は子供がかわいいと思います。もちろん、子供が自分のいいなりになっている時だけです。しかし、その時でさえ、子供が何を必要としているかに気づきません。
     たとえば、子供がプールから上がった時、寒がっているとか疲れているとか気づきません。休養が必要だとも考えません。泳いでいる子供を見て可愛いとは思います。しかし、疲れていると思わないのです。
     子供が母親に何か頼むとき、母の都合を考えないのは当たり前ですが、甘えの欲求が足りない母親は、この子供が親に対するのと同じように、子供の都合を考えずに自分の都合をおしつけてしまうのです。
     自分のことだけに夢中なくせに、子供を愛していると錯覚しているとは・・・。
     自分と違った感じ方、望みを子供がもっているということを、共生的関係にある母親は考えられません。この世に存在するのは、自分の欲求だけです。
     従ってこのような環境で育った子供は、自分の欲求というものが持てません。持つことをゆるされたことが一度もないからです。
     自分が親と共生的関係で育ったと思う人は、まず自分は自分の欲求を持ってもいいのだということを理解してください。そして、自分の欲求を持つことは決して他人と敵対することではないと知ってください。

  • だんだん深刻な話になります。


  • Colum No.15(生きることの無意味感)

     未成熟な人は、人に好かれるために生きているような人です。常に愛情を求めています。しかし、問題はその好かれかたです。甘えの欲求の満足がその目的であり、ちやほやされたり、褒められることが目的なのです。
     たとえば、未成熟な男性は、恋人には母親が子供をあやすように自分をあつかってほしいと思います。自分の依存性を満足させたいだけなのです。
     子供のころ、心理的に成熟した母親を持つことができなかったため、甘えの欲求が満たされなかったため、未成熟なままで、成熟した大人になれないのです。間違った愛情を求めています。

     このように情緒的に未成熟な親に育てられた子供は、自分の自然な感情を見失ってしまう傾向になります。そして、やがて生きることに無意味感が出てきます。
     何事にも興味が持てなくなり、「やってみる」ことをせず、「くだらない」と感じてしまうのです。
     辛いのに、辛いと感じていないようにふるまったりします。実は、辛いと感じるのが怖いのです。なぜ、恐いのか。それは自分の存在が否定されるからです。

     恐怖というのは、自分の存在をないものにしてしまうものに感じる感情です。小さい頃自分にとって重要である人に、このように感じなさいと命じられている、そのように感じないのは、その人を裏切ることであり、その結果は自分にとっては死の恐怖です。
     辛いと感じるなと命令されれば、辛いとは意識できません。辛いとは意識しないけれど、心の底では辛いと感じている。ある人の期待に逆らうことはできない。そこに生じるのは、罪悪感です。
     甘えの欲求が満たされていないうつ病の患者が、罪悪感に苦しむのもよくわかります。彼らは感じるように感じることを禁じられているのです。しかし、人間は、感じるように感じるほか感じることができません。
  • ≪禅問答のようになってきました。≫
  •  そこで、自分の感じ方を、無理やり意識的につくりだします。辛くない自分というものを作り上げようとします。その方が恐くないからです。
     そんな人を見ると、どうも不自然です。笑いの中に、恐怖や怯えがあるような、変な笑い。そんなイメージです。
     そして、無気力という人生における最も危険な兆候が見えるようになります。淋しいのに淋しいと感じることが許されていない人は、救いようがありません。救いようのない人生を生きていた人は、最後には人生に関心を失ってしまいます。

     いままでの自分についての反省の意味を込めて、心理学的な「甘えの欲求」についていろいろと考えてきました。特に母親との関係で、いろいろな問題点に気づくことができました。


    Colum No.16(親離れすることの意味)

     他人に対する自分の態度、他人に対する自分の感じ方、自分に対する自分の感じ方を変えることができて初めて、親離れは完成するのではと思います。

     気づくことで自分を変えることができると信じています。

     他人に心理的に依存しなくなってはじめて、他人の好意を感じられるようになります。他人に依存している時は、甘えるという関係で他人に対することができますが、他人の自分への好意を感じることはできません。

     甘えるとは要求です。他人の好意を感じることは、要求ではなく、他人が他人の自発的な感情によって自分に好意を持っているということが感じられるのです。要求して引き出すものではないのです。
     うつの傾向がある人は、他人の好意に対して気がひけてしまいますが、これはその人の依存性を表しています。
     他人が自分に好意を示してくれるのは、他人にとっても喜びであり、決して他人の心の負担になっているわけではないのに、うつの傾向がある人にはわかりません。
     だから、今度は逆に他人に負担になるようなことも平気で要求してきます。要するに他人を理解することができず、ただ自分、自分なのです。

    ≪カウンセリングの現場では、うつの傾向がある人の身勝手さを、実感しています。相談者は、勝手に依存してくるくせに、当方の都合を考えたりすることができません。割り切って、時間的な制約を設けないと、何時間も同じことを繰り返し話して、帰ろうとしません。≫

  • 私たちは他人とともに生活していることを恐れてはいけません。
  •  自分の存在が他人に負担をかけていると畏れる必要はありません。
     他人は付き合うことを楽しんでいます。
     あなたのように恐れているわけではあれません。
     あなたが感じるように他人は感じていないのです。


     他人と一緒にいることが気が重いからといって他人を避けていては、いつまでたっても他人の好意を感じることはできません。
     相手の好意を素直に楽しめるような人間になりましょう。
     いつの頃からか、間違った考え方にとらわれ、自分が決め込んだことに支配されてしまいます。決め込んだのは自分ですから、自分を解き放つのも自分しかできません。
     自分は愛されない存在だと決め込んだのは自分です。今度は「自分は生きるに値する存在なのだ」と自分で決断しなければなりません。相手の好意を素直に楽しめば良いのです。

     自分が特別な存在だから他人が好意を示してくれるのではありません。
     自分が何かを成し遂げたから好意を示してくれるのでもありません。
     たまたまそのような縁があったから、好意を示してくれるのです。
     好意に理由はないのです。その好意を負担に感じる必要はないのです。


     また、好意を受けたいと思って受けられるものでもないのです。
     他人によく思われたいなどと思っている人は、愛に飢えているのかもしれません。

     最後に、
     自分にやさしくしてください。


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