Heart Sutra

般若心経

真実や本質を見抜く力によって悟りの境地にいたるための大切な教え

2010/12/07~

 最近はさぼっていますが、朝、神棚の前で感謝をささげた後、仏壇の前で祈ります。感謝の祈りです。たまには「般若心経」を唱えることもあります。小さい頃から両親がしていましたので、意味もわからず「般若心経」を覚え唱えていました。「どうしてほしい」などとご先祖様に頼むことはありません。


No.01 


祈りの言葉

 「祈り」とは、「神ないし神格化されたものとの意思の疎通を図ろうとすること」とありました。
 自分自身の心との「意思の疎通」といえます。あるいは「神に何かを願うこと」という意味もありますが、良く考えるとこれはおかしなことです。神は平等ですから、個人の願いだけをかなえてくれるというような事はありません。
 それでも、人は祈ります。人はいろんな場面で祈ります。
 明日の天気を祈り、旅の無事を祈り、家族の幸せを祈り、病気の平癒を祈り、死者の冥福を祈ります。
 泣いたり笑ったりするのと同様、祈りは人間に特有の営みであり、人間本来の自然な感情にもとづくものです。
 もちろん、祈るだけですべては何とかなると思っている人はいないでしょう。でも人知人力には限りがある以上、人は祈らずにはいられません。もしいまだかつて一度も祈ったことがないという人がいたら、自分の限界に気づいたことのない余程傲慢な人に違いありません。
 その意味で、祈ることはむしろ人の謙虚さのあらわれだといえましょう。

祈りの言葉は常に真実です。

 たとえば明日は天気になってほしいから「あした天気になーれ」と祈るのであり、心の中ではその反対のことを考えているなどということはありません。
 これに対して普通の人間同士の言葉にはウソ偽りや虚飾がたくさんあります。私たちは常に真実の言葉を語っているとはいえません。
祈りの言葉とは人間同士の言葉ではありません。
「あした天気になーれ」は、だれに向って語る言葉でもなく、人間以上の何かに向けられた言葉です。それが祈りの言葉であるゆえんです。そしてその言葉は常に真実の言葉なのです。

 このような祈りの言葉をインドの古い言葉(サンスクリット語)で「マントラ」といいます。
 翻訳すると、「真言(しんごん)」です。
 真言だからこそ、その取り扱いには注意が必要です。薬も使い方によっては毒になります。

 実は、私はこれから「般若心経」について述べようと思っています。日本人にとって一番ポピラーなお経が、般若心経です。般若心経は古くから困ったとき日本人のお守りとして使われてきました。しかし、私を含めてその意味を理解している人は、どれぐらいいるでしょうか。

No.02 


真言を説いたお経

 真言とは、「いつわりのない真実の言葉」です。そして、効能がある呪文として重視されてきました。真言を唱えることで、発願を仏に直接働きかけることができるとされているのです。
 私も、「お経だから、意味がわからなくても唱えるだけでご利益がある」などと言われ、子供心に覚えました。その内容について考えたこともありませんでした。
 たしかに、音の響きに、心地よさを感じる呪文でしたから、「大日如来-オン・バサラ・ダトバン」とか、「阿弥陀如来-オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」なども唱えていました。

 般若心経は真言を説いたお経です。そもそも般若心経の「心」とは「真言」という意味です。般若とは、悟りによって得られた智慧であり、その真言を説いたお経が、般若心経です。

 今私たちが呼んでいる「般若心経」というお経は、明(みん)代の小説『西遊記』で有名な玄奘(げんじょう)三蔵がインドから原典を持ち帰って漢訳したものです。訳出したのは唐(とう)の貞観23年(649)5月と伝えられていますから、今から1350年も昔のことです。
玄奘より250年近く前に姚秦(ようしん)の鳩摩羅什(くまらじゅう350~409頃)が別の題名(『摩訶般若波羅蜜大明呪経』)で訳出し、それよりさらに200年前に大月氏(だいげっし)国の支謙(しけん)が訳し、これは題名(『般若波羅蜜呪経』)だけが伝えられています。
 こうした点から、般若心経の原型はインドにおいて3世紀頃には成立していたであろうと推測されます。
 なお、玄奘以降にも漢訳されたものが5本残っていますが、一般に般若心経といえば玄奘訳をさし、それに対しておびただしい数の注釈・研究・解説がなされてきました。
 わが国に伝わった時期は定かではありませんが、入唐して玄奘に師事し、660年に帰国した道昭(どうしょう 629~700)が持ち帰った可能性が高いと思われます。天平年間頃から研究や写経が非常に盛んになりました。

No.03 


般若心経の魅力

 数あるお経の中でも、般若心経は僧俗を問わず広範囲にわたって最も親しまれてきました。
 日本仏教の全宗派に共通するお経というのは実は存在しません。それでも、一応すべての僧侶が知っているお経というと、たぶん般若心経しかないし、ともかく、これほどのベストセラーはほかに見当たりません。

 般若心経のどこにそんな魅力があるのでしょうか。
 ・漢字でわずか260余文字の中に仏教の真髄が説かれている。
 ・それほど尊いお経である。
 ・だから、ただ唱えるだけでも功徳がある。

 このことが般若心経の信仰を支えてきた一番の理由のように思われます。
 日々のおつとめに、巡礼の口ずさみに、死者や祖先の供養に、あるいは願(がん)をかけた祈りにと、般若心経は読み継がれ、書写されてきました。
 無心にとなえ、写し、お経のリズムに身をゆだねることがまず大切だと言われています。
 内容の理解は二の次、というよりも、そんなだいそれたことは畏れ多いことだと思う気持ちすら、昔の人にはあったかもしれません。

 ネットで調べると、江戸時代には「絵心経」というものが作られました。これは絵で般若心経を読めるように工夫したものです。
 たとえば釜の絵を逆さに描いて「まか(摩訶)」と読ませ、般若面で「はんにゃ(般若)」、人の腹の絵で「はら(波羅)」と読ませるたぐいです。
 絵と内容とは全然関係なく、ユーモラスな庶民感覚の一種の判じ物か謎解きのようにも思えますが、これをたよりに一字一字読もうとし、尊い仏様の言葉に触れようとした庶民の心情もまた如何ばかりであったかと思います。

 それはそれとして、お経の深遠な意味を探究することは意義あることです。ただし、お経の正確な理解のためには、どうしてもサンスクリット原典にあたる必要がありますが、幸いにも般若心経には原典が残っています。

No.04 


般若心経 現代語訳

 この「般若心経」について、有名な宗教評論家のひろさちや氏が、現代語に訳したものがあります。般若心経に書かれている世界について、解りやすいのでは。本論に入る前に、紹介します。


 観自在菩薩がかつてほとけの智慧の完成を実践されたとき、肉体も精神もすべてが空であることを照見され、あらゆる苦悩を克服されました。
 舎利子よ。
 存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。
 存在がすなわち空で、空がすなわち存在です。
 感じたり、知ったり、意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これまた空です。
 舎利子よ。
 このように存在と精神のすべてが空でありますから、生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしません。
 そして、小乗仏教においては、現象世界を五蘊(ごうん)・十二処・十八界といったふうに、あれこれ分析的に捉えていますが、すべては空なのですから、そんなものはいっさいありません。
 また、小乗仏教は、十二縁起や四諦といった煩雑な教理を説きますが、すべては空ですから、そんなものはありません。
 そしてまた、分別もなければ悟りもありません。
 大乗仏教では、悟りを開いても、その悟りにこだわらないからです。
 大乗仏教の菩薩は、ほとけの智慧を完成していますから、その心にはこだわりがなく、こだわりがないので恐怖におびえることなく、事物をさかさに捉えることなく、妄想に悩まされることなく、心は徹底して平安であります。
 また、三世の諸仏は、ほとけの智慧を完成することによって、この上ない正しい完全な悟りを開かれました。
 それ故、ほとけの智慧の完成はすばらしい霊力のある真言であり、すぐれた真言であり、無上の真言であり、無比の真言であることが知られます。
 それはあらゆる苦しみを取り除いてくれます。
 真実にして虚妄ならざるものです。
 そこで、ほとけの智慧の完成の真言を説きます。
 すなわち、これが真言です。

「わかった、わかった、ほとけのこころ。すっかりわかった、ほとけのこころ。 ほとけさま、ありがとう」
 真言と言われている呪文「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」を上記のように訳されています。

ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝      (往き往きて、彼岸に往き、)
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝         (完全に彼岸に到達した者こそ、)
ぼうじ
菩提            (悟りそのものである。)
そわか
僧莎訶           (めでたし。)
 などと、訳すのが普通ですが・・・。

≪参照≫
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩?、依般若波羅蜜多故、心無?礙、無?礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経


No.05 


般若波羅蜜多心とは

 経題(お経の題名、つまりタイトル)ですが、漢訳では「摩訶般若波羅蜜多心経」といいます。宗派によっては、最初に「仏説」をつけます。

─ 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 ─ これがフルタイトルです。

 ところが、原典タイトルがついていません。
 インドの書物は、しばしば首題をつけずに、最後に「以上で○○終わる」と締めくくる場合があります。これを尾題ともいい、しいていえばこの○○がタイトルです。
 般若心経の場合も同様で、原典では最後に「以上で『般若波羅蜜多心』終わる」と記されています。
 これを漢訳者が首題としたのだと思われます。ただし、ここで注意すべきは、原典の尾題には「仏説」も「摩訶」もなく、なんと「経」という語すらもありません。

─ 般若波羅蜜多心 ─ 原典ではこれだけがタイトルなのです。

 では 「般若波羅蜜多心」とは何でしょう。タイトルの意味を取り違えてしまいますと、般若心経は何をいっているお経なのかさっぱりわからなくなってしまいます。
 「般若」は「智慧(ちえ)」、「波羅蜜多」は「完成」を意味しますから、「般若波羅蜜多」とは、とりあえず「智慧の完成」と訳せるでしょう。

 この智慧を辞書で調べました。
1 物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。
2 (智慧)仏語。相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧。物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。

 仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧を「般若」と言います。
 したがって、「般若波羅蜜多心」を「智慧の完成の心」と現代語訳してもまちがいではないのですが、「智慧の完成の心」とはどのようなココロなのかと現代風に考えてしまうと、とんでもない珍解釈が生まれてしまいます。
 漢訳者があえて意訳せず、音写語を用いた(原語の「プラジュニャー・パーラミター」を「般若波羅蜜多」と当て字で表記した)のは、これがあるものを示す固有名詞だからです。
 そのあるものとは、この場合、「心」しかありません。すなわち、「般若波羅蜜多心」とは「般若波羅蜜多と称する心」ということになります。

No.06 


「智慧(ちえ)」の意味

 智慧とは、物事の道理を判断し処理していく心の働きであり、物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力です。 仏教用語としては、相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧。物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力です。この「智慧の光」を灯明といいます。

 同じような意味をあらわすのに「智慧」と「知恵」があります。しかし、この二つの言葉の意味は、全く違います。
 「知恵」とは自身の心から生じるものです。
 「知恵」は、人がその人生においてさまざまな経験を積み重ねていく中で、否が応でも生じる弊害や苦悩、迷いを克服していく過程のなかにおいて、あらゆる学問などを通じて培った「知識」を、如何に自身の心で消化して、自分のものとするものです。
 「知識」は外部から入ってくるものであり、「知恵」は自身の中から生じるものです。ですから、苦労すればするほど、またその壁を乗り越え進む人ほど「知恵」は豊かとなるでしょう。
 また「智慧」とは、前記のように御本尊と正面から向き合い、仏道修行する中で、仏様の命の境涯(仏界)に縁して、自身の心(命)にも在る「仏界」を認識していくことです。
 たとえ自分の望みとは逆の結果となっても、それが仏様からの答えであり、「御仏智」として捉えることでもあります。自力だけではどうにも解決できない事や、迷いの原因であるところの煩悩を、御仏智により鮮明に映し出し、認識し、納得する。この行為、姿勢そのものが仏道修行ともなります。
 またその為には、自身の心に宿る「弱さ(宿業)」と対峙しなくてはなりません。
 ここで言う「弱さ」とは、例外なく誰の心にも在る「妬み・憎悪・貪欲」など、人を不幸にする悪因です。そこに気付き、認識した以上は自力で正し、律していく。大変過酷な修行ともいえますが、それこそが「智慧」です。

No.07 


「般若」の意味

 仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧を「般若」と言います。

 般若(はんにゃ、サンスクリット語でプラジュニャー)は、一般には智慧といい、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧をいいます。
 ことに、大乗仏教が起こってからは、般若は大乗仏教の特質を示す意味で用いられ、諸法の実相である空と相応する智慧として強調されてきました。そして、同じ悟りの智慧をあらわす遍智(へんち)と区別されます。

 遍智とは文字通り「あまねく知る」ことで、四諦の道理を無漏(むろ)の智によって知ることであると説明されています。

 ここで、また難しい言葉がでました。
  四諦の道理 = 四苦八苦する人間苦の実相を見たならば、苦の原因を追究し、苦の原因をつきとめたならば、これを滅することによって苦を克服でき解脱することが出来ることを説く。
  無漏智 = 仏教には、無漏智(むろち)と有漏智(うろち)という概念があります。
  有漏智とは、人間の限られた漏れのある知恵、知性、判断力をいいます。
  有漏智は、完璧ではなく、必ず漏れます。人間の考えられる限りを尽くす事、人知を尽くす事には、限りがあり、パプニングは、計算できません。限られた漏れのある知恵が、有漏智です。
 それに対して、漏れのない知恵が、無漏智です。
 この無漏智を「般若の知恵」とも、いいますが、仏教、禅でいう悟りです。


≪あれ、「遍智の知恵」と混同している?≫

 無漏智とは、あらゆる執着を、脱ぎ捨てて、心の中が真に、解放された状態での知恵です。精神の動揺が全くなくなって、正しい智慧が生まれた状態で、もはや、不安というものに悩まされることはない。この時、無漏智が生まれます。

≪般若と遍智の区別とは≫
 この「遍智」を小乗のさとりを表すものとして、大乗の「般若」と区別するのは、般若を存在の当相(実際のそのままの姿)をそのままに自覚する「実践智」と考えるからです。

 この般若の意味は、識(しき、ヴィジュニャーナ)とも区別されます。
 識とは、いわゆる知識であり、客観的に物の何であるかを分析して知る分析智です。
 このような知識を克服して、それを実践智に深め、物の真相に体達すること、そのような智をことに般若といいます。
 たとえば、「生活の智慧」といいますが「生活の知識」といいません。「科学の知識」といって「科学の智慧」といわないようなものです。
「悟り」とは、生活の中に在るというのが、真理です。瞑想や修行で得られるのは、遍智であり、般若ではありません。

 現存する最古の梵本である法隆寺貝葉本には「般若波羅蜜多心」(原文は当然にサンスクリットです)で締めくくられていて、「経」とは書かれていません。これは心経が本来は「経」でなく「心(咒)」として信仰されていたからでしょう。
「咒」を調べますと、
じゅ【呪】
1 他人に災いが生じるように神に願うこと。のろい。呪詛(じゅそ)。
2 自分の災いを取り除くために神仏に願うこと。呪術(じゅじゅつ)。まじない。
3 仏語。陀羅尼(だらに)。真言(しんごん)。
 とありました。
 しかし、「咒」は「のろい」の「呪」ではありません。


No.08 


般若心経の「心」とは

 仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧を「般若」と言います。その「悟り」は、生活の中に在ります。瞑想や修行で得られるのは、遍智であり、般若ではありません。
 そして、大乗仏教では、悟りを開いても、その悟りにこだわりません。
 すべては空ですから、そんなものはありません。
 そしてまた、分別もなければ悟りもありません。

≪悟りを開くことにこだわる必要は無く、その必要もないというのが、大乗の考え方です。≫

 これが、生活の中にあるということです。わかります?
 これを理解することのできる『心』が、般若心になります。

 そこで問題は、この「心」の意味です。
 原語の「フリダヤ」(英語の「ハート」と語源は同じ)を直訳すれば「心臓」ですが、もちろん「心臓」では意味が通じません。
「般若波羅蜜多心」とは、お経の最後の「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提 薩婆賀」の真言をさします。
「般若波羅蜜多の心」といっても「般若波羅蜜多の真言」といっても同じことなのです。

「心咒」とは

心は「心咒」ともいいます。

 仏教にはさまざまな種類の心咒がありますが、長さによって大中小の三種があるのがふつうです。
 般若心経に提示されているのは大心咒です。
 般若心経の本文中に「大神咒」という呼称が出てきますが、意味は同じです。
なお「摩訶」とは「大」という意味です。
 この心咒は大心咒であることを示すために、漢訳者がつけ加えたのでしょう。
 玄奘訳より前の羅汁訳は、題名を「般若心経」とは言わず、「摩訶般若波羅蜜大明呪経」と言います。

 ネットに次のような解説がありました。
「心(フリダヤ)」を旧訳の心経では「明呪」・「神呪」と訳していたのを「心」と訳したのも、支那でも「心臓」という言葉があるように、臓器としての「心臓」に神聖を見ていたからでないでしょうか。道教の儀式でも呪文を「心」と表現していたそうです。
 また「咒」という言葉だと世間的な呪文と混同されることを嫌って、直訳に近い「心」と表記したかもしれません。 (ちなみに玄奘は密教に関しては興味がなかったようです)

「多心経」としたのも密教的な「心(フリダヤ)」でなく、精神的なココロ(チッタ<質多>)を示唆しているようにも思えます。
 羅汁訳『ブッダ・ヴァーシャ・マハー・プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ・スートラム』(漢題『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』)を元にして、玄奘がし、さらにそれが潤色されて玄奘訳『摩訶般若波羅蜜多心経』が世に顕されたと考えます。
(残念ながら羅汁訳が現存していないので、<焚書されたか?>推測の域ですが)

般若智=「最高の悟り」は般若心経と言うより、仏教の最終目標です。

般若波羅蜜多
是大神呪

「知恵の完成こそが偉大な真言であり」と訳します。また、ひろさちや先生は「ほとけの智慧の完成はすばらしい霊力のある真言であり」と訳されてあります。
この「咒」とは、つまり「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」の呪文のことです。
なお「咒」は「のろい」の「呪」ではないことにご注意下さい。

≪咒とは、「言霊」、つまり音の持つ不可思議な力ではないのか?≫

No.09 


お経のプロット(場面)

般若心経はだれが説いたお経でしょうか。
お経は原則として、すべて「仏説」(お釈迦さまの教え)です。
般若心経も例外ではありません。ただし般若心経では、説き方が少し他のお経と異なっているのです。

玄奘訳の般若心経は実は「小本」といって、「略されたお経」です。これに対し「大本」といって、「完全な形のお経」としての般若心経が存在します。そこには、このお経の序文というべき前段が記されています。つまり小本はいきなり本文から始まっているわけです。
その序文にはこのお経のプロット(場面)が記されています。実はどのお経(大乗経典)もそうなのですが、般若心経もまた一幕のドラマ(戯曲)だと考えてよいでしょう。

 舞台は 霊鷲山(りょうじゅせん)という山の頂です。そこはお釈迦さまが好んで説法されたと伝えられる実在の山です。 お釈迦さまは真西を背にして坐しておられます。
 聴衆はお釈迦さまの説法を待っていますが、この日に限って、お釈迦さまはいつまでも静かに瞑想に入ったままです。
 粛然としたその場で、お釈迦さまの瞑想に感応するかのように、聴衆の一人である観自在(かんじざい)という名の菩薩(ぼさつ 在家の求道者)も瞑想に入ります。
 そこで観自在菩薩は、ある修行を完成するのです。
 そこに居合わせた舎利子(しゃりし)という名の比丘(びく 出家修行者)が驚嘆し、観自在菩薩のもとに近づいてたずねます。
「どうか後学の者のために、その境地と修行法を教示して下さい」
 ここまでが大本の序文に記されているプロットです。このあと観自在菩薩が語る内容が小本の全体を構成しています。
 語り終えると、お釈迦さまが「その通りだ」と観自在菩薩をほめたたえ、それを聞いて聴衆が喜ぶ場面が大本の最後に記されています。
 小本にはお釈迦さまは一度も登場しません。登場人物は観自在菩薩と舎利子だけです。
 しかし、この両者の対話を作り出しているのは、ほかならぬ瞑想中のお釈迦さまなのです。
 このような説法の形式は仏典の一つの型(パターン)として珍しいことではありません。
 要するにお釈迦さまが語るべきことを、お釈迦さまの意を汲んで観自在菩薩が舎利子に向かって説く、というのが般若心経の中心場面となっているわけです。

No.10 


般若心経の全体の構成

 観自在とは文字通りには「観ること自在」という意味ですが、この方は別名を「観世音(かんぜおん)といい、略して「観音(かんのん)」と呼ばれます。
 観音菩薩は仏教史上、あらゆる地域で最も人気のある菩薩として信仰を集めてきました。ただし、ここではそうした信仰の対象としての観音菩薩ではなく、卓越した在家の求道者の一人として登場します。
 「観ること自在」という名の通り、この方が得た境地というのは、ある高みにおける見晴らしの良い眺望ともいうべきものでした。

かんじざいぼさつ
観自在菩薩          (観音菩薩が、)
ぎょうじんはんにゃはらみったじ
行深般若波羅蜜多時      (深遠な知恵を完成するための実践をされている時、)
しょうけんごうんかいくう
照見五蘊皆空         (人間の心身を構成している五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極めて、)
どいっさいくやく
度一切苦厄          (すべての苦しみを取り除かれたのである。)

≪五蘊は環境を含めて人間の心身を五種に分析したもの。「色」「受」「想」「行」「識」の五つ。≫
 観自在菩薩が深遠な般若波羅蜜多の行をしている時、(わが身は)五蘊なり、(しかもその五蘊は)皆空なりと照見した。
 般若心経の本文はこう始まります。
 般若波羅蜜多の行(修行)とは何か。それは「掲諦…」の真言を誦(とな)えることです。真言を静かに(あるいは心の中で)何度も繰り返して誦える修行を「念誦(ねんじゅ)法」(インドの言葉では「ジャパ」)といいます。それによって得られた眺望が「五蘊皆空」というものでした。

 このあと観自在菩薩が舎利子の質問にこたえるかたちで、「舎利子よ」と語りかけ、「五蘊皆空」の説明が始まります。有名な「色即是空」に始まり、「無智亦無得」までの段落が、その具体的な内容です。

しゃりし
舎利子    (そして舎利子に向かい、次のように述べた。舎利子よ、)
しきふいくう
色不異空    (形あるものは実体がないことと同じことであり、)
くうふいしき
空不異色    (実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。)
しきそくぜくう
色即是空     (したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、)
くうそくぜしき
空即是色     (実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。)
じゅそうぎょうしき
受想行識     (残りの、心の四つの働きの場合も、)
やくぶにょぜ
亦復如是     (まったく同じことなのである。)
しゃりし
舎利子      (舎利子よ、)
ぜしょほうくうそう
是諸法空想     (この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、という性質があるから、)
ふしょうふめつ
不生不滅      (もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、)
ふくふじょう
不垢不浄       (よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、)
ふぞうふげん
不増不減      (増えることもなく、減ることもないのである。)
ぜこくうちゅうむしき
是故空中無色    (したがって、実体がないということの中には、形あるものはなく、)
むじゅそうぎょうしき
無受想行識      (感覚も念想も意志も知識もないし、)
むげんにびぜつしんに
無限耳鼻舌身意    (眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もないし、)
むしきしょうこうみそくほう
無色声香味触法    (形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞれの器官に対する対象もないし、)
むげんかいないしむいしきかい
無限界乃至無意識界   (それらを受けとめる、眼識から意識までのあらゆる分野もないのである。)
むむみょう
無無明        (さらに、悟りに対する無知もないし、)
やくむむみょうじん
亦無無明尽      (無知がなくなることもない、)
ないしむろうし
乃至無老死      (ということからはじまって、ついには老と死もなく)
やくむろうしじん
亦無老死尽 (老と死がなくなることもないことになる。)
むくしゅうめつどう
無苦集滅道      (苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。)
むちやくむとく
無知亦無得      (知ることもなければ、得ることもない。)

 なぜそのような素晴らしい'眺望'が得られるかというと、これが「般若波羅蜜多」と称する真言を念誦する修行の成果にほかなりません。三世の諸仏も同じようにして最高のさとりを得ているのだとして、「故知(ゆえに知るべし!)」と続きます。

いむしょとくこ
以無所得故     (かくて、得ることもないのだから、)
ぼだいさった
菩提薩垂      (悟りを求めている者は、)
えはんにゃはらみった
依般若波羅蜜多   (知恵の完成に住する。)
こしんむけいげ
故心無圭礙     (かくて心には何のさまたげもなく、)
むけいげこむうくふ
無圭礙故無有恐怖  (さまたげがないから恐れがなく、)
おんりいっさいてんどうむそう
遠離一切転倒夢想  (あらゆる誤った考え方から遠く離れているので、)
くきょうねはん
究境涅槃      (永遠にしずかな境地に安住しているのである。)
さんぜしょぶつ
三世諸仏   (過去・現在・未来にわたる”正しく目覚めたものたち”は)
えはんにゃはらみつたこ
依般若波羅蜜多故   (知恵を完成することによっているので、)
とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
得阿耨多羅三藐三菩提   (この上なき悟りを得るのである。)
こち
故知         (したがって次のように知るがよい。)

 それゆえにどう知るべきだというのでしょう。
「般若波羅蜜多」はいかにすぐれた真言であるか、「これこそ大神咒」であり、「これこそ大明咒」であり、「これこそ無上咒」であり、「これこそ無等等咒」であると「知るべし」と、賛辞が連ねられます。

はんにゃはらみった
般若波羅蜜多      (知恵の完成こそが)
ぜだいじんしゅ
是大神呪      (偉大な真言であり、)
ぜだいみょうしゅ
是大明呪     (悟りのための真言であり、)
ぜむじょうしゅ
是無上呪     (この上なき真言であり、)
ぜむとうどうしゅ
是無等等呪     (比較するものがない真言なのである。)
のうじょいっさいく
能除一切苦     (これこそが、あらゆる苦しみを除き、)
しんじつふこ
真実不虚    (真実そのものであって虚妄ではないのである、と。)

 なお、この「咒」の原語はすべて「マントラ」であることを言い添えておきます。
 玄奘の時代には「マントラ」の訳語がまだ定まっておらず、「咒」とか「心咒」(あるいは「神咒」)とか「明咒」などとさまざまに訳されていたのです。
「マントラ」を「真言」と漢訳するようになったのは、玄奘よりもずっと時代が下ってからのことです。(なおまた、「咒」は「のろい」の「呪」ではないことにご注意下さい。)

 般若波羅蜜多というものは不思議な力があるということを讃え、だから、一切の苦しみを除き、真実にして、虚妄ではないというのです。では、その マントラ(咒=真言)はどういうものか、お教えいたしましょう、ということで、最後に「掲諦、掲諦…」の句が示されます。

こせつはんにゃはらみつたしゅ
故説般若波羅蜜多呪  (そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。)
そくせつしゅわつ
即説呪曰       (すなわち次のような真言である。)
ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝   (往き往きて、彼岸に往き、)
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝      (完全に彼岸に到達した者こそ、)
ぼうじ
菩提         (悟りそのものである。)
そわか
僧莎訶        (めでたし。)
はんにゃしんぎょう
般若心経      (知恵の完成についてのもっとも肝要なものを説ける経典。)

 その直後(末尾)に原典では尾題が添えられています。
 漢訳の最終句も「般若心経」となっていますから、いちおう尾題もそのまま訳出されているわけです。ただし、これを「尾題」といいましたが、それはしいてタイトルを探せばこれが相当するというだけのことで、本当はこれは本文の一部なのです。
「掲諦…」の句をうけて「これが般若波羅蜜多の心(真言)である」と訳すべき'文'なのでした。
 この最終句までが、観自在菩薩の台詞(セリフ)と解すべきでしょう。

これが般若心経の全体の構成です。

「羯諦」以下は、もとのサンスクリットの原音で申しますと、ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハーです。これはもちろん、訳すこともできます。
(ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー ハラソーギャーテー ボージーソワカー)

最初のガテー ガテーは「往ける者よ、往ける者よ」という呼びかけ。
パーラは彼岸のことですから、パーラガテーは「彼岸に往ける者よ」。
パーラサンガテーは「彼岸に全く往ける者よ」。
ボーディは「さとりよ」ということになります。
 最後のスヴァーハーということばはヴェーダの祭りでよく使うことばです。それがここに取り入れられたのですが、「幸あれ」「幸あれかし」と訳すことができるかと思います。
漢字に訳すとなかなか趣意がうまく伝わらない。むしろ、不思議な力を保つためには訳さないほうがいい。それで、このように音だけを写して、ここに記されたのでしょう。


No.11 


空の境地

 空(くう)……内面の精神宇宙そのもの、または精神世界に存在するもの。

 これを何も存在しない空っぽと解してはいけません。存在しないのは無です。
 私は物理学の世界だと理解しています。見えないけれども存在しているという状態のことです。

 空については、いろいろな立場で、解釈されています。
 スピリチュアル系の、次のような解釈がありました。
 眼に見え五感に触れるものすべての実体は魂の世界すなわち「空」にある。見えたり意識したりする表面的な存在へのこだわりと執着を捨てて、魂の世界「空」に深く入って行こう。
 「空」の世界では、体も心も一切の迷いもなく、迷いがもたらす苦もなく、苦を逃れる必要もない。
 「空」の世界のエネルギーに一体化して、この上ない安心と充実の境地に入ることが出来る。
 全き世界「空」の境地を知ってこそ人は救済されるのである。
「空」とは、魂の世界と解釈しています。面白いですね。

 以下、ウィキペディアによると
「空」の概念は非常に難解であるが故に、しばしば「虚無(無)」と混同されがちである。しかし本来は全く異なる概念であり、むしろこの虚無も「空」によって成立する物事の一部である。
 般若心経の一節「色即是空 空即是色」は、「すべての物事(色)は空によって成立しており、空こそがすなわち物事(色)である」というような意味であるが、この一節こそが空をもっとも的確に表現している。
 この世のすべての物事(色)は相互に因縁によって結びつき、ある現象を構成している。つまりこの因縁の関係性こそが「空」なのである。
≪解ったようでよくわかりません。≫
 存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っています。この関係性を釈迦は「縁起」として説明しています。これを空もしくは「空性」と呼んでいるのです。

≪宇宙物理的な法則のことだと理解すればよいのでしょうか?≫

No.12 


空の概念

 空には大別して2つの概念があります。
 一つはアビダルマ(部派仏教)での空、いま一つが大乗仏教での空です。
 空の概念をザックリ言うと「固定的な存在なんてない。全ては変化し、実体はない」みたいな感じです。

 たとえば、水。
 水はある時は液体で、ある時は固体で、ある時は気体です。しかも、塩を溶かせば塩水で、砂糖を溶かせば砂糖水です。人が飲めば体液にだってなります。これらの水の変化はどれもが水の本当の姿であり、どれもが水の仮の姿です。
 しかも、水を認知する私たち人間もまた、「空」です。
 だから水は水でも、ある時は美味しそうに見えるし、ある時は味気なさそうに見えたり、イロイロです。水はさらに変化してやみません。つまり、「全ては変化し、永遠不変の実体はない→空」 …です。

 ここで、「たとえ氷だろうと水蒸気だろうと、実体はH2Oじゃん?」…っとなるのは当たり前です。

 ここからがアビダルマと大乗の違い。

①アビダルマ:『倶舎論』(くしゃろん)という本の「空」概念

 こっちでは、H(水素原子)やO(酸素原子)という本体を認めます。(驚くべきことに仏教では約二千年前に原子の存在を推定していました)
 HやOは永遠に不変なんだけど、常に水や氷のような仮の姿を、あっちに行きこっちに行きして、これこそがH2Oの真の姿だ!っていう実体がない…。つまり、永遠不変の水なんて存在しない。…というカンジです。

②大乗仏教:『中観』(ちゅうがん)という本の「空」概念

 こっちではHやOのような本体を認めません。
 水は一時的に水として確かに存在する。氷は一時的に氷として確かに存在する。けれども水や氷の本質・本体は空っぽである(無である)。
 つまり、固定的なH2Oなんて存在しない。しかし、(一時的に仮の姿として存在するのだから)H2Oが無い(無である)というわけではない。…という感じです。

 大乗の「空」は中国人が輸入した時に、「空」を老荘思想の「無」の概念に置き換えながら理解したので、変な概念になりました。(今の日本人がキリスト教の天国と仏教の極楽を置き換えながら理解するのと同じです。)
 ちなみに般若心経の空は大乗の空です。般若心経の前半はアビダルマの空批判になっています。

「空」の正確な理論は一朝一夕に理解できません。

≪なかなか難しいですね≫

No.13 


言霊

 ネットで次のような説明を見つけました。
 釈迦は仏のエネルギーがさまざまに変化していく姿、つまり形あるものが、形なきものへと変わり、形なきものが、形あるものへと変わる姿を「空」という言葉で説いたのです。
 また、人間の肉体は死により滅びても、霊魂は生き続け、霊界へ帰って行く事、そして霊界で生活していた霊魂が、魂修行のため、再びこの世へ生まれて来る事、つまり目に見える世界と、目に見えない世界の間で、人間が輪廻転生している事実を色即是空、空即是色と般若心経で説いたのです。
≪思考宗教、幸福の科学?の考え方でしょうか。違和感を感じます。≫

 とにかく、「わからない」ということがよくわかります。こんな言葉の定義を考えていても、「机上の空論」です。それよりも大切な事は、日々の生活の実践において、「ほとけの智慧の完成」を目指す姿勢だと思います。

 過去、般若心経の使われ方を見ていますと、そこに人間の欲や苦しみや悲しみが染みついているような気がしています。それで、過去、毎日のように仏壇で唱えていた「般若心経」を止めました。


因縁によって存在している

 哲学に次のような考え方があります。
「我々が見ているこの世界は、すべて心の中にある。逆に、心の外にモノは存在しない」あるいは「我々の心の中の世界の他には何も無い、我々は実は一人一人の心の世界に住んでいる」という考え方です。
 自分という存在、自我という心がなければ、自分以外の世界を認識することができないからです。だから、目に見える世界は、すべて自分の中にあります。

 仏教では、我々の属しているこの世界の物とかデキゴトは、仏教では、「縁起」という概念で、現れたり、消えたりしながらしていると見ています。つまり、私やあなたという存在も何らかの因縁によって存在している、と見るのです。そして、私やあなたの存在している根拠となる縁は、私やあなた以外のさまざまな要素によって成り立っています。
 したがって、私やあなたの存在の根拠であるこの縁が消えると、私とあなたの存在もなくなります。

 言い方を変えれば、この世界は無常です。因縁によってコロコロ変化します。
 このように因縁によって現れては消えていく事象の中に、はたして本質があるでしょうか。仏教では、現れては消えるものには本質はない、そこには何も無い空っぽだと説きます。

 すなわち空です。
 空という概念は、中身は空っぽ、そこには本質は無く、つまり空なのです。
 だから、空とは、不生不滅、不垢不浄、不増不滅だそうです。そのまま読めば「生まれ無い、滅し無い、よごれ無い、きよく無い、増え無い、減ら無い」となります。もろもろの現象は因縁、つまり原因と条件があって起こるだけなのです。
 生だけでなく、滅・垢・浄・増・減でも同じように、無常であること、空であることを説いています。そして、空には、過去も未来も現在も無いのです。始まりも終わりもありません。
 生と滅にしろ、垢と浄にしろ、あるひとつのことが同時に起きることはありません。必ず時間差があります。そしてこの六つの状態、生・滅・垢・浄・増・減はともに「不」であり、因縁によって存在するのですから、永遠不滅ではないのです。
 このように、過去も未来も現在も無いものですから、時間的区分というのは意味をなしません。

≪独論ですが、この空の概念は、理念という人間が創りだした概念の中にあるということでしょうか。自然の中に存在しているのではなく、一種の理論であるということでしょうか。解脱という悟りも、理念ですから、空です。≫


No.14


「空」とは光

 晴れている空には、太陽の光は見えませんが、雲の切れ間からは、太陽の光が注いでいるのがわかります。それが『瑞雲』です。
 光は在るのか無いのか、その正体は何でしょうか。

 私が感じる「空」とは、光です。白い光が、あたり一面を照らしているイメージです。
 太陽から光を浴びて生きている私たちは、その太陽に向かっていきたいと本能的に感じています。白い光が、外に広がるにつけて、まわりの暗闇との共鳴によって、七色に光が変化し、現象(色)として、見えている。
 そう見えるだけで、そこには何もありません。無限の揺らぎによって、常に変化し続けている状態です。
 そして、その光の糸が、私たち一人一人と繋がっています。
 また、その糸は、すべての存在(色)と繋がっています。

 繰り返しになりますが、「般若心経」というありがたい?お経を唱えることで、自分が救われるなどと考えることは、ちょっと違うぞと思うのです。

 その呪文の中に、霊的なエネルギーがあるのなら、逆に危険かもしれません。一時は、そのエネルギーによって救われるかもしれませんが、その反動があるからです。

 今まで何の不思議も感じずに、般若心経を唱えてきた私の価値観を自分で壊してしまいました。この記事を書いた10年ほど前から、仏壇で般若心経を唱えることが少なくなりました。
 ご先祖様に対する感謝の気持ちで手を合わせているだけです。ただ苦しいとき、何かにすがりつきたいときは自然に般若心経を唱える自分がいます。
 勝手なものです。