祈りの言葉
「祈り」とは、「神ないし神格化されたものとの意思の疎通を図ろうとすること」とありました。自分自身の心との「意思の疎通」といえます。あるいは「神に何かを願うこと」という意味もありますが、良く考えるとこれはおかしなことです。神は平等ですから、個人の願いだけをかなえてくれるというような事はありません。
それでも、人は祈ります。人はいろんな場面で祈ります。
明日の天気を祈り、旅の無事を祈り、家族の幸せを祈り、病気の平癒を祈り、死者の冥福を祈ります。
泣いたり笑ったりするのと同様、祈りは人間に特有の営みであり、人間本来の自然な感情にもとづくものです。
もちろん、祈るだけですべては何とかなると思っている人はいないでしょう。でも人知人力には限りがある以上、人は祈らずにはいられません。もしいまだかつて一度も祈ったことがないという人がいたら、自分の限界に気づいたことのない余程傲慢な人に違いありません。
その意味で、祈ることはむしろ人の謙虚さのあらわれだといえましょう。
祈りの言葉は常に真実です。
たとえば明日は天気になってほしいから「あした天気になーれ」と祈るのであり、心の中ではその反対のことを考えているなどということはありません。これに対して普通の人間同士の言葉にはウソ偽りや虚飾がたくさんあります。私たちは常に真実の言葉を語っているとはいえません。
祈りの言葉とは人間同士の言葉ではありません。
「あした天気になーれ」は、だれに向って語る言葉でもなく、人間以上の何かに向けられた言葉です。それが祈りの言葉であるゆえんです。そしてその言葉は常に真実の言葉なのです。
このような祈りの言葉をインドの古い言葉(サンスクリット語)で「マントラ」といいます。
翻訳すると、「真言(しんごん)」です。
真言だからこそ、その取り扱いには注意が必要です。薬も使い方によっては毒になります。
実は、私はこれから「般若心経」について述べようと思っています。日本人にとって一番ポピラーなお経が、般若心経です。般若心経は古くから困ったとき日本人のお守りとして使われてきました。しかし、私を含めてその意味を理解している人は、どれぐらいいるでしょうか。