Mythology

  天孫降臨物語

 日本神話「天孫降臨」の考察

 過去のブログをもとに新しく再編しました。2022/06/15~

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 日本神話って面白いですね。他国であれば神話は統一されてることが多いですが、日本は好きなものを信じれば良いというスタンスで古事記と日本書紀で違った内容が書かれています。
 高天原は天界のこと。そして人間の住む地上を「葦原中国(あしはらのなかつくに)」と言い、死後行く地底のことを「黄泉の国(よみのくに)」と表現していますが・・・。

 高天原 (たかまがはら)が、もし実際に存在していたのであれば、優れた文明を持った民族の住む地域であると考えられます。
 日本神話の天津神は、優れた文化を持つ民族で、稲作やその他様々な文化を、まだそれを持たない日本という国の人に広めた優れた人々を神様として描いたもの。つまり、【Jofuku 徐福伝説 】に繋がっていると私は考えています。そしてそれら神々がやってきたのが九州の地であったと考えますので、高天原 (たかまがはら)は九州にあったと考えます。
 ては、九州のどこだったのか?

 天孫族は古代朝鮮半島北部の高句麗王族ないし扶余系民族に通じる種族とする説があります。現在の朝鮮半島北部の地方を故地とする扶余族などと同系の種族で、朝鮮半島南部から東へ、対馬島を根拠地として、紀元1世紀前半頃に日本列島に到来したとされます。(『後漢書』東夷伝に書かれてある、倭国騒乱の時代か?)
 北九州の松浦半島に上陸した後は、松浦川に沿って奥地に溯り、天山南方の佐賀平野を西から東に進んで、筑後川の中・下流域、水縄山地(身納山脈)、特に高良山の北麓から西麓の辺り、筑後国の御井郡・山本郡を中心とする地域に定着したとされ、ここが高天原だという説です。
 私の説は異なっていて、紀元前二一○年頃に、徐福を中心とした中国からの大移民団が天孫族の祖であり、高天原とは、筑後平野全体で、その中心地は八女地方だと考えています。

 この仮説をもとに、「天孫降臨」を考察し解釈しました。
 個人的な妄想も入っていますので、「面白い小説」程度に考えてください。


No.01 
古事記より

葦原中国の平定前

 天孫降臨(てんそんこうりん)は、アマテラスの孫であるニニギが、葦原中国(あしはらのなかつくに)平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話の説話です。

 


 最初は、アマテラスの子供のアメノオシホミミ(正しくは正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)。スサノオとの誓約で生まれた子)が治めるべき国である、と言ってオシホミミを地上に降ろそうとしますが、オシホミミは「地上は騒がしくて手に負えません」と言って帰って来てしまいます。

 この逸話はダメなわが子がその地方の征服に失敗して逃げ帰ってきた様子が描かれており、実際の事件らしさを漂わせているのではないでしょうか。

 そこで高天原の神々の合議の結果、オシホミミの弟の天菩比神(天穂日神,アメノホヒノカミ)が派遣されることになりますが、ホヒノカミは大国主神の家来になってしまい、3年たっても戻って来ませんでした。

 つまり、征服しようと思っている地域には、すでに別の国主、大国主神(オオクニヌシノミコト)がいたわけです。そしてこの大国主神とは、固有名詞ではなくて、その地方の首長という意味かもしれません。


 そこでまた合議の結果今度は天若日子(アメノワカヒコ)が派遣されることになります。ところがワカヒコは地上に降りると美濃の国で大国主神の娘の下照姫と結婚し自分がこの国の王になってやろうと考え8年たっても戻りませんでした。
 つまり、ここまでに十二年以上かかっています。

 ここで高天原の神々はワカヒコの所へ使いとして雉鳴女(キギシノナキメ)を遣わします。
 ナキメが「あなたの使命はどうしたのです?」とワカヒコを問いただすと、ワカヒコは弓矢でナキメを射殺してしまいます。この時ナキメを射抜いた矢が高天原にまで達して、その矢を高産巣日神(タカミムスヒノカミ)が拾いました。
 この方は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、神産巣日神(カミムスヒノカミ)とともに、最初に高天原に出現された神様です。

 見るとそれは自分がワカヒコに渡した矢です。
 そこでヌシノカミは「ワカヒコが使命を忘れておらずこの矢は誰か悪者が放ったものであればワカヒコには当るな。もしワカヒコの邪心があればこの矢に当れ」と言って矢を下に落しますと、見事にワカヒコの胸を射抜きました。(これを還し矢といいます)

 実際には、雉鳴女(キギシノナキメ)暗殺事件が、証拠の品『矢』とともに、高天原に知らされ、その報復がなされたと思われます。

 ワカヒコの死を嘆く下照姫の鳴き声が天上まで響くと、ワカヒコの父は哀れんで地上におり、馬鹿なわが子の為に葬儀の手配をしてやりました。
 また友人(というか下照姫の兄)の味鋤高日子根神(アヂスキタカヒコネ)も弔いに訪れましたが、タカヒコネがワカヒコとよく似た風貌であったため、まだ地上にいたワカヒコの父が「私の息子が生きていた」と言って抱きついて来ました。
 するとタカヒコネは「間違えるな」と怒って、剣を抜いて喪屋を切り倒すという一幕もありました。

 暗殺事件のエピソードです。この事件現場は、『出雲の国』になります。

 
 さて、高天原では次に誰を派遣するかという話になるのですが、やはり強い神でなければならないということで、建御雷之男神(タケミカヅチノカミ)と経津主神(フツヌシノカミ)が派遣されることになります。
 先に派遣された神様たちに比べて、この二人はたいへん任務に忠実でした。
 神は大国主神の前にズカズカと進み寄り、剣を抜いて地面に突き刺して「この国は天照大神の子が治めるべき国である。そなたの意向はどうか」と言います。
 すると、大国主神は、自分が答える前に息子の事代主神(コトシロヌシ)に尋ねるようにと言います。

 そこでタケミカヅチノカミは美保ヶ崎(島根県松江)に行き事代主神(コトシロヌシ)に国譲りを迫ると、事代主神(コトシロヌシ)はあっさりと「承知しました」と言って家に引き篭ってしまいます。
 そこでタケミカヅチノカミは再び大国主神に「他に何か言う奴はいるか?」と聞きますと、大国主神は「もう一人の息子、建御名方神(タケミナカタノカミ=福岡県宗像?)にも聞いてみてくれ」と言います。

 大国主神は北部九州から中国地方一帯の国神ではなかったのか?
つまり、福岡県の宗像地方から島根県の出雲地方まで、日本海海岸沿いの地方の征服物語ではなのかと考えています。


 タケミカヅチノカミは事代主神(コトシロヌシ)に比べると荒っぽい神様でした。
 タケミカヅチノカミが国譲りを迫ると、建御名方神(タケミナカタノカミ)は巨大な岩を抱えて来て、力比べを挑みます。そして「どれお前の手をつかんでやる」と言ってタケミカヅチノカミの手を握ろうとすると、タケミカヅチノカミの手はたちまち剣の刃に変化しました。
 建御名方神(タケミナカタノカミ)は慌てて手を引っ込めます。そして今度はタケミカヅチノカミが「では今度は俺の番だ」と言って建御名方神(タケミナカタノカミ)の手を握ると、その手は草にようにぎゅっと握りつぶされてしまいました。
 慌てて建御名方神(タケミナカタノカミ)は逃げ出しますが、タケミカヅチノカミも追いかけていきます。
 二人は追いかけっこをして、とうとう諏訪湖(長野県の諏訪?)までやってきました。そしてもう逃げ切れないとみた建御名方神(タケミナカタノカミ)は、俺はもうこの地から出ないから殺さないでくれ、と嘆願するのです。
 タケミカヅチノカミもこれで目的を達したとして、その言葉を信じ、再び大国主神の所に行って、さぁどうすると尋ねます。
 すると大国主神は「二人の子供が高天原の神に従うというのであれば私も逆らわないことにしましょう。その代わり私の住む所として天の子が暮らすのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。私はそこで幽界の支配者になりましょう。現世のことはあなたたちにお任せします。私の180人の子供たちも事代主神(コトシロヌシ)に従って貴方たちには抵抗しないでしょう」と言いました。
 そこでタケミカヅチノカミはそのような立派な宮殿(出雲大社?)を建てさせ、高天原に復命しました。

 幽界の支配者になるとは、自殺する?ということか。



迩迩芸命(ニニギノミコト)登場 

 さて、地上の国が天照大神の子に譲られることになったので、天照大神は最初の予定通り天之忍穂耳命を下らせようとしますが、この時天之忍穂耳命に子供が生まれたので、その子(天照の孫)迩迩芸命(ニニギノミコト)が代わって降臨することになりました。
 このニニギには八尺の勾玉・鏡・草薙剣の三種の神器が渡され、天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命・思金神・手力男神・天石門別神・登由気神・天石戸別神などの神が付きしたがって地上へと降りて行きました。
 この時、道の途中に何やら見知らぬ神の姿がありました。ここで居並ぶ神たちは恐れをなして近付きたがらないのですが、天宇受売神が様子を見に行きます。
 そして「あなたは誰ですか?」と尋ねるとその人物は「私は国津神で猿田彦神といいます。天孫が降りて来ると聞き、道案内をする為にやってきました」と言いました。

 (国津神とはその地方を治めていた豪族?ではないでしょうか。私の個人的な説ですが、猿田彦神は日田の豪族で、このあたりの地名は「日本」ではなかったか。)

 そこで一行は猿田彦神に先導を頼み、地上へと降りて行くのです。

天つ神(あまつかみ)は天津日子番能邇邇芸(あまつひこほのににぎ)に命令を下した。
邇邇芸(ににぎ)は高天原の神座をつき離し、天空に幾重いくえにもたなびく雲を押し分け、神威をもって道をかき分けた。
途中、天の浮橋から浮島にお立ちになり、筑紫の日向(ひむか)の高千穂の霊峰に、天降りになった。


 神々が降りて来た地は宮崎県の高千穂の地でした。

 ここでちょっとわからなくなります。この高千穂が天孫降臨の場所だとしたら、高天原は別の場所になります。もちろん、天上から降りてきたと解釈すればよいのでしょうが、話があまりにも人間くさく、出雲の国の征服物語だとしか思えないからです。
 移住して言った場所に、もと自分がいた場所の地名をつける例がよくありますから、新高天原なのかもしれません。
 高天原は九州の邪馬台国であるという意見もあります。
 天照大神は邪馬台国の女王卑弥呼で、天照大神を旧事本紀では大日霊女貴尊(おおひるめむち)と言っています。日霊女はひみこ、ひるめで、中国では卑弥呼の文字を使っていたのだという考え方です。
 この時の邪馬台国は北部九州にあり、山陰の出雲の国と争っていたと考えれば、すんなりと理解できます。ちなみに、私は邪馬台国『八女』説で、黒木町に『日向神』という地名があります。


 ニニギが降臨した場所で、「この地は韓国に向かい、笠沙の岬(宗像)に真来通て、朝日のまっすぐ射す国、夕日の日が照る国である。」と言っています。
 この場所を考えると、高千穂の峰(日子山=英彦山)から宗像の方向を望んで、儀式を行なったのではないかと想像してしまうのです。
 笠沙(かささ)は、三笠川がある福岡市付近か、宗像の鐘崎あたりであり、約すと、「この場所は、笠沙の地を真っ直ぐに突き抜けて韓国に向かって(南に)通った(場所であり)、太陽がサンサンと降り注ぐ良い場所である。」となり、地理的な条件が一致します。

 大胆な推論ですが、筑後平野にあった「邪馬台国連合」の中心地、「高天原」(八女)から、星野を抜けて「浮羽」から 日田に遠征。ここで猿田彦神に先導を頼み、英彦山から宗像方面へ進んでいったのではではないかと考えています。

この我論の根拠をいろいろな観点から考察していきます。

No.02 
徐福伝説より

 一般には余り知られていないが、徐福(じょふく)は大規模な中国からの移民団の指導者であり、日本の国の歴史の始まりともいえる弥生時代前期の日本に重要な関わりを持つ「実在の人」です。
 古代史ファンの一人として、以前から「日本」の成立はいつからか、倭国と日本の違い、邪馬台国は何処にあり、どんな国か等に興味があり、いろいろな本を読むうちに徐福に出会いました。

「徐福伝説」参照

   ここで、「古事記」に書かれている「天孫降臨」との関係が気になります。

 天神(あまつかみ)が高天原に「降臨」する以前は何処にいたのか。神話に書かれている天神は海ツ神であり、天の浮船(帆船)で天国(中国)から渡来した弥生人(中国人)たちではなかったかと私は考えていました。
(一説には、天国は朝鮮のことであり、朝鮮からの移住者が天神となったとも言われています。)
 彼らに「国譲りを強要され」滅ぼされた国神(くにつかみ)も渡来人であり、彼ら以前に日本に移住して住みついた朝鮮系・大陸系の渡来人たちです。
 そして支配され僻地に追いやられたのが、さらに国神より古く縄文時代に南の方から移り住んできた縄文人であり、エゾ・クマソと呼ばれる人たちではなかったか。歴史についてそんなことを以前から考えていました。

 人間の骨から人種を考える形成人類学という学問によると吉野ケ里で発掘される弥生人は、山東半島で発掘された頭蓋骨の特徴と一致するそうです。西日本に広がる弥生人のルーツは山東半島付近から渡来してきた中国人と考えられると結論づけられています。
 時期的にも、紀元前二百年頃と推定され、一致します。その時代以降から爆発的に弥生人の人口が増えたと考えられ、その人骨も北部九州から近畿まで広範囲に広がっています。
 しかし、中部地区あたりから関東・東北にかけては縄文人の人骨が多く、次第に混血していったと考えられていて、考古学的な観点から考えても、神話に書かれている状況と一致するように思われるのです。

 天孫族(中国からの移民団)を引き連れて日本に降り立ち、稲作と文化を持ち込み、北部九州から始めて日本を統一したその一族の物語が「神話」となり、口伝によって伝えられ、天皇家に引き継がれた。それが「紀記」としてまとめられ残されたと考えています。


百工と八幡神 

 徐福が渡来したとの伝承が残る佐賀では、大船二十艘で子女、「百工」合わせて七百人あまりが渡来したと言われている。 「百工(ひゃっこう)」とは、あらゆる情報・技術の習熟者と考えられ、製銅、製鉄、製薬、農産、養蚕、製糸などのすべての中国文明のノウハウをそのまま蓬莱に持ち込もうと言う大集団の移住計画であった。この数の人間が、八年後の紀元二一○年に順次移住していった。
 「百工」らは、新天地での新しい生活を夢見て徐福に協力し、徐福と共に日本に渡り「八幡神」と言われるようになったのではないかと考えたのである。
「海人と天皇」(梅原猛)という本に「八幡神」について次のように書いてあった。
「八幡神」は古い神で鍛冶の神である。海と関係が深く、西の方にある常世からやってきた。常世とは向こう側の世界である。人々は「富」と言うものはあちら側の世界からやってくるものと信じていた。
 徐福の伝記に出てくる「百工」を考えるとどうしてもこの「八幡神」をイメージしてしまうのである。
 (なお、神功皇后、応神天皇が祭られている宇佐神宮は、この「八幡神」の総本宮である。)

 当時最先端の技術を持った彼らが、倭国の西方にある「中国」から「天孫族」として移住してきたのです。

No.03 
日本考


 以前、ブログに次のように書いています。
 日本書紀「神武記」に、日本の国号の始源について次のような文章がある。
(参照、「盗まれた神話」古田武彦)
 昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、此の国をなづ目けて曰く「日本は浦安の国、細戈(くわしほこ)の千足(ちた)る国、礎輪(そわ)のほとり上の秀真国(ほつまくに)」と。
 古田氏によると、この言葉の中には、筑紫の地名がちりばめられているそうである。
 浦安の「安」は朝倉郡にある夜須。浦には海辺のイメージもある。礎輪の礎は曾で地形接頭辞。固有名詞は「輪」である。夜須町の東隣の三輪町も三は地形接頭辞で尊称を表し、固有名詞は同じく「輪」である。つまり、礎輪は三輪を表している。
「細戈の千足る国」は「筑紫戈(ちくしほこ)」の地、筑紫の美称と古田氏は述べるが、この点は若干考えが異なる。筑後平野は東に向かって戈のように狭くなっている。その吉井町の東に千足という地名が残っている。この地域を表しているのではないかと考える。また、チタがヒタ(日田)の由来かも知れない。また、「つま」は上妻・下妻であり、八女市・筑後市にその地名が残っている。
 「日本」と言う地名は、この筑後平野一帯の地名ではなかったかと考えるのである。
 さらに「天孫降臨」の場所についても次のように考える。
 古事記にある「ニギニギノ命」が天国から降臨した場所「筑紫の日向の高千穂のくしふるみね嶺(峰)」とは、この三根(嶺)町付近ではなかったか。
 神話にあるニギニギノ命は赤ん坊であったという。童男童女を意味し「嶺」とは山の上ではなく場所をあらわしていると考えた。その地の北には「上峰」町がある。
 なお「くしふる」とは「筑紫(ちくし千串)」の「くし」と同一であり、広々とした野原を意味している。

 国生み神話によると、九州の古い呼び名は次の通りである。
 筑紫国・・・しらひべつ白日別 (北)
 豊 国・・・とよひべつ豊日別 (東)
 肥 国・・・たけひむかひ とよ く し ひ ねわけ建日向日豊久士比泥別 (西)
 熊曽国・・・たけひべつ建日別 (南)

 この中で肥国だけが長たらしい名前である。特別なものを感じる。
 この読み方は、次の三つに分かれる。
一、建、日向、日豊、・・・建は尊称「偉大な」。日向は「日に向かい」。日豊は「日が豊か」。
二、久士比、・・・クシヒ。広々とした「ソ」の「原」。九千部、千布、香椎、九池井。古田氏の説によると「く奇し火」の意味であり、「不知火」の意味。
三、泥別、・・・ネのワケ。ネは三根、美野、美濃などの根、野と同じく「国土」の意味。ワケは分けられたもの分国。 また「泥」には低湿地のイメージがある。

 私流に解釈すると次のようになる。
 当時「日本国」の範囲は北九州地方に限られた小さな国であり、「日の国」と呼ばれていた。そしてその国は東西南北四つの国に分けられた。(日別(ひわけ)とは、日の国が分かれたものである。
 北にある筑紫国とは、「チ・クシ」であり、いくつもの広々とした国が集まったものであり、その古称である「白日別」の「白」には、白く霞む平野のイメージがある。春日市や太宰府、筑紫野市、三輪町、甘木・朝倉地区の総称であると考える。
 豊国とは「日本(ひのもと)」の東にあり、太陽に近い山の国であり、日田、豊前・豊後地方と考える。
 西に広がる肥国とは、偉大なと言う尊称が付いているので、別の地区と違い国の中心であり、太陽が降り注ぐ平野で豊かな「日本(ひのもと)」国の祖国であり、佐賀平野、八女・大牟田地区の有明海沿岸地方と考える。
 南にある熊曽国とは「日の国」とは別につくられた国と言う意味にも思われる。

 ここで思いつくのは三世紀頃の邪馬台国と対立していた別の国「狗奴国」である。
 佐賀に残る徐福伝説によると、佐賀には三男の徐林が来たが、熊本には次男の徐明が移住したとある。「狗奴国」としては、邪馬台国と同等の建国意識を持ち、邪馬台国に従わず独自の道を貫くのも当たり前であったのかも知れない。

 また、古事記の「天孫降臨」で「くしふる嶺」に降り立ったニギニギノ命が言った言葉「このくに地はからくに韓国に向かい、かささ笠沙のみさき御前をマキ通りて、朝日のただ刺す国、夕日の日照る国 なり。」
 笠沙は、三笠川がある福岡市付近か、宗像の鐘崎あたりであり、約すと、「この場所は、笠沙の地を真っ直ぐに突き抜けて韓国に向かって(南に)通った(場所であり)、太陽がサンサンと降り注ぐ良い場所である。」となり、地理的な条件が一致する。
 私はこの紀記に残る言葉と童男童女を引き連れて移住してきた徐福に、同じ感慨を感じたのである。この場所こそ「ひのもと日本」であり、天孫降臨の地の名前であり、後に奈良の大和朝廷が王朝の正当性を主張するために国の名前を「ひのもと日本」にしたのではないかと私は考えた。
 「日本」の創造者、徐福と童男童女、百工達は今の筑後川河口の諸富町に上陸し、さらに筑後川をさかのぼり、三根町付近に船着き場をつくり、さらに田手川沿いに現在の吉野ケ里周辺に至り、日本で最初の「王国」を造ったと想像してしまうのである。

 大分県の「日田」を支配していたのは日下氏であることから、この地方が日本の地名の起りではないかという説もあります。河内にも日下氏の名がありますが、九州から移住していったのではないかと考えます。

Short Column No.03 


Short Column No.04

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