葦原中国の平定前
天孫降臨(てんそんこうりん)は、アマテラスの孫であるニニギが、葦原中国(あしはらのなかつくに)平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話の説話です。
最初は、アマテラスの子供のアメノオシホミミ(正しくは正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)。スサノオとの誓約で生まれた子)が治めるべき国である、と言ってオシホミミを地上に降ろそうとしますが、オシホミミは「地上は騒がしくて手に負えません」と言って帰って来てしまいます。
この逸話はダメなわが子がその地方の征服に失敗して逃げ帰ってきた様子が描かれており、実際の事件らしさを漂わせているのではないでしょうか。
そこで高天原の神々の合議の結果、オシホミミの弟の天菩比神(天穂日神,アメノホヒノカミ)が派遣されることになりますが、ホヒノカミは大国主神の家来になってしまい、3年たっても戻って来ませんでした。
つまり、征服しようと思っている地域には、すでに別の国主、大国主神(オオクニヌシノミコト)がいたわけです。そしてこの大国主神とは、固有名詞ではなくて、その地方の首長という意味かもしれません。
そこでまた合議の結果今度は天若日子(アメノワカヒコ)が派遣されることになります。ところがワカヒコは地上に降りると美濃の国で大国主神の娘の下照姫と結婚し自分がこの国の王になってやろうと考え8年たっても戻りませんでした。
つまり、ここまでに十二年以上かかっています。
ここで高天原の神々はワカヒコの所へ使いとして雉鳴女(キギシノナキメ)を遣わします。
ナキメが「あなたの使命はどうしたのです?」とワカヒコを問いただすと、ワカヒコは弓矢でナキメを射殺してしまいます。この時ナキメを射抜いた矢が高天原にまで達して、その矢を高産巣日神(タカミムスヒノカミ)が拾いました。
この方は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、神産巣日神(カミムスヒノカミ)とともに、最初に高天原に出現された神様です。
見るとそれは自分がワカヒコに渡した矢です。
そこでヌシノカミは「ワカヒコが使命を忘れておらずこの矢は誰か悪者が放ったものであればワカヒコには当るな。もしワカヒコの邪心があればこの矢に当れ」と言って矢を下に落しますと、見事にワカヒコの胸を射抜きました。(これを還し矢といいます)
実際には、雉鳴女(キギシノナキメ)暗殺事件が、証拠の品『矢』とともに、高天原に知らされ、その報復がなされたと思われます。
ワカヒコの死を嘆く下照姫の鳴き声が天上まで響くと、ワカヒコの父は哀れんで地上におり、馬鹿なわが子の為に葬儀の手配をしてやりました。
また友人(というか下照姫の兄)の味鋤高日子根神(アヂスキタカヒコネ)も弔いに訪れましたが、タカヒコネがワカヒコとよく似た風貌であったため、まだ地上にいたワカヒコの父が「私の息子が生きていた」と言って抱きついて来ました。
するとタカヒコネは「間違えるな」と怒って、剣を抜いて喪屋を切り倒すという一幕もありました。
暗殺事件のエピソードです。この事件現場は、『出雲の国』になります。
さて、高天原では次に誰を派遣するかという話になるのですが、やはり強い神でなければならないということで、建御雷之男神(タケミカヅチノカミ)と経津主神(フツヌシノカミ)が派遣されることになります。
先に派遣された神様たちに比べて、この二人はたいへん任務に忠実でした。
神は大国主神の前にズカズカと進み寄り、剣を抜いて地面に突き刺して「この国は天照大神の子が治めるべき国である。そなたの意向はどうか」と言います。
すると、大国主神は、自分が答える前に息子の事代主神(コトシロヌシ)に尋ねるようにと言います。
そこでタケミカヅチノカミは美保ヶ崎(島根県松江)に行き事代主神(コトシロヌシ)に国譲りを迫ると、事代主神(コトシロヌシ)はあっさりと「承知しました」と言って家に引き篭ってしまいます。
そこでタケミカヅチノカミは再び大国主神に「他に何か言う奴はいるか?」と聞きますと、大国主神は「もう一人の息子、建御名方神(タケミナカタノカミ=福岡県宗像?)にも聞いてみてくれ」と言います。
大国主神は北部九州から中国地方一帯の国神ではなかったのか?
つまり、福岡県の宗像地方から島根県の出雲地方まで、日本海海岸沿いの地方の征服物語ではなのかと考えています。
タケミカヅチノカミは事代主神(コトシロヌシ)に比べると荒っぽい神様でした。
タケミカヅチノカミが国譲りを迫ると、建御名方神(タケミナカタノカミ)は巨大な岩を抱えて来て、力比べを挑みます。そして「どれお前の手をつかんでやる」と言ってタケミカヅチノカミの手を握ろうとすると、タケミカヅチノカミの手はたちまち剣の刃に変化しました。
建御名方神(タケミナカタノカミ)は慌てて手を引っ込めます。そして今度はタケミカヅチノカミが「では今度は俺の番だ」と言って建御名方神(タケミナカタノカミ)の手を握ると、その手は草にようにぎゅっと握りつぶされてしまいました。
慌てて建御名方神(タケミナカタノカミ)は逃げ出しますが、タケミカヅチノカミも追いかけていきます。
二人は追いかけっこをして、とうとう諏訪湖(長野県の諏訪?)までやってきました。そしてもう逃げ切れないとみた建御名方神(タケミナカタノカミ)は、俺はもうこの地から出ないから殺さないでくれ、と嘆願するのです。
タケミカヅチノカミもこれで目的を達したとして、その言葉を信じ、再び大国主神の所に行って、さぁどうすると尋ねます。
すると大国主神は「二人の子供が高天原の神に従うというのであれば私も逆らわないことにしましょう。その代わり私の住む所として天の子が暮らすのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。私はそこで幽界の支配者になりましょう。現世のことはあなたたちにお任せします。私の180人の子供たちも事代主神(コトシロヌシ)に従って貴方たちには抵抗しないでしょう」と言いました。
そこでタケミカヅチノカミはそのような立派な宮殿(出雲大社?)を建てさせ、高天原に復命しました。
幽界の支配者になるとは、自殺する?ということか。
迩迩芸命(ニニギノミコト)登場 
さて、地上の国が天照大神の子に譲られることになったので、天照大神は最初の予定通り天之忍穂耳命を下らせようとしますが、この時天之忍穂耳命に子供が生まれたので、その子(天照の孫)迩迩芸命(ニニギノミコト)が代わって降臨することになりました。このニニギには八尺の勾玉・鏡・草薙剣の三種の神器が渡され、天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命・思金神・手力男神・天石門別神・登由気神・天石戸別神などの神が付きしたがって地上へと降りて行きました。
この時、道の途中に何やら見知らぬ神の姿がありました。ここで居並ぶ神たちは恐れをなして近付きたがらないのですが、天宇受売神が様子を見に行きます。
そして「あなたは誰ですか?」と尋ねるとその人物は「私は国津神で猿田彦神といいます。天孫が降りて来ると聞き、道案内をする為にやってきました」と言いました。
(国津神とはその地方を治めていた豪族?ではないでしょうか。私の個人的な説ですが、猿田彦神は日田の豪族で、このあたりの地名は「日本」ではなかったか。)
そこで一行は猿田彦神に先導を頼み、地上へと降りて行くのです。
天つ神(あまつかみ)は天津日子番能邇邇芸(あまつひこほのににぎ)に命令を下した。
邇邇芸(ににぎ)は高天原の神座をつき離し、天空に幾重いくえにもたなびく雲を押し分け、神威をもって道をかき分けた。
途中、天の浮橋から浮島にお立ちになり、筑紫の日向(ひむか)の高千穂の霊峰に、天降りになった。
神々が降りて来た地は宮崎県の高千穂の地でした。
ここでちょっとわからなくなります。この高千穂が天孫降臨の場所だとしたら、高天原は別の場所になります。もちろん、天上から降りてきたと解釈すればよいのでしょうが、話があまりにも人間くさく、出雲の国の征服物語だとしか思えないからです。
移住して言った場所に、もと自分がいた場所の地名をつける例がよくありますから、新高天原なのかもしれません。
高天原は九州の邪馬台国であるという意見もあります。
天照大神は邪馬台国の女王卑弥呼で、天照大神を旧事本紀では大日霊女貴尊(おおひるめむち)と言っています。日霊女はひみこ、ひるめで、中国では卑弥呼の文字を使っていたのだという考え方です。
この時の邪馬台国は北部九州にあり、山陰の出雲の国と争っていたと考えれば、すんなりと理解できます。ちなみに、私は邪馬台国『八女』説で、黒木町に『日向神』という地名があります。
ニニギが降臨した場所で、「この地は韓国に向かい、笠沙の岬(宗像)に真来通て、朝日のまっすぐ射す国、夕日の日が照る国である。」と言っています。
この場所を考えると、高千穂の峰(日子山=英彦山)から宗像の方向を望んで、儀式を行なったのではないかと想像してしまうのです。
笠沙(かささ)は、三笠川がある福岡市付近か、宗像の鐘崎あたりであり、約すと、「この場所は、笠沙の地を真っ直ぐに突き抜けて韓国に向かって(南に)通った(場所であり)、太陽がサンサンと降り注ぐ良い場所である。」となり、地理的な条件が一致します。
大胆な推論ですが、筑後平野にあった「邪馬台国連合」の中心地、「高天原」(八女)から、星野を抜けて「浮羽」から 日田に遠征。ここで猿田彦神に先導を頼み、英彦山から宗像方面へ進んでいったのではではないかと考えています。
この我論の根拠をいろいろな観点から考察していきます。