Short Column

フランクル心理学

Logotherapy(ロゴセラピー)


No1.フランクルとは 

「自分はいったい、何のために生きているのだろう?」
この疑問は、古今東西様々な分野において研究されてきた。
 そのなかでも、オーストリアの精神科医であるV.E.フランクル(Viktor Emil Frankl)による「ロゴセラピー」は、患者自身の「人生の意味」を見つけることを目的とした心理療法として有名である。
 ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl,1905年3月26日 - 1997年9月2日)は、オーストリアの精神科医、心理学者。
 1905年ウィーンに生まれる。ウィーン大学在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。ウィーン大学医学部精神科教授、ウィーン市立病院神経科部長を兼ね、「第三ウィーン学派」として、又独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏では元々知られていた。フランクルの理論にはマックス・シェーラーの影響が濃く、マルティン・ハイデッガーの体系を汲む。第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが為にナチスによって強制収容所に送られた。この体験を『夜と霧』に著した。

・ロゴセラピー創始者。自身の3年にも及ぶナチス強制収容所体験を綴った「夜と霧」の著者。この著作はアメリカで最も多く読まれた本のベスト5に入ると言われている。「紀子様の愛読書」としても有名になった。
 フランクルを語るエピソードとして特に印象的なのは、収容所に捕らわれた際に廃棄された論文原稿を、収容所内で紙片に速記記号でびっしりと再生したという話である。
 このような極限状況下での体験がフランクルの『ロゴセラピー』に決定的なインパクトを与えている。


No2.フランクル心理学の要点 

(1)「人生の意味」を求める問いに対するコペルニクス的転回

・「私には生きる意味なんてない」、「私はいてもいなくても同じ」という考え方はニヒリズム(むなしさの感覚)を生み出す。
「私の生きる意味は何なの? あるの? ないの?あるのだったら、人生よ、教えてほしい」と思い悩む人も多い。しかし、フランクル心理学では、そうした人生の意味を求める問いに次のようなコペルニクス的転回を生じさせる。

 人生が人間へ問いを発してきている。
 したがって、人間は、人生の意味を問い求める必要はないのである。
 人間はむしろ、人生から問い求められている者なのであって、人生に答えなくてはならない。人生に責任を持って答えなければならない。

つまり、私たちは人生からの問いを聴き取り、それに答えることに全力を尽くさなければならない。
人生からの問いは、各人の足下に絶えず送り届けられていて、その人に見出され実現されるのを待っている。

 フランクル心理学の要点は次のようなメッセージになる。

 どんな時も人生には意味がある。
 なすべきこと、充たすべき意味が与えられている。


 次のようにイメージするとさらにわかりやすいだろうとフランクルは言う。
 空を見上げれば無数の星がきらめくこの宇宙。
 どこまでも続くこの果てしない宇宙の中で、今・この時代・この時、この地球の・この国の・この場所に、なぜかこの「私」が置き与えられている。
 一見単なる偶然に見えるこの事実。
 しかし、考えてみれば、果てしなく続くこの時間と空間の中で、ほかのいつでもない今・この時代・この時、ほかのどこでもないこの国の・この場所に、自分が置き与えられているということには、やはり意味がある。
 自分で選び取ったのではなく、気づいた時には選択の余地なくそこに定め置かれていたからこそ、このことにはただそれだけで、意味があると思わないではいられないのだ。

 私たちは何をしてもいいし、何もしなくてもかまわないような存在ではない。
 ここにいてもいなくてもかまわない。
そのような、ただ放り出されているだけの存在ではない。

 私たち一人ひとりには「なすべきこと」、「充たすべき意味」が与えられている。
 そしてそれと共に、今・ここに定め置かれている。
 そしてその「何か」は、私たちによって発見され実現されるのを「待っている」。
 私たちは、常にこの「何か」によって必要とされ、それを発見し実現するのを待たれている、そういう存在なのだ。

(2)三つの価値領域;発見され実現されるのを待っている「意味」を探す指標

・フランクル心理学は「意味による癒し」と言われている。
 つまり、人は自分のなすべきこと、満たすべき意味を発見し、それに取り組んでいくことで、はじめて心が癒されていくという考え方を基本としている。
 そのなすべきこと、満たすべき意味を発見するために、次のように自問自答せよと説いている。

「私は、この人生で、今、何をすることを求められているのか」
「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。その人は、どこにいるのか」
「その誰かや何かのために、私にできることには、何があるのか」

 この三つの問いを絶えず念頭に置き、毎日を生きることで、「なすべきこと」「満たすべき意味」発見の手がかりになるとフランクル心理学は考えている。
・従来の「自己実現」心理学は次のように説く。
  「あなたの本当にしたいことは何か」
  「あなたの夢は何か」
  「あなたの人生の目標は何か。どんな希望や願望を実現したいか。」
 
 しかし、人間は「幸福のパラドックス」に陥り、慢性の欲求不満を避けられない。
 だから、人間は「自分のしたいこと」ではなく、「人生が自分に求めてきているもの」を発見せよとフランクル心理学は説く。

・三つの価値領域とは、「街頭の人が実際に意味と価値を経験する仕方に目を向けて、それを学術用語に翻訳した結果」取り出されたものである。
 三つの価値領域を念頭に置き、それを指標(手がかり)として自分の「実現すべき意味」、自分の「なすべきこと」を探してほしいとフランクル心理学は説く。 

①創造価値
 何かを行うことによって、つまり活動し創造することによって実現される価値のこと。

 その人になされるのを待っている仕事、その人に創造されるのを待っている芸術作品などが創造価値の実現につながる。
 フランクルの場合は自分の処女作(「医師による魂の癒し」)を出版し学説を世に問うことが「創造価値」となり、生きる意欲の源泉となった。

*「ただの洋服屋に人生の意味なんてない」という反論に対し、フランクルは職業がどうこうではなく、自分の与えられた仕事にどれだけ最善を尽くしているかということだけが大事であると述べている。
 これは内村鑑三が「後世への最大遺物」の中で、「人間が後世に遺すことのできる最大の遺物は、勇ましく高尚なる生涯である。後世の人にこれぞと覚えられるものは何もなくとも、あの人はこの世に生きている間は真面目なる生涯を送った人であると言われるだけのことを後世の人に遺したいと思う」と述べたことに類似する。
 
②体験価値
 何かを体験することによって実現される価値のこと。

 自然の体験、芸術の体験、人を愛する体験、人に奉仕する体験など、世界から何かを受け取ることによって実現される価値。
 美しい夕日を見て、アルプスの頂上から景観を眺めて、コンサートを聴いて、など、その瞬間、誰かが「人生に意味はあるのか?」と尋ねたら、その時の答えはただ一つ「この瞬間のためにだけ生まれてきたのだとしても、それでも私はかまいません」、その答えしかあり得ないとフランクルは言う。
 この「体験価値」は様々な体験を含む幅の広い概念だが、特に「人と人とのつながり」の体験が特にキーポイントである。

 例えば、ボランティアも体験価値がベースである。
「自分を必要としてくれる人がいる」、「自分も役に立てる」などの意識がボランティアをする人自身の心を充実させ、生きる意欲の源泉となる。
 収容所仲間で「外国でたった一人の妹が自分の生還を信じて待っている」と考えたことが大きな生きる意欲につながった人がいたという。
 不登校の生徒が、クラスの亀の飼育係になった途端、毎日休むことなく、学校に登校するようになった例。「自分がえさをあげないと亀が死んでしまう。亀は私を必要としてくれている」という意識が、登校意欲をかき立てたということである。

  ③態度価値
自分自身ではどうしようもない状況、変えることのできない運命に直面した時、その窮状に対してとる態度によって実現される価値のこと。

「この態度価値が存在することが、人生が意味を持つことを決してやめない理由である」とフランクルは言う。
「創造価値と体験価値の両方を奪われてしまった人でも、態度価値だけは奪われることはない」とも言う。
 重い病に冒された人が、死の間際に「激痛であなたを呼び出し、安眠を奪わないように、今のうちにモルヒネ注射を済ませておいてください」と言った。
 人生の最後の数時間さえ、周りの人を思いやる気持ち、ここにその人の人生の素晴らしい業績がある。
 ナチス収容所内にも、周りの人への思いやりの気持ちを最後まで失わない人が多くいた。
 こうした例から感じ取れることは何か。
 それは、人生には、まさに死の瞬間まで意味があるということ。
 息を引き取るその瞬間まで、その人によって「なされるべきこと」「実現されるべき意味」はなくなることがないということ。
 ついに人生が終わるその時まで、「意味」は絶えず送り届けられていて、その人に発見されるのを「待っている」のだということである。



No3.「心のむなしさ」克服の原理 

フランクルのロゴセラピー(実存分析)

(1)現代人はなぜ、「むなしさ」(実存的空虚、実存的フラストレーション)を抱えるのか?
・「幸福のパラドックス」~自分の幸福を直接に追い求め続ける人間は、結局のところ、どこまで行っても真の幸福を手に入れることはできない。
 人間の欲望には際限がない。
 満たしても満たしてもとめどなく欲望は湧いてくる。すると、人の心は絶えず「何かが足らない」という空虚感につきまとわれてしまう。

  (2)「心のむなしさ」を越える生き方の転換~「人間は人生から問いかけられている」
・生きることにむなしさを感じ、「生きる意味」を求めて多くの人が悩み苦しむ。
その悩みに正面からぶつかり、一歩下がって考えた時に、「人生を生きる意味」についてコペルニクス的転換が生じる。
 すなわち、人生そのものが、個々の人間に時々刻々と問いを発してきている。
 私たち人間は「人生からの問い」に答えることを求められている存在なのだと気づいた時に、「心のむなしさ」を感じることはなくなる。
 それは、自分はこの人生において、まさに必要とされているという実感を持つことができるからである。

  (3)ロゴセラピー~「自分を必要としている何か(誰か)の発見」を問う心理療法
・「あなたは何をしたいのでしょうか?」という問いは、クライエントの真の欲求や願いを明確にするための問いであり、自己実現を援助するための問いである。
ところが、この姿勢がまさに「心のむなしさ」を生み出す元凶と考える。

・ ロゴセラピーの問いは、その問いを全く逆にする。
「この人生はあなたに何を求めているのでしょうか?」、「何があなたのことを必要としているでしょうか?」、「誰があなたを必要としているでしょうか?」と問うていく。
 この問いに答えるための手がかりが上述した「三つの価値領域」である。

・ロゴセラピーでは、三つの価値領域を手がかりに、クライエントが「この人生で何が(誰が)自分を必要としているのか」、「自分に何ができるのか」を自己発見するプロセスを援助する。
 その基底には、三つの価値領域のいずれかに、必ずその人を必要とし、なされることを待っている「何か(誰か)」がある、という哲学がある。

「人生からの問い」はいかなる時、いかなる人のもとにも必ず届けられている。
人生のそれぞれの状況には、その時その人によってしか実現し得ない問いが絶えず潜んでいる。
 そして、その人に見出され、実現されるのを待っている。
 だから、人生からの問いは人を解き放つことがなく、人生からの期待は人を決して見放すことがない。
 ロゴセラピーの基底には、そうした哲学が据えられている。


No4.「心のむなしさ」を越える教育実践 

教育に生かすフランクル心理学

(1)「人から必要とされる自分」を実感できるボランティア体験
・人間の心が本当に満たされるのは、「自分はこの世で必要とされている」という実感を持つことができた時である。
 いじめを繰り返す子どもがボランティア体験をして、いじめをやめるようになったという報告もある。
 塾、試験と忙しく毎日を過ごしながら、それが「何のため」かを実感できず、ストレスをためる子どもたち。
「自分の将来のため」と自分を説得するが、どうしようもなくイライラが募り、弱いものいじめに走る。
 しかし、ボランティア体験は、「自分のため」にあくせくしていた時には感じなかった「生きる喜び」を確かに感じることができる。
「ありがとう」と声をかけられ、「自分も人の役に立てる」と自信を持ち、いじめが消えたのだろう。 ←「体験価値」
 
(2)「自分に求められているのは何か」をイメージできる進路指導
・ドイツでは、高校や大学で進路指導、職業指導の時間がきちんと位置づけられている。
「自分は人生から何を求められているのだろうか」と自問自答する機会が豊富に設定されている。日本の子どもがストレスフルなのは、そうした自問自答の機会が少なく、「とにかく、がんばれ、勉強しろ」と言われるからだろう。
 子どもが、自分に求められているのは○○である、とイメージできるような支援が必要である。 ←「創造価値」
 
(3)「俺がやらねば」という使命感を生む教育
・日本の中学生の人生目標は、個人主義人生観のオンパレードという。 つまり、「幸福な家庭生活」、「趣味にあった暮らし」など自分の生活にしかかかわらない小さな目標である。
 ブラジルの中学生の人生目標は、約8割が、「それだけでは十分でなく、社会のために何かをしたい」と答えている。
 環境問題、戦争、人種差別など、現代世界には多くの問題が山積みされている。
 子どもたちには、今後立ち向かう必要のある問題を正面から突きつけ、使命感を育む教育が必要である。
 日常会話や授業の中で、「君たちの人生には、こんなにも大きな問題が待ち受けているのだ」と問題を提示してほしい。
必ず、「俺がやらねば誰がやる」、「それは私が取り組む問題だ」と使命感を燃やす子どもが出てくる。
                               ←「創造価値」
 
(4)イベントの利用
・「自分は必要とされている」という実感が少ないのは、クラスで目立たない子どもである。
 こうした子どもに光を当てるチャンスが、運動会、文化祭、クリスマス会などのイベントである。
 普段は発揮できない持ち味を発揮して、「この学級には自分の居場所がある」と感じさせるような役割を与えたい。「係活動」も同様に利用したい。
                               ←「体験価値」

  (5)「感謝する気持ち」が生きる意欲を生む~「内観法」 

*フランクル心理学ではないが参考までに。
・内観法の原理はシンプルである。
父や母、配偶者などの身近な他者の一人を選び、「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」の3点に関して、事実を丹念に調べるつもりで具体的に思い出していく。
このプロセスで、自分がどれだけ他の人に支えられて生きてきたかを実感し、人に対する感謝の気持ちをかみしめ、それが「生きる意欲」につながっていく。
                    ←「体験価値」
 

<参考・引用文献>
・「フランクル心理学入門」どんな時も人生には意味がある.諸富祥彦.コスモスライブラリー.1997
・カウンセラーが語る「こころの教育の進め方」.諸富祥彦.教育開発研究所.1996
・どんな時も人生に[YES]と言う.諸富祥彦.大和出版.1999


Book『夜と霧』 フランクル 

1 心理学者、強制収容所を体験する

 『夜と霧』は、原題「心理学者、強制収容所を体験する」の通りに、心理学者である著者フランクルが第二次世界大戦中に、ナチスにより強制収容所に入れられていた時の体験について書かれています。
 ナチス・ドイツの小規模強制収容所での過酷な経験について、フランクルは「心理学の立場から解明」しようとしています。
 重労働、貧しい食料、劣悪な環境、ナチス親衛隊員や収容所監視兵だけでなく被収容者間での酷い人間関係。そして、「ガス室送り」(処刑)の恐怖。いつまで続くかわからない収容所生活。
 このような状況の中で、人は何を心の支えに生きていけるのでしょうか?



2 第一段階、ショック

 収容所生活への被収容者の心の反応は三段階に分けられる。
 それは、施設に収容される段階、まさに収容所生活そのものの段階、そして収容所からの出所ないし解放の段階だ。
 第一段階の特徴は、収容ショックとでも言おうか。
 「駅の看板がある――アウシュヴィッツだ!」
 この瞬間、だれもかれも、心臓が止まりそうになる。アウシュヴィッツと聞けばぴんとくるものがあった。あいまいなだけいっそうおぞましい、ガス室や焼却炉や大量殺戮をひっくるめたなにか!
 自分の大きい不幸が明らかになった時、人は心理的に強いショックを受けます。 ショックは強い恐怖感や不安感を生み、人を混乱させます。とても落ちついて考えられなくなってしまいます。
 大きい不幸という現実を受け入れることができないと、苦しみと混乱が長く続くことになってしまいます。
 と言っても、大きい不幸を心が受け入れてくれるまでには、誰でも相当に時間がかかってしまうでしょう。
 長い時間がたてば誰でも自然に現実を受け入れること(あきらめる、そして忘れていくことも含めて)になるのでしょうが、すぐに現実の大きい不幸を受け入れることは難しいのです。

 不幸な出来事による強いショックを受けた時には、どうしたらいいのでしょうか?
 ショックな現実をそのまま受けとめ、悲しみや怒りや悔しさや情けなさや不安や恐怖などの感情を「今はしかたがない(ハオハオ)」とひたすら受け入れようと努力するしかないような気がします。
 悪感情に誘われて湧き起こる様々な考えはストップしたほうがいいでしょう。特に悪いことを考えてしまうのに対しては、「今このように思うのも無理はない(ハオハオ)。だから、今は余計なことを考えるのはよそう」のように考えられたら、と思います。

 などと、今は書けますが、実際に自分がそういう状況になった時に、それができるかどうか。
 私の場合には、「ハオハオ」が心の中に出てくれば、なんとかできるような気もしていますが。
 あとは、心身の休養と栄養を心がけ、心が受け入れられるのを待ち、希望をもつことから始めて立ち上がり、ここ(現実)から幸せに向かって歩き出せたら、と思うのですが。


3 空想でも希望

 精神医学では、いわゆる恩赦妄想という病像が知られている。
 死刑を宣告された者が処刑の直前に、土壇場で自分は恩赦されるのだ、と空想しはじめるのだ。それと同じで、わたしたちも希望にしがみつき、最後の瞬間まで、事態はそんなに悪くないだろうと信じた。
 「希望」は、空想でも妄想でもいいのだと思います。
 それでも、心の中が少しでも明るくなればいいのです。絶望しているよりもずっといいのです。

 「希望をもつことは心の作業」です。
 また、希望をもとうという意志が大切なのです。
 絶望しそうになった時こそ、自ら希望をもとうと心の中で努力したほうがいいと思うのです。


4 心の元気が必要

 わたしたちがまだもっていた幻想は、ひとつまたひとつと潰えていった。そうなると、思いもよらない感情がこみあげた。やけくそのユーモアだ!
 やけくそのユーモアのほかにもうひとつ、わたしたちの心を占めた感情があった。好奇心だ。
 希望をもつ、そして、持ち続けるためには、心の元気が必要なのかもしれません。
 心に元気がない時には、なかなか希望も湧いてこないのではないでしょうか。

 心を元気にする方法はいろいろあると思います。
 心の休養・栄養・運動になるようなことがいいのでしょう。
 ユーモアや好奇心も、心を元気にする方法の一つなのだと思います。
 なかなか希望がもてない時には、まず、心を元気にすることを考えたほうがいいのかもしれません。



5 人間は慣れる存在

 人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにはいられない。人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。
 人間はどんなに過酷なことにも、時間がたてば慣れることができるということなのでしょうか。
 逆を言えば、慣れることができない人は生きていけないということなのかもしれませんが。
 いずれ慣れることを信じて、「慣れるまで我慢すればいい」と考えることができそうです。
 「そのうち慣れる」というのも、希望の一つだと思います。
 その希望を叶えてくれる、(慣れる)力が人間にはあるということなのではないでしょうか。


6 第二段階、感情の消滅(アパシー)

 被収容者はショックの第一段階から、第二段階である感動の消滅段階へと移行した。内面がじわじわと死んでいったのだ。
 感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心。これら、被収容者の心理的反応の第二段階の特徴は、ほどなく毎日毎時殴られることにたいしても、なにも感じなくさせた。この不感無感は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾なのだ。
 心を閉ざすのは、自分(の心)を守るためなのです。
 でも、いつまでも心を閉ざしていては、幸せにはなれません。
 嵐の時には戸締まりをしても、嵐が過ぎ去ったら、窓を開けて希望の光を入れたほうがいいのでしょう。



7 何もなくても幸せになれる方法

 人は、この世にはもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
 収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。
 人は、愛する人のことを心の中で想うだけでも、少しは幸せになれるのです。

 人は、感謝をすることで、幸せな気もちになれます。
 人は、何らかの希望をもつだけで、心の中を少しは明るくできます。
 人は、夢の実現を想うだけで、幸せの予感を感じることができます。
 人は、自分の幸せを「幸せだなぁ」と思うことで、幸せを感じることができます。

 人は、精神力・心の働きだけで、それなりに幸せになれるのでしょう。
 そもそも幸せは(心で)感じるものです。
 うまく心を働かせ、感じられる幸せ(幸福感)は幻想ではないと思います。



8 心を動かすもの

 被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。 この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。
 過酷な状況の中でも、山々の風景、沈んでいく太陽と夕景、夜明けなどの美しい自然に感動し、歌、詩、音楽、お笑いなどの芸術を愉しみにしたということです。

 感情が消滅していくような状況だからこそ、心動かすものを求めるのではないでしょうか。
感動できること、愉しめることなど、心を動かされることがとても大きなことに思えてくるのでしょう。
 また、心が何かに集中している時には、その分イヤなことも忘れられるということもあるのでしょう。  希望をなくして心が動けなくなった時には、心動かすものに触れ、夢中になれるものに集中することが、役に立つのかもしれません。



9 ユーモア

 ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。
 ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。
 ユーモアを、おかしい、楽しい、おもしろいと感じることは、心にいいでしょう。
 笑いは、心にも、身体にもいいそうです。
 ユーモアを感じられれば、心の中が少しは明るくなるでしょう。
 ユーモアは、その場(と、そこにいる人の心)を明るくするのだと思います。

 ジョークなどのユーモアを考えることは、イヤなことやつらいことを忘れられる(考えなくてすむ)効果もありそうです。
 ユーモアを考えるためにも感じるためにも、心の余裕が必要なのだと思います。

 たとえ短時間でもユーモアを感じられれば、少しは心の力を抜くことができるでしょう。
 ずっと張りつめた心はいつか切れてしまうでしょうが、少しでもゆるむ時があれば、それだけつらさにも耐えられるのではないでしょうか。
 つらい時こそ、心をゆるめることが必要だと思います。
そのための方法の一つがユーモアなのでしょう。



10 苦痛をまぬがれる幸せ

 ほんのささいな恐怖をまぬがれることができれば、わたしたちは運命に感謝した。
 もちろん、収容所生活のこうした惨めな「喜び」は、苦痛をまぬがれるという、ショーペンハウアーが言う否定的な意味での幸せにほかならないし、それらもここまで述べてきたように、「……よりはまだまし」という意味でしかない。
 積極的な喜びには、ほんの小さなものですら、ごくまれにしか出会えなかった。
 「不幸でない幸せ」というのがあります。
 大きい不幸を経験した人は、今自分がそうでないこと、それをまぬがれることでも、「まだ幸せ」と思うことが可能なのでしょう。

 不幸を知らない人は、不幸でない幸せはわからないし、実際に不幸に出遭ってしまった時の衝撃は大きいのではないでしょうか。
 不幸を知っている(経験した)ということは、一つの財産なのかもしれません。



11 苦悩も生きることの一部

 およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。
 苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。
 苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
 苦しみがあるから、楽しみや喜びが、より幸せと思える。
 病気やケガをしてみて、健康の幸せに気づけることがある。
 別れてから、その人の存在の大きさに気づくこともある。
 闘いがあると、平和の幸せがわかる。
 幸せがあるから、生(の時間)が、より大切に思える。
 不幸があるから、幸せが、より幸せに思える。

 苦もあり楽もあり、生があり死がある。幸せもあり不幸もある。
 いろいろあるのが人生。どれが欠けても不完全なのかもしれません。
 だったら、すべてを受け入れて(「幸せなことは好!好! 不幸なことはハオハオ」と)、生きていけばいいのではないでしょうか。



12 内面的な勝利

「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」
 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。
おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。
 「今に見ていろ」と頑張るのはいいことだと思います。  でも、そのために今を大切にしない、現在の生活をぜんぜん愉しめないというのはよくないと思います。

 現実が大きく変わらなければ幸せになれないと考えていたら、いつ幸せになれるかわかりません。
 どんな状況でも、内面的な勝利(幸せ)を得ることは可能なのだと思います。



13 自分の未来を信じる

 自分の未来をもはや信じることができなくなった者は、収容所内で破綻した。
そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。
 精神的に自分を見捨てるということは、人間としていちばん恐ろしいことではないでしょうか。それは、自分を大切にすることをやめてしまうことだと思います。
 自分の心や身体の痛みをそのまま放っておく、ひどい場合には自分で傷つけ・痛めつけるようなことをしてしまいます。
 私は、自分が幸せになるために努力しない人は自分を大切にしていない、と思います。  実際には、ほとんどの人は無意識に自分を幸せにするために何かをしているのだとは思いますが。
 自分を見捨てないで、自分を大切にするためには、まず自分の将来を信じて、希望をもって生きることが大切なのではないでしょうか。


14 逆転の発想

 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。
 わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
 生きる目的・意味を見失い、「生きることに何も期待できない」と、絶望した人は破たんしたそうです。
 「生きる」ために生きる目的や意味を求めるのなら、逆に、生きることを前提に、そのために自分が期待されていること、つまり、生きるために自分が何をしたらいいのかが問題なのだと思います。

 現在の私たちは、生きることだけなら、それほど難しくはないでしょう。
 でも、生きる目的や意味を求める人はたくさんいます。
それは、「ただ生きればいい」とは思えないからでしょう。
それが見つからなくて絶望してしまう人もいます。
 絶望しそうな人は、生きることで何が得られるかではなく、よりよく(幸せに)生きるためには何をしたらいいかを考えればいい、ということなのではないでしょうか。



15 行動で答えを出す

 もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
 生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。
 わたしたちはその問いに答えを迫られている。
 考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。
 生きる意味をいつまでも考えているだけでは、幸せにはなれません。
 今を(よりよく、幸せに)生きるためには、何をどうすればいいかを考え、それを実践し、できれば幸せを感じられることが大切です。
 自分の幸せになる方法を考えるのはいいことです。
 でも、考えてばかりで実践しなければ、幸せは感じられません。  本当は、自分の幸せになる方法の実践が習慣になって、何も考えなくても幸せに暮らせるようになるのが望ましいのですが。

 苦しむことは、なにかを成し遂げることである
 何かがあなたを待っている。
 その待っている何かに出会うために、私たちは生きている。



16 解放-現実感の無さ

いよいよ強制収容所の心理学の最後の部分に向き合うことにしよう。
収容所を解放された被収容者の心理だ。
 強制収容所から解放された時、人々は歓喜したと思うでしょうが、収容所生活はそのような程度ではなかったようです。
 わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。
それは、もう一度学びなおさなければならないなにかになってしまっていた。
 解放された仲間たちが経験したのは、心理学の立場から言えば、強度の離人症だった。
すべては非現実で、不確かで、ただの夢のように感じられる。
 「うれしい」ということを忘れる、なんてことがあるのでしょうか。
 体験者が言うのですから、間違いなくあるのでしょうが。

 離人症は、自分の心を守るために、現実から切り離したのかもしれません。
それほど、収容所生活の現実が悲惨だったということなのでしょう。
 人が心を閉ざしたり、現実から逃避したりするのは、自分(の心)を守るためなのかもしれません。


17 どうして耐え忍ぶことができたのか

 解放された人びとが強制収容所のすべての体験を振り返り、奇妙な感覚に襲われる日がやってくる。
収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからないのだ。
 改めて考えてみると、どうしてかわからないことは、けっこう多いのではないでしょうか。
 その時は、ただ夢中だったり、一所懸命だったりして。
 また、いろいろ考えていたことも忘れてしまう場合も多いでしょう。
 でも、  強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分が待っていると、つねに思い出させることが重要だった。
 とも書いてあります。

 「未来の目的を見つめさせること」は、「希望をもたせること」とも言えるでしょう。
 また、「人生が自分を待っている」「だれかが自分が待っている」は、「何かに期待されている(逆に言えば、何かを期待する)」と思えることでしょう。
「きっと幸せが待っている」と、自分の将来の幸せを期待できれば、絶望しないですむのではないでしょうか。



18 高い代償で得られるもの

 収容所で体験したすべてがただの悪夢以上のなにかだと思える日も、いつかは訪れるのだろう。
ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ。
 どんなに不幸な経験があっても、それが去れば、人はいずれ立ち直ることができるのだと思います。

 すごく不幸な経験をした人は、ちょっとぐらい不幸なことがあっても「あの時に比べればまだまし」と考えられます。
ふつうの時には「あの時に比べれば今は幸せ」と思うこともできるのではないでしょうか。
 極限の不幸を経験した人は、生きていく上で、もう何も恐れるものはなくなるのかもしれません。恐れ・不安がなければ、安心して生きられます。

 人には、不幸を幸せに変える能力があるのだと思います。
 でなければ、不幸な経験でのつらい思いが報われません。
 不幸を経験した人は、それだけ幸せになれる可能性が高くなったと考えてもいいのではないでしょうか。