Short Column
   今在る自分

 当時のブログに載せた記事を再編しました。
 心理学を学ぶとどうしても「心」スピリチュアルについて考えるようになります。
 「心とは何か」2008/06/04~「今在る自分」2009/10/25~

No.01 生命の進化の不思議  No.02 自分という存在の不思議  No.03 生命という存在の不思議  No.04 自然淘汰か神の意思か  No.05 心とは何か  No.06 脳から独立した心の存在  

Short Column No.01 


生命の進化の不思議

 地球上の生命は、世代の交代を繰り返しながら進化を続け、今日見られるような多種多様な生命種を創り上げてきました。そして、その進化の結果、ヒトという知性を持った生命が地球に現れました。
 これは、偶然でしょうか。
 進化論によれば、「生命の進化そのものには、特別の目的はない」とされていますし、「突然変異」と「適者生存」によって、たまたま、知性を獲得しただけだということになっています。
 生命の進化に何の目的もないことは、この地球上に何千万種類もの生物種が存在することからも明らかです。
 もし、知性そのものを生み出すことが進化の目的であるならば、これほどの種が存在する必要はないし、たった一種類の生命種だけあればいいわけで、知性を生み出すためだけに何千万種類もの生物を生むことは無意味だし、効率的ではありません。
 大いなる無駄です。
 では、なぜ、人類は誕生したのか。
 人類の存在とは、どのような意味を持つかと考え続けています。そして、さらにスケールが大きくなるのですが、人類はどのように進化していくのかなどと考えてしまいます。

≪参考≫地球史年表、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

  • 46億年前 - 地球誕生
  • 10億年~6億年前 - この頃、多細胞生物が出現したと考えられている
  • 6億年前~ - カンブリア爆発と呼ばれる生物の多様化が起こる
  • 中生代(約2億5000万年前~約6500万年前)
  • 1億年前 ~ 1000万年前 - 恐竜の全盛時代
  • 新生代(約6500万年前 - 現代)霊長類の出現。
    (約5500万年前に現れたアダピス類が初期の霊長類と考えられている。これより前の約7000万年前に北米に出現したプレシアダピス類のプルガトリウスを最古とする考え方もある。)
  • 約50万年前 - 北京原人
  • 約23万年前 - ネアンデルタール人の出現
  • 約10万年前 - 現代人(ホモ・サピエンス)がアフリカを出て世界各地に拡がった
  • 約5万年前 - クロマニョン人
  • 約3万年前 - ネアンデルタール人がこの頃絶滅

≪余談≫
 歴史の流れを見ていると、数学でいう二次曲線のように、急激な進化スピードのように感じます。時間の流れが速くなっているのです。


Short Column No.02 


自分という存在の不思議

   進化論でいう「突然変異」は、なぜ起こったのかと考えますと、私はその原因の一つが、急激な環境変化、具体的には、隕石の衝突や火山の噴火などの天変地異ではなかったかと考えています。
 スピリチュアル的な考え方で言う「霊的な波動」が生物のDNAに直接作用して、突然変異が起きたのではないかと思います。

 ワクチンによって免疫ができるように、「適者生存」によっても、生物の体質などが変化していったことも原因だと思いますが、私はウィルス自体が霊的な存在だと思っていますから、考え方に矛盾はありません。
 生命という存在は物理学でいう「エントロピー増大の流れ」に逆らい、種を存続させようと努力し続けています。
 生命を維持するために、外部の環境から物質とエネルギーを絶えず取り込んでいかなければならないし、しかも、外界には生命にとって有害なものが無数に存在します。これらから自己を防衛することも大変なエネルギーが必要です。
 たとえば、生命には免疫という生き残りシステムがあります。自己と非自己を識別し、自分の肉体とはことなる物質や生命を認識し、排除しようとする驚くべきシステムです。
 なぜ、生物は種の保存をし、進化しようとするのでしょうか。考えれば考えるほど不思議です。
 そこに何らかの意思が存在しているとしか考えられないのです。

宇宙は何らかの目的があって、生命を生み出したのではないか。

 自分の存在の意義、「私は何のために存在しているか」と考えると、「生命の継続性」ということを考えます。
 子供が生まれたとき、初めて親になれた時、心の底から喜びがあふれ出しました。
 なぜこんなにうれしいのか、それが「自分のDNAが次の世代に繋がるという喜びではなかったのか」と思ってしまうのです。
 人間には、そのように感じるようにプログラムされているのではないか。そのプログラムを設計したものの存在、その存在の一部として人間が生まれたのではないか。ますます興味がわいてきます。

 厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導きます。

 一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
 この精神的充足とは、いったいなんでしょうか。
 人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。

 生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること・・・。


Short Column No.03 


生命という存在の不思議

 多くの生物には、自分が生きていくためあるいは子孫継承に有効な事象になったときには快楽が伝わるようなプログラミングになっているそうです。
 たとえば、食事、仕事が順調、貯畜、恋愛、結婚、子孫誕生等。
 そして、また次の快楽物質が伝達されるような事象を求め、延々と貪欲に子孫継承に有効な行動を取り続けるような仕組みになっているそうです。

 反対に自分が生きていくため、あるいは子孫継承が困難な事象になりそうな時には苦悩物質が伝達され、有効な事象になるような解決策を考えるようになっています。
 人は、自らの意思で、たとえば、水を飲みたい、かっこいい服をきたい、好みの異性とデートをしたいなどの望みを持ちそのためにはどのようにすればその望みが実現するかを考え予定し、そして行動に移します。
 これが理性(自意識)といわれるものです。

 また、人には、自らの意思に関わらず、勝手に心臓が鼓動し呼吸をし、髪の毛や爪が伸びます。
 それから、高いところや暗いところ、見ず知らずの人の前にいる時など、恐怖心や不安感を感じます。
 ある刺激に対して理性を飛び越えて、からだが勝手に反応してしまいます。
 これが本能(プログラミング)といわれるものです。

 好きな異性が頭の中に充満して、四六時中浮かんできたり、その人の近くにいると心臓がどきどきしたり、その人がそばで自分を信頼し無防備に横たわっていれば、抱きしめたくなったりしまうのも本能の仕業だと思います。
 結果、交尾をし、そのうち妊娠に至り、出産となります。
 妊娠中の母親は普通の生活をし、親子とも健康であれば、順調にお腹の子は育っていきます。
 生まれた子供がかわいいと思うのもプログラミングの一部で、両親がすべてを犠牲にしてまで子供を育てようとするのも、そういうプログラミングを持った親だけが子供を育て上げてきて、そのプログラミングが受け継がれたのだと思います。
 多くの人は、恋愛し、子供ができ、子供が独り立ちするまで育てるということを満足と感じて、代々、延々と継続しているだけなんだと思います。

≪この感覚は、なんとなく同意できます。父親になれた現在の私の望みは、早くおじいちゃんになることです。孫の顔が見たいという普通の望みですが、それが最大の望みかもしれません。庶民ですね。≫

 そのために、辛い受験勉強をし、強度のストレスを持ちながらも仕事をし、喧嘩ばかりしながらも夫婦関係を持続しているのだと思います。

 地中数十メートルにも、深海数千メートルにも、大気中にも生命体が存在しています。それらは何のために生きているいるのでしょうか。
 その生命体は、人と同じ遺伝子システムを持っています。
 遺伝子システムは、構成する分子が化学反応を起こすことによって稼動状態となっています。
 太陽が熱いのも、地球に海があるのも、ニトログリセリンが爆発するのも、蛍が光るのも、人が生きているのも突き詰めていくと原子や分子の化学反応によるものです。

 なぜ化学反応が起こるのかは、わかりません。

 地球の環境は変化し続けます。そして、生命体のうちの誰が、その時の環境に適応し、生き残るのかはわかりません。
 でも、誰か一人でも生き残るように個体差をつけるシステムを持った生命体の方が今のところ優位なようです。
 その生き残ってしまう誰かのために、他の生命体は存在しているのかもしれません。


Short Column No.04 

生態学、進化論の特別教授、ダグラス・フツマさんの話より

自然淘汰か神の意思か

 地球上のあらゆる生命は単一の個体から発生し、多様化しながら進化してきたという進化論を信じない人が、アメリカには非常に多いそうです。

 神が全生物を創造したと聖書どおりに信じる創造説や、生命の起源の背後に知的な計画者なるものが存在するというインテリジェント・デザイン説などを主張する人は国民の半数にも及ぶそうです。
 このID説では、生命はあまりにも複雑すぎて、自然的経過説だけでは説明できない。それゆえに、知的な存在がいて、何度も生命の歴史に介入し、異種の有機体を提供し、生存と繁殖のために必要な多様性を与えたと主張します。
 神だとは明言しませんが、その知的計画者が超自然現象以外だとも言わず、神と同一の存在を考えていることは明らかです。
 このID説は科学的仮説ではなく、超自然から成り立つ理論を検証することは不可能です。 今の科学で証明できるものではないのです。

 どうして多くの人が、科学的原理である進化論を拒むのでしようか。
 ひとつは、その事実を信じたくないからです。
 進化論は、「私たちは目的を持って存在している」という根本的な世界観を脅かします。
 次に、進化論を信じることは、宗教や神を否定すると思っています。
 
 多くの宗教指導者は、進化論と神の共存を説いていますし、科学者の中にも神の存在を信じている人がいます。

 アメリカには、二者択一的な考え方をする人が多く、保守的な考え方をする人たちが、学校での進化論教育を妨害しようとしたり、訴訟を起こしたりしているそうです。
 反進化論は、生物学だけへの攻撃だけでなく、地質学、天文学、人類学などを含めた科学全般への攻撃です。

 創造説の基礎は、科学の本質と相反するものです。
 創造説を受け入れる唯一の方法は信仰をもつことです。
 信仰は、検証することを必要とせず、科学とはみなしません。

「科学に関する知的学問への脅威です」というのが、作者の結論でした。

≪余談≫
 ダーウィンの進化論、すべてが正しいと私は思っていません。また、創造論すべてを信じることもできません。
 この記事を読んで感じたことは、このインテリジェント・デザイン説の面白さです。
「知的な存在がいて、何度も生命の歴史に介入し、異種の有機体を提供し、生存と繁殖のために必要な多様性を与えた」という考え方は、今の自分の考え方に最も近いものです。
 進化論の過程で誕生した「人類」という種に、ある知性が自分の分身である「霊性」を与えたことで「自我をもった人類が誕生した」のではないかと感じています。
 もちろん科学的な検証は不可能です。

自分は知らないと知っていたら、どうして人に教えることができるだろうか。


Short Column No.05 

 2008年当時、スピリチュアル系のブログをネットで探して読んでいました。その中で気になった記事をコピペしていて、ここに紹介さしていただきます。一部、私の考え方も追加しています。

心とは何か

現在の心身医学の最大の問題は―「心とはそもそも何なのかが解明されていない」ということです。

 心と肉体の間に相互関係があることは、はっきりしつつありますが、肝心なその「心」とは一体何であるのかが、不明なままです。
 近年、「心とは何か?」をめぐって激しい意見の対立が見られました。
 唯物論の立場からの心の解釈と、それに反対する解釈がぶつかってきたのです。

 心とは何かを問うことは、心(意識)と脳の関係を問うことに通じます。
 ここでは心の存在や定義をめぐるこれまでの見解の対立点を概観し、心身問題の本質を明らかにします。

近代科学の“心の定義”――心は脳の産物にすぎない

 唯物主義に立脚する近代科学は、心を「脳という物質の産物」と定義します。
 心とは、脳内にある百兆もの神経の電気回路から生じる随伴現象であると考えます。これは脳が先で心は後、心は副次的な存在であり、脳を離れては存在しえないということを意味します。
 近代科学ではこうした自分たちの見解の正当性を主張するために、脳に損傷を受けると精神に異常をきたしたり記憶が失われるといった症例を挙げます。また薬物や物理的刺激によって精神状態が変化したりさまざまな精神症状が生じること、さらには脳の一部を刺激することによって幻想や幻聴がつくり出されるといった事実を取り上げます。

 意識(心)が脳に依存していることは事実ですが、それをもって意識が脳の活動の随伴現象であるという理由にはなりません。

 こうした事例は、心が脳の産物であるという証拠にはなりません。
 なぜなら脳から独立した「霊魂」のような意識があり、そこから発せられた情報が脳という“受信器”によって受信され、脳から再発信されるという可能性も考えられるからです。
 こうした想定が正しいならば、脳の障害がさまざまな精神症状を引き起こしたとしても何の矛盾もありません。現にスピリチュアリズムや一部の哲学者・脳科学者たちは、そのように考えているのです。

 心は脳の機能・産物にすぎないとする考え方は、現在では臓器移植の際の脳死判定をめぐって複雑な問題を引き起こしています。
 唯物科学は究極的には、人間性・自我も脳によってつくり出されるという考えにまで至ります。脳によって理性ある人格が形成され、脳が働いている間だけが人間らしいとの主張につながっていきます。
 それは“脳死”という脳の機能が止まった時をもって、人格性や尊厳性そのものが消滅することを意味します。

 スピリチュアリズムのように死後の生命の存続を認めない以上、脳の死(機能停止)は、人間性と人格の終焉ということになります。

 スピリチュアリズムでは、たとえ脳の機能が停止しても、それは人間の物質次元の構成要素の1つが不全になったにすぎないと考えます。
 霊的次元では、知的生命活動が変わりなく続けられています。
 脳が機能停止したとしても、人間を構成する霊的部分には何の変化もなく、しかもその霊的部分は依然として肉体部分と「一体関係を継続」しています。
 霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れて、すべての肉体機能が完全に停止しないかぎり、人間としての霊肉の一体性は失われません。脳死状態になったとしても、人間としての尊厳性・価値は消滅しないのです。

 このスピリチュアリズムの見解に従うならば、“脳死”をその人間の終わりとする考え方は間違っていることになります。

 スピリチュアリズムの考え方で、「シルバーコード」というのがあります。肉体と霊体を繋ぐ紐状の物質で、銀色に見えるそうです。

Short Column No.06 


脳から独立した心の存在

 唯物科学は、人間の意識を“脳”という物質に還元して考えます。
 たしかに人間の意識は脳の電気的な性質と機能にともなっていますが、意識(心)はこれらによってすべて限定されるものではありません。

  唯物科学の心の理解とは、全く逆の考え方があります。
 それは「脳という物質から独立した意識(心)が存在する」というものです。
「脳から離れて存在する意識」ということになると、従来言われてきた「霊魂」が真っ先に思い出されます。
 死後の自我の存続を認める宗教では、こうした考え方をするのが普通ですし、プラトンなどの哲学もそうした見解に立っています。
 近年に至って唯物科学が霊魂の存在を否定するようになり、脳から独立した心を認める宗教と科学が鋭く対立してきました。そしてその議論は決着することなく現代まで続いています。

現代の精神医学の2つの流れ

 心をめぐって対立する2つの考え方(人間観)は、現在の精神医学にもそのまま反映しています。
 すなわち現在の精神医学は、“唯物的一元論”に立って心は脳の産物であり、脳を理解すれば心の病気は治せるという方向性をとるものと、“心身二元論”の見解に立って心と脳(物質)を同質のものとは見なさず、心の病気は心として治療すべきであるとの方向性をとるものとに分かれます。

 前者は「脳精神医学」、後者は「心理学的精神医学」と呼ばれています。
 こうした対立する精神医学の流れは、19世紀後半、ほぼ同時期に発生しています。

  「脳精神医学」では、科学性・学問性を重視し、徹底して唯物医学(科学医学)の立場に立とうとします。そして精神障害(心の病気)を、脳の異常として考えます。
 近年の脳科学の進歩が、その立場を強めることになっています。
 日本の大学(医学部)では、脳精神医学が主流となっています。
 現在の脳精神医学の治療法は、薬物療法が中心です。あまりにも薬物療法に頼り過ぎ、心理療法による心の治療を無視したり軽視する傾向があります。その結果、「精神医療」イコール「薬物療法」というイメージを生むことになっています。

  一方、「心理学的精神医学」は、精神医学者ジクムント・フロイトに始まると言われます。
 心理学的精神医学では、臨床と治療を優先します。
 そうした姿勢がこれまで、精神分析や暗示療法に代表される多くの精神療法(心理療法)を生み出してきました。
 脳精神医学が理論重視に走り、原因究明にエネルギーを傾けるのに対し、心理学的精神医学は治療を優先してきたのです。
 しかし脳精神医学からすれば、心理学的精神医学は科学的実証性(エビデンス)がなく厳密な科学とは言えない、単なる仮説にすぎないということになります。
 さらに心理学的精神医学での心理療法には、あまりにも時間がかかり過ぎるという弱点があります。先に述べた「心身医学」は、心理学的精神医学の延長上にあります。

 現在の精神医学における実際の治療は、“薬物療法”がメインとなっています。医者によっては、それに“心理療法”を加えるという形で進められています。しかし時間がかかり過ぎることなどが理由となって、現実には心理療法はあまり実施されていません。

脳科学者が提示した、脳から独立した意識の存在

 20世紀の脳科学における1つの大きな出来事は、脳から独立した心の存在を認めるような見解が、内部から提示されるようになったことです。

 ワイルダー・ペンフィールドやジョン・C・エックルスがそうした代表的な科学者です。 両者とも現代脳科学における権威でしたが、その現代科学の権威が「独立した意識の存在を認める」という驚くような行為に出たのです。

  ペンフィールドは治療と実験の一線で活躍していたときには、心は脳の仕組みですべて説明できると確信していました。
 ところが晩年の著書『脳と心の正体』の中では、「心の働きは脳の仕組みで説明できるものではない」という全く反対の結論を述べています。
 心は身体を離れても存続し得るのではないかという考えに至り、霊魂の死後存続を認めるような見解に近づいていきました。
 ペンフィールドという脳科学の権威の晩年の思想的転向は、他の脳科学者たちに大きな衝撃を与えました。
 同僚たちの中には、ペンフィールドは老衰したためか、あるいは死の恐怖から頭が異常になったのだと非難する者もいました。

 エックルスも脳から独立した心・意識の存在を認めたばかりでなく、その心と脳との間に、ある種の相互作用があることを認めました。
 ペンフィールドとエックルスが、科学者でありながら脳から独立した心(意識)の存在を認めたことは重大です。しかし彼らの見解は、いまだに現代脳科学において受け入れられることはありません。現代科学の根本原則に抵触することになるからです。

 科学者の中からこうした画期的な動きが生じたのと同じく、哲学者の中からも、脳から独立した意識の存在を主張するアンリ・ベルグソンのような者が現れています。
 ベルグソンは、記憶の問題を手がかりに「純粋記憶(souvenirpure)」という概念を主張しました。これは心が脳から独立した実体であることを意味しています。
 ベルグソンは、脳は記憶を保存する器官ではなく、単に選別する器官にすぎないとし、従来の宗教が主張してきた霊魂の実在にきわめて近い見解を示しています。

新しい二元論「相関的二元論」の登場

 近代科学は、デカルトの「物心二元論」から出発しました。
 デカルトの「物と心の二分法」を採用して心を切り離し、物の世界だけを対象とするようになりました。
 やがてこの方向性がエスカレートし、「心は物質(脳)の産物に他ならない」という“唯物論”に至ることになりました。

 本来は、物と心を分けて、物の世界だけを対象にしようとする方法論にすぎなかったものが、“物から離れた心など存在しない”という思想にすり替わってしまったのです。
 デカルトの「物心二元論」は、いつの間にか「物質一元論(唯物論)」になってしまったのです。

 20世紀に至り、ペンフィールドやエックルスのように、「物質から独立した意識(心)の存在」の可能性を主張する科学者が現れ、再び「物心二元論」が科学の中に登場することになりました。しかもそこでは、意識(心)と物質(脳)の間に相互関連性があることが認められています。

 デカルトの二元論(二分的物心二元論)では、心と物体(脳)の間には関連性はないとされましたが、ペンフィールドたちは、心と脳は影響を及ぼし合っているとし、「新しい二元論(相関的二元論)」を提示することになりました。

  一方「心身医学」は、心が脳に及ぼす影響と同時に、肉体が心に及ぼす逆方向の影響力も証明して、意識(心)と物質(身体)の相互関連性を明らかにしています。この意味で心身医学は、「新しい二元論(相関的二元論)」に近い立場に立っています。

心身医学に突きつけられる選択

 心身医学は、臨床的にも実験的にも「心」が身体に対する影響力を持つことを証明したものの、「心」それ自体が何であるのかが分かっていません。
 これが現在の心身医学の最大の課題です。

 もし心身医学が「心は脳から独立したもの」というペンフィールドやエックルスのような見解に立つならば、それは従来の科学に対して明確な一線を引くことになります。科学医学の立場を自ら飛び出すことになります。
 そして宗教的立場に近づくことになります。
 医学の中に純粋な宗教的考え方である「霊魂説」が導入されるようなことになるならば、これまで全くなかったような「医学と宗教の連携」の可能性も出てきます。

 現在の心身医学は、意識(心)と身体の関係の問題だけに終始し、宗教との接近を極力避けようとしているかに見えます。
 しかし結論を言うならば「心身医学」は、ペンフィールド的な見解に立って自らを理論化しないかぎり、単なる臨床的な手段として何の魅力もない唯物主義医学の領域に自らを押しとどめることになってしまいます。
 それではホリスティック医学界をリードすることなど到底できませんし、ホリスティック医学の盟主としての地位を自ら放棄することになります。

「心」をどのように考え、定義するのかという最も困難な選択が、今、心身医学に突きつけられています。
“唯物主義医学”との決別を果たし、「真のホリスティック医学」のリード役となっていくのかどうかを自ら選択しなければなりません。それはホリスティック医学全体にとっても、将来の方向性に関わる重大な局面を迎えているということなのです。

心身医学の関係者に望まれる真の勇気

 これまで心や霊魂といった問題は、純粋に信仰世界のものであり、科学や医学とは無関係とされてきました。いわゆる「宗教と科学の住み分けの原則」です。

 科学は、どこまでも再現性のともなう物的証拠をもって物質世界の法則を認定する1つの方法論にすぎないのであって、心や霊魂など物質でないものに対して、あれこれ口出しする資格はありません。
 科学者や医者が「自分は霊魂の存在を信じられない」と言うことは自由ですが、「霊魂などは存在しない」と断言することは許されません。科学者は、科学の対象外である世界について口をはさんではならないのです。

 ところがいつの間にか、科学で証明されたことだけが事実であって、そうでないもの(*宗教などで信仰の対象となってきたもの)は事実ではないと考えるようになってしまいました。

 これは明らかに「宗教と科学の住み分けの原則」からの逸脱です。もし、そうしたことを口にする科学者がいるなら、それは傲慢さと無知を示していることに他なりません。

 20世紀に至ってニュートン理論に立脚する従来の科学モデルが崩され、物質は人間の意識と切り離すことができない関係にあることが立証されました。これは心身医学にとっては好条件で、心や霊魂について論じる環境が整いつつあるということなのです。
 心身医学は、唯物的で時代遅れにある現代医学に対して堂々と異議を唱えるべきなのです。
「心身医学」は、意識と身体の関係、心が身体に及ぼす影響を明らかにした以上、“唯物医学”の間違いを正さなければなりません。そして医学がこれまで宗教的として避けてきた心や霊魂の問題を、医学の中にもう一度復活させるべきなのです。

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