Short Column
   哲学

 哲学者、池田晶子著、感銘を受けた「人間自身考えることに終わりなく」より抽出し要約して紹介します。
 2007年2月23日、腎臓ガンのため46歳の若さで逝去、ファンの一人として大変ショックだったことを覚えています。
 2009/06/06~

No.01 考える力  No.02 誰が考えるのか  No.03 正しいとは  No.04 知らないという事を知る  No.05 自分で考えてください  No.06 苦しさを感じると微笑む  No.07 どうすればよいか  No.08 生死とは何か  No.09 確率は奇蹟ではありえない  No.10 生まれた原因は  No.11 天才について考える

Short Column No.01 


考える力

 皆さんは考えることは得意ですか?
 それともにがてですか?

「考える力」、これが意外と難しいもので、訓練しないとうまくできません。まず、言葉を知らなければなりません。言葉を知らないと、考えが概念化できないからです。
 最近の若者は何にでも「ヤバい」というようですが、言葉を知らないのでうまく表現ができません。言葉を知るためには、基礎学力が必要となります。

 人間は、「感じる力」は先天的に身についているものだと感じるのですが、この「考える力」は、環境や教育によって養われる後天的なものだと思っています。

 日本人は、この「感じる力」が優れている民族だと思います。その民族が作りだした言語は、当然、複雑でいろいろな「感じ」が含まれていて、難しい言語だと思います。
 しかし、聞き手の「感じる力」が優れているため、論理的な説明をしなくても「なんとなく理解できるのです。
 「察する」という言葉がありますが、物事の事情などをおしはかってそれと知る、推察する、他人の気持ちをおしはかって理解することです。
 相手が何を言いたいのかを聞き手が察し、意図を汲むということを、日本人はごく普通に、それも無意識に行います。あいまいな受け答えも許されてしまうのです。
 これが当然という文化になっていて、「言葉で説明する」ことが苦手なのが日本人の特徴です。


Short Column No.02 


誰が考えるのか

誰がどのように考えているのでしょうか?
「誰が」とは、「自分」のはずです。他人であるはずはありません。

 では、この「自分」とは何なのか?
→ 自分の中に存在する理性であり知性であると思います。

この理性・知性はどのようにして「自分」に与えられたものなのか?
→ 先天的なものか、後天的な学習によるものなのか、どちらも関係するのか、これはわかりません。わからないけど確かに在ります。

 このように言葉の概念を合理的に定義できなければ『考える力』とは何かを考えることはできません。
 このような思考方法を「哲学」と言います。
 そして、「哲学」はロジカルに組立てられています。
 論理という意味を表す「ロジック」は、ギリシア語ロゴスに由来しています。
この「ロゴス」の意味に、「神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。」とも書かれています。

神と繋がっているのです。

「わからないけど確かに在る」と感じるのが、宇宙の摂理であり、神という存在です。論理的な思考、科学的な分析と神の存在は矛盾しないものだと思います。
 どんな科学者も物理学者も数学者も歴史学者も、そして哲学者も、知性によって物事を追及してゆくとその先にある「わからないけど在るもの」を感じるようになります。

「自分」とは何なのか?という答えさえもまだ見つかっていません。


Short Column No.03 


正しいとは

 論理の正しさは、論理式に置き換えることで保証されますが、言葉の正しさは、どのようにして保証されるのでしょうか。
「正しい」とは、文字通り、正しいことです。
 私にとっては正しいが、あなたにとっては正しくない、こういうのを「正しい」とは、そもそも言いません。
 「君の正しさは間違っている」とは、この言葉の使い方が間違っています。

「正しい」とは、特定の個人や集団にとってのみ正しいことではなくて、誰にとっても正しいということなのです。
 誰にとっても普遍的に正しいというのでなければ、「正しい」ということの意味にはなりません。

≪感想≫
 この「正しいとは」どういうことなのか?  道理にかなっている。事実に合っている。正確である。規範や規準に対して乱れたところがない。
 まず、この「正しさ」とは何かを定義するところから、議論は始めなければなりませんね。
 たとえば、「愛」という言葉があります。
 愛は文学、道徳、哲学、宗教いずれの観点からいっても、もっとも根本的な観念の一つです。
 しかし、西洋の概念と東洋の概念は違うようにも感じます。
「真の愛は自己を犠牲にしなければ達成することができないという、絶対的な愛、これがキリスト教の考え方です。
 東洋には、慈愛・慈悲という言葉があります。仏教でいう「慈」は真実の友情で、「悲」は哀れみ、優しさを意味します。
 辞書で調べてみると、次のような言葉がありました。
「他者を自己とまったく同じには愛しえないがゆえに、憐(あわ)れみの気持ちをもって他者をいたわり、他者に対して本来自己がいだく冷酷さを緩和する」というのが東洋的な知恵のあり方で、この考えから、孔子の「己の欲せざるところを人に施すなかれ」という教えが出てくるのだそうです。

 同じ言葉でも、これだけ定義が異なるのです。


Short Column No.04 


知らないという事を知る

自分は知らないと知っていたら、どうして人に教えることができるだろうか。

 ところで、自分は知っていると思って人に教える自分は、いったい「何を」知っているのだろう。
 この「知っている」とはどういうことか。
「何のために」知るのか、「何のために」学ぶのかと問われたら、どう答えるだろう。 たぶん、会社のため、将来のため、人生のため、それなりに答えるだろう。

 それなら、「その人生とは何なのか」を知っているのだろうか。
「知る」とは、実際に役に立ってのみ、知ることであり得る。

 泳ぎ方を本で読んで知ってはいるが、実際に泳げないなら、泳ぎ方を知っているとは言えない。
 同じく、各種の知識を知ってはいるが、それを人生に役立てることができなければ、それを知っているとは言えない。
 ゆえに、人生のためと他人に教える自分は、人生とは何かを知っていなければならない。 知らずに教えているのであれば、自分は知らないということを知らないわけである。

 子供の教育ということについても同じことが言える。
   実際、多くの大人は、子供よりも先に生きているから、自分のほうが人生を知っていると思っている。
 しかし、それはウソである。

 彼らが知っているのは「生活」であって、決して「人生」ではない。
 生活の仕方、以下に生活するかを知っているのを、人生を知っていることだと思っている。
 そして、生活を教えることが、人生を教えることだと間違えているのである。

 しかし「生活」と「人生」はどちらも「ライフ」だが、この両者は大違いである。
 子供に「何のために生活するの」と問われたら、親はどう答えるだろう。

こういう基本的なところで大間違いをしているから、小中学校で仕事体験をさせようといった愚にもつかない教育になる。

 そんなことは、社会に出れば、ほっといたって学ぶことだ。生活に必要だからである。 しかし、生活の必要のない年齢の子供が、生活に必要な事を学ぶ必要がどこにあるのだろう。

 生活の必要のない年齢には、生活に必要のない事を学ぶ必要がある。それはこの年齢、このわずかな期間にのみ許された、きわめて貴重な時間なのである。

 生活に必要でないことは、人生に必要な事である。すなわち、人生とは何かを考えるための時間があるのは、この年代の特権なのである。

≪こういう基本的なところで間違っているから、自分が行っている社員研修も、ハウツウを教えるような愚にもつかない研修になる?≫


Short Column No.05 


自分で考えてください

「人生とは何か」とは、そこにおいて生活が可能となるところの生存そのものこれを問う問いである。
「生きている」、すなわち「存在する」とは、どういうことなのか。
 この問いの不思議さに気づけば、それを純粋に知ることの面白さがわかるはずだ。

 大人になった我々は、「生活」に追われ、「人生」について考える時間もゆとりもないのかもしれない。
 だからこそ、この本質的な問いに対して考えることが必要なのではないかと思っている。 いままで考えたことがないのであれば、今こそ考える時期できないかと思う。

 生活のための教育は、人生のための教育ではない。生活のための教育しか受けなかった人間は、生活のために生きることしかできない。

 いかに生活するかは知っていても、生きるとは何なのかを知らない大人は、たんに先に生きているだけであって、何を知っているわけでもない。

≪このことを知ってから、私は「我々はいかに知らないか」を研修テーマにすることにしています。どうせ教育をするのならば、人生のための教育を行いたいものです。≫

 心理学を勉強し「哲学」的な話をしていると、人が身構えるのがわかる。難しいもの、わからないもの、そして人生の現実とは関係ないもの。
 で、私はよく「考える」という言葉を使う。

「人生の現実とは、世界が存在することであり、人が生きて死ぬことである。このことの何であるかを考えるのだから、考えるとは生きることである。」

「で、どうすればいいんですか?」

「だから、まさにどうすればよいかを考えることが考えることだ」と答える。
 トホホ。

≪感想≫
 研修などで、この言葉を聞くと、力が抜けてしまいます。自分の人生を、人に尋ねるということが、一体どういうことなのか。この重大性に気づいていない人が、あまりにも多いと感じます。

「アドバイスをすることはできますが、決めるのはあなたです。
あなたの人生ですから・・・、自分で考えてください。」

Short Column No.06 


苦しさを感じると微笑む

 これも経験のたまものなのでしょう。ちょっと問題などが発生すると、テンションが上がるといいましょうか、集中力が高まり緊張するからでしょうか、久しぶりのストレスだとうれしくなる自分がいます。
「困りました、どうしたらいいでしょうか」なんて言われると、自然と微笑んでしまう自分がいます。
 すると即座に解決策が思い浮かぶのです。
「もうちょっと苦しんで悩んだほうが本人のためだ」なんて思って、考えるふりをしている意地悪な自分がいます。
 「これがまた楽しい?!」

 解決できない問題ならば、諦めるしかない。そう考えれば、悩んでも仕方ありません。

「なるようにしかならない」

 私のように、こんな風に考えてしまう人間は始末に負えません。
 いつも明るくニコニコしています。
 それを見ると、「自分はこんなに悩んでいるのに、この人はまじめに考えていない」と腹を立てているのを感じます。
 顔では笑っているのですが・・・。
 そうではないのです。考えても結果が変わらないのであれば、切り替えるしかないのです。 気分が悪い状態を続けていると、ほんとに気分が悪くなります。
 体と心のために切り替えないと本当に病気になってしまうとわかっているから、そうするのです。

「楽しいから微笑むのではなくて、微笑むと楽しくなります。」

 どんな状況に置かれても、まず微笑むことで心と体の健康が保たれ、そのおかげで正しい考え方ができます。
 正しい考え方ができないと、その状況を乗り越えることができませんから、その状況を乗り越えたいと思うのならば、まず微笑んで、その状況を受け入れるのです。

 受け入れることができないと、状況は変化しません。

 受け入れないということは、まだ認めていない、認めたくないということですから、認めていないことに対して対応すれば、つまり認めることになってしまいます。

 それが嫌だから、つまりそのままで立ち止まって動けなくなってしまいます。


Short Column No.07 


どうすればよいか

『どうすればよいか』とは、ある意味で人生の常態である。人生は自分が生きるものであるから、これを自分に問うのは理解できる。しかし、この問いを他人に問うとはどういうことなのだろうか。

「私はどうすればよいのでしょうか」

 おそらく人は、他人に答えを期待する、他人に答えを求めるということに慣れすぎている。
「自分で考える」ということをしたことがないから、考えることすら他人にしてもらうものだと思っているのだ。

 しかし、生きているのはその人であって、私はあなたではないのである。あなたがどうすればいいのか、私が考えるわけにはゆかないのである。

≪社員研修で話していても、似たような反応があります。
「どうすれば考えられるのですか」。
何かマニュアルみたいなものがあると思うのでしょう。パソコンを開いて、問いを打ち込めば、答えは即座に返ってくる。問いと答えはそのような関係にあると思っているのです。≫

 答えのない問いを考えることが、考えることだ。
 そう言っても、にわかには納得しないのは当然である。

 世の中これだけ情報があふれていても、本当に必要のないことを誰も知らない。
 人生の一大事、自分や家族の生きるか死ぬか、そんな時はどうすればよいかは、誰も知らないのである。
 もちろん、私も知らない。知っているわけがない。
 人生とは、それ自体が、知らないものを生きることだからである。
 それが何なのか、それがどうなるのか。自分が知らないのを生きるのが人生である。
 知らないからこそ、考えるのだ。


Short Column No.08 


生死とは何か

生死こそが人間のもっとも本質的な問題である。しかし、多くの人は、生死を現象でしかとらえていない。
死に方のあれこれをもって死だと思い、本意だ、不本意だ、気の毒だ、立派だと騒いでいる。しかし、いかなる死に方であれ、「死に方」は死ではない。

 現象は本質ではない。
 本質とは、「死」そのもの、これの何であるか、これを考えて知るのでなければ、まともに生きることすらできないではないか。

 この当たり前が通じないのは、認めたくないからである。
 生きるのは権利であり、死ぬのは何かの間違いであると思っている。

 正死することにおいて、人は完全に平等である。

 すなわち、生きている者は必ず死ぬ。

 癌だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである。癌も心不全も脳卒中も、死の条件であっても、死の原因ではない。

 全ての人間の死因は、生まれたことである。

 生命は素晴らしい、生きていることは奇蹟的だと礼讃するなら、死ぬことだって、同じく奇蹟的のはずである。
 どうして生きていることばかりを奇蹟的だと言って、死ぬことのほうを奇蹟的と言わないのか。

 この場合の礼讃の本意は、「生きていればいいことがある。いろいろ楽しいことができるから」といった類のものである。だから楽しいことができなくなると、「生きていてもしょうがない」と、こう簡単に裏返る。

 以前、子供が事故か殺人かで亡くなった小学校の先生が、「生きていればいことがあったのに」と子供たちに教えていたが、こういう教育は良くない。

 生きていれば悪いこともあるではないかと反論されたら、どう答えるつもりだろう。
 子供にいきなり生命は尊いと教えるのは無理である。「なぜ」それが尊いのかを実感していないからである。

≪大人と言われるようになった私たちは、実感しているでしょうか?≫


Short Column No.09 


確率は奇蹟ではありえない

 貴いと実感できるのは、それが神秘なものだと気づくことによってしかできない。これは、自分の力を超えている、自分にはこれは理解できない。
 こう気づくことによって、人は初めてそれを敬うという気持ちになるものである。畏怖の感覚と神秘の感覚は極めて近い。

 私たち大人が忘れているのだから仕方ない。

 科学が宣伝している「生命の神秘」がある。

「精子と卵子が結合する割合は何十億分の一である。これは奇蹟的な確立である。私の存在は奇蹟的である。
 あなた私もかけがえのない存在である・・・。」

 しかし、以下に奇蹟的な確率であれ、確立であるということは可能であるということだ。可能なことは可能なのだから、奇蹟的な事ではない。

 確率は奇蹟ではありえない。

 本当の奇蹟は、自分というものは、確率によって存在したのではないというところにある。
 なるほどある精子と卵子の結合により、ある生命体は誕生した。
 しかし、なぜその生命体が自分なのか、その生命体であるところの自分は、どのようにして存在したのか。

 これはどう考えても理解できない。なぜ、こんなものが存在しているのかわからない。
 だから、奇蹟なのだ。

 なぜ存在するかわからないものが存在するから奇蹟なのだ。
 なぜ存在しているかがわかるなら、どうしてそれが奇蹟であり得よう。存在するという事自体は、人間の理解を超えている。
 だからこそ、存在する生命は奇蹟であり神秘であると、正当にいうことができるのだ。
 生きることが奇蹟なら、死ぬことだって奇蹟である。

 なぜ存在するかわからない宇宙が、なぜか自分として存在し、それが生きたり死んだりしているのを見ているというのは、いったいどういうことなのか。

 生きたり死んだりしているとは、(何が)なをしていることなのか。

 とまあこんなふうに、「奇蹟」の意味を考えてゆくと、とんでもないところに出てしまう。
 人生というものを、生きてから死ぬまでの一定の期間と限定し、しかもそれを自分の権利だと他者に主張するようなのが現代の人の人生観である。

 これはあまりに貧しい。自分の人生だと思うから、不自由になるのである。しかし、人生は自分のものではない。
 生きるも死ぬも、これは全て他力によるものである。


TShort Column No.10 


生まれた原因は

「全ての人間の死因は生まれたことにある」と言ったが、ふとわからなくった。死ぬ原因が生まれたことにあるのなら、生まれた原因は、何にあるのだろう。
 「死因」とは聞くが、「生因」とは聞いたことがない。

 普通は、生まれた原因は、両親にあることになっている。
 「精子と卵子の結合により、この自分は生まれた、存在した」とするものである。 しかし、これは生まれたことの条件であり、生まれたことの原因ではない。

 素直に考えれば、そもそも存在しないものが、生まれることができるはずがない。 生きていないものが死ぬはずはないのと同じである。

 その意味では、存在するから生まれたのだということはできる。

 存在が生の原因である。
 したがって、死の原因も存在にある。

≪このロジックを理解できますか?≫

 ところがしかし、「生まれた」ということは、生まれたというまさにそのことにおいて、生まれないこともできたということを含む。
 そうでなければ、生まれたということの意味がわからない。生まれないという事もできたにもかかわらず、生まれたのである。

 だとしたら、「どうして」生まれたのだろうか。
 生まれたことの原因は、やっぱり不明なのである。

 たぶん、「生と死」と分けて言い、分けて考えるところから、この面倒は生じている。 生がなければ死はなく、死がなければ生はない。
 正確には、生がなければ死とは言えず、死がなければ生とは言えない。生と死は対としての言葉であり、言葉がなければ生死は言えない、つまり「ない」。
 それで私は面倒だから、言葉以前のこの存在を指して「存在」と言うことにしている。
「存在」は生死でもあり、生死でもない。
 同じことを「色即是空」といった人もいる。

「人がなぜ生きるのか」と問われれば、私は「存在するから」と答える。
 なお、「なぜ存在するか」と問われたら、「さあねえ」と答える。


Short Column No.11 


天才について考える

 ニュートンという科学者がいました。
 リンゴが落ちるのを見て、万有引力の法則を発見した人で、この功績で天才と言われている人であるが、万有引力を発見するためにには、まずリンゴが落ちるのを発見しなければならなかった。
 このほうが実は大事なことです。

 リンゴが落ちるということは、ニュートンが発見する前から、数限りなく起っていた事だったのです。しかし、誰一人として、そのことを発見しなかった。

 そんなことは当たり前であり、見ていても考えなかった。彼だけが、彼が初めて、リンゴが落ちるという恐るべき当たり前のことを「発見」しました。発見して驚いた。

「これはいったい、どういうことなのか。」

 何が言いたいかというと、天才とは、「当たり前のことを発見する能力」の事だということです。
 普通の人が当たり前だと思って気にも留めないことに気がつく、気がついて追及する能力を持った人の事なのです。

 だって、ほとんどの人は、当たり前のことには気がつかないのだから。

 この「当たり前のこと」とは、別名「常識」です。
 天才とは、常識の破戒者ではなくて、常識の発見者です。

 破壊できるような常識とは、せいぜいが世の中の思い込みとか社会のルールとか、そんな程度のものであり、そんなものは常識の発見者としての天才の眼中には、最初から存在していない。

 どうでもいい。
 どうしてかというと、常識を発見するということにおいて、天才は「天」と繋がってしまったからです。
 今や天と繋がってしまったような人が、今さら人の世のあれこれなどどうでもよくなるのは当たり前です。
 そういう生き方、考え方が、結果として世界の常識を「ぶち壊す」ことになります。

自分が天才であるという自覚は、具体的には直感やひらめきとして与えられています。


 ニュートンの話に戻ります。
彼は様々な事例研究から「動いているものは動いている方向に動き続けようとする」「止まっているものは止まり続けようとする」といった「慣性の法則」を発見していました。  彼の目下の悩みは「軌道」。  彼は観測による事例収集から太陽の周りを周る惑星や地球の周りを周る月がほぼ円軌道を描くことを確認していましたが、それが何故なのか判らなかったのです。

 彼が発見した原理によれば「動いているものは動いている方向に動き続けようとする」筈なのに、惑星も衛星も何らかの理由で、その「動いている方向」を変え続けています。

 悩みに悩んだ末、煮詰まっていた彼はある日、たまたま木からもげたリンゴが落ちるのを見かけました。
 なかば無意識にその意味について考えた彼は、一瞬の間の後に彼を悩ませていた問題の解答を得ました。

「止まっていたリンゴが落ちた」のも「動いている月が地球の周りを周る」のも「地球が引っ張ったから」

 地球に対して相対的に止まっていたリンゴは、慣性の法則によれば「止まっているものは止まり続けようとする」にも関わらず、落下したという事例。
 これが彼に「地球は物体を引っ張る見えない力」を持っているという結合関係を認識させたのです。
 そして彼は、その観点から見た様々な事例から「あらゆる物体は他の物体を引っ張る見えない力を持つ」という一般的原理を構築しました。

 これが万有引力の発見でした。

 ある事例に対し「当たり前の事」と考えて思考停止するのではなく、「何故そうなったか」を系統立てて論理的に考え続けること。

 これが「新しい何か」に到達する方法の一つです。

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