第24話 塞曹掾史張政

≪新説、邪馬台国物語≫

 卑弥呼は魏に救援要請し、狗奴国と相攻撃し合う情況を説明した。戦況が悪くなり、魏に救援を求めたのである。
 その結果、正始6年(245年)に皇帝から帯方郡を通じて、(卑弥呼やそれを補佐する男弟ではなく)難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられている。
≪ところが実際には、なぜか、帯方郡にそのまま保管されていた。そして、二年後。正始8年(247年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史(サイソウエンシ)張政が倭国に渡り、その際に難升米に黄幢と詔書を手渡している。≫

 この頃、魏の帯方郡に対して、三韓が反乱を起こしていた。帯方郡の太守が殺害される事件が発生しており、倭国に援軍を送るような余裕がなかったのかもしれない。

≪逆に難升米が率いる一大卒に、反乱軍鎮圧のための出兵を促していたのかもしれない。そのために、魏軍としての黄幢が与えられていたのであれば話が少し違ってくる。倭国の状況から、実際には出兵できなかった?≫

 難升米に授けられた、黄幢(コウドウ、魏の軍旗)、特に黄色の物は皇帝の指揮を表す。これが邪馬台国に与えられたということは、女王国への特別待遇を示している。そして、その使者として張政に白羽の矢が立った。
 初めての倭国訪問から五年ほど経ち、張政は帯方郡に務める官吏として日々過ごしていた。
 景初二年(238年)の第一回の朝貢以来、難升米との友好な関係は続いており、景初二年(238年)の倭国の使者などにも関わっていた。倭国の状況に一番詳しい「専門家」であった。
 殺害された帯方郡太守の後継者として王キが着任していたが、太守から呼び出され役所に登庁した張政に思いもかけない命令が下る。
 その太守の傍には、以前からの顔見知りである難升米の部下、載斯烏越が控えていた。

「以前から、邪馬台国と狗奴国との間にいざこざがあることは、そなたも知っていると思うが、この度の難升米からの報告によれば、邪馬台国で異変があり、魏に対して援軍を要請してきた。そなたに、塞曹掾史の役職を与える。これより直ちに倭国に向かい、黄幢と詔を難升米に渡してほしい。」
「えっ、・・・」
 突然の指示で戸惑った張政は、尋ねた。塞曹掾史とは武官だが、一軍の将という役職ではなく、軍事顧問というか、調査員のようなものである。通常は武力を背景に、進駐軍のような形で援軍を送るのが普通なのだが・・・。少数の警護兵は伴う。
「塞曹掾史としてですか・・・。」
「さよう、現状では援軍を送る余裕はない。そこで黄幢によって狗奴国との争いを調停するのだ。魏の軍事的な後ろ盾があることを示せば、狗奴国とて黄幢に弓を引くことはできまい。」
「檄を与えるのは難升米に対してなのですか? 女王卑弥呼に対してではないのですか。」
「実は、そのことについては、ここにいる載斯烏越(サイシウヲツ)が説明する。」

≪余談≫

載斯烏越(サイシウヲツ)
「斯(こ)の烏(からす)に載(の)って(海を)越えてきた」
烏とは、船のことを意味する。単なる音に漢字を当てたのかもしれないが、この烏という文字から、後の神武天皇をイメージした。奇想天外な物語になるが・・・。  

第25話 卑弥呼すでに死す

≪新説、邪馬台国物語≫

 正始8年(247年)ついに張政が倭国に渡ることになった。この後、20年余り倭国に留まり、重要な使命を果たすことになる。
 張政は、倭国の状況についてはかなり詳しかった。狗奴国とのいざこざがあっているのは以前から知っていたが、大規模な争いなどと言う事態ではないということも知っていた。これを言い訳として、倭は帯方郡に反乱軍鎮圧の援軍を送らなかったことも、実は知っていた。
 君主国としても、表だって頼むことはできない。倭国軍の意思として援軍を送れば助かるという程度だったので、その旨を難升米に伝え時間稼ぎをしていた。

 載斯烏越。彼は大夫難升米の片腕であり、今回は重大な使命を帯びて帯方郡に来ていた。
 彼の顔色が、いつもと違う。

「女王は、すでに亡くなりました。各部族の長が、われこそは次の倭王であると名乗りを上げ、すでに小競り合いが始まりました。難升米さまは、この混乱を避けるためには魏よりの使者による調停が必要となると言われました。そこで私が密命を受け、太守にお願いにまいったのでございます。できれば、我が国の事情をよくご存じの張政さまにお願いできないかというのが、難升米さまの指示でございました。」

≪その時、卑弥呼の死についてはいろいろな説がある。日食説のほかに、狗奴国との争いで殺されたとか、寿命による自然死説もある。以下は個人的な妄想である。≫

 西暦247年(正始八年)3月24日、日本では日食が観察された。当時の倭人にとっては、まさに天変地異が起こった。
 倭人たちは恐怖におののいた。
 いつも中天たかく耀いている太陽が突如蝕まれ、昼の時刻というのにあたりはほの暗い闇に覆われていく。人々は恐る恐る空を見上げ、鶏や犬はおびえて鳴き騒ぐ。
このような状況ではなかったかと思われる。

 この混乱の責任は、卑弥呼にある。
 倭国中に「女王死すべし」との声が沸きあがった。つまり「その国が衰えたり不幸にあうのは、その王の霊力が衰えたからであり、これを改善するには霊力の衰えた旧王を殺して、かわりの新王をたてるより方法がない」という理屈である。
 この混乱を静めるために、みずから死についた。これが「持衰」としての卑弥呼の本来の役目であった。

「大いに冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。」

≪つまり、高塚(おそらく円墳)で、直径が百余歩(100歩≒25メートルほどか?)。≫

 張政は倭国に渡り、2年前にすでに出されていた黄幢(魏の軍旗)と詔書を使い、後継者争いの調停に乗り出すが、その後一年以上混乱が続いた。

「塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書、黄幢をもたらし、難升米に拜假せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。」

「倭国大乱」の時期に、男王では混乱がおさまらず卑弥呼を共立することで倭国の平和がかろうじて保たれていたのだが、その状況に対する不満もたまっていたのかもしれない。

「後継に男王が立つも国中が承服せず。」
「邪馬台国連合の国々は反目しあい、血を血で洗う政争がはじまり、その犠牲者は当時千人をかぞえた。」と記録に残っている。

 もともと張政はどのような目的で倭国に派遣されたのか。
倭国における張政の役割は伊都国にあって「呉朝動向の収集と監視」と「倭国・狗奴国の停戦監視」ではなかったかと私は思っている。
張政はこの時、狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗とも、休戦ということを交渉したはずである。

第26話 台与の擁立

≪新説、邪馬台国物語≫

 張政は卑弥呼に再び会うことはできずに「卑弥呼の葬儀」を目撃することになった。
「徇葬する者、奴婢百余人。」と書かれているが、この奴婢百余人とは、卑弥呼の宮殿内に侍していた婢(女性)千人の中から卑弥呼死後の世界でも又、生前と同じように侍ることを要求され、そのために殉死せざをえなかった婢(女)や宮殿を守衛していた兵=奴(男)だとおもわる。
 これが当時の風習であり、古い中国のやり方だったのかもしれない。・・・・やがて埴輪へと変更されていった。
西暦247年(正始八年)3月24日の日食から、一年後。
西暦248年(正始九年)9月5日に、二度目の日食があった。
 倭国中が後継者争いで騒乱状態の時に、タイミング良く再び日食が起こった。有力者が、相次いで死んだのかもしれない。
「天は再び、日巫女を求めている」ということで、共立の機運が盛り上がってきた。

 記紀には「八百万の神々が天の安河の川原に集まりどうすればいいか相談をした。」と書かれている。(天の岩戸伝説)
 そして、アマテラスが復活したのちに八百万の神は相談し、スサノウの命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。

≪この二つは歴史的事実であると思っている。女王卑弥呼の死去と台与の共立を表したものである。その後、追放されたスサノウの命は出雲国に行っている。≫

 張政は、この日食を利用し各地の国々の長を「天の安河の川原」に集めた。

≪この場所がどこだったのか、以前詳しく調べてみたことがある。
「天」という地方の「安河」という場所。邪馬台国連合にとって一番集まりやすい場所、中心であり、卑弥呼の宮殿とも近い場所。
 こんな条件で探してみると、福岡県小郡市に流れている宝満川が見えてきた。
 いまは、三輪町と合併して筑前町になっているが、今の津古あたりから山家にかけての地域で、私はここが「天の安河の川原」だと思っている。
この西に、筑紫神社がある。この神社が気になって仕方がない。
祭神は白日別神。別名、五十猛神(イソタケル)とも言われている。
素戔嗚尊(スサノオ)の子である。
 なお、スサノウとは卑弥呼の死後、「後継に男王が立つも国中が承服せず」と書かれた人物だと思っている。そしてこの人物は「難升米」本人だったのかもしれない。≫


「更に男王を立てしも、國中服せず。
更相誅殺し、当時千余人を殺す。
また卑彌呼の宗女壹與、年十三爲るを立てて王となし、國中遂に定まる。
政等、檄を以て壹與を告喩す。」

 その会議の席で、卑弥呼の宗女(一族の娘)で歳が13才という台与が擁立され邪馬台国連合内の争いがようやく収まった。

 張政はこの13歳の巫女に、なにを告喩したのか。いずれにせよ、張政が後見人のような形になったのは間違いない。 なお、「政等」とあるから、張政らは「軍事顧問団」として倭国に来たのかもしれない。

第27話 正始の政変

≪新説、邪馬台国物語≫

 張政が伊都国に留まり、倭国の混乱を収拾しようと動いていた頃、魏本国では大変なことが起こった。 →≪「第22話 仲達雌伏の時」を参照≫
 大将軍・曹爽は、蜀に大敗を喫し(244年)、威信を落としていた。相対的に司馬一族の勢力が強くなっていた。
 司馬仲達はライバルである曹爽の心境を巧みに見抜き、「歳をとって野心を無くした」演技をし続けた。病気と称して屋敷に閉じこもり、人がくると耳が聞こえないふりをしたり、客の目の前でおかゆの椀を取り落として見せたり、わざと脈絡のない話をしたり。
 正始10年(嘉平元年249年)春正月、少帝は明帝の墓参のため曹爽をはじめとする皇族の重臣たちを引きつれて洛陽の都を出た。
 司馬仲達はこのときをとらえ、ただちに兵馬を指揮して武器庫をおさえ、都に居残っていた郭大后を擁して首都を占拠すると、ついで城外にでて都を背に皇帝一行に対して部隊を配置し布陣を終ると、「曹爽に反逆の疑いあり」と上表した。
 まったくの言いがかりである。
 曹爽は皇帝と同行しており、その意味でいわば「錦の御旗」は曹爽の側にあった。しかし奇妙なことに曹爽は、その有利な条件を生かすことがなかった。

 曹爽の部下の中には「帝をこのまま『許昌』にうつし、都の外の軍隊を召集し、もって司馬仲達を討つべし」と進言するものもあったが、曹爽はなぜかこれを取り上げない。
 彼らがそういう戦略を立てているときに司馬仲達の使者が来た。
 その使者の手紙には、司馬仲達の挙兵の目的が洛陽の風紀の乱れを正す事であり、皇帝はもちろん、曹爽とその取り巻きに敵対心は持っていないので、速やかに都に帰ってくるようにと、優しく真心溢れる文章で書いてあった。

 曹爽は、すっかり騙されてしまった。そして「罪に服する」旨の使者を司馬仲達の陣営に送った。
 即刻大将軍の地位から罷免され、自宅謹慎となったのち死罪。
 曹爽には、「まさか皇族の自分を殺すことはあるまい」という甘さがあったのである。さらには曹爽の反逆に荷担していたとして、皇族(曹氏)の重臣たちはことごとく朝廷から一掃された。

 この後、朝廷内に司馬氏の障害となるものはいなくなった。この事件を世に「正始の政変」と呼ぶ。
 こうして司馬仲達は魏の実権を完全に掌握した。
 彼はこの2年後に病死するが、その遺志は長男の司馬師に引き継がれる。
 結局、彼の代には魏王朝を簒奪することはなかったから、明帝との約束は守ったことになる。
 長男の司馬師は、その後夏侯玄らのクーデターを未然に察知し、その一族を皆殺しにした。そして彼は、夏侯玄らの背後に皇帝・曹芳の意思が動いていたことを知ると、直ちにこの皇帝を廃位してしまった。
 成人に達した曹芳は、自分が司馬一族の傀儡に過ぎないことを怒り、密かに司馬師を暗殺しようとしていたのであった。
 司馬師は、自分の操り人形になりそうな皇族・曹髦を擁立した。
 彼は、この事件に憤って挙兵した?丘倹将軍の叛乱も鎮圧に成功。
 いよいよその地位を固めたところで病死する。

 その跡を継いだのは、弟の司馬昭であった。
 彼は、曹操が後漢の天下を奪うやり方をそっくり真似した。
 次第に昇進し「晋公」、ついには「晋王」になる。
 この様子を憂えた諸葛誕将軍は、呉と同盟をして「反・司馬昭」を合言葉に挙兵するが(257年)、あえなく敗れ去った。
 そして260年、司馬昭は一線を超える。
 自分の操り人形である皇帝・曹髦を殺害してしまう。

第28話 遷都

≪新説、邪馬台国物語≫

 一方、正始8年(247年)から壱与の即位を経て泰始2年(266年)までの20年間の内に倭国から魏朝への朝貢が絶えている。これは嘉平元年(249) 司馬仲達によるクーデターが原因だと考えている。
≪260年、晋が建国して6年後、中国国内が安定した頃、朝貢を再開した。この期間は、ほとんど情報が途絶え歴史的資料がない。当然、フィクションが多くなる。≫

 張政ら「軍事顧問団」にとっては、よりどころとなる勢力が無くなってしまったことになる。
 帰りたくても帰れない状態になった。本国からの命令はそのままだし、忘れ去られたような感じだったのだろう。
 この当時、張政ら顧問団は伊都国に留まり、倭国の政治の安定のために活動していた。それが本国から与えられた仕事であり、官吏として当たり前だったからである。

≪その時に書いた「倭国報告書」を参考に、のちの「魏志倭人伝」が書かれたと思われる。≫

 魏の政治的混乱は、相対的に張政ら「軍事顧問団」の地位も下がることになる。狗奴国に対する政治的影響力も少なくなり、歯止めが利かなくなった。
 以前から倭国内では、熊本を本拠地とする狗奴国の卑弥弓呼が筑後平野への進出をねらって、邪馬台国連合に戦を仕掛けていた。そして、卑弥呼の死により邪馬台国連合内部がごたごたしているすきに、今の八女地方まで勢力圏に納めていたと思わる。
 元々の邪馬台国の本拠地で、ついに古い都を征服したような感じではなかったか。自分たちこそが正当な「徐福の子孫」であるし倭国の王としての意識があった。
 また背後に呉の影響があったのかもしれない。
 邪馬台国連合内で共立された台与は、張政ら魏の影響下にある女王である。認めるわけにはいかない。

≪当初、邪馬台国は矢部川と広川に挟まれた高台、丘陵地一帯が中心ではなかったかと思っている。現在、古墳群がある場所。その勢力が拡大し、邪馬台国連合のような組織が出来上がった頃、アマテラスが活躍していたのは筑後地区の中心、今の小郡市の東、宝満川を中心とした一帯、さらに甘木、朝倉と移っていったと考えている。(邪馬台国甘木説)
近年、ここから平塚川添遺跡という大規模な環濠遺跡が出てきた。≫


 狗奴国の圧迫がひどくなり、台与は遷都を決意した。筑後平野から離れ、日田を経由して「京都郡」に都を移した。今の宇佐神宮のある場所の北部地区である。(邪馬台国宇佐説)

 宇佐神宮のある豊後、行橋市のある豊前、つまりこのあたりは「豊の国(トヨノクニ)」である。
「難升米等」と台与という名前は、地名が豊という国だったから台与という名前で呼ばれたのか、あるいは台与という女性がそこに住んだから地名が豊になったのか。いずれにしても、豊という人名とは、無関係ではないと思う。 「京都郡」という古くからの地名が残っている。かつては行橋も京都郡に属していた。
 北九州市・行橋市・築上郡との関係が非常に深く、旧豊前国の国府跡がみやこ町(旧豊津町)で発見されたため、この地域は豊前国の中心地であった。
 私の個人的仮説だが、張政ら、魏の影響下にある北部の勢力、難升米がいる奴国や伊都国などは、宗像、北九州と海路沿いに勢力を広げ、当時の豊の国もかなり開けていたのではないか。
朝鮮半島の騒乱を逃れ倭国に渡ってくる人々も数多く、豊前から日向、九州の東岸地区が開拓されていった。それらの勢力の中心地として、豊前は最も適した場所である。
台与の時代、この地区に一大勢力があったと思っている。

第29話 邪馬台国宇佐説

≪新説、邪馬台国物語≫

 台与の時代、邪馬台国の本拠地である筑後有明地区は、狗奴国の「九州王朝」の勢力下にあったが、中津を中心とする「女王国」はその勢力を拡大していった。
 なお魏志倭人伝には「女王國の東、海を渡ること千余里にして又國有り。皆倭種なり。」という記述がある。この記事の倭種(倭人)とは大和朝廷支配下の近畿地方のことだと考えられる。
そして、この国の東には海があったという事実を表している。
そして、「女王国」と書かれてあり、「邪馬台国」とは書かれていない。
ここがポイントである。
邪馬台国→女王は卑弥呼。
女王国→女王とは台与。
 依然として、邪馬台国は「九州王朝」の筑後にあったと私は思っている。これを同一視するところに、邪馬台国宇佐説の間違いがあると思う。

≪ネットで次のような記事を見つけた。抽出して紹介する。≫

 江戸中期の多田義俊氏は、天照大御神の都=高天原は豊前の国の中津(大分県中津市)にあたるとして、その理由を次のように挙げている。

≪天照大御神を台与だと比定すれば、間違いではない。≫

 豊葦原の中津国は、豊前の国の中津にあたる。豊葦原の 「豊」 の字はただの美称ではない。豊前豊後の 「豊」 を意味する。
 難波あたりでは、豊前豊後ふきんから出る米を中国米という。いにしえ、そこが中国だったからである。そのことは、豊前の国に都郡(京都郡)があるのを見てもわかる。
 豊前風土記には、「宮処の郡(福岡県京都郡)、いにしえ、天孫はここより発ちて、 日向の旧都に天降りましき。けだし、天照大御神の神京なり」 とある。
 日本書紀の景行天皇十二年の条に、「 筑紫に幸して、豊前国の長峡県に到りて、行宮を興てて居します」 とあるのも、神代の旧都を慕っての意味である。
 皇統のことを、代々問うための使いを、宇佐使(天皇の即位や国家の大事のとき、宇佐神宮につかわされて幣帛をたてまつった勅使)と名づける。これもまた、神都に報告する古くからの習慣ではなかろうか。

≪中略≫

 記紀は大和朝廷=天皇家の起源が九州と明言し、天皇家は九州での宗廟を宇佐神宮としている。

 九州に天皇家の宗廟が現存しないか不明であれば別であるが、宇佐神宮は伊勢神宮と並んで天皇家の二所宗廟とされ、道鏡事件でもわかるように、奈良時代には朝廷に対する影響力は伊勢神宮を上回っていた。
 また、奈良時代以降1100年間も天皇家は近くの伊勢神宮に参拝すらしたことが無いのに、国家の大事や天皇の即位時には、宇佐神宮に必ず勅使が遣わされた。
 このように、天皇家の宗廟問題からすれば、邪馬台国(高天原)=宇佐とするのが妥当であろう。

≪天皇家の皇祖は、アマテラスとなっているが、ここに卑弥呼と台与という二人の人格が混同されている。これには何らかの作為があった。≫

 台与が天皇家の皇祖であり、宇佐を本拠地とした豊の国が、天皇家の起源、九州の宇佐であるのは間違いないと思っているが、台与が本当に邪馬台国の女王卑弥呼と姻戚関係にあったのかどうか、私は疑っている。 素直に考えれば、分家が本家を名乗ったという感じ。さらに、神武天皇はその系図のすみっこにいた人物だと思っている。

第30話 スサノウの追放

≪新説、邪馬台国物語≫

 熊本を中心とする狗奴国は、有明海を中心とする勢力で、歴史的にも呉との関係が強く、中国系の国ではなかったか。
それに対して、邪馬台国連合は韓国系の人々が多く、当然勢力争いがおきても不思議ではない。
 狗奴国が有明海地区を制圧し、「九州王朝」として以後の「大和王朝」とは別の発展を遂げたと考えている。
 邪馬台国→九州王朝→筑紫の岩井という流れである。
 記紀神話ではアマテラスを皇祖としているが、「卑弥呼ー台与」を象徴していると思う。
 これが正統な王朝の系列であり、この王朝が「東遷」して「大和王朝」になったのだと書いている。そして、それに対抗する勢力の象徴が「スサノウ」である。
 倭人伝によれば、卑弥呼が死去した後いったん男王が邪馬台国の国王となるが、国中が服せず千人を殺す内戦となり、この男王は結局追放されて、卑弥呼の宗女の台与が女王となった。
 これが記紀では、スサノウの高天原からの追放と、天照大御神が天の岩戸から出て再生したことに対応する。
 台与が共立されたときに、排斥された一派、「スサノウ」は北部の勢力の一部だと思うが、彼らが、邪馬台国連合の勢力圏から逃れ「出雲」方面に進出したと考えている。

 大国主命を中心とする出雲神話は、本来は出雲地方(出雲王朝)での独立した神話である。
 しかし記紀では、スサノウを「卑弥呼ー台与」の正統王朝に対抗する勢力の代表としたため、スサノウをかなり強引に出雲神話に結びつけた。

 なお、スサノウと出雲神話の結びつきは、スサノウが高天原を追放されて出雲に降り立ち、八岐大蛇を退治して奇稲田姫を救けこの姫と結婚することから始まる。

≪この物語は、日本書紀の本文だけではなく一書群にも登場する。したがって、日本書紀に先行する歴史書(6~7世紀成立と推定)において、スサノウを「卑弥呼ー台与」の正統王朝に対抗する勢力の代表とする物語の骨格は、すでに出来上がっていた。≫

 記紀などの日本神話が語る高天原は、のちに大和朝廷の中心となった勢力の祖先が、遠い昔にいた場所についての記憶を伝承の形で伝えたものではなかろうか、と思っている。
 そして、この台与の時代こそ、のちの大和朝廷の前史をなす大発展時代だった。

 つまり出雲方面にはそれなりの勢力が行き、国を築く。日向方面にも進出していった。
 台与の次の世代、神武天皇が活躍したのは、280年~290年頃だと思うが、大和方面に進出していく。

≪余談≫

 日向から、高千穂に進出してきたのが神武天皇の孫、阿蘇神社(熊本県阿蘇市)に祀られている阿蘇開拓の主、健磐竜命(たけいわたつのみこと)である。この健磐竜命は、日向国から五ヶ瀬川に沿って三田井(高千穂)、馬見原を通って草部に入られた。
 このとき一羽の白鳥が幣立神宮へ案内した。 命は御幣(ごへい)を立てて奉祀されたので「幣立神宮」の名が起こったといわれている。

第31話 張政の帰国

≪新説、邪馬台国物語≫

 この物語の主役である張政は、どう過ごしていたのか。晋の泰初(始)2年(266年)にやっと張政は帰国することになった。20年近く倭国に留まっていたことになる。

≪なお、陳寿の「魏志倭人伝」も張政顧問団の帰国を最後に筆をおいている。≫

 魏志倭人伝には、台与の朝貢記事が何時のことか記載がない。これは単なる記載漏れではなくて、執筆対象時代が「魏」であるため「晋」の時代である泰始2年(266)とは書かなかった。

「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の環るを送らしむ。
因って台に詣り、男女生口三十人を献上・・・」

 正始8年(247年)から壱与の即位を経て泰始2年(266年)までの20年間の内に倭国から魏朝への朝貢が絶えた。これは嘉平元年(249)司馬一族によるクーデターが成功し曹爽が誅殺されたからだと思われる。
 倭国としては、嘉平元年のクーデターをどう評価するのか司馬一族への不信感が生じたのではないかと思う。
 張政も魏の官吏として派遣されたのだから、下手に帰国すると身が危ないと感じたのかもしれない。自分が後見人となって共立した「台与」がどう政治をするのかを見ていたかったのかもしれない。
 司馬一族の当事者がすべてなくな、世代が変わった頃を見計らって、帰国の途についたと思われる。名残を惜しみ、台与は朝貢団を組織し「政等の環るを送らしむ。」

 年老いた張政が、涙ながらに別れを告げている光景が見えるようである。

 正始8年(247年)の来倭から泰始2年(266年)の帰国まで伊都国に常にとどまって、倭国を観察していたであろう張政の『倭国報告書』を参考に魏志倭人伝は書かれている。因って、その内容は細部においても正確に実情を把握していた。
 そこに登場した張政という人物について調べつつ思いのままに書いてきた。
 魏志倭人伝の一文字一文字が私の妄想をふくらまし、気かつけばだいぶん長い記事になってしまった。

 興味のない方には面白くなかったと思うが、私自身も消化不良である。もっとドラマチックな展開を考えたのだが、今回は「すじがき」のようになってしった。この「すじがき」を元に再度小説にチャレンジできれば・・・。

倭国伝説 その四

邪馬台国女王「卑弥呼」の時代の物語