第16話 何らかの異変あり

≪新説、邪馬台国物語≫

 都では、燕王の曹宇に反対する勢力があり病床の明帝に対して強烈な巻き返しをはかった。もちろん、司馬一族の働きかけがあったことは間違いない。
 重病の明帝は、やはり精神的にも不安定だったのだろう。取り巻きの役人に対して「燕王は大任に堪えることができるだろうか」と相談した。
実は、地方にいることが多かった伯父のことをあまりよく知らなかったのである。
≪王朝の内部では燕王の曹宇は人望がなかったのかもしれない。それとも官吏の本能がそのような行動を取らせたのではないか。今後、誰につけば良いのか。司馬一族の勢力が増している現状を肌で感じていたはずなのである。≫

 また、日頃から従順を装うために謙遜することが多かった燕王の言葉をそのまま利用して、役人は答えた。
「燕王はご自身でも、荷が重すぎるが・・・といっておられました。」
「では、誰がよかろう。」
「武衛将軍曹爽(そうそう)様がよろしかろうかと。」
「しかし、あれも心もとない。」
 曹爽は家柄もよく性格的には問題ないが、これといった実績もない人物であった。
「司馬仲達さまに補佐をさせれば、間違いございません。」

 仲達ならば実力に問題ないし、逆に有能すぎて危ないと思っていたのだが病床の明帝はふとその気になったのである。
「曹爽を大将軍とし、仲達に補佐をさせよう。」
ここで一気にたたみかけました。
「では、その旨の詔勅をお書き下さい。」
こうして、曹爽を大将軍とすることと仲達を都に呼ぶという二通の詔勅が出された。

 官吏のクーデターが成功した。燕王の曹宇は大将軍という職を解かれてしまった。

 都がこのような状態だったで、倭国からの朝貢、難升米らはどうすることもできなかったと思われる。
 張政は、皇帝に拝謁するための手続きをしていたが役所自体が混乱していた。
 「申し訳ない、このような状況でありしばらくお待ちいただかなければなりません。」
 魏の都、洛陽に着いた難升米の一行は、事態が落ち着くまでどうすることもできない。
「司馬仲達さまより内々の指示もあり、必ず意に沿えるよう取り計らいますので、ご辛抱下さい。都の見物でもしてお過ごしください。」
 難升米もあせりはあったと思うが、ここはどうしようもない。
 史書によるとその年の十二月、難升米は詔書をもらうことになるので、半年近く時間がかかったことになる。
 
 倭国の人間にとって、中国の都、洛陽はどのように映ったのだろう。高くそびえる城壁、高楼、広大な宮殿、そのスケールの大きさに目を丸くしたに違いない。

≪参考≫

『魏志倭人伝」による。
「景初二年(二三八年)六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣らしめ、天子に詣りて朝貢せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わして送りて京都(洛陽)に詣らしむ。」

その年の十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、
『親魏倭王卑弥呼に詔す。帯方太守劉夏、使を遣わして汝が大夫難升米・次使都市牛(ご)利(り)を送り、汝が献ずる所の男生口六人・斑布二匹二丈を奉じて、以て到らしむ。
汝が在る所、遥かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。
是れ汝の忠孝、我、甚だ汝を哀しむ。今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与えん。
・・今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青授を仮し、引見労賜し遣わし環す。
今、・・銅鏡百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付し、還り到りて録受せしめん。悉く以て汝が国中の人に示し、国家の汝が哀しむを知らしむべく、故に鄭重に汝に好物を賜うなり』


 格調高い文章に、その状況と感動が伝わる。

第17話 明帝死す

≪新説、邪馬台国物語≫

 司馬仲達は早馬を飛ばして帝の病床に駆けつけた。
まだ、明帝はまだ生きていて、何とか話ができる状態であった。
仲達は、遼東、帯方、楽浪それに玄?(げんと)の四郡を平定したこと。そして、倭国からの朝貢が来ていることを床にある明帝に報告したはずである。
以下の文章から、その時の明帝の喜びようが伝わってくる。
「汝が在る所、遥かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。
是れ汝の忠孝、我、甚だ汝を哀しむ。今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与えん。」

≪このとき「使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。」と書かれている。たいした献上品ではなかった。それに対して下賜品はすごい。≫

景初二年(238年)12月、倭国の支配者であることを認める金印を贈った。さらに、大使である難升米と副使である牛利に中国の官位を与えた。その他、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各々五十斤なども与えた。
朝貢は形式的な臣従の代償に、莫大な利益をもたらすものである。
しかも、使者が詔書・印綬を奉じて倭国に向かうことになった。

≪「親魏」という名称に特別の意味を感じる。東夷の属国に対して、対等の関係のような称号を与えるのだから、どれだけ特別扱いをしたかが解る。しかし、明帝の死によって、倭国に向かう時期が少し後になった。≫

景初三年(239年)正月元旦に何故か急逝した。
36歳であった。
帝崩御の直前に、養子曹芳(斉王)が皇太子に立ち、その日に帝位に就いた。

明帝は君主として誠に優れ素質を持っていた。沈着剛毅で決断力と見識に富み、心意気と相手に対する思いやりを持って行動する人物であった。
「三国志・魏書」によると、帝は司馬仲達に対して、「あとを頼む」と後事を託したとされるが、本当のところはどうか。
皇帝臨終の枕元で涙を流す司馬仲達を白々しい猿芝居だと感じていた者が少なくとも二人いた。
 一人は病床で今や息絶えようとする明帝その人であり、もう一人は皇族の最有力者、大将軍の 曹爽(そうそう)である。
明帝が本当に頼りにしたのは、親族でもあり若い頃から慣れ親しんだ曹爽であった。
「曹爽と力を合わせ、幼少の者を助けていただきたい。死んで、まっていおりますぞ。冥府で再会した時に、卿と遺恨など生じないように・・・」
(遺恨?)
仲達の実力を持ってすれば、魏王朝を簒奪することもできるはずである。しかし、それでは亡き明帝戸の間に遺恨が生じる。つまり、上記の言葉の裏に、仲達を恐れていた明帝の本音がある。
あとを継いで、若干8歳の養子斉王曹芳(そうほう)が即位(少帝)したが、まだ年少であったので、明帝の后であった郭(かく)皇后(大后)が皇室の実質的な代表者となり、大将軍の曹爽と太尉司馬仲達がこれを補佐するという体制となった。

 曹爽は若い頃から、そのころまだ皇子であった明帝に仕え、謹厳かつ重厚な人柄であったため、大変明帝に愛された。
この時期には魏の大将軍の地位にあって内政と軍事の両面を掌握し、皇族のなかの重鎮となっていた。
明帝死去のあと曹爽は幼帝を擁して、皇室=曹氏の権限の回復・強化を図る。
 そのため司馬仲達を地位だけは高いが実質的な権限のない大傳(たいふ)という名誉職に祭り上げた。
 司馬仲達を朝廷から排除しようとする曹爽の意図があからさまに示された人事で、身の危険を察知した仲達は、こののち病気と称して館に引きこもる。

第18話 魏王朝の滅亡までの流れ

≪新説、邪馬台国物語≫

 その年の三月、呉の孫権は遅ればせながら遼東に将軍と兵を送り出したが、魏の守備隊を襲って男女数百人の捕虜を連れ帰るだけに終わっている。一応、公孫淵との約束を果たしたという、大義名分のためであった。
当時、中国では帝が変わるごとに改元する習わしがあり、翌年から正始元年(240年)と改められた。そして、魏王朝は明帝死後10年余りで終わることになる。
喪が明けて諸行事の再開があり、帯方郡吏は先の使節を伴って来日し、卑弥呼に約束の金印と銅鏡などを届けた。この時、魏使として倭国に来たのが、梯儁(ていしゅん)である。
≪倭国の物語と直接、間接にいろいろとかかわりがある。≫

・正始2年(241)
6月、司馬仲達が朱然に包囲された樊(はん)城の救援に向かい、呉の軍をおいはらう。 呉との戦いは続いていた。

・正始4年(243)
正月、 曹芳は元服の礼を行い、4月、甄(しん)氏を皇后に立てる。
12月、倭の女王俾弥呼が使者を派遣してきて捧げ物を献上した(少帝紀)。
「倭王、また使者大夫伊声耆掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・・を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。」

・正始5年(244)
3月、曹爽は、司馬仲達の反対を聞き入れず、大挙して関中から漢中に攻め込むが、大きな損害を受けて軍を引く。この年、高句麗滅亡。燕や高句麗の亡国民が大挙して新羅に流れ込むに至る。

・正始7年(246)
『漢晋春秋』によれば、この年、呉の大将朱然が柤中(そちゅう)に侵入した時、べん水を渡って避難。
  官民一万余家の処置について、曹爽と司馬仲達の意見が対立。曹爽は、自分の考えを押し通す。
帯方郡で難升米に黄幢を賜う。
←これはどういう意味か、このころから狗奴国との争いが起こっている。魏の後援のシンボルとして「錦の御旗?黄幢」が邪馬台国に与えられたという事なのか。

・正始8年(247)
このころ、曹爽が何晏・丁謐らと結んで政治をもっぱらにし、制度の改革を盛んに行う。
司馬仲達は病気と称して政治に関与しない。
卑弥呼が魏に救援要請。狗奴国と相攻撃し合う情況を説明する。
張政の来倭。

≪正始8年(247年)から壱与の即位を経て泰始2年(266年)までの20年間の内に倭国から魏朝への朝貢が絶えた。≫

・嘉平元年(249)
正月、司馬仲達がクーデターをおこし、曹爽とその一味の何晏・丁謐らを誅殺する。

この10年の間の大きな変化がこの物語の中心となる。
話を正始元年(240)に戻す。

第19話 魏使、梯儁(ていしゅん)

≪新説、邪馬台国物語≫

 卑弥呼に約束の金印と銅鏡などを届ける魏使として倭国に来たのが、梯儁(ていしゅん)。

≪「魏志倭人伝」の内容は、この時正始元年(240)、郡使の梯儁の情報と正始八年(247)に来倭した張政による倭国内での活動内容を記した『帰国報告書』を基に書かれたものである思われる。≫

 倭国に対するこの優遇の背景には、高句麗の存在がある。高句麗と敵対している魏にとって、その背後にある倭国を抱き込むことは、重要な軍事的価値があった。
 またもう一つは、「倭国による初の通貢」は「司馬仲達東征の手柄」として評価されたことが挙げられる。つまり司馬仲達の武功をことさら誇るためだった。

魏使、梯儁の随行員として、若き日の張政は初めて倭国の地を訪れた。そして、その七年後、今度は正使として再度倭国を訪れることになる。
≪その任務は、倭国の国力の調査ではなかったかと思う。報告書に国名や戸数(戸・家)官、副の名前が記載されているが、戸数は倭国の国力の総体を示すものであり、納税・徴兵・兵糧の基礎となるものだから、なにをおいても第一に調査したはずである。≫

彼らは帯方郡から陸路で、朝鮮の南部にある狗邪韓国を経由して、その後、対海国(対馬)、一大国(壱岐)、末盧国を経て、伊都国に着いた。
≪実際には、大量の下賜品と一緒に船で伊都国まで来たものだと思われる。末盧国は、道筋とは反対の方向にある国だから。≫
倭国に到着した梯儁一行は、まず、常に郡使の留まる処である伊都国で旅の疲れを取り、卑弥呼との会見に備えたと思われる。
一方倭国側においても、同様に会見準備がなされた。そして、いよいよ会見だが、その時の模様が『魏志倭人伝』に記述されている。

「~倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し~を賜う。倭王、使によって上表し、詔恩に答謝す。」

間違いなく、卑弥呼と梯儁は会っている。
倭国では詔書が読めて、理解している・・・それだけの漢字読解能力があって、詔恩に感謝ができ、それに答える漢字記述能力もあった。

この時代、3世紀中、上表文を書くことができた。そこには「倭国王俾弥呼」と署名があった。
(倭国側では俾弥呼、魏(晋)側では卑字の卑弥呼表示である)

卑弥呼と梯儁の会見場所は卑弥呼の宮殿で行われたこと間違いないだろう。
それが、
1、年すでに長大なるも~
2、婢千人を以って自ら侍せしむ~
3、宮殿・楼観・城柵~兵を持して守衛する。

という場所の説明文だと思われる。
この情報は卑弥呼と直接会った梯儁のはずである。

≪これだけの大きさの宮殿が、一体どこにあったのか。吉野ヶ里を何度も訪れている私には、ここしかないと思ってしまう。
筑紫郡原田地区にも宮殿はあったとも思っているが、何度も遷都していると思っている。
これ以外にも、春日原地区、大宰府市、甘木説もありましたっけ。山門郡瀬高、八女、久留米も候補地です。≫

第20話 調査報告書、魏志倭人伝

≪新説、邪馬台国物語≫

 魏志倭人伝の記述のもとになったのが、梯儁とともに倭国を訪れた張政の『調査報告書』ではないかというのが、私の考えである。歴史的な証拠はないが、役人らしく、かなり正確に当時の倭国の状況を調べたのだと思う。

「卑弥呼は鬼道を祭祀して人心を惑わし、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。
卑弥呼は1000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、めぐらされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。」

 シャーマンとしての卑弥呼の姿が目に浮かぶ。また、それだけの規模の宮殿を維持する国力もあったのだと考えられる。

 国の支配を補佐した、つまり実質的な支配者の「弟」とは一体誰なのか。日本の記紀をみると、その関係から、アマテラスとスサノウではないかと考える人が多い。
そして、取次ぎをしていた「一人の男子」とは・・・。

以下の記述を読むと、張政がいかに興味を持ち調査したかが分かる。

・倭人社会の風俗、生活、制度など「皆面黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っている。
・古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。
・男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
・着物は幅広い布を結び合わせているだけである。

――中国の南国地方、呉の海洋族の風俗とよく似ている。この報告書を素直に読めば、温暖な気候、海辺に邪馬台国があったと想像できる。けっして奈良盆地ではない。

・牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。
・兵器は矛・盾・木弓を用いる。
・土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。

――当時、馬はいなかった。
この後四世紀に、北方系の騎馬民族が、馬と共に北部九州に渡来したと考えられる。
ヤマト王朝は彼らが造ったものだと考えている。(騎馬民族渡来説)

人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。
他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。

――日常では肉も食べていたし、当時から酒を造っていた。
「汚れ」という思想が既にあった。

・倭の者が船で海を渡る時は持衰(じさい)が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。

――この持衰は、徐福伝説にも登場する。
この生贄のような考え方は、卑弥呼の死とも関係あるのではないかと言う人もいる。

・特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。

――中国古来の易が行われていたと思われるが、徐福が持ち込んだものと思う。

・長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。

――常識的に考えると、この半分程度が当時の寿命であった。それで、春と秋で2歳年を取ると、倭国では考えていたのではないかという学説がある。(二倍暦)
これで、記紀に書かれてある天皇の寿命を計算すると、アマテラスが卑弥呼の時代に生きていたと推測され、これを根拠に同じ人物だという。

張政にとっては、倭国は「蓬莱」と言われ、仙人がすむ桃源境だという先入観があったのかもしれない。

女は慎み深く嫉妬しない。
盗みはなく、訴訟も少ない。
法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。

――当時の倭国の家族制度がよくわかる。
人口を人ではなく戸で表わすのは、一族単位で生活していたことの証である。

第21話 神に使える巫女

≪新説、邪馬台国物語≫

 張政達は九州を海上から一周し、その実施探査の結果、倭国は「山島」であると理解した。
 これが倭国だと思った。
「東に倭種あり」と書かれているから、本州は別の国との認識であった。
 この七年後、張政は別の役目で倭国に再来することになる。

 当時伊都国にあった「使節のための迎賓館」に張政たちは滞在していた。そこで見聞きした内容が「魏志倭人伝」に書かれているのだから、かなり正確な記録であったはずである。

≪邪馬台国奈良説の人が言うように、南を東と書き間違えるようなことはしていないはずである。≫

 この時の張政は、ただの随員として倭国を訪れただけだが、彼にとって最大の興味は女王卑弥呼であった。
 難升米からかなりの情報を得ていたはずだが、シャーマンが支配する国という不思議さに興味を持った。
卑弥呼と魏使の梯儁との会談に、張政も同席した。

「ほう、意外と・・・」
 張政は仙女のような美しい姿を想像していたが、意外と年配で普通の人のよさそうな中年の女性というのが感想であった。
「鬼道を祭祀して人心を惑わし・・・」と難升米は批判的に言っていたので、怖いイメージを持っていたのだが、それは彼の偏見だったのだろう。
「南部有明海地方出身の卑弥呼に対して、北部の王族の出である難升米は、あまり親しくしていないのか・・・」

 卑弥呼は、下賜品を見て驚き、無邪気に喜んでいた。
 ただ、その脇に控えている男性、癖のありそうな大夫が張政は気になった。
 後で知ったのだが、目つきの鋭いその男性が「弟」として政治の実務を取り仕切っている実力者だという事であつた。

「この度の朝貢は大成功に終わりました。皇帝においては大変喜ばれ・・・」

 難升米が、あまりに親魏派なので警戒しているのかもしれないが、魏の歓待ぶりを得意げに話す難升米に対して、冷たい目をしているようにも感じられた。

 もちろん中国と比べれば、地方の民家みたいな宮室や楼観であり、周囲の環濠も、城壁ではなく木杭で囲われていて、小さな堀があるだけである。

 「我が国に比べれば、文明の程度はかなり低いし、戦争に対する備えもほとんどない。」

 ただ、宮殿の周りは、かなり多数の兵士が守りについていた。思っていたよりもかなりの数である。

 難升米に聞くと、女王卑弥呼は「王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしている」とのことで、倭国にとって「持衰」のような存在ではないかと考えた。
「中国では力のあるものが、皇帝となり権力をふるうのが当たり前だが、倭国では民を護るための存在、神に使える巫女が国を治めている。」
 新鮮な驚きを感じた。
張政は倭国に滞在している間に、できうる限りの情報を集めた。

≪アマテラスという言霊の意味は、すべての存在を照らす神、つまり卑弥呼は太陽神を祭っていたのだと思う。≫

≪余談≫

 世界に類を見ない日本独特の天皇制の原型がここにあります。権力者としての天皇の存在から、象徴としての存在に歴史的に変化してきましたが、この二元政治は卑弥呼の時代から始まりました。天皇家が天照皇大神を皇祖とする理由です。

第22話 仲達雌伏の時

≪新説、邪馬台国物語≫

 張政が倭国から帯方郡に戻ってから三年後。正始4年(243年)に女王卑弥呼は再び魏に朝貢をした。
使者として、「大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青ケン、緜衣、帛布、丹、木 、短弓矢を上献す」とある。
それに対して、魏の王朝は「掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拜す。」
景初2年(238)の遣使の際に、第一回目の使者、難升米は魏から率善中郎将の官職を得ているが、これは伊聲耆・掖邪狗らにも与えられている。
 こうした官職は外国からの使者に与える形式的な名誉職であり、魏の国内においても中郎将や校尉が黄巾の乱以後の戦乱の影響で任官が濫発されていた。
これが倭国からの第二回目の朝貢でした。→「最初の朝貢で味をしめた?」
司馬氏一派はことさらに大きくこの倭人の朝貢を宣伝したはずである。

明帝死去のあと曹爽は幼帝を擁して、皇室=曹氏の権限の回復・強化を図った。
当初は大先輩として仲達に敬意を表し重要事項についてはかならず相談していたのだが、取り巻き連中を要職に起用しグループを作り始めてからは司馬一族を遠ざけはじめた。
大傳という名誉職に祭り上げられた司馬仲達は、しかし悠然と構えていた。
――いまにボロをだすだろう。
これが、曹爽に対する評価である。

――こういうときは、動かないことが一番である。
周囲から自然に評価が高まるのをじっと待っていた。
人に会うと「この頃は、身体の具合も悪く、目も耳も悪くなりました。気力もなくなり衰えを感じています。」などと言って派手な動きもせず、雌伏の時を過ごしていた。
やっかみや妬みによって、排斥の口実を与えることを警戒していた。

曹爽にはなくて仲達にあるもの、それは実績である。
正始5年(244年)、大将軍、曹爽は戦功を求めて蜀を討伐しようとした。
長安で六万から七万の兵士を集め、漢中に攻め込もうという。

蜀から漢中への入り口は、山が険しく道が狭いために大軍が動くことは難しい場所で、ここを抑えれば蜀は中原への出口を塞がれることになる。
蜀にとっては「漢王朝の末裔」として建国以来の悲願、天下の再統一であったから、幾度となく天才諸葛孔明が仕掛ける形で司馬仲達と戦った。

≪余談だが、蜀の二代目皇帝は凡庸で蜀建国の志「漢王朝の再興」などはあまり考えていなかったのだが、宰相諸葛孔明は劉備玄徳との約束を死ぬまで守り、志を全うしようとした。周囲がたしなめても、ガンとして天下統一という大義名分をあきらなかった。どんなに苦しくてもそれがなくなれば内部から崩壊することが分かっていたからである。
三国志最終章の名場面、熱心に読んでたっけ。≫


 孔明の死後、蜀の勢いも低下し、中原への足がかりの場所、漢中を守ることだけで精いっぱいの状況であった。 漢中の守りは、三万足らず、漢中さえ落とせば、蜀は守りきれない。
――その戦功は魏建国以来、随一のものとなるだろう。
――これで司馬一族と対抗することができる。

太祖曹操でもできなかったことを曹爽はやろうとしたのだが、大失敗に終わった。
蜀の成都から援軍が来て、魏の大軍は散々な敗北をきっした。
結果、総退却することになったが、この遠征によって魏の西域である漢中は疲弊の極に達した。
住民たちの怨嗟の声だけでなく、当然その声は大将軍曹爽に向う。

――いまにボロをだすだろう。
司馬仲達の予想通りになった。人心が離れたのは間違いなかった。

第23話 狗奴国とは

≪新説、邪馬台国物語≫

 正始6年(245)頃から、倭国でも邪馬台国連合と狗奴国との間で「いざこざ」が起こっていた。 にわかに歴史の流れがあわただしくなっていく。

≪同時期、魏の帯方郡に対して三韓が反乱を起こしており、帯方郡の太守が殺害される事件が発生した。≫

 もともと邪馬台国と狗奴国は同族である。(個人的仮説)
 徐福が童男童女を引き連れてきた時、彼の子供も一緒に倭国に移住してきた。

 徐福には、長男の徐市、次男の徐明、三男の徐林そして四男の徐福(同名であるが史書の通り記す)という四人の子供がいたが、佐賀の金立神社に残る伝承によると、祭神は「金立大権現」(徐福)と言われているが、三男の徐林が童男童女、百工ら七百人あまりを引き連れ佐賀の地に移住し、神社には徐林が祭られてあるともいう。

 また、次男の徐明は金華山をめざして熊本地方に移住したとなっている。
 彼らは、佐賀だけでなく、日本各地に分かれて移住したと考えられる。この史実が本当であれば、二男が熊本、三男が佐賀だから、同族と言っても対等の関係だし、むしろ熊本のほうが上という意識があったのかもしれない。 だから、「女王に属さない国」なのである。

≪和歌山には、さらに徐福と長男の徐市はさらに蓬莱山を求めてシラヌヒ海から紀州に至り、徐福はこの地(紀州の古座)に留まったが、長男の徐市はさらに東をめざし、スルガノ国に至って蓬莱山(富士山)を見つけたとの伝承も残っている。この地から神武天皇がヤマトに攻め入ったことを考えると、何らかの関係があったのかもしれない。≫

 その狗奴国の位置 については、次のような記述がある。
「~次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、男子を王となす(魏志倭人伝)」
 邪馬台国の南に狗奴国があるのだから、当然熊本地方になる。

≪もし奈良盆地に邪馬台国があるのなら、その南は奈良盆地ですから位置関係がおかしくなるのてある。≫

「女王に属さずに、素より和せず」と記述されている狗奴国の男王卑弥弓呼やその官の狗古智卑狗とは如何なる存在だったのか。

「素より和せず」とは長年の不仲を表している。
 そして狗奴国からの倭国に対する侵略・征服戦が始まった。
 すなわち、狗奴国は倭国を構成する(卑弥呼の共立)三十国の一国ではなくて、魏に通じていない。
 もともと出身地である呉との関係が強く、彼らにとって邪馬台国は「一族の裏切り者」だった。

 しかも倭国の王として「親魏倭王」の金印までもらっている。自分たちよりも上の立場に立とうとしているのであるから、名誉をかけた戦いになる。
 邪馬台国連合に対する狗奴国の戦いが始まったが、かなりの兵力、武器を持っていたと考えられる。ひょっとすると、呉からの何らかの働きかけや援助があったのかもしれない。
それゆえ、邪馬台国連合は魏に軍事支援を求めることになった。
正始6年(245)のことであった。

≪余談≫

正始6年(245)2月、呉の丞相(じょうしょう)の陸遜が死去。
三国志の英雄たちが亡くなっていく。

倭国伝説 その三

邪馬台国女王「卑弥呼」の時代の物語