第8話 難升米

≪新説、邪馬台国物語≫

2017年4月公開

歴史小説

中国の年号によると景初2年(紀元238年)の春、邪馬台国の大夫、難升米(なしめ)は、邪馬台国の女王卑弥呼と向き合っている。
 邪馬台国連合に従う他の族長たちも同席していた。倭国にとっての政治的な政策の大転換、「安全保障会議」が開かれている。

 難升米(ナシメ)は大夫という地位にある。邪馬台国を代表して魏への朝貢の責任者となる。
 倭国連合は大陸との北の玄関口である伊都国に、「一大卒」という軍隊を配備していたが、彼はその責任者だった。対外政策の責任者、外務大臣兼防衛大臣といえばわかりやすいかもしれない。
 難升米(ナシメ)はもともと、今の博多湾沿岸にあった古くからの大国「奴国」の王族の血筋であり、邪馬台国連合の中でも、最大の実力者であったろうと思われる。
 その他、「住吉族」という海洋一族もいるが、彼らも今の博多湾を本拠地にしていた古く由緒ある一族で、神話でいう「海幸彦」の系列だと思っている。彼らは朝鮮系の一族である。
それに対して、卑弥呼は山の部族の流れ、つまり「天孫族」の系列、中国系である。

卑弥呼とは、各地の部族をまとめるための盟約で「姉と弟という関係」を結んでいた。
そして、親魏派であった。
 それに対して、南部の有明海地区の部族長などは親呉派が多かったのではないかと思っている。もともと呉の民が移住してきたのであるから・・・。

 時代が流れ、呉とは過去の関係ほどの繋がりは少なくなっていた。特にこの時代に行われた呉の孫権による「人狩り」政策は、倭の人々に反感と恐怖を与えたはずである。
 国としての独立の機運、国家という概念が芽生えてきたというべきかもしれない。部族同士が争う事をやめ、統一国家を作ろうという機運が生まれつつあった。それが「邪馬台国連合」という形で誕生したばかりであった。

会議の場面に戻る。

 難升米が説くには、「今こそ魏との同盟関係を確立して、自国の安全を図るべき時である」という事であった。
「一昨年、遼東太守の座にあった公孫淵が独立し、魏と開戦しておりますが、ついに魏が討伐の兵を挙げたとの情報が入っております。 これまで、公孫淵には、我が一族である狗邪韓国(朝鮮半島南部にあった倭国の一部)の安全が脅かされ苦しめられてきました。魏との争いのために、朝鮮南部まで手が回らず、なんとか平和を保つことができたのは幸運でした。
 大国の魏が本気で公孫淵を討伐しようとするのですから、公孫淵の滅亡は時間の問題だと考えられます。もし、公孫淵が滅びれば、魏は朝鮮半島を南下して勢力を拡大しようとしてくると思われます。 そうなる前に先に動かねばなりません。」

難升米は、これまでの親呉政策をやめ魏と新たな同盟関係を結べと述べたと思われる。

≪公孫氏滅亡が、邪馬台国の卑弥呼が帯方郡(魏)に使を派遣することにつながった、との見方が有力である。これは当時の公孫氏政権が事実上の自立状態にあり、邪馬台国をはじめとする東方諸国の使者を遼東に留めて、自らへの朝貢をさせていたため、滅亡により陸路が通じるようになったという見解に基づくものである。≫ウィキペディアより

≪余談≫

この難升米と邪馬台国の女王卑弥呼の関係については、日本書紀、古事記にも書かれているというのが私の考え方である。それが「スサノオとアマテラス」の盟約関係で、スサノオは、かなりの乱暴者として書かれている。自然災害を象徴しているとの説もあるが、米作りというテーマが中心にあるようです。高天原の米作りを妨害している話だから・・・。
 それが原因で、アマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。これは、死を意味していると思われ、ここで、卑弥呼の伝説と重なると想像してしまう。
 紀記ができるわずか四百年ほど前の出来事だから、伝説の女王である卑弥呼については、口伝で伝わっていて人々の記憶に残っていたはずだ。
 日本という国の重要な歴史的転換点の話と、私たち日本人の皇祖であるアマテラスは、読めば読むほど重なり合っている部分が多く、・・・感じるのです。

≪邪馬台国のあった場所≫

 当時の邪馬台国の都、女王卑弥呼の宮殿がどこにあったかについては、九州説でもいろいろと別れている。
 私は単純に考えていて、邪馬台国連合30カ国の一番南部にあったこと、戸数が7万戸という数字から、当初は筑後地方の南部、久留米・八女地区ではなかったかと考えている。
多くの民が生活するには、それだけの広い場所が必要だからで、そして北九州最大の平野が筑後平野である。
熊本に本拠地があった狗奴国が、菊池から筑後八女地区まで進出しようとしてきており、この物語が始まる景初元年ごろは、女王卑弥呼はすでに木の国(基山)の北部、今の原田地区、筑紫神社のあるところ周辺に移り住み、その場所に卑弥呼の宮殿があったのではないかと推測している。

 もちろん、邪馬台国の本拠地は八女地方だが、北部との争い「倭国大乱」をえて宮殿を地区の中心地に移動する必要があったと思うし、その南部に勢力を伸ばしつつあった狗奴国に対する用心のためでもあった。
後に狗奴国との戦いに敗れ、その責任を取らされる形で難升米によって卑弥呼は殺されたと考えている。

・・・難升米によって卑弥呼は殺された

 その後部族間の勢力争いののち、当時13歳の台与が共立され、争いが終る。狗奴国はすでに筑後地方の南部を支配下に置いており、追われるような形で遷都された。
台与の時代には、豊前宇佐・中津が邪馬台国の中心地だった。

そして、卑弥呼の墓は、どこに築かれたのか・・・?

第9話 朝貢の使節団

≪新説、邪馬台国物語≫

 景初2年(紀元238年)の春、倭国にとっての政治的な政策の大転換、「安全保障会議」が開かれている場面に戻る。
 吉野ケ里の丘陵地にある高楼と環濠集落のような風景。周囲に兵隊が警護している中で各部族の族長が集まり、卑弥呼を取り囲んで会議をしている様子を私はイメージしている。

 邪馬台国の女王卑弥呼については、次のように史書に書かれている。
「一人の女子が現れた、名を卑弥呼と言い、年長になっても嫁かず、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、ここに於いて王に共立した。」
 かなりの年配であったと思われる。
 シャーマンの能力によって共立された女王だから、実際にどのくらいの権力を持っていたのかわからない。
 卑弥呼も外国の脅威に対する不安は感じていた。難升米の説は、よくわかっている。
「呉は我が祖先の故郷、その呉と敵対している魏のことですから当然、魏の侵略はありうるかもしれません。その呉の国も、一時は公孫淵と手を結び盟約を結んでいましたが今は敵対しています。呉は8年ほど前に、我が国に対して『人狩り』をしようとしました。我が国を植民地程度にしか思っていないことが明らかになりました。
 かの将軍たちが無能で運よくのがれることが出来ましたが、呉に対する親近感は無くなってしまいました。 倭国の独立と平和を守るために、とにかく油断できません。どちらとも距離を保ってうまく外交していければよいのですが・・・」

「この不安定な時期だからこそ、今、魏と同盟を結び、我が国の安全を図ればよいのです。」
 難升米か答えた。
 族長の一人が聞いた。
「なぜ、今が良いのか、第一、魏が朝貢を受け入れてくれるかどうかもわからないではないか。公孫淵を滅ぼした後、そのままの勢いで我が国に押し掛けてくるつもりかもしれないし・・・。」
「それは心配ありません。魏にとって公孫淵と我が国が仲よくすることがあっては困るし、呉と共謀して的に回るのも困るはずです。我が国を取り込むことによって、朝鮮半島での勢力を確保することができるし、呉に対する後方からの備えにもなります。まして、我が国まで侵略する意図はないはずです。なぜなら、遠すぎる背後に呉が控えているかもしれないからです。」

≪このような会話が交わされたのではないか。魏から難升米に密使が来たことは伏せていた。倭国にも親呉の勢力があり用心のためである。≫

「我が国も長年にわたる戦乱によって民の心も疲弊しています。やっと卑弥呼さまのお力によって、平和が訪れました。こういう時こそ外交によって、我が国の安全を確保すべきです。魏は中原に位置する大国であり、その国と同盟が結べれば、今後の我が国の安全と平和にとって一大転機になるでしょう。」
この時、族長の一人が反論した。
「呉がどのように動くか、もし我が国が魏と同盟を結んだことを知れば、兵を向けるかもしれぬ。直接動かずとも、球磨の狗奴国に圧力をかけ、戦を仕掛けてくるかも知れぬ。」
「確かに、その可能性は否定できません。しかし、どちらの脅威が怖いかといえば、やはり魏です。」
 狗奴国と魏をくらべれば明らかに、魏のほうが怖い存在だ。難升米は、こう説得したはずである。
「今回の公孫淵討伐には、魏の重臣、最大の実力者である司馬仲達さまが来られます。この機会に、我が倭国も討伐支援のための兵を送り、よしみを通じることができれば、必ずや同盟の件もうまくいくものと思います。今が千載一遇の機会なのです。」
 これは偶然とも思われるが、卑弥呼の命を受け、難升米たちが帯方郡へ朝貢の使節団として出かけたのが6月。ちょうどその頃、三国志の英雄のひとり司馬仲達率いる魏の軍四万が遼東に到着していた。
 その年の正月、都を発ったのだが長雨の影響や政治的な思惑があり到着が遅れた。それに合わせるように、難升米たちは帯方郡へ倭国の兵を引き連れて旅立つ。偶然というより、何らかの意図があったとしか考えられない。

第10話 孫権

≪新説、邪馬台国物語≫

 呉の悩みは兵力の少ないことであった。
「会稽の東、海の彼方に夷州と亶州とがあり、住民多く、かつ勇敢である。鹿角を武器として、しばし戦う。」孫権はそんな話を聞いて思いついた。
しかし二人の将軍は、失敗した。
亶州は遠すぎ航海を継続することができず、やっと夷州に辿り来たが、そこはそれほどの住民がいなかった。やっと三千人の住民をとらえたが、疫病によって連れて行った一万の兵のうち八千人ほどが死んでしまった。この責任を取らされ彼らは誅殺された。
その後、遼東の公孫淵が部下を派遣して、臣従することを申し入れた。
≪中原で動乱が起こるたびに、遼東から朝鮮にかけては避難民でふくれあがった。
遼東の長官であった公孫度がここで自立し、高句麗と烏丸族を撃ち従えた。魏の曹操は彼に武威将軍の称号を与え、永寧候に封じた。
-おれば遼東の王だ。なにが候だ。
公孫度が送られてきた印綬を倉庫にほうりこんで、そううそぶいた話は有名である。
公孫度亡きあと、息子の公孫康があとを引き継ぐ。そして、その子である公孫淵の時代の話になる。≫

 魏が力をつけ、呉と蜀を圧倒するようになると困るのは公孫淵である。呉に対抗してもらわないと自分の安全が脅かさる。そこで使者を派遣した。

 孫権にとっても、うまくいけば魏を挟み撃ちにできるかもしれないと大いに喜び、公孫淵に対して、答礼使を送った。
「汝を封じて燕王と為す。」という国書を携え、一万の兵ともに重臣が大船団を組んで遼東に向かった。

 この知らせを聞いて、公孫淵は絶句した。
 公孫淵は魏に隠れて、こそこそと呉の尻を叩き魏に対抗させるつもりだった。これだけ大袈裟にされては、この情報は魏に筒抜けになってしまう。
 魏を怒らせてしまえば、遼東は危ない。
 公孫淵は言い訳を考えた。
「呉は先年、倭国に兵を求めに行きましたが成功しませんでした。そこで我らに、倭国の兵を呉に借りたいと仲介を求めに兵を携えて参りました。これでは魏の敵を増やすことになります。」
 答礼使の重臣をあっさりと殺してしまい、はるばる呉から持ってきた宝物を没収した。しかも、その首を弁明の書とともに洛陽に送った。
魏は公孫淵の忠節を褒めたたえ、大司馬の称号を与え、楽浪公に封じた。

 孫権は歯ぎしりして悔しがり、そして謀略を考えた。
―公孫淵は魏に対して不遜である。
 こういった流言を流し、明帝の耳に入るように工作したのである。
―公孫淵はひそかに呉と結び、魏を攻撃しようとしている。
 それを裏付けるような証拠をねつ造したりもした。
それが功を奏し、景初元年(237年)、明帝は公孫淵に出頭するように命じた。
―汝には様々なうわさがあり取り調べしたきことあり、出頭せよ。

 これは最後通告というべきものであり、ここに至ってついに公孫淵は造反に踏み切る。そして虫のいいことに、呉に対し使者を送り魏の背後を衝くように要請した。
 当然、孫権は怒ったが、さすがに三国志の英雄の一人である。
「まて、一応同盟を承知してやれ。そうすれば公孫淵も魏との戦いにがんばるであろう。・・・どうせ勝てはしまいが・・・。」

≪余談≫
 三国志のおもしろさ、裏切り、謀略、駆け引きなど何でもありの世界。現代の価値観で当時を考えると理解できない。
 公孫淵が滅びた半年後、孫権は遅ればせながら遼東に将軍と兵を送り出したが、魏の守備隊を襲って男女数百人の捕虜を連れ帰るだけに終わった。

第11話 司馬仲達

≪新説、邪馬台国物語≫

 景初2年(紀元238年)の春、倭国の「安全保障会議」によって魏への朝貢が決定されたちょうどその頃、魏も兵をあげ遼東へ進軍していた。

 魏にとっては中原から遠く離れた遼東の地であり、公孫淵が地方でおとなしくしていればよかったのだが、自ら「王」を名乗り独立したのだから、ほおっておけなくなった。
 天才諸葛孔明が死去し、蜀との戦いが一段落してその軍勢を東に振り向ける余裕ができたからでもあった。
 公孫淵の背後に「高句麗」という新興勢力がいることもわかっていたし南の呉との関係も気になる。
 景初2年(238年)正月、曹操の孫に当たる魏の明帝は司馬仲達に対して、公孫淵討伐を命じた。その時の様子が史書に残っている。

 明帝がその計略を問うと、司馬仲達はこう返答した。
「公孫淵にとって、城を捨てて逃げるのが最善策です。遼水を拠り所にして抗戦するのは次善策です。襄平を守って防戦するなら生け捕りになるだけです。」
「それでは、敵はどのように出てくるか」と明帝は問うた。
司馬仲達は答えた。
「城を捨て去るなど、公孫淵の考え及ぶところではありません。敵が先手を打って遼水を防御し、その後は襄平の城にこもって守りを固めて対決するよう仕向けます。ともかく遠征する側は持久戦を不可と心得ます。」
明帝は、「往復に何日かかるか」と問うた。
「往きに百日、攻撃に百日、戻りに百日、六十日間を休息に当てます。このようにすれば、丸一年で事足ります。」 「呉はどうするか。」
「呉は公孫淵に怨恨があります。援軍を送るにも、海上によるほかはありません。気をつければ大丈夫でしょう。」

 この会話の裏側には、複雑な政治的な駆け引きがあった。
 魏の明帝にとっては実力者の仲達を都から遠ざけたいのが本音である。
 また、司馬仲達の思惑もあった。
 魏の重臣であり最大の実力者ですから、明帝にとっては油断できない存在であった。
 都を離れる政治的な理由があった。
 仲達にとっても保身のためには都を離れるほうが都合がよかった。それで、討伐にわざと時間をかけることにした。
 このときに、司馬仲達は倭国に対しても手を打ったと思われる。
「公孫淵は帯方の軍隊を取り込むかも知れぬ。それにその東南にある倭国には、戦士が多いとも聞く。  先年、孫権は人狩りに行ったようだが・・・」
 明帝は尋ねたはずである。
「倭には人を派遣しておきましょう。遼東の公孫淵に兵を送らないようにと。そして今後は呉とも結ばないように。」
 歴代の策士である仲達ですから、これぐらいの考え方はしたのではないかと思う。その魏からの密使が、難升米らを動かしたのである。

第12話 仲達の思惑

≪新説、邪馬台国物語≫

 その頃の魏は2代皇帝 明帝、曹叡(そう・えい)の治下であった。
曹操から数えて三代目にあたるが、曹氏による支配はにわかにかげりを見せはじめ、帝位簒奪をねらう司馬氏一派、(その筆頭が司馬仲達)と帝室の安泰をはかろうとする曹氏一族との間の暗闘が繰り広げられていた。
司馬仲達は、このころ魏の「太尉」という武官最高の地位にあった。

≪司馬氏一派の暗躍により明帝の皇子は次々に殺害されたという説もあるが、もちろん何の証拠もなくただの憶測である。魏の天命が尽きる時、偶然のように悲劇が襲った。≫

 黄初七年(226年)皇子 曹冏(そう・けい)死去。
 太和三年(229年)皇子 曹穆(そう・ぼく)死去。
 太和五年(231年)に誕生した 皇子 曹殷(そう・いん)もその翌年に死ぬ。

 その結果、明帝の実子は一人残らず死亡し、やむなく養子の曹芳(そう・ほう)を斉王に、曹詢(そう・じゅん)を秦王として皇子にたてるはめにまでなってしまった。

 曹氏の血統を残すためにはやむを得ない措置であった。しかし皇子殺害の確かな証拠もつかめぬまま次第に巨大勢力となっていく司馬氏に対し、明帝をはじめとする魏の朝廷はなすすべがなかったのである。
 西には「蜀」がいまだ健在であり、南の江南には孫権率いる「呉」、また北の遼東には「くわせ者」の公孫淵があり、まさに内憂外患、魏の帝室にとっては実に多難な時期であった。

景初二年正月「太尉」司馬仲達に遼東の 公孫淵 討伐の命が下る。このとき仲達は考えたはずである。
「遼東の公孫淵は魏の大軍と戦って勝つ見込みはまずない。今回の遠征により公孫淵はおそらく死ぬだろう。蜀の諸葛孔明はすでになく、残る敵は呉の孫権だけだ。しかし、そうなると自分の運命はどうなるだろうか。
敵がいなくなると過大な実力を備えた家臣は必要がなくなり、それどころか君主の地位をおびやかす者として弑されるはめになるのは歴史の教えるところである。
 ならばこのさい、思いきって明帝を亡き者とし、残る幼帝を擁してさらに朝廷内の勢力拡大を図るにしかないのか。 そうなると遼東出撃の命が下ったのはかえって好都合である。」

≪余談≫

 仲達の用心深さは、三国志に詳しく書かれている。
蜀との戦いの最中に孔明は死ぬが、その策略を恐れて仲達は撤退する蜀軍を深追いしなかった。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という有名な言葉があるが、天才孔明によって翻弄された仲達を言ったものである。
 自分の能力を隠すためにあえて、仲達自身が広めたという話がある。名実ともに魏の実力者であるから皇帝に警戒されてはいけない。
 敵がいるから、自分の存在意義がある。敵がいなくなれば、皇帝にとっては邪魔な存在になる。
 功臣を粛正するのが歴代の皇帝で、中国の歴史はその繰り返しであった。

第13話 公孫淵の最後

≪新説、邪馬台国物語≫

 司馬仲達は、遼東へ進軍するにあたり、百済・弁韓そして倭に対して魏に協力せよと檄を飛ばした。
「魏軍の指揮下で呉の援軍を阻止しながら、帯方・楽浪郡に攻め上る。北方の高句麗に対しても、公孫淵の居る襄平と楽浪郡の交通を阻止させる」という作戦である。
つまり、仲達は公孫淵を孤立化させた。
「景初元年 (237年)7月、魏は渤海近くの青洲など四州に詔勅を降し大々的に海船を造らせた」という記録がある。 呉の海軍と対抗するための準備だと思われる。万全の対策を講じてから仲達は動いた。
6月に遼東についた仲達は、襄平を取り囲み、持久策をとった。
丁度その頃、難升米らは帯方郡に着いた。
「景初2年(238年)6月、卑弥呼は帯方郡に大夫の難升米と次使の都市牛利を遣わし、太守の劉夏に皇帝への拝謁を願い出た。劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。」と史書に書かれている。戦時中だったため、安全のために兵をつけて都まで送ったと考えられる。

≪しかし、実際に都に上った時期はいつかと考えると、実際はだいぶ遅くなる。その年の12月に着いたような記録がある。魏の明帝は病に倒れており、1月に亡くなる。≫

仲達も彼らのことは知っていたはずである。陣中で難升米と会ったかもしれない。
公孫淵にたいして、仲達は戦いを急がず持久戦をとった。
気候も悪かった。
7月、長雨によって遼河の水が増水し、もう少しで氾濫というところまで来たが兵を引こうとしなかった。
 城内は食料が尽き、死者おびただしく、「人相食む」という地獄絵図がくりひろげられた。

≪中国の史書にはよく出てくる地獄の光景を表す言葉である。この時期に倭国の大夫が朝貢を願い出るために、仲達のもとにやってきた。≫

公孫淵は講和をしたいと、人質を出すことを申し入れたが仲達は聞き入れない。
―降るか死ぬかいずれかである。

 8月、襄平はついに陥ちた。
仲達は入城し、兵を七千人余りも誅殺し「京観」を築いたといわれている。
「京観」とは、死体を積み重ねて山としたものである。
こうして遼東、帯方、楽浪それに玄?(げんと)の四郡は平定された。
襄平が包囲されたとき、公孫淵がいくら援軍を求めても呉からも朝鮮半島からも一兵の派遣もなかった。

第14話 運命的な出会い

≪新説、邪馬台国物語≫

 「~太守劉夏、吏を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ」。
この「吏を遣わし・・・」とは、世話役の役人を同行させたという事である。
≪この時「張政」は、20歳そこそこの若者で当時はまだ帯方郡という一地方の下級官吏である。 太守の劉夏から、倭人たちを洛陽まで案内するよう指示され、彼は難升米と運命的な出会いをした。≫
7月の長雨は河の氾濫などもあり、討伐軍の動きを封じており、司馬仲達は、陣中で部下と碁を楽しんでいた。
その時、部下から吉報が届けられた。
 倭人が、以前に自分が手配していた檄に応じてやってきたというのです。
 これは大変な手柄となる。
 遼東の先の帯方郡のさらにその先の東の果て、東南大海の中に浮かぶ東夷の国がよしみを通じてきた。
司馬仲達と太守の劉夏は、倭国の使者と対峙した。

「この度、倭国を代表して皇帝に拝謁したく、まかり越しました。」
流暢な中国語で、儀礼にのっとって倭人が挨拶をしたので、その態度に好意を持った。
 ―これはなかなかの人物だ。

「これはよくお出でいただきました。心から歓迎いたします。」

難升米は目の前にいる老人が、魏最大の実力者であることを知っていたはずである。今後の倭国の運命がかかっているのだから、十分に準備をしていた。
倭国の織物などの貢物の手配、文字も理解できたはずだから、卑弥呼の上表文を準備してこの場に臨んだ。
司馬仲達は、気分が良かった。
これはあきらかに司馬仲達が遼東の公孫淵を滅ぼして、朝鮮半島を魏の勢力圏として確保した功績になるからである。  親呉と思われていた倭国が魏の意向に従うということであるから、今後の朝鮮半島の安定のためにも、政治的にも重要な意味を持つ出来事であった。太守の劉夏に「つつがなく都まで送り届けよ」と命じた。

この末席に「張政」がいた。
生まれて初めて倭人というものを見た。
野蛮人というイメージはなく言葉も通じるらしく、身長は低く肌はすこし黒光りがするぐらいで、目も鋭く態度も堂々としている。意外だったのが、中国の言葉も文字も理解することができるという事実であった。
昔、秦の時代に呉の民が倭国に移住したという「徐福」のことは、史記に書かれてあるので、「張政」も知っていた。
彼らが言うには「自分たちは呉の泰伯(たいはく)の子孫である」とのこと。
呉の建国の説話によると、遠く周王室の長男であった泰伯が、末子の李歴(りれき)に王位を譲り南方に出奔して新しい国「呉」を作ったと言われている。
儒教的な長子相続の考え方からすると、呉こそ周王室の正統ともいえる。その流れをくむ一族。

「ほう、これが倭人か」
 まさか、自分が彼らと深くかかわるようになろうとは、その時は全く考えていなかった。 ただ、物珍しく見ていただけであった。

≪余談≫

 張政についての資料はあまりに少なく、史書にも数回程度顔を出すだけで、この人となりはよくわからない。今回、この物語を描き始めたきっかけは、「魏志倭人伝」を読んでいたときに、この張政の姿を感じたからである。この張政が日本の歴史に関わっていると感じ、いろいろな資料を調べはじめ。「これは、面白い。」
「徐福」以来、12年ぶりに感じた興奮であった。

第15話 陛下病む

≪新説、邪馬台国物語≫

 難升米らがいつ都に着いたか。張政も彼らの世話係として、初めて都洛陽を訪れた。 秋には到着していたはずですが、それどころではない事態が起こっていた。皇帝が病に倒れたのである。
8月下旬、司馬仲達が襄平城に入城してしばらく後、彼が放った密偵が都から重要な情報をもたらした。
―陛下病む。
しかも、かなりの重症とのこと。
 皇帝の死は、臣下にとっては死活問題で、地位を失うだけでは済まなくなる場合もある。皇帝をめぐる勢力争いが起きるからである。
明帝は36才であったが子供がいない。
 養子の曹芳(そうほう)と曹詢(そうじゅん)がいたが、順序としては、斉王の曹芳が後継者になる。しかし年はわずか7歳であった。
仲達は都に凱旋する途中、慎重に情報を吟味していた。
後継ぎが7歳では、後見役、事実上の摂政が必要になる。
明帝もいろいろと悩んだと思われる。

当初、伯父である燕王の曹宇(そうう)に後事を託そうとした。
大将軍に任命した。
このポストは、以前は司馬仲達が任命されていたが、大尉に転じて以来空席のままであった。つまり、燕王の曹宇が実権を握った。
彼にとって最大の政敵は、司馬仲達である。
「これまで通り、仲達を都から遠ざけておかなければならない」と考え、凱旋途中の司馬仲達に指令を送った。
「このまま洛陽に立ち寄らずに、長安へ赴くべし。」
≪司馬氏一族は、王朝内でもかなりの勢力を持っていたはずだし政治的工作もしていた。皇帝の血族ではないというハンデと、要である司馬仲達が都にいないというハンデがあった。この燕王の曹宇が実権を握れば身が危うくなる。彼の実力をもってすれば戦うこともできるが、大義がなく反逆という汚名が科せられてしまう。≫
仲達はどのような心境だったのか。
思案していたところ、そこへ第二の命令が追いかけるように彼のもとに届いた。
今度は、大将軍曹宇の名ではなく、皇帝からの直筆の命令文であった。
「急ぎ上京せよ」
―洛陽に何らかの異変あり。
仲達は詔勅に接すると、すぐに馬に鞭打って都に急いだ。

倭国伝説 その二

邪馬台国女王「卑弥呼」の時代の物語