原文 :「遣塞曹掾使張政等因齎詔書黄幢拝仮難升米為檄告喩之 卑弥呼以死」
読み下し文 :「塞曹掾使(さいそうえんし)張政(ちょうせい)等を遣わして、因って詔書、黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮せしめ、檄(げき)をなして、之を告喩(こくゆ)す。」
現代語訳 : 「(太守は)塞曹掾使の張政らを派遣して、(正始六年に賜った)詔書と軍旗を難升米に与え、檄文(触れ文)を作って言い聞かせ両者に停戦させた。」


「卑弥呼以死」=卑弥呼、それによって死す?

第1話 はじめに

≪倭国伝説≫プロローグ

2017年4月公開

私たちのような日本人は、どのようにして形成されたのか

日本人の持つ独特の感性、感覚。日本人が日本という国を意識し始めた(アイデンティティ)のは、いつごろなのか。
私が古代史が好きな理由はここにある。
記紀によると、皇祖は天照大御神ということになっている。そして歴史にはじめて現れた邪馬台国の女王、卑弥呼。私は、同じ人物だと思っているが、その物語を描いてみたいと、文才のなさもわきまえず思った。

過去に起きた事実、事件などをどう見るのか。

見る人の視点でいろいろな解釈ができるが、過去の文献を読みあさり調べてみるといろいろなイメージが広がる。
以前、弥生時代を創造した徐福について記した。
童男童女を引き連れ、今から2100年ほど前に日本に移住してきた徐福、その想いとロマンに引かれ、いろいろと調べ「小説 徐福伝説」として書いた。
これから述べたいと思っているのは、それから400年余り後の話である。
開拓の時代が終わり、倭国という独自の文化を築くきっかけになった歴史的な事件が起こる。その時に登場したのが「邪馬台国の女王、卑弥呼」である。
 国家としてのアイデンティティを倭国の人々が意識し始めた時代、記紀に皇祖として描かれている天照大御神と同一人物ではないか。
その紀元240年代、邪馬台国の女王「ヒミコ」の時代に「張政」という人物が歴史に登場する。邪馬台国連合と狗奴国との戦いの中で、彼が卑弥呼の死亡と何らかの関わりを持ち、卑弥呼の後継者、台与の擁立に重要な役割を果たす。  歴史の一大転換期に、歴史に顔を出した「張政」という人物はいったい何者なのか。

倭国の歴史は、当時の中国の歴史書によって多少は明らかになっている。
「日本」という言葉が、歴史に現れるのは、7世紀後半からと考えられる。
当時の東アジア地域は618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。
唐と倭国とのかかわりにおいては紀元663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦。
≪これが日本の歴史に大きくかかわるが、この物語の400年ほど後の話で政治の中心が九州から関西に移った。≫
これを契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進める。
689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号としての「日本」は誕生したと考えられる。

つまり、それ以前の日本は「倭国」と呼ばれていた。
国号を変えるということは、単純に考えると王朝が変わったということである。

≪ここが私が言いたいポイントです。≫
中国の歴史書には「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としている。
国号の変更の事情について、『旧唐書』が「小国だった日本が倭国を併合した」とするのに対し、『新唐書』が「倭が日本を併合し、国号を奪った」としている。
いずれにせよ、これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。

≪つまり私は、日本の歴史ではなくて、それ以前の日本列島の歴史について述べたいと思っている。≫

第2話 歴史の始まり

≪倭国伝説≫プロローグ

 日本の歴史、文明の始まりである「弥生時代」は、紀元前200年頃、中国からの大量の移民によって始まった。 中原での戦乱からのがれ、多くの民が日本に押し寄せた。
東方にあるという仙人の国、蓬莱に対するあこがれもあっただろう。
気候が温暖で、倭と言われる友好的で温和な人々が平和に暮らしているという噂話もあった。その平和な生活を求めて、中国から東方に旅立った。
それ以前から稲作は入ってきていたが、文化を持ち込んだということで、「小説 徐福伝説」を書いた。
この時代以降、各地に「ムラ」「クニ」と呼ばれる政治組織が徐々に形成され、1世紀・2世紀前後に各クニの連合による倭国と呼ばれる大規模な政治組織が出現した。文化と共に、争いも持ちこまれた。
その後、この連合的政治組織は、3世紀・4世紀頃に統一王権(ヤマト王権)へと発展する。この時、王朝の交代といえるような劇的な革命が起ったと思われる。

≪記紀に書かれてある神武天皇の東遷は、この歴史的事実が書かれたものだと思っている。≫

紀元3世紀、魏志倭人伝に書かれてある「邪馬台国」の時代、この時代に何が起きたか。ひとりの人物の視点を使って俯瞰してみたいと考えた。
この時代こそが、日本の歴史の創世記であり、日本国の皇祖である天照皇大神(アマテラスオオミカミ)が実際に生きて活躍していた時代だと私は思っている。
神話ではすべての日本人の皇祖として、アマテラスが描かれている。
それ以前から、いろいろな神が活躍しているが、われわれ日本人にとって、なぜかいちばん身近に感じる存在、それがアマテラスで、又の名を「日巫女(卑弥呼)」といいます。もちろん本名ではなくて、ある役職の名前である。

≪記紀の作者は、中国の史書も読んでいたはずだし、その史書に出てくる卑弥呼が、口伝によって伝えられている天照皇大神のことだと知っていたと思われる。ただ倭国の女王でヤマト王朝「日本」の直接の始祖ではないので、自国の歴史にうまく取り込んだと思っている。≫

当時の「国」の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外である。
九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が領域に組み込まれたのは、鎌倉時代に入ってからである(蝦夷)。
この歴史的事実から、「邪馬台国」という地域の王権は九州北部に存在したと考えている。
奈良王朝であるヤマト王朝とは、別の王朝であると考えた方が、以後述べて行く歴史的な出来事がすんなりと無理なく理解できる。

第3話 徐福の移民後

≪倭国伝説≫プロローグ

徐福が童男童女を引き連れ倭国に移民してきたのが、紀元前210年頃だと思われるが、その後彼らの子孫はどうなったのか、史書には書かれていない。
≪中国からの移民団は、童男童女1万人という、当時としてはものすごい人数であったが、佐賀平野を中心に集落をつくり生活を始めた。(個人的な仮説です。) 吉野ヶ里は彼らの集落の中心であったと思っている。≫
  魏志倭人伝には「漢の時朝見する者あり」と書かれているから、移住後も彼らは中国本土とのかかわりは持ち続けていたものだと推測できる。
 自分たちの故郷、世代が進むにつれて意識は少なくなっていくだろうが、民族のアイデンティティは、先祖からしっかりと引き継がれるものであるから・・・。

 この徐福の時代に、神道の原点であるシャーマニズムも中国から渡ってきた。徐福がもってきた「神仙思想」で、これが邪馬台国の女王卑弥呼の鬼道に繋がる。
 記紀に書かれてある日本神話「天照大神」は、邪馬台国の卑弥呼の伝説を意識して書かれてあると思っているが、それ以前の神話は、徐福の伝説から始まるのではないかと思っていた。

≪ 神話によると、イザナギ・イザナミの両神は葦原中国に降り、結婚して大八洲と呼ばれる日本列島を形成する島々を次々と生み出していく。さらに、さまざまな神々を生み出すが、この神話のイザナギ・イザナミこそ、徐福が移住してきた時の「童男童女」のことではないかと思っている。≫

 徐福から卑弥呼が登場する「邪馬台国」の時代まで400年あまりの時間が経つ。
 紀元前100年頃、漢書地理志によると、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国をなす」と書かれている。
 紀元57年、倭奴国が朝貢「漢委奴国王」金印紫綬。
≪志賀島で発見された有名な金印のこと。金印とはその国の支配者であると認めたものであるから、倭国は、漢の属国という意識だった。≫

 紀元107年、倭国王帥升の朝貢。
 この事実が、魏志倭人伝では次のように書かれている。
「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり今、使訳通ずる所三十国(魏志倭人伝)」
つまり、倭人の国々の中でも、卑弥呼を共立して中国(魏)に朝貢してくる国は三十国であるということである。

第4話 倭国大乱

≪倭国伝説≫プロローグ

紀元前後から、紀元150年頃までは、倭国の政治の中心は北部九州、玄界灘に面した地域であったろう。
そしてもう1つ、中国からの帰化人?たちが創った「有明文化圏」吉野ヶ里を中心とした勢力があった。
倭国王帥升が初代かどうかはわからないが、倭国には代々男子王がいた。
倭王というぐらいだから、各部族の話し合いによって倭国王を決めたということだろう。
その後、倭国は争乱状態となった。
史書によると、桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)で、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い何年も王がいなかった。

この争乱は70 - 80年ほど続くが、最終的に一人の女子を共立し王とした。
「共立」ですから、話し合いによって選んだのである。
それが、「邪馬台国の女王、卑弥呼」で、これによって争乱は収まった。

この倭国大乱の原因については、いろいろな説がある。
まず想定されるのは、倭国王位の承継をめぐる争い。
弥生時代の倭国は、多くの政治勢力(国)に分かれており、倭国王は政治勢力間の利害を調整するために置かれていたと推定される。
しかし、利害調整を担いうる人物の不在あるいは調整不可能な程の利害対立の発生などにより、倭国王位をめぐる大乱が生じたのではないかと考えられている。
また、2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けた土地収奪争いにあったとする説もある。
また直接の原因は「鉄の流通をめぐる争い」であり、その背景に「後漢の衰退」があるといわれている。

≪有名な三国志の時代。≫

中国の政情不安が朝鮮半島にもおよび、また流浪の民が流れ込むこととなり、北九州諸国にも政情不安を引き起こした。
具体的には、「伊都国の衰退」が奴国(旧王国)など30余国の地域的な紛争を呼び、そしてその紛争が拡大して北部九州全域にわたる「大乱」に発展したのではないかと考えている。
鉄などの交易品は伊都国を介して交易されていたが、後漢の衰退により奴国(旧王国)など30余国がその権益を争ったと考えられる。
そして、この倭国大乱が収まったのが、紀元238年頃。
ここに邪馬台国の女王、卑弥呼が歴史に登場する。
すでにかなりの高齢であった。

第5話 倭国大乱の裏話

≪倭国伝説≫プロローグ

有名な三国志演義の物語の幕開けは、「黄巾の乱」からである。
紀元192年、曹操により黄巾賊の残党が討伐され、その際、数十万に及ぶ青州の黄巾賊が投降し、曹操軍へと併呑された。
この時の地名から彼らは青州兵と呼ばれるようになり、曹操軍の中で重要な部隊として活躍する。
紀元220年、曹操が他界し、その葬儀の最中、彼等は突如隊を解散し故郷、山東省へと帰る。

≪「白い喪服をまとい、軍鼓を打ち鳴らしながら。行列はえんえんと連なり、いつまでも果てることのないかのように見えた。」史書にはこのように書かれている。≫

その「青州兵」と呼ばれる彼らの一部が、北部九州に渡ってきたのではないかという説がある。 三国志がらみで面白いのですが、妄想の域をでない。
以下、その妄想の続きになる。

山東省といえば、どうしても私は「徐福」を想像してしまう。
黄巾の乱は「大平道」の信者たちが反乱を起こしたのだが、彼らは「大平道」という神仙思想を信仰していた。
自分たちと同じ民族が、倭国で国を創っているという話、蓬莱という神仙の世界への憧れ。 同胞である「徐福」の伝説は知っていたはずだ。
彼らは「剛強であるけれども略奪に走りやすく、統制の難しい軍団」と見られていた。彼らの宗教心に基づく戦闘力・団結力はものすごく、屯田制に組み込まれ平時は農作に従事していた農民でもあった。

≪人間の骨から人種を考える形成人類学という学問によると、吉野ケ里で発掘される弥生人は、山東半島で発掘された頭蓋骨の特徴と一致するそうである。西日本に広がる弥生人のルーツは山東半島付近から渡来してきた中国人と考えられると結論づけられている。≫

 彼らの力が加わることによって、有明海地域の「邪馬台国連合」の力が増し、ついに北部勢力の「伊都国」や「奴国」との争いに勝利し、糸島、博多湾周辺までを勢力圏に置いたのではないかと考えている。
 この時に北部勢力の一部は、遠賀川より東の地域に「東遷」し、今の行橋、中津あたりに移住し都を築いた?

≪これを私は、第一次東遷と考える。詳しくは別項で・・・。≫

第6話 金印の謎

≪倭国伝説≫プロローグ

邪馬台国の大夫難升米(なしめ)等が帯方郡に天子への朝貢を願いに行ったのが、紀元238年。その数年前、「倭国大乱」を経て、この北部勢力と有明海地域の国々が初めて統合され共立されたのが邪馬台国の女王、卑弥呼である。
 「倭国大乱」の後、旧勢力である伊都国や奴国の支配者は政権を失い「一大卒」(進駐軍)の監視下に入った。
≪邪馬台国の制度としての「大率」という職名である。≫

なぜ、邪馬台国連合が伊都国に「一大卒」を置いたかがこれで素直に説明できる。 単に、中国・朝鮮への窓口としてだけではなく、周辺の旧勢力に対して「にらみを利かす」ためだった。

 過去の栄光、「倭国王の印」としての意味を失った「漢委奴国王」金印が、志賀島の海岸近くの、一人では動かしにくい石の下に埋もれていた。倭王としての政権は失っても、これだけは後世に残したいと願う倭奴国の要人が、ひそかに、地中に隠匿させた、ためかもしれない。

 ちょっと横道に外れる。
 この発見された場所、志賀島の対岸にあるのが奴国と伊都国。この場所から、対岸を見れば、金印を隠匿した場所を、たとえば、「宝島(たからじま…福岡市西区今津の小島)左、雷山、石の下」というように、簡単な言葉で伝えることができる。
 つまり志賀島で、雷山山頂と宝島の左側が一直線に見える位置を決めれば、その直線上のどこかにある石の下に、金印が埋めてあるという意味になる。
 もっと分かりやすくいえば、「漢委奴国王金印発光之処」の碑の前から見ると、丁度、宝島の左側の背後に、雷山山頂が見える、ということである。
 こう考えると、「なぜ、志賀島という辺鄙な場所で金印が発見されたのか」理解できる。
 支配者の象徴である金印を、新しい支配者に奪われたくなくて誰かが隠した。

この直線上に井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡がある。
この前原市の井原鑓溝遺跡からは、天明年間(1781~88)に、後漢鏡21面以上を出土しており、それらの後漢鏡は、まさに倭奴国王が金印を授かった頃のもの、と推定されている。 彼らの一部は追われるように、遠賀川の東部、宗像、北九州方面に逃れて行った。

≪これを私は、第一次東遷としている。≫

 つまり、完全に南部有明海の勢力に服従したわけではなかった。そして、彼らの一部は、邪馬台国のさらに南部にあった狗奴国と通じていたかもしれない。
敵の敵は味方だから。
 そして、この後、邪馬台国連合と狗奴国との争いが起った。

第7話 魏への朝貢

≪倭国伝説≫プロローグ

倭国大乱が終わり、ようやく平和が訪れたわけでなく、まだ小さな争いは続いていたはず。 今でいう「政権の交代」が行われたと思っている。
 倭国王として北部九州を統合した卑弥呼は、その権威づけのために中国の天使、魏への朝貢をしようと思った。
つまり、それ以前の奴国を中心とした倭王の系列ではなかったから、新しい称号が必要だった。
そして支配者としての象徴である「金印」を紛失したため、新たな金印を求めるためだった。
 さらに、当時の状況も関係している。
邪馬台国の南部にあった狗奴国との敵対的関係。
 この数年前、中国で魏に対抗していた呉の国が、兵を求めるために、台湾や倭国に「人狩り」を行い失敗している。  呉の脅威に対抗するためにも、魏の後ろ盾を必要としていた。 しかし、中国の状況、朝貢の通り道である楽浪郡も安定せず、なかなかタイミングがつかめない状態ではなかったかと思う。

年表では、次のようになる。

紀元236年、遼東の公孫淵が魏と開戦。
紀元238年 魏の司馬懿が公孫淵を討滅し、韓北まで制圧。

≪公孫淵は滅んだがその背後には高句麗王がいた。高句麗は以前から魏に朝貢を行って臣属しており、司馬懿による公孫氏の平定にも兵数千人を遣わしていたが、魏が公孫氏を平定して国境を接すると、242年に西安平で寇掠を働き魏の将軍?丘倹による侵攻を招いた。
244年に1回目の侵攻が行われ、東川王(憂位居)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。
?丘倹は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属せず、
翌245年に再び魏軍の侵攻を招いた。
魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃沮へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。
この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東?も高句麗を離れ魏に服属した。≫


 このような状況のもとで、倭国の使者である大夫、難升米らが帯方郡に天子への朝貢を願いに行くところから、この物語は始まる。紀元238年の6月であった。

≪余談≫
 山東省を中心とした地域から移住してきた「徐福の子孫である」有明海沿岸に移り住んだ人々は、呉の民とは親戚関係にあったと思われ、通商など交流が続いていたと思われる。
 特に熊本地方に移り住んだ狗奴国の人々と呉は、関係が強かったのではないかと思っている。
呉の国から、真東に向かって航海すれば、海流の関係で、数日で有明海沿岸に到達する。徐福の時代から、この航路を使って通商が行われていたという記録がある。
 その邪馬台国の女王、卑弥呼が呉の敵国である魏との関係を強化しようとしているのだから、狗奴国にとっては裏切りである。当然、関係が悪くなる。

倭国伝説 その一

邪馬台国女王「卑弥呼」の時代の物語