第一話 仲哀天皇の死の謎

『天君公』伝説

≪内容については歴史小説、阿曇磯良伝説と重なる部分がありまが、以下の文章は2008年頃に書いています。阿曇磯良伝説を書いたのは2013年ですから、5年ほど前。古代史ファンとしていろいろなことを調べているうちに「幣立神宮」と出会い、日記のように書き始めました。≫

紀元199年?、熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から住吉大神のお告げを受けた。それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇は、これを信じず住吉大神を非難した。
そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月に朝倉宮で急死してしまった(一説には熊襲の矢が当たったとも)。
古事記には、次のように書かれている。
「皇后の息長帯比売の命は神懸かりをなさった方でありました。天皇が筑紫の香椎宮においでになって熊曾の国を撃とうとなさいます時に、天皇が琴をお弾きになり、建内の宿禰が祭の庭にいて神の仰せを伺いました。
ここに皇后に神懸りして神様がお教えなさいましたことは、『西の方に国があります。金銀をはじめ目の輝くたくさんの宝物がその国に多くあるが、わたしが今その国をお授け申そう』と仰せられました。
しかるに天皇がお答え申されるには、『高いところに登って西の方を見ても、国が見えないで、ただ大海のみだ』と言われて、いつわりをする神だとお思いになって、お琴を押し退けてお弾きにならず黙っておいでになりました。
そこで神様がたいへんお怒りになって『すべてこの国はあなたの治むべき国ではないのだ。あなたは一本道にお進みなさい』と仰せられました。
そこで建内の宿禰が申しますには『おそれ多いことです。陛下、やはりそのお琴をお弾き遊ばせ』と申しました。
そこで少しその琴をお寄せになってしぶしぶとお弾きになっておいでになったところ、間もなく琴の音が聞こえなくなりました。そこで火を点して見ますと、既にお隠れになっていました。」

仲哀天皇は,明らかに,神や神功皇后の言うことを聞かなかったから死んだ。
しかも,死因が不明である。
 そこに立ち会っていたのは,神功皇后と建内宿禰(たけしうちのすくね)のみ。
しかも神判は,「火を点して見ますと」という叙述からすれば,真っ暗闇の中で行われたに違いない。
 西に国はない,ただ大海あるのみ,と述べた仲哀天皇の合理性からすれば,2人のうち,どちらかが殺したのだ。
 はっきり言えば,神功皇后が殺したと考えるほかない。
日本書紀においては,こんな不自然な死に方はしない(仲哀天皇8年9月)。
 熊曾國を撃ったあと,帰ってきてから病死したことになっている。
日本書紀編纂者は,神の言うことを聞かなかったから早世したのだとコメントを述べている。

他殺だったからこそ仲哀天皇の死を大祓で清め流す。
仲哀天皇死亡後の処置が,これまた極めて異常である。
殯(もがり)の儀式ではなく,大祓だった。
殯(もがり)とは言っているが,その儀式の叙述はなく,大祓(おおはらえ)の叙述が続くのだ。
 要するに,罪穢(つみけがれ)を償うために筑紫国から品物を取り立てた。
これは,原始的な,一種の罰金である。
それだけでなく,天皇の死を,生剥,逆剥,阿離,溝埋,屎戸,上通下通婚,馬婚,牛婚,鷄婚の罪の類(たぐひ)と同じものとみなして,そうした罪を全部集めて,大祓(おおはらえ)の儀式をして,国中を清めたというのである。

この状況を客観的に考えると、次のような物語が想像される。
神功皇后の立場で考えると理解できる。
夫である仲哀天皇は巫女である自分の意見を取り入れず、熊襲を討伐しようとしている。
地元の豪族である住吉大神は熊襲とも通じていて、天皇の目を韓国に向けようと、神功皇后に取り入り、入れ知恵をしたのかもしれない。重臣であった高級官僚の「武内宿禰」とも計り、天皇を暗殺してしまう。
黒幕は住吉大神(武内宿禰)であり、夫を暗殺された神功皇后は後ろ盾が欲しかったので、積極的に、あるいは無理やり通じてしまう。
住吉大神の権力欲と神功皇后の権力欲が二人を結びつけたのかもしれない。
そして妊娠したのである。

その後再び住吉大神の神託が下された。
それは神功皇后の胎中の子(後の応神天皇)に宝の国を授けるとのことであった。
皇后は神託に従い、身重のまま新羅を攻めたが、新羅王は戦わずして降服、朝貢を誓い、高麗・百済も朝貢を約したという。(これが三韓征伐)。
そして九州の宇美で誉田別王(ホムタワケおう、後の応神天皇)を産み落とします。

第二話 大和政権奪取

『天君公』伝説

そして、この戦勝の中に生まれた男の子を次期天皇としてかかげ、大和へと凱旋します。

その時、大和には、仲哀天皇が大中姫(おおなかつひめ)との間にもうけた?坂皇子、忍熊皇子が残っている。
『古事記』『日本書紀』によれば、新羅征討中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后が筑紫で誉田別王(ホムタワケおう)を出産したとの報に接した忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、兄の?坂皇子と共謀して、筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした。
そもそも誉田別王が生まれた時期からして、これは仲哀天皇の子供ではないのではないかという訳である。
そこで忍熊王は神功皇后の一行を都に入れてなるものかと大挙手勢を集めて迎え撃つ。
これに対してまともに戦っては犠牲が多くなると考えた皇后側はわざわざ迂回して紀州に上陸し、南側から大和を目指す。
そしていよいよ軍勢が衝突するという所に至った時、神功皇后側は奇策に出、武内宿禰自身がその使者に立った。
彼は忍熊皇子の元へ行き、「私たちはただ皇后のお子様をお連れしただけです。天皇の地位などは望んでおりません。私たちも次期天皇には忍熊皇子殿がふさわしいと考えています。武装していたのは皇后のお子様をここまでお守りしてくるためです。謀反の心が無い証拠に武器は今すぐ捨てさせましょう」と言った。
そして合図をすると、軍勢はみな武器を川に投げ捨てた。
ここですっかり信用した忍熊皇子は自分たちも武装を解き、神功皇后の一行を迎え入れたが、皇后側はちゃんと捨てた武器以外に予備の武器を用意していたのである。
完全にだまし打ちにあった忍熊皇子王軍は散り散りになり、忍熊皇子は戦死してしまう。
こうして神功皇后の一行は無事都に戻ることができ、誉田別王は3歳で皇太子となり、母帝の死後即位、応神天皇となるである。

(神功皇后が、実力で天皇位を奪取し、応神天皇に与えたと言えます。その行動には正当性がなく、むしろ反逆による政権奪取といってよいのです。)

なお、この時代は、長期間にわたって天皇が空位のままだったため、明治時代以前は神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなし、15代の帝と数えられていたが、1926年(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外された経緯がある。

その後、神功皇后は武内宿禰とも通じて『天君公』が生まれた。

第三話 『高天原の乱』

『天君公』伝説

大臣の弟甘美内宿禰(うましうちすくね)が野心を抱き、「武内は筑紫に於いて密かに三韓と通じ謀反の企てをする」と、天皇に告げ口した。
日本書紀によると、応神天皇九年四月である。

次のような伝説が残っている。

武内宿禰は常に天下を望む心あり
筑紫に在って密謀して・・・
天下を取れよう

天皇は使いを派し武内宿禰を殺させようとされた時、「壱岐直真根子(いきのあたいなほこ)と云う者、己の容貌の極めて武内宿禰と相似たるを以って代わりて死せん事を願って自殺した。」

大臣はその隙に筑紫より都に出て、朝廷の至って無実の旨を相聞した。

天皇は武内宿禰と甘美内宿禰を対決させて問うたが、二人は互いに譲らず是非が決めがたかった。そこで神祇に祈り探湯(くがたち→神に祈誓して熱湯に手を入れ、ただれた者を邪とする占い)をさせて決着をつける事になり磯城川のほとりで執り行った。
結果、武内宿禰が勝ち、太刀をとって甘美内宿禰を倒し殺そうとした。
しかし天皇が間に入って止め、許される事になった。


応神天皇の時代に『幣立神宮』の南一里ほどの場所で『いくさ』があった。
後日、『高天原の乱』と言われている。その場所には大野地区には『千人塚』が現存している。
この時、武内宿禰の子「天君公」とともに、日の宮の社家も断絶した。

≪このまま没落させては惜しいという神宮皇后と応神天皇の思し召しに応え、田道間守の裔の橘枝冬を養子として社家再興を図られたのである。(本より)
なお、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)は天孫降臨や天の岩戸開きの時に祝詞を奏上する重要な神として登場しますが、その末裔が幣立神宮の宮司を務めている春木家だと言われています。≫

『天君公』の名はもちろん実名ではなく、歴史上も出てこない。幣立神宮の西に御船町があるが、緑川の支流、矢形川の上流に、天君(あまぎみ)ダムがある。
このあたりで生まれたと宮司さんの本で述べられている。
(この戦いに敗れた側に『幣立神宮』が関わっていたため、隠れ宮になったのだと宮司さんは述べられています。)

『天君公』伝説

古代史、高天原の乱