九州王朝説

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、狂瀾編(1)

 神功皇后がヤマト政権を倒した後は、本格的な古墳時代となる。

≪なお以下の文章は、阿曇磯良伝説とはあまり関係ありませんが、プロローグとしてお読みください。≫
このころの歴史的な事実は、朝鮮の資料のほうが確実なようで、この時代の、倭(日本)・百済連合と高句麗・新羅連合による朝鮮半島での覇権争いが続いていた。
歴史的には「倭の五王」の時代だが、これが日本書紀の記述との整合性が取れず、謎の時代となっている。

≪これらの矛盾を一挙に解決する説が、有名な九州王朝説です。≫

373年(あるいは372年、神功摂政52年)に百済は七枝刀を献上したとある。
「倭王旨に贈られた」とあり、百済と倭は軍事同盟を結んでいたと考えられるが、この「倭王旨」が歴代天皇の誰に該当するのか、全然整合性がとれない。

そこで、ヤマト政権とは別に、九州王朝が存在していて、朝鮮の資料に出てくる倭とは九州王朝のことと解する説が九州王朝説である。

邪馬台国九州説の流れをくみ、地元の人間としてはまことにうれしい考え方であり、多くの書物を読んだが、イメージがよんわかないのも事実である。

古墳時代、畿内地方には多くの巨大古墳が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しながら同時にこのような大規模な巨大古墳の造営を多数行うということは考えられない。
畿内地方に多くの巨大古墳を造っていたのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した地方の勢力だったとみるのが常識的だろうと思う。

この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、出雲や吉備等にも独立した勢力が存在したことを示している。

414年建立の高句麗「好太王(広開土王)碑」によれば、次のような記載が残っている。
以下は歴史的事実と思われる。

391年 :倭が海を渡り、百済・新羅を破り、臣民となす。
396年 :好太王みずから軍を率いて百済を下す。
399年 :百済が誓約に違反して、倭と通じる。また、倭軍が新羅国境に満ち、新羅は高句麗の援軍を要請。
400年 :好太王は歩騎五万の新羅救援軍を派遣。倭軍が新羅城内に満ちていた。
 しかし、倭軍を破り、任那・加羅まで追撃する。
404年 :倭軍が今度は帯方地方に侵入。好太王は倭軍を破り、斬殺無数。
407年 :好太王は歩騎五万を派遣して、(倭軍)と合戦し斬殺し尽くす。
 戦利品の鎧甲は一万余、軍資器械は数えきれず。

上記のように書かれてある。

倭王武、通説では、雄略天皇に比定されている。
『宋書』478年の倭王武の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」=中部・関東、「西の衆夷」=畿内・中国・四国・九州、「渡りて海北」=???、となり、比定地を特定することができない。
しかし倭を九州とすると、「東の毛人」=畿内、「西の衆夷」=九州、「渡りて海北」=朝鮮半島南部となり、比定地の特定が可能である。

つまり倭王は、九州に居た。

≪調べ出すと興味は尽きないし、「磐井の乱」まで考察しないといけないなということで、一旦この話はやめます。昔そうとう書物を読みました。≫

七枝刀の謎

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、狂瀾編(2)

イソラは本拠地である志賀島の龍宮を拠点に、「海の大王」として倭国内の海運事業、百済や新羅などとの貿易のような仕事をしていたが、時勢がら、朝鮮半島における新羅と百済の争いや倭の争いに、必然的に巻き込まれていくことになったはずである。

百済から献上されたとされる七枝刀は、現在、天理市にある石上神宮に納められているが、日本書紀には神功皇后49年の記事に「百済の王と王子が七枝刀(ななさやのたち)と七子鏡(ななつのこのかがみ)を献上した」と書かれてある。

≪この地が阿曇一族の同族である鰐氏の本拠地であることから、この事件にイソラがかかわったのではないかと想像している。≫

西暦369年に百済王の太子が製作させた七支刀が3年後に百済使節によって我が国にもたらされたことになる。
では、七支刀の製作を命じた百済の太子は誰か。
『日本書紀』は神功55年に百済の肖古王が薨じ、56年に貴須が立って王となった、と記している。
そのことから、当時の百済は近肖古王の治世であり、その太子は即位して王となった近仇首であると解されている。
『三国史記』の百済本紀には、第13代近肖古クンチョコ王が在位30年目(西暦375年)の冬10月に薨じたので、近仇首クングス王が即位した、と記されている。

高句麗は、西暦313年から314年にかけて楽浪郡とその南の帯方郡を攻略し、そのため、百済は高句麗と国境を接するようになった。
北の高句麗に対抗するために、百済はまず隣国・新羅との友好関係を樹立した。

近肖古王(在位347-375)の治世21年(366年)3月に、新羅に使者を派遣し、さらに2年後の3月には馬二匹を送って友好関係を深めている。
新羅との和親だけでは心許なかったか、伽耶諸国を支援するために半島まで軍を派遣させていた倭の存在に近肖古王は着目した。

百済王は364年、使節を伽耶諸国の一つ卓淳国に派遣して、倭との通交の斡旋を依頼している。
この地区は倭国の一部であった。

百済が新羅と手を結んだ366年3月、倭国から斯摩宿禰が卓淳国に派遣されてきた。
斯摩は卓淳国王から百済が倭国と通交を希望していると聞いて、従者を百済に派遣した。

近肖古王は喜んで使者を厚遇し多くの珍宝を見せて、これらを倭国に献じるため使節を派遣することを約束したという。
翌年には、近肖古王は実際に使節を倭国に派遣してきている。

神功皇后49年(369年)には、倭から派遣された千熊長彦と百済王は、百済の古沙山に登り、磐の上で同盟の誓いを立てた。
百済の太子が七支刀一口を作らせたのでは、この同盟を記念してのことだろうと推測されている。

≪これらの朝鮮と倭の史実を調べていく中で、イソラの影を探してみたのですが、ついに見つけることができませんでした。≫

阿曇一族はこの後に最初の本拠地である北部九州の福岡志賀島一帯から離れて全国に移住したと想像している。
 北部九州の世情不安が背景にあると思う。

ネットで調べてみた。
阿曇一族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。
この他に「志賀」や「滋賀」を志賀島由来の地名として、安曇族との関連を指摘する説がある。

 また海辺に限らず、川を遡って内陸部の安曇野にも名を残し、標高3190mの奥穂高岳山頂に嶺宮のある穂高神社はこの地の安曇氏が祖神を祀った古社で、中殿(主祭神)に「穂高見命」、左殿に「綿津見命」など海神を祀っている。
内陸にあるにもかかわらず例大祭(御船神事)は大きな船形の山車が登場する。
志賀島から全国に散った後の一族の本拠地は、この信濃国の安曇郡(長野県安曇野市)とされる。

≪二年ほど前、旅行で長野の安曇野を訪れ、穂高神社にお参りしました。 海神族であった阿曇一族が、なぜ安曇野に移ったのか。その物語を描きたいと思ったのですが、あまりにも遠く霞の中に隠れほとんど見えなくなってしまったものですから、筆が進まなくなってしまいました。≫


≪さらに余談≫

石上神宮
『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。 古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。

≪高校時代、由緒ある神社とは知らずに訪れたことがあります。側に山の辺の道という古い古道があり、歩いたことを思い出しました。≫

神功皇后の崩御 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、狂瀾編(3)

 神功皇后が活躍したのは四世紀の中ごろだと思われる。
その後の応神天皇の時代に次のような悲劇が伝わっている。

≪ 高天原の霊告『高天原の乱』として後に述べます。≫

そのポイントは、神功皇后とスクネの子供が応神天皇であり、その応神天皇がスクネに対して、疑念を抱き排斥しようとしたところから始まる。

その内容は次のとおりである。
スクネの実の弟、甘美内宿禰(うましうちすくね)が野心を抱き、「スクネは筑紫に於いて密かに三韓と通じ謀反の企てをする」と、天皇に告げ口した。日本書紀によると、応神天皇九年四月である。

次のような言葉が残っている。
「武内宿禰は常に天下を望む心あり
筑紫に在って密謀して・・・
天下を取れよう」

九州で大王になろうとしているということである。
その告げ口を信じた天皇は使いを派し武内宿禰を殺させようとした。
私は、甘美内宿禰は、天皇の意向を受けて告げ口したと考えている。
スクネ排斥は天皇の意志だったのである。

応神天皇が十三歳の時、共に敦賀の気比大神に参拝した時、今でいう元服の儀式のようなものだったと想像するが、自分の出生の秘密を知ってしまった。

 つまり、自分の父親は仲哀天皇ではなくて、スクネであったということを・・・。
衝撃を受けた。
「自分の存在意義が崩れてしまった、しかしこれは絶対に秘密にしておかねばならない。
スクネと母は自分の父親であると信じていた仲哀天皇を裏切った。
自分は、伝説の大王である白鳥伝説のヤマトタケルの霊的な血を引き継ぐ者であり、実際の血筋は関係ない・・・。母はその高貴な霊線を汚してしまった。」

自分に言い聞かせたと想像する。

その時から不信感が芽生え、朝廷内で実権を握っているスクネに対して憎悪を感じていた。血の繋がりがあるからこそ許せない。
 実の父親であるスクネを排斥する機会を狙っていたのである。

この時、すでに母親である神功皇后は亡くなっていたと思われる。
日本書紀によると、年代のつじつまが合わなくなってしまうが、ヤマト政権を確立してから、応神天皇が13歳の頃に敦賀の気比大神に参拝しているし、「高天原の乱」は天君公が19歳の頃だとすると、応神天皇が20代の頃の事件であった。

つまり、その間に神功皇后は亡くなった。

≪このことに関する逸話が全く残っていないというのも不思議な気がします。≫

スクネにとっては生きがいそのものをなくしたような気持ちになったはずである。

応神天皇が成人するにつれて、スクネに対する態度がよそよそしくなっているのを感じていたし、我が子であるという秘密から、目障りだと思っていることも感じていた。

「自分の役割は終わった。故郷に戻り隠居するときかもしれぬ。」
スクネは天皇に願い出て、筑紫に視察という名目で九州の故郷、奴国に戻ってきていた。
朝鮮半島ににらみを利かせるという役目もある。
いつ何時、新羅が攻め寄せるかもしれないからである。

イソラの本拠地である志賀島の龍宮を訪れたときにその事件は起こった。
スクネがイソラを訪ねるということで、新羅征伐の時から親しくしている壱岐真根子(いきのまねこ)も来ていた。

あの新羅征伐の頃から、20年近い月日が流れていた。

神功皇后の崩御 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、狂瀾編(4)

 ここで問題になるのは、神功皇后はいつ亡くなったかということである。
古事記によると、ヤマトに戻った摂政元年から、35年ほど生きている。
その後、71歳で即位とか、書かれてあるが、つじつまが全く合わないので、ここは想像するしかない。

 以下、私の想像である。
 神宮皇后とスクネがヤマトに凱旋して、13年後に敦賀の気比大神に参拝しているから、応神天皇は13歳である。

この時が応神天皇元年ではないかと・・・。何の根拠もないが・・・。
そして、この甘美内宿禰の事件が起こったのが、応神天皇九年ということは、天皇が22歳であるから、大人としての自覚も芽生え、天皇としての野心もあったはずである。

これ以前に、神功皇后が亡くなったのではないかと思うのである。
そう考えると、亡くなった母親の御霊を弔うために、天皇とスクネが気比大神に参拝したと考えるのが正しいかも知れない。

 もし、神功皇后が生きていたら、我が子が実父を追討するなど許すはずがないからである。それまで実質的な女王として君臨していた実力もあったはずだし、このような事件が起こるとは考えにくい。

 そのように想像すると、スクネは長生きだったという伝説もあり、この頃五十代だっただろう。

なお、またまた余談ではあるが、以前は神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして15代の帝と数えられていたが、 1926年(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外されたという経緯がある。
 なぜか、これを調べると別の物語が書けそうである。

ネットで調べてみると、次のような回答が見つかった。

「日本書紀」は、天皇一代ごとに冒頭に天皇の名を記し、その治世の事績を年代順に記す、という構成をとっている。
記すべき事績が少なかったり、在位年数が短い天皇は、1巻に複数収められる場合もあるが、原則的には天皇一代につき1巻である。
この事実から、神功皇后は、他の歴代天皇と同様に巻頭に名を記され、第九巻をまるまる割り当てられている。

仲哀天皇紀が第八巻、神功皇后紀が第九巻と分けているのは、摂政を仲哀天皇の代理としての治世としてでなく、独立した神功皇后の治世として、歴代天皇と同列に扱っていることを示す。

江戸時代、儒教の大義名分論を重視する水戸藩の「大日本史」では、神功皇后は本紀から除外されて后妃伝に入れられており、天皇としては扱われていない。

明治以降、南朝が正統されたのは、この「大日本史」の影響とされているが、神功皇后が歴代天皇から外されたのも同じで、歴史的伝統より大義名分を重視した決定といえる。

≪つまり万世一系の皇統が神武天皇による建国以来、連綿と続いてきたとする『日本書紀』の記述の原則からみると、どうしてもつじつまの合わない時期が生じます、それが河内王朝と、継体天皇の近江王朝の正当性です。→王朝交代説≫

暗殺未遂事件 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、狂瀾編(5)

応神天皇は、品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)と呼ばれていたが、便宜的に応神天皇と言う名前で記述します。

神功皇后とスクネがヤマトに移ってから、イソラは本拠地である志賀島の龍宮を拠点に、「海の大王」として倭国内の海運事業、百済や新羅などとの貿易のような仕事をしていたと思われる。

≪スクネがヤマトから筑紫に戻りイソラの屋形を訪ねたところから物語が始まります。 壱岐真根子(イキノマネコ)も同席しています。 二人とも40代半ば、当時としては老年期であった。≫


イソラやマネコとの宴席で、武内スクネはタラシ姫との運命的な出会いを思い出していた。
「海神の導きにより、我らは宿命的な出会いをした。あどけない微笑みの奥に底知れぬ何かを感じた。その瞬間に恋に落ちてしまった。それからの私の人生は、すべてタラシ姫のために使った。我は白龍となりタラシ姫を天上にお連れした・・・。」
懐かしんで遠くを見つめるような顔をした。

「まさに、タラシ姫は倭国の女王となられましたが、今思えば不可思議な出来事ばかりでした。海神の指示によって動かされていたような時期でしたが、面白うございましたなあ。」
イソラが言った。

「若かりし頃のタラシ姫は、まさに海神が憑りついているような魅力的な方であったが、応神天皇が生まれた後は、普通の女姓になられた。巫女として人前に出ることもなくなり、その後は静かな時間が流れた。懐かしい平和な日々であった。」

「新羅征伐の後の神功皇后のお顔は、鬼神が乗り移ったかのように怖く感じましたが、光り輝いてたことを思い出します。」
壱岐真根子(イキノマネコ)が述べた。

「ただ、お主と離れヤマトを平定してからは、タラシ姫の神通力も失われたような気がしていた。そしてその能力は息子である応神天皇に引き継がれたように感じている。我が血が入っている子のはずであるが、そのような気がせず何を考えているのかわからない。眼の冷たさに恐ろしささえ感じている。」

「ヤマトタケル皇子の怨念が関係しているのかもしれませんね。」
一同うなづいた。同じことを考えていたのであろう。
タラシ姫の胎内に宿っていたヤマトタケル皇子の怨念が応神天皇の体に乗り移ったと思われた。
態度とか振る舞いが似ていると言う古老もいた。

「応神天皇が13歳の時、我らと縁の深い角鹿(敦賀)の仮宮に参詣した。かの地から我らの旅が始まったともいえる。気比大神に祈願して干・満の珠を得たことのお礼もあり、皇子を連れていったのであったが、・・・。」

「そういえば、スクネ様の命により私の一族が宮を建立しましたね。その後、我ら一族の拠点にもなりましたし、都への物流の拠点にもなりました。一族に大いに益をもたらしました。」

「その時に不可思議な出来事があった。」

≪『気比宮社記』によれば、仲哀天皇8年3月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に命じて気比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になる。≫

スクネの話によれば、夢で土地の神のイザサワケ神が現れて「わたしの『ナ』と皇子の『ナ』を交換しよう」 と申し出た。
スクネは申し出を了承するとイザサワケが「明日の朝、浜に行け。『ナ』を送ろう」と言いった。
実際、翌日に浜に出てみると浜に「イルカ」が居た。
これは「名(ナ)」と「魚(ナ)」を掛けた謎掛けで、この謎掛けを解いた応神天皇(ホムダワケノミコト)は名を交換した。

≪この逸話は何を意味しているのか。まさにこの時に海神が皇子に憑りついたということなのか? ≫

暗殺未遂事件 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、狂瀾編(6)

イソラの屋形での宴席は続いている。
スクネは、ヤマトでの思い出を語っていた。

応神天皇がだんだんと成長し、子供から大人に変わりつつある時期、スクネに対する態度がなぜか反抗的になり、スクネを疎むような態度を示していた。
スクネなぜかは分からないが、若者特有の反抗期であり、気にしていなかった。

 スクネとしては我が子である皇子と朝廷を支えるために政治の実務を取り仕切り、忙しい日々を過ごしていたし、この頃から神功皇后は人前に出ることはなくなっていた。

「皇后の体調がすぐれず、あの頃からわけの分からぬことを口走るようになり、鬼神が憑りついてしまわれたかのようで、別人のようになってしまわれた。皇子を産み育てることで全精力を費やし、寿命を使い果たされたと思う。気比大神との約束があったのかもしれぬ。」
 スクネは、寂しげに話した。

気比大神に参詣後は、スクネの実弟である甘美内宿禰が天皇の側に仕えることが多くなり、だんだんと天皇の側から離れることが多くなっていた。
 神功皇后亡き後、政治に対する意欲も薄れてきたからかもしれない。
 自分の仕事ももうすぐ終わる。
 そのような想いで筑紫に戻ってきていた。

「スクネ様はまさに『陸の大王』としてご活躍されております。まだまだ、これからでございます。我が阿曇一族も各地に拠点を設け『海の大王』という志を遂げつつあります。ただ・・・」
イソラは続けた。
「スクネ様の気持ちも分かるような歳になりました。朝鮮半島のゴタゴタはこの地にも及んでおりまして、いつまで続くかわかりません。この地に戦乱が及ぶ恐れもあり、我が一族も安全な場所を求めて拠点を移したいと考えております。」

≪この時代以降に、北部九州に防護のための山城などが多く造られています。神籠石として各地に史跡が残っています。
663年の白村江の戦いで百済が滅亡するまで、200年余り朝鮮半島で戦乱が続くことになります。それ以後、水城や基肄城などが建設され、亡命してきた百済の貴族が築城の指導に当たった。≫

「そういえば、イソラ。あのおりは大変世話をかけた。」
「えっ・・・」
「我が赤子のことじゃ。会うこともなきまま、親として何もしてやれなんだ。今いくつになるかの。」
「天君公につきましては、高天原にて健やかに成長され、確か19歳になられます。日向のライキに命じて、常に面倒をみさせております。ご安心ください。」

「そうか、それはありがたい。」
今宵は、スクネもかなり飲んでいる。
感傷的になっているのか、涙を流しているように見えた。

話はつぎず、宴会は夜遅くまで続いた。

異変が起こったのは、次の朝、早朝のことである。
応神天皇の使いという者が、一団の兵士を引き連れてイソラの屋敷を訪れた。