日向の諸県 (五)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(36)

まだ、イソラの大船は諸県に留まっている。
当初は数日で帆を上げ、日向の諸県から、大隅半島の大隅国を目指す予定であった。
その後、西回りに航路を取り対馬海流を利用して北上し天草から松浦を経由して、この志賀島まで戻る。その前にすべきことがあった。
諸県王に協力を仰ぐことである。
ライキと共に屋形を訪ね、これまでのいきさつと水軍の計画について話した。
イソラの考えについては諸県王も大変喜び、一族をあげて協力すると約束した。
この地の隼人族の一部が、近畿のヤマトに移住を初めたのは、初代の神武天皇のころからで、すでに百年あまりの時が過ぎている。
河内を本拠地にしている葛城族とは、同族と言えるほど関係が強いし、歴代の天皇家とも繋がりは古い。
途中の海の安全が保たれれば、自然と交易は盛んになるはずで、それは諸県が豊かになる事でもある。
これまで阿曇族は、中国や朝鮮半島との交易を主にしていて、鉄刀や銅鏡などや、ゴウホラガイやヒスイなどの宝物といわれるものを運んでいた。
王族が祭祀に使うものが主であった。
イソラ王子は、その交易をもっと拡大しコメや作物などの食糧までも運ぶという。
これは革命ともいうべき斬新で新しい考え方である。
交易の規模が大きくなれば、「大亀」のような大船が数多く必要となるし、その大型帆船の操縦ができる船乗りの養成も必要となる。
さらに造船の技術も中国や朝鮮から学ぶ必要もある。まだ、倭国にその技術はない。
「これは、世の中が変わる。」諸県王は確信した。
イソラにその考え方を教えた奴国の王子、武内宿祢という人物に対して、諸県王は大変興味を持った。
権力を持たない成務帝に仕えているというのが気になるが、九州、奴国の王子であり将来が楽しみである。
時代の変わり目には、必ず英雄が現れる。邪馬台国の女王、卑弥呼はまさに、倭国を作り上げた伝説の女王であった。そして、ライキやイソラから聞いたその武内宿祢という人物は、まだ十五、六の青年だという。
その若者が、我ら大人が想像もできないようなことを考えているとは、まさに時代を創る英雄かもしれぬ。
我が隼人族の血も流れているし、まだ会ったことはないが、龍神の目を持つイソラが言うのだから間違いはない。
諸県王は「我が孫は英雄となる」と大声で叫びたくなるほどであった。
この会談の場で、ライキが諸県王に面白い提案をした。当地の若者を集めて、相撲を取らせたいというのである。
日を定めて、村々の勇者を一堂に集め、相撲で勝ち残った者を水軍の兵士として選抜しようというのである。
「それは面白い案じゃ。さっそく各部落の長に伝えよう。」と、話はトントン拍子で進み、三日後、諸県王の屋形の前に土俵が造られ、試合の準備が整った。
試合当日は、屋形の前の広場に大勢の見物人も集まったり。
定められた神事の後、試合が始まる。
諸県王や妃、姫などの一族も上座に座り、イソラやライキも横に控えて見ていた。
一方が動けなくなったり、明らかに劣勢の場合、審判者が勝者を判定する。
各部族から選ばれた若者は二十名であった。ほとんどが村長や有力者の子弟である。
半分ずつ左右に分かれ、一回戦から始まった。
一試合一試合、身内の声援と観衆の歓声のすごさは、ものすごい。志賀島でも相撲を見たことはあるが、戦闘的な隼人族の気性なのだろうかとイソラは思った。
豪族の子弟の力持ちでも、ライキのように武術に熟達した者は少ない。剣の稽古も木刀で木の枝をたたく程度であった。
ライキは彼らに武術を教えようと考えていた。
相撲の内容は皆、力まかせに殴り、組み合っては、相手の上に馬乗りになり顔面を蹴るような単純なものである。
ライキが予想したように、「ユウト」という名の漁師の若者が断然強かった。
毎日、櫓や櫂で船を漕いでいるから、腕だけでなく脚、腰も鍛えられていた。それにその若者は身体も大きく、六尺(180センチメートル)もある。少々殴られても、びくともしない。一回戦では、一発殴っただけで相手は失神した。
最後の決勝戦は。この漁師の若者と、もう一人、身体はそう大きくないが筋肉は盛り上がり、俊敏な動きと、足蹴りのすごさで勝ち進んできた若者が残った。
豪族の子弟で、なかなかの男前であり、観衆の女性たちの声援も大きい。
かなり人気のある若者らしく、「コウ様」呼ばれていた。
「イソラ様、どちらが勝つと思いますか。」ライキはイソラに尋ねた。
「漁師のほうが大きいし強いと思うが・・・。」とイソラが答えた。
「逆です。あの若者は、武術を心得ています。」
二人の若者の試合が始まった。
観客はかたずをのんで見守ったが、試合はあっけなく終わった。
若者の蹴りが、漁師の首元に入り、もんどりうって漁師の若者は倒れ、首を抑えて呻いていた。

日向の諸県 (六)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(37)

当時、相撲は倭国の各地で行われていた。
『日本書紀』には、垂仁帝の時代に出雲の野見宿禰(ノミノスクネ)と当麻蹴速(トウマノクエハヤ)の相撲ぶりを記述してある。
試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。
しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸・武術であったことは明確である。
『古事記』の垂仁記には、初めて「力士」(チカラヒト・スマヒヒト )の文字が現れる。
相撲は、日本古来の神事や祭りであり、同時に武芸でもあり武道でもある。

今回の相撲では、ライキの予想とおり、コウと呼ばれている若者が勝利した。
諸県王の前に進み、その場に正座して、頭を下げ、勝利者の挨拶をした。
諸県王は、褒美として、刀剣を与えた。
その儀式が終わって、元の席に戻ったコウに、ライキが近づき尋ねた。
「大したものです。名はなんと申すか。」
「はい、南郷のコウと申します。」
「変わった名であるが・・・、どこで武術を学んだ。」
「はい、朝鮮の百済より一族で渡来してきた者でございます。武術は、父より教わりました。」
「なるほど、朝鮮の武術か。刀剣の技はどうか。」
「はい、多少は習っておりまする。」
 コウの住む南郷は、現在の宮崎県美郷町一帯の呼び名で九州山地の中にある自然豊かな所で山に囲まれた小さな部落である。
朝鮮半島で、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。
百済は中国北部にいたツングース系夫余族が朝鮮半島に南下して建国した国で、この物語の当時は、北の大国、高句麗が南下してきて、国境を侵しつつある。
特に最近になり、朝鮮半島の政治情勢が不安定になったため、数多くの朝鮮人たちが倭国に逃れて来ていた。
コウは、この当時の第11代百済王、比流王(ヒリュウオウ)に繋がる名門の氏族だという。詳しくは語りたがらないが、兄弟同士での王位争いに巻き込まれ、百済におれなくなり、父の代に倭国に新天地を求めて一族で移住してきた。
コウはただ強いだけでなく、身のこなしの素早さや無駄の無さなど、他の若者とは別次元の強さを持っていた。
ライキも武術の達人であり、剣の扱いには多少自信があるが、素手ではコウに勝つ自信はない。
コウの歳を尋ねると、十八歳だという。これは、いい若者が見つかったとライキは喜んだ。もう一人の漁師の若者もその怪力は、人並み外れており、鍛えれば強くなることは間違いない。
「これは、ちょうど良い。」
自分がこの土地で、あれこれと来たるべき時に備えて準備しなければならないし、イソラ王子の側に居れないから、代わりに彼ら二人をイソラの警護役として仕えさせようと思いついた。
この考えを諸県王に告げ、それは良い考えだということで、イソラにも報告した。
イソラも素直に喜んだ。

こうして、相撲神事は終わったが、その他の参加者全員は、ライキの部下として、鍛えることになった。
その三日後、いよいよイソラは、新たな配下、コウとユウトを従えて、大船に乗り込み、日向の諸県を後にした。
ライキは、別れを悲しんでいる暇はない。
イソラの壮大な計画のためには、なんせやらなければならないことが多すぎる。
今度、イソラと会える日までに、彼らに武術を教えながら、船大工を求めて各地を歩き、大木を山が切り出して、船を造らねばならない。
それも普通の小舟ではなく、水上での戦いを考え、新たな軍船ともいうべきものを考えなければならなかった。 水軍とか軍船という言葉は、スクネからイソラが言葉で聞いただけで、具体的な設計図はない。ライキが自分で想像して、一から造りださなければならない。
考えただけで「血沸き肉躍る」という感じで、その仕事に没頭した。
ライキは結婚後、諸県王の屋形の一角に小さな「つま」という小屋を作ってもらい、そこで姫とむつまじく過ごしている。
イソラと共に、あの日龍神を見てから、自分の人生も大きく変わった。
後ろから激流に押されるような勢いで、日々新しい興奮が押し寄せてくると感じていた。

大隅隼人

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(38)

イソラの大船は、大隅半島を周り、現在の鹿児島湾の中に入り、その北部にある大隅隼人の大隅国を目指す。この海路は、外洋を黒潮の流れと反対の方向に行くために、波も荒く、高度な航海技術が要求される。 間違って外洋に出すぎれば、黒潮に捕まり、四国から南紀まで流されてしまう。黒潮の反流を利用し、沿岸近くを航行するが、岩場とか浅瀬が多いため細心の注意を要する。
新しく配下となった漁師のユウトにとっては日向の海は自分の庭の様なところであり、水先案内人として大いに役に立った。
ユウトは、コウに相撲で敗れたことを、非常に悔しがり、「俺にも足技を教えてくれ」とことあるごとに船上で、コウに相撲を挑んでいた。
元々、大柄で力には自信がある。これで武術の技を覚えれば、直ぐにでもコウを追い抜き、十人力の力士となると思われる。
周りの船乗りたちも、笑いながら見守りながら、楽しんでいた。
阿曇族の船乗りたちは、元々小さいころから武術を学び、剣や鉾も使うことができる。彼らの中にも、腕に覚えのある者が多く、相撲も強い。コウもまだまだ彼らには勝てない。
航海は危険が多く、いつ何時、海賊に襲われるかもしれない。阿曇族は日頃から鍛えている。
特に、「大亀」の乗組員は、一族の中から選ばれた勇者であり兵士であり技術者である。
この「大亀」の形も異様な大船であるが、この船を襲おうという勇気のある海賊は、倭国にはいない。それほど知られた船である。
他国とあまり仲の良くない熊襲も、阿曇族「大亀」には、手を出さなかった。むしろ宝船であり、いろいろな交易品を欲しがった。
このような大船を数多く造り、それによって各地との交易の規模を広げようというのであるから、イソラの計画がいかに大きいか分かる。
若者が二人、新たに仲間になっただけであるが、船内が急ににぎやかになり、皆が航海を楽しんでいる。イソラは、いい仲間たちに恵まれていると思った。
その後、鹿児島湾に入り、イソラは生まれて初めて噴煙を上げる雄大な山(桜島)を見た。
「なんだあれは、山が燃えているぞ。」
三人の若者は大騒ぎである。
王子と配下と言う関係ではなく、友達のようだった。
「時々大爆発をして、周囲に燃える大岩をまき散らします。灰も降ってきます。」
船長の説明に、「あれがそうか」山裾の大岩を指さしながら、イソラも興奮気味である。
「倭国も広いなあ。」
コウが、船長に聞いた。
「以前、火の山の周囲には温泉と言うものがあり、湯が岩場から湧き出していると聞いたことがあるのですが。」
「そうじゃ、この地に来たときは、まず温泉に入るのが我らの何よりの楽しみなのじゃ。なんせ体が溶けるように気持ち良くなる。しかも肌がつるつるになり、日頃の疲れも取れる、魔法の湯じゃ。」
「やったー、それは楽しみだ。」
三人の若者は大喜びである。
大隅国の港に入港している間、毎日温泉に入った。この地では、南方の諸島周辺にしかない高価なゴウホラ貝が手に入る。米との交換は、隼人族も喜ぶ。火山灰が多く、コメがあまり取れないからである。
この地には、三日ほど滞在したが、予定通り志賀島への帰路についた。

この物語とは関係ないが、この地の様子がよくわかる資料を見つけたので紹介する。
この時代の三百年ほど後、豊前の国、稲積郷から多くの民が大隅へ移住した。
その人たちは故郷の聖山稲積山にちなんで「稲積郷」と名付け霧島山の最高峰を韓国岳と名付けて聖山とし国分の上井に『韓国宇豆峰神社』を建立し郷の氏神とした。
韓国岳の頂上より韓国が見える訳でもなく、故郷を恋うる気持ちで聖山名としたのは百済より宇佐に渡来して来た人たちである証である。その人たちの大半はそのまま大隅に住み着いたと言われている。
720 年(養老4年)2月29 日、九州大宰府から大隅隼人の蜂起で、大隅国の国司、陽候史(ヤコノヒト)麻呂(マロ)がハヤトたちに殺害された事件の知らせが届いた。
ヤマト朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍として副将軍を2名立て大隅地区在住の朝廷軍と,更に宇佐や各地よりの援軍併せて約1万人の大軍でハヤト軍を攻撃したが、ハヤトは大隅・日向に7ヶ所の城をかまえて抗戦した。
城の陥落は早かったが、「比売乃城(ひめのしろ)・石城(いわき)は守備が堅く、頑固に抵抗してなかなか落城させる事が出来なかった。
岩城(国分の城山)の跡 とにかく地の利を得たゲリラ戦法に手を焼いた激しい戦いが1年数ヶ月も繰り広げられ1400人以上のハヤトたちが首を切られたり、捕虜になった。
このとき100人ものハヤトの首を宇佐へ持ち帰り、宇佐神宮より西約1キロの所に葬って凶首塚を建てた。
そのごすぐ塚の下に「隼人の霊を」祀る百太夫殿が造立されて、現在は『百体神社』として祭られている。
さらに724年(神亀元年)宇佐神宮より「隼人の霊を慰めるため放生会をすべし」との託宣があり、744年(天平16年)八幡神は和間(ワマ)の浜に行幸され、蜷(ニナ)や貝を海に放つ「放生会(ホウジョウエ)」の祭典が執り行われた。

これが始まりで現在は、毎年宇佐神宮で10月8・9・10日の3日間仲秋祭(放生会)として行なわれている。隼人町の隼人塚はハヤトの多くの亡霊が人民に祟りをするので其の霊を慰める為に造られた供養の塚だとの口伝もある。
宇佐神宮の放生会、( 宇佐神宮のホームページより )

対馬海流

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(39)

この大船には、左右七本づつ櫂が取り付けてあるが、港を出る時は、この櫂をユウトが叩くドラの音に合わせながら一斉に漕ぎ出す。大役を与えられ、ユウトも張り切っている。
コウは、船長の側で舵の切り方を教わっている。
ある程度沖に出ると、帆を張り、風の力も利用しながら進むが、イソラは風を読み、帆を張る角度を調整する。まだ、力が弱いため補助してもらっているが、船乗りらしい顔つきになっている。
新たに加わった若者たちは、それぞれの持ち場で忙しく働いていた。
何度経験しても、この出航の時は胸が高鳴る。
もうすぐ志賀島に戻るイソラにとっては、生まれて初めての航海は、一生の思い出となった。阿曇の王子としての役割が待っている。
大隅国の船着き場を離れるとき、「これで終わるのか」という想いと、「故郷に戻る」という想いが交差し、涙がこみ上げてきた。
そして、これから未知の旅が始まるという期待感もある。
物心ついたころから一緒に生活してきたライキとの別れはさびしいが、今、自分の横には、新しい仲間がいる。そして、自分を支えてくれる阿曇族の船長や頼もしい船乗りたちがいる。
今、大船は朝日を浴びて湾内を南に向かって進んでいる。
あの日、朝日に向かって手を合わせたときのことを思い出し、イソラは朝日に向かって手を合わせた。
コウが何事かとイソラの顔を覗き込んだ。コウも何か感じることがあるのだろう。黙って微笑んだ。
黒潮は東シナ海の大陸棚にそって北上し、九州南部に流れ込む。そこで九州の西側沿岸の近くを流れる対馬海流と、東に流れる黒潮続流に分かれる。この最大流速は、時速七キロにもなる場合があり、この流れを利用して、イソラの大船は航行する予定である。
湾を出ると、波が高く荒くなり、船の揺れは大きくなった。舵を西に切り、薩摩半島を離れる。そして、今回の航海で初めてイソラは「遠乗り」を経験する。
今までは「地乗り」と言って、陸地の地形を見ながら沿岸沿いに航海し、夜になると陸地に近づき錨をおろすという航海法であった。
「遠乗り」の場合は、陸地が見えなくなる沖合まで漕ぎ出し、海流の流れを利用して、昼夜を問わず一気に長距離を航行するという方法で、阿曇族がもつ「大亀」の様な大型船でないとできない。また、高波にも耐えうる丈夫な甲板を持った構造船でないと難しい。さらに高度な航海技術が必要であり、阿曇族の様な一部の海洋族だけができる技法であった。
 阿曇族はすでに中国で発明されていた羅針盤を持ち、夜間でも航行することができた。
 風の向きや天候さえ問題なければ、対馬海流に乗り、二日ほどで北部九州の松浦あたりまで進むことができる。
 ただ、海では何が起こるかわからない。
天候の急変により暴風雨が襲ってくることもある。板の下は地獄となり、船員の命を預かる船長にとっては、日々の気象を見る目が一番大切である。ちょっとした潮の匂い、風の流れ、雲の流れなどを常に監視していなければならない。これが「遠乗り」の難しいところであり、「地乗り」とは全然ちがう。
船長は、船の早さなどから、どのあたりを航行しているのかを判断しなければならない。
一番気を付けなければならないのは、岩礁などの障害物などである。船の前方に島影が見えないかどうか、昼夜を問わず監視する必要がある。
この航路を航行する場合、最初にぶつかるのが甑島列島である。
 現在、鹿児島県の串木野からフェリーで一時間半程度で着く場所にあり、北東から南西に連なる上甑島・中甑島・下甑島の三島で構成される。
新鮮な魚介の宝庫である。
「古事記」や日本書紀」によれば,南九州の隼人は海幸彦の子孫で,山幸彦との争いに敗れたため,山幸彦の子孫である大和朝廷の宮門を警護することになったといわれている。
八世紀の中ごろ,薩摩隼人・大隅隼人・阿多隼人などの小王と共に,甑隼人の小王麻比古(マヒコ)も,この小さい島から宮門警護のために僅かばかりの兵を率い,はるばる奈良の都まで上がって勤番し,その功績により,他の隼人の小王らと叙位されたという記事が残っている。

≪余談ですが、甑島には若い頃に何度も訪づれたことがあります。透明な海辺で素潜りしながらキャンプをした青春の思い出です。≫

海神の子

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(40)

対馬海流を側で眺めると、水の色が黒っぽくなり、その境界がはっきりとわかるほど違う。その黒潮の中に船が入ると、その流れの早さにびっくりしてしまう。
櫂をこぐ必要もないし、帆を張らなくても良いほど快適な航海ができた。
次の日には、島原の山々が見え、松浦から玄界灘へと入ることができた。
コウが遠く朝鮮半島の方向を眺めていた。ユウトがそれに気づき、話しかけた。
「コウの故郷が近くなったな。百済に帰りたいとは思わないのか。」
「いずれはな、故郷に戻りたいと思う。しかし。ユウトよ、お互いわからないものだな。」
「何が?」
「一月ほど前の自分が、今このような場所にいるということを想像できたか。我は、百済を追われるように倭国にのがれ、このまま山奥でひっそりと一生を終えるのかと思っていた。相撲の話を聞いたときは、閃くものがあった。」
玄界灘を見ながら、コウは言った。
「確かに、まさかこのようなことになるとは、今でも信じられない。ちょっとしたきっかけで阿曇族のイソラ王子と出会い、自分の運命も大きく変わった。一生、漁師として生活していくことしか考えたことはなかった。」
「あの相撲の場所で、初めてイソラ王子を見たとき、初めて会ったような気がしなかった。王子は光り輝いていた。それからあっという間、そして今ここにいる。
・・・新しい何かが始まる予感がするのだ。そして、イソラ王子と共に百済に戻る日が来るような気がする。」 コウはそう信じている。
「そうそう、我も感じた。イソラ王子とは、出会うべくして出会った。そして我ら二人は生涯をかけて、イソラ王子を護るのが運命であると感じている。王子の側に居るだけで楽しくなる。我らより歳は幼いが、我らよりも大人だ。それは間違いない。」
ユウトも信じていた。
「ライキ様も言っておられた。イソラ王子は海神の子であり、未来を見ることができる龍神の目を持っていると。そして、王子を自分に代わって護ってほしいと言われた。」
「なるほど、その海神の子に仕える我々は、海神の使いということになるな。」
「そうかユウトはなかなか賢い。我らも偉くなったものだ。」
二人で大笑いした。
志賀島はすでに春に近づいている。島の梅もほころび始め、海の匂いも変わりつつある。久しぶりに見る湾内の景色は、安らぎで満ちていて、すべてが懐かしい。 イソラはずいぶん長い間、旅をしていたような感覚であった。
志賀島に帰りついてからの数日間は、イソラはまだ海の上にいるようにまどろんでいた。
これから、学ぶべきこと、すべきことが多すぎて、何から手を付ければよいかわからないような感じである。
ただ、龍神の目だけは、輝いていた。

---立志編、終わり。

≪参考資料≫
この物語を書くにあたり、調べてみた。
「阿曇磯良(アヅミノイソラ、安曇磯良とも書く)は、神道の神である。
海の神とされ、また、安曇氏(阿曇氏)の祖神とされる。磯武良(イソタケラ)と称されることもある。阿曇磯良は「阿曇磯良丸」と呼ぶこともあり、船の名前に「丸」をつけるのはこれに由来するとする説がある(ほかにも諸説ある)。宮中に伝わる神楽の一つ「阿知女作法」の「阿知女(アチメ)]は阿曇または阿度部のことである。」と書かれてあった。
「神道の神」というのは、実際に神社に祀られているということであり、志賀海神社(福岡県東区志賀島)、和布刈神社(福岡県北九州市門司区)、穂高神社(長野県南安曇郡穂高町)などである。その他、磯良神を祀るその他の神社は、八幡古表神社(福岡県筑上郡吉富町)、磯良丸神社(風浪宮摂社・福岡県大川市大字酒見)、志賀神社(対馬下県美津島町)等、全国にある。
阿曇族の「祖神」と言われるのは、この物語の主人公、イソラの代に阿曇族が歴史に登場するほどの発展をしたということであろう。
一地方の豪族であった阿曇族が、日本有数の氏族となるのである。
また、磯武良(イソタケラ)のように「武」が入るのは、その一族が武力を有していたということを表していると思う。
船の名前に「丸」をつけるのは、それほどの多数の船を持っていたということを示している。
以下、想像であるが、この「丸」とは、潮を操る霊力を持つというあの潮盈珠・潮乾珠の「丸」を阿曇族の紋章として使用したのではないかと思っている。
龍神を操る「赤玉」の事かもしれない。
また、イソラは後の天皇家とも関係が深かったというので、「阿知女作法」という神楽が残っていると想像する。
この「阿知女作法」について調べてみると、「宮中 及び神社等で歌われる神楽歌の一つ。本来は、神の降臨を喜び、神聖な雰囲気を作るためと思われる一種の呪文。」と書かれてあった。
意味はよくわからないが、古代シャーマンのメカニズム、人格転換(トランス)憑霊 (ポゼッション)脱魂(エクスタシー)の三要素の、習合性を思わせる。