志賀高穴穂宮

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(31)

大船を降りたスクネの一行は、途中まで小舟で川(現在の淀川)を上り、その後は徒歩で大津を目指した。二日ほどの行程である。
現代の滋賀県大津市穴太(アノウ)に、高穴穂神社がある。
祭神は景行天皇である。
伝えでは景行天皇が高穴穂宮に遷都の後、次の成務天皇が先帝の遺徳を偲び宮中に前王宮として祀ったのが始まりという。そのことから、本殿の背後には高穴穂宮の跡碑が建つ。
この地に、成務帝がいる志賀高穴穂宮(シガノタカアナホノミヤ)があった。
スクネにとっては、当然生まれて初めての土地であり、誰も知り合いもいない。
この地で官として帝に仕えなければならないというのは、どんな気持ちだったのだろう。
宮殿に到着したスクネは、警備の者に身分を名乗り、宮殿の中に入った。
まだ、造営されてから五年ほどとか経っていなかったし、新しい宮殿ではあったが、思っていたよりも規模は小さかった。むしろ、奴国の屋形のほうが大きいかもしれないとスクネは思った。
その後、物部の大臣に拝謁して、今後の住まいなどについての指示を受けたものと思われる。
スクネの奴国は古くからの大国であり、名門の一族である。九州では、かなりの勢力も実力もあったはずで、このヤマトの地でも知られていた。その奴国の王子ということで、それなりの待遇が与えられたものと想像する。
次の日、成務帝に拝謁することになり、宮殿に上がり、拝殿に案内された。
しばらくして、帝が拝殿に入り、高御座(タカミクラ)に座った。前には、簾があり、帝の姿ははっきりと見えない。帝と直接会話を交わさず、侍従(ジジュウ)が取次ぎする。
スクネは、お辞儀をしたままである。
付き添った大臣が初めに口上を述べた。
「帝の配下として勤めるために参りました。奴国の王子、武内宿祢でございます。」
「顔をあげよ。」と帝が言われた。
侍従は、あわてて「顔をあげよ」とスクネに言った。
普通は、帝に直接話しかけるということはない。
スクネは顔をあげ、帝の方を見た。
もちろん、簾で顔はよく見えないが、声の印象は悪くない。優しそうな声である。帝もこの若い王子に興味を持たれたようであった。
侍従に対して、「よい、直答を許す」と言われ、スクネに対して直接言葉をかけられた。
「このたびはご苦労である。なかなか、聡明そうで良い顔つきをしている。今幾つになる。」
どうすればよいのか、スクネは戸惑い侍従を見たが、侍従がうなづいたので帝に答えた。
「はい、今年十五になります。」
この時、成務帝は二十六歳で、周りに自分と同じような若い官吏が少なかったからかもしれないし、景行帝の時代からの侍従たちが多く、彼らとは話が合わなかったのかもしれない。
成務帝はまだ若く、即位してから三年しか経っていない。
父ほどの実力はなく、臣(オミ)たちの合議制のような形で政務がおこなわれていた。
不満を抱えていた。そして自分が直接指示できる直属の官吏を求めていた。
それに、九州の有力な氏族である奴国が、自分の後ろ盾になるというのは心強いはずである。
「そうか、朕のために励んでほしい。」
後で帝は、スクネが自分と同じ誕生日ということを知り、たいそう喜ばれたと史書に書かれてある。
こうして、スクネのヤマトでの務めが始まった。
ヤマトの連合政権を支えた政治組織は、氏姓制度と部民(ベミン)制度であった。
すなわち、氏(ウジ)はヤマト朝廷に服属した中央・地方の豪族集団で、その氏上(ウジノカミ)(族長)は、氏人(ウジビト)を統率しながら、氏の代表として朝廷の政治に参与した。
氏上には、その地位の上下によって、臣(オミ)・連(ムラジ)・公(キミ)・造(ミヤツコ)・直(アタイ)・首(オビト)などの姓(カバネ)が与えられた。
また氏上は、隷属民である部民を従えていた。
部民は、氏上の支配のもとで、集団的に居住し、農業・漁業などの自営的な生活を営みながら、氏上のために貢納し、賦役(フエキ)を提供した。
部民制度は、ヤマト朝廷の全国支配が強化されるのに伴って発達し、手工業的な専門職業団体として中央の豪族に率いられたり、あるいはヤマト朝廷の直属の部民として、皇室に生活の資を貢納する農民になったりした。
武内宿祢という名が初めて史書に現れるのは、「第12代景行天皇の時に北陸・東国を視察して、蝦夷の征討を進言した。」という記事である。
もちろん、この物語のスクネとは別人で、先代の奴国王の事で、スクネの父は氏上として、朝廷の政治に参与していた。
その奴国王が、自分の後を継がせるスクネに氏上として、政治に参与せよというのが、今回の物語の始まりとなった。
この物語の三年ほど後に武内宿祢の名が再び史書に現れるが、それがスクネ本人である。

日向の諸県 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(32)

スクネが志賀高穴穂宮で、成務帝に仕え始めた頃、イソラが乗った大船は、瀬戸内の海から豊後水道を抜けて、日向を目指していた。
日向の諸県郡(モロカタグン)は、古代律令期から明治初期まで日向国南西部一帯に存在した。この地にある西都原古墳群は畿内の天皇陵に匹敵するほどの規模であり、ヤマトと同世代の前方後円墳が大量に作られている。これだけ見ても、ヤマトとの関係の深さがうかがわれるが、当時ヤマト王権の支配は及んでいないというのが通説である。 しかし、この地が天皇家の初代である神武天皇の東征の出発点になっている。
隼人の地が、ヤマト王権の発祥の地という記紀の記述は何を表しているのか、謎である。
もしこれが本当ならば、隼人と関係がある一族が、近畿のヤマトに移住していったと考えるほうが自然だと思うのだが・・・。
日本書紀によると、景行天皇九州平定時に、皇子豊国別(トヨクニワケ)を残し、その子孫が日向国造や諸県地方の県主である諸県君となったとされるが、これも時代が合わない。この後、ヤマトの勢力圏に入ったという説話だからである。
この天皇親征について、なぜか古事記には一切記されていない。日本書紀のほうが政治的色彩が強く感じられる。 南九州には、この諸県王のほかに、隼人族の何人かの有力な王がいる。大隅半島の大隅王、薩摩西部の阿多王、球磨川流域の球磨王などである。
これらの国々は緩やかな連合体を維持していた。
中九州には、強大な国家、菊池地方を本拠地とする狗奴国がある。この王国の王が、熊襲タケルである。
なお、阿蘇地方の阿蘇氏は、阿蘇山の神への司祭的立場にあったものが豪族化したもので、熊襲は阿蘇神社を信仰していた。
それに対し北九州には、卑弥呼がいた邪馬台国があった関係もあり、それぞれ独立国であってもヤマトの王権とは親しい関係にある。
北九州の有力な王は、筑紫王として君臨している水沼の君のほかに、遠賀川流域の岡王、 博多の奴国王、糸島半島の伊都国王、松浦半島の松浦王などが有力な氏族であり邪馬台国連合体を維持していた。
熊襲と北九州の邪馬台国連合は、以前から仲が悪い。
どちらも中国系の移民団が住み着いた場所で、南方の呉と関係が深かったのが熊襲であり、北方の魏と関係が深かったのが邪馬台国である。
なお、隼人は、琉球の島づたいに移住してきた南方系の人々である。
肥後と接している筑紫の水沼の君などは、ことあるごとに菊池川を渡り、熊襲と小競り合いをしていた。それに対して、熊襲も負けてはおらず矢部川あたりまで進出してくることもあった。
北九州の各国は、隼人族の国々とは良い関係を保っており、奴国王や阿曇族のイソラにも隼人の血が流れている。
阿曇の大亀は、隼人族にとっては、いろいろな各地の珍しい宝を運んでくる宝船そのものであり、ヤマトの最新の情報をもたらしてくれる。
特に朝鮮半島の情勢が不安定化しており、戦乱を逃れて多くの渡来人たちが、この日向の南部に、現在の日南市あたりに大勢移住してきていた。
朝鮮半島では新興国新羅の勢力が強くなり、伽耶諸国を圧迫し始めていた。
北九州の各国は、伽耶諸国に住む倭人たちと一緒に、新羅をけん制すべく兵を出しているが、一進一退という状況であった。
ヤマトの王権は西方の百済と親しく、新羅をけん制しているが、朝鮮半島を南下しようとしている高句麗に対峙するだけで精一杯であり、朝鮮半島は微妙なバランスでかろうじて安定を保っているような状態である。
南九州の隼人族にとっても朝鮮半島の人たちが移住してくるということは、自分たちの土地を奪われるということにもなる。
北九州の各国は。先進地であり人口も多く、移住者を受け入れることができる土地が少ない。また、熊襲の狗奴国は、もともと移住者を受け入れてくれるような国ではないため、追い出されるように、南九州に来ていた。
隼人族と渡来人たちの間で、いろいろな諍いが起こっていた。
稲作をするためには、水が必要である。灌漑設備を整備する必要があるが、その水には限りがある。渡来人たちは、隼人族が住まないような不便な山辺に住み、開墾するしかなかった。

日向の諸県 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(33)

イソラの母の故郷には、叔父叔母など多くの親戚が住んでいて、イソラ王子を今か今かと待っていた。
イソラの乗った大船が、ドラを鳴らしつつにぎやかに諸県の港(現在の宮崎県国富町)に入ってきた。
続々と港に人々が集まり、大船を出迎えた。
「阿曇のイソラ王子が来られたぞー。」
この航海で、イソラは海の男として一段と逞しくなっていた。
・・・海の大王となる。
その内に秘めた志がそうさせるのか、顔の表情にも自然と威厳が具わり、人を引き付ける魅力にあふれていた。
小さいころからイソラを見ているライキは、この半月ほどでのイソラの成長ぶりを肌で感じている。船の操縦法を船長から学び、帆の張り方も覚えている。特に潮の流れを見るのは、天才的なほどで風を読むことについても、ほとんど間違わないようになっていた。
発する言葉は自信があふれているし、男児から青年に変わりつつあると感じた。
 そして、この明るさは誰からも好かれていた。
大船を出迎えている諸県王にとっては、可愛い孫である。初めて孫の顔を見ることができるとあって、船着き場まで出てきていた。
 大船が見え、船先に立っている凛々しい姿の男児を見たとき、諸県王は孫のイソラであることを確信し、不覚にも涙がこぼれた。
 イソラもわかったらしく、大きく手を振った。
大船を降りたイソラ一行は、出迎えた諸県王に挨拶をした。
「イソラよ、よう大きくなったな。凛々しくたくましい隼人の青年だ。父は誇りに思うぞ。」
「初めてお目にかかります。阿曇のイソラです。」
・・・その声がさわやかで、頼もしい。幼いのに大王の風格をお持ちだ。諸県王の周りにいた部下たちも、噂話をしていた。
イソラとライキ、船長らは、その後そろって屋形に入った。
ライキは日向の諸県には三度来ていて、今度で四回目、二年ぶりである。
諸県王にとっては、兵士としても武術にすぐれ、優秀で頼もしい期待の青年であり、特別の接待を考えていた。
その日の夜、屋形では宴会がおこなわれた。
諸県王とイソラが並んで上座に座り、その右側には諸県の一族がほとんどすべて集まっていた。左側に船長、そしてライキたちが座っている。
「今宵は、無礼講じゃ、大いに飲もう。」
諸県王の音頭で宴会が始まった。イソラの前に、叔父叔母という人たちが次々と挨拶に来ていた。
イソラはまだ酒が弱いため、形だけの酌を受け、返杯をしていた。側の侍女が酌をする。
船長やライキたちの側には、一人づつ侍女がつき、お酒の酌を始めた。
ライキのそばにいる侍女は、白い上衣に、赤・黄・緑などに染められた裳をまとい、ヒスイの首飾りをしている。
明らかにただの侍女ではない。
諸県王がイソラに何やら耳打ちし、ライキの方を見て微笑んだ。
その時ライキは、酌をしようとしている侍女を見て、その美しさに目を奪われていた。
「私は諸県王の娘でございます。お酌をさせていただきます。」といって微笑んだ。
「そうですか、阿曇のライキです。」と思わず名を名乗ってしまった。
「以前から存じております。ライキ様、私の顔をお忘れですか。」と姫は微笑んだ。
そういえば、顔に見覚えがある。二年前はまだ少女であり、他の子供らと一緒に遊んだことがあった。海辺にて、モリで魚を突いて捕ってあげたことがある。確か浜で一緒にその魚を食べた。
「すみません、あまりに・・・」、美しくなって見違えたという言葉を飲み込んだ。
姫は、ライキの耳元に顔を寄せ、ささやいた。
「諸県王より、今宵は伽をするように言いつかっております。」
これまで、女性を知らないというわけではなく、それなりの経験はしているが、不覚にもドギマギして、酒をこぼしてしまった。
「これはすまぬ。姫様、ご冗談を・・・」
姫は、思わず声を出して笑った。
「私では不服でございますか。断られるとなると、諸県王よりおとがめを受けることになります。ライキは私が嫌いですか。」、いたずらっぽい声で尋ねた。
「いえ、とんでもございません。とてもお美しくなられ、見とれておりました。」
「ライキは私が嫌いですか。答えてください。」
「姫、どうか悪ふざけはおやめください。お願いでございます。」
「答えよ」
「・・・好きです。」
姫は、父の方を見て、ニコッと笑い、なにか合図をしたように見えた。
「ライキよ、わが娘との婚姻を許す。」
諸県王とイソラは、それとなく二人の会話を聞いていたらしく、ライキに向かって諸県王が言った。
一族の者すべてが、「おおっ、これはめでたい、めでたい。」と言って祝った。
琴が鳴らされ、舞が始まった。
いったい何事が起ったのか、ライキには訳がわからない。イソラの方を向いて助けを乞うたが、イソラも聞いていたらしく、大喜びであった。もちろん、以前から好意をいだいていたのは事実だし、悪い気はしないが・・・。
たちまち、二人が主役になった。
一晩中、宴会は続いた。

日向の諸県 (三)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(34)

縄文、弥生時代を通じて、日本人は竪穴式の住居に住んでいた。縄文時代の竪穴住居はその規模からして3人ないし6人ぐらいが居住し、それらが数個集まって集落(部族集団)を作っていた。
弥生時代には集落の規模はやや大きくなり、縄文時代の採集文化と違って稲作が中心とはなるが、集落の構造と機能は基本的に変わりなかったものと思われる。
この集落は、成員の生産や日常生活の拠点となっていた。集落の成員は独立した財産を持たず、集落に全面的に依存しながら生きていた。
つまり今日思い浮かべるような家族的な単位は、ほとんど社会的な意味を持たなかったのである。
こうした社会にあっては、最小単位としての親族集団の中で、母親の果たす役割が圧倒的に強かったと思われる。集団の中では母親が中心となって共同体の活動にかかわった。財産というものがあるとすれば、それは母から娘に伝えられるのが普通だった。
古代日本における婚姻の基本は、男が女を見初めて女のもとに通う、あるいは女の家族が男を迎え入れるといったことを基調としていた。
つまり女を中心として婚姻が成立していたのである。
万葉集のなかには庶民の生活感情を歌った歌が多く含まれているが、それらを読んでまず感じることは、男女の性愛が極めて自由なことである。
女は気に入った男に対して極めてあけすけとものをいっている。男は気に入った女のもとに、しげしげと足を運ぶ。男女がはれて結ばれるに際して、最も影響力を及ぼすのは女方の母親の同意のようである。
女はいつも母親の目を気にしながら男と会う、そんな光景が思い浮かんでくる。
通い婚の場合、新婚早々には男は足しげく女のもとに通った。
しかし女が妊娠したり、あるいは男に他の女ができたりして、その足が遠のきがちになることもあった。
こうした場合、結婚は自然と解消され、女は他の男と再婚することもできたようだ。
古代には、男の女に対する責任がきつく問われなかったかわりに、女のほうにも相応の自由が保障されていた。
もちろん、王族の場合は、例外で、部族と部族の政略結婚が一般的であり、その場合は妃は親元を離れて夫の屋形に入る。
神功皇后の母、葛城高額姫の場合がそうである。
古事記の中に、山幸彦(火遠理命)が海底で海神の娘豊玉毘賣命と結ばれ、結婚式の執り行われる様子が描かれている。
豊玉毘賣命は自分の意思で山幸彦と結ばれた後、父親に男を紹介して承諾を得、その上で晴れて婚礼の儀が執り行われている。
海神は婿を高い座に座らせ、「百取の机代の物」つまりさまざまな料理でもてなし、改めて「婚」すなわち性交を許している。婚礼の後、山幸彦は3年間女の家に同居する。
また丹後国風土記には、浦嶼子(浦島太郎)が海底の宮で亀姫と結ばれ、その婚礼には女方の父母はじめ親族や近隣のものも加わって結婚を祝っている様子が描かれている。
この二つの神話に共通するのは、男が女と出会い、女の家族に迎えられて婚礼の儀が行われ、晴れて夫婦となることである。
婚礼に男側の家族は参加していない。あくまでも、娘に迎えた婿を、女の親が親類知人に披露するという体裁をとっている。
これは古代における日本人の結婚のあり方を、それなりに反映しているものと思われる。
古代社会においては、男が女のもとに通う通い婚や、女方の家族と同居する妻方同居婚が支配的であった。
だから、結婚式たる婚礼の儀も、これらの神話に描かれたように、女の家族が中心となって行われたと思われる。
結婚後、互いの関係が安定するまでのいわゆるハネムーンに相当する期間、新婚の夫婦は女方の家の一角に小さな小屋を作って、そこでむつまじく過ごした。この小屋を「つま」という。
配偶者の「妻」という意味ではなく、母屋に対して端(ツマ)にあるという意味から出た言葉である。男がここに通ってくることをだから、「ツマドヒ」(妻問)といった。

日向の諸県 (四)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(35)

ライキにとっては、突然の出来事であったが、諸県王は以前から、このことを計画していて、すでに阿曇王とも話はついていた。
自分の可愛い孫を常に守ってくれているライキについては、以前から身内のように接していたが、自分の娘と結ばれれば、名実ともに真の一族になる。阿曇族との絆もさらに強くなる。そして、我が孫は、もっと大きな存在となると信じていた。
時代が大きく変わろうとしている。
次の朝、イソラはライキに言った。
「これで、ライキは私の叔父になるのか。叔父上、これからもよろしく。」
ライキは何も言えない。昨夜の甘い感触がまだ残っており、まだ夢心地である。
イソラの言葉に、図らずも微笑んでしまった。
「ライキに折り入って頼みがある。」
イソラは改まってライキに言った。
「私は、スクネ様と約束した。スクネ様に陸の大王になってほしいと頼んだ。そして、私は海の大王になると言った。そして、本当にそのようになる気がするのだ。」
「それは素晴らしいことです。それこそ、ライキの願いでもあります。」
「ライキ、あの日の出来事を覚えているか。」志賀島でのあの出来事である。
「はい、忘れたことはありません。」
「確かにあの時、我ら三人は龍神を見た。いや、若い女王のような人が我らを見ていたように感じたから四人だ。あの日から、何かが始まったような気がする。そして、その流れに乗り、私にとって夢のような日々が今も続いている。」
言われてみれば、ライキも同じように感じていた。そして、スクネ様とイソラ王子は、深い絆で結ばれていると確信している。
「確かに、イソラ王子はどんどんと変わられています。体つきも逞しくなられましたが、特に目の輝きが増しました。そう、まるで龍神の目のようです。」
「スクネ様と別れる前日に、スクネ様にも言われた。イソラは龍神の目をしていると。
私は私であり、何が変わったかわからないが、海の大王という言葉がなぜか気になり、スクネ様に尋ねた。海の大王とは、どんなことをするのですかと。」
「イソラ様は、意味も分からずに言っていたのですか。」
なるほど、そのあたりはまだ子供である。
「この海には国もなく境界もない、倭国も朝鮮も中国もなく海全体が一つの国だ。イソラはこの大海の王となるのだ。海に生きる民すべてのために、人と物とを繋ぎ、お互いが豊かで平和に暮らせるような海の王国を創ることがイソラの仕事だと。」
「そうです、それこそが阿曇族の夢でございます。」
「そして、スクネ様は、陸の王者になると言われた。倭国全体が一つの国になればよいのだといわれた。そうすれば国同士の争いもなくなる。民が苦しむこともなくなる。
そのような国を創りたいと言われた。そして、そのためには、倭国の国の制度を元から変えたいと言われた。」
「国の制度を変えるとは?」
「それは我にも解らぬが、何やら竹簡にいろいろと具体的に書き留められていた。スクネ様はきっとやり遂げられると信じている。我らも負けずに、準備をはじめなければならない。」
「それで、まず何をすればよろしいのでしょうか。」
「スクネ様は、難波津と日向、志賀島を結ぶ瀬戸内の航路全体を阿曇族が支配することから始めればよいと言われた。そうすれば安心で安全な海の王国になると・・・。」
「なるほど、そういう考え方はしたこともありませんでした。」
「この日向の地は、土地も広く豊かで作物も多く採れる。この作物を難波津に運べば、莫大な富になると言われた。私もそう思う。船を使って交易をもっと活発にするのだ。さらに日向の山には大木が多くある。交易のための船を作るには最良の場所だ。」
どうやら、イソラはスクネにこれからすべきことをいろいろと教わったらしい。
十歳の子供にしては、きちんと将来を見る目があり、ライキが考えたこともないようなことを考えている。
確かに龍神の目を持っていて、いつの日か天上へ駆け上がるスケールの大きな人物である。
ライキはますますイソラが好きになった。
「この日向の地で、勇敢な隼人の若者を鍛えて、水軍を作りたい。」
「水軍?」
「そうだ、海賊から海を守るために、弓矢と武術を使え、船を自由に操作できる海の兵士が必要だ。その兵士たちを水軍としてまとめるのだ。中国にはすでにあるらしい。これもスクネ様に教えてもらった。」
この地で婚礼を上げたライキは、諸県王の要望もあり。これから三年ほどは、この地に残らなければならない。一族のために隼人の子供をつくる役目もある。
騙されたような形で、妻を得ることになってしまったが、ライキはこれも運命だと感じていた。”我はイソラ王子のために生きる”と決めていた。
「私は、常に王子の側にいたい・・・。」
「我もさびしいが、毎年この地に通ってくることになる。その時には会える。」
しばらく、沈黙が続いたが、「わかりました」と言って、眼に涙をため、ライキは頭を下げた。