息長足姫 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(25)

すでに景行帝は崩御され、成務帝の世になっていた。
都は志賀高穴穂宮(シガノタカアナホノミヤ、現在の滋賀県大津市穴太)にあり、琵琶湖の南西部にある。景行帝は行幸され、そのままその地を宮とした。交通の要所であり、浪速や三輪まで徒歩で一日程度の距離である。
なお、息長氏の本拠地は琵琶湖の東北、都とは琵琶湖の対岸にある。この地とも、一日程度で行き来できる距離にある。

タラシ姫は、すくすくと成長している。この年十歳になった。
男勝りの童女であり、葛城のヒダカとともに狩りに出かけたり、侍女のイトとともに一日中、湖で魚釣りをしたり、野山を駆け巡るのが大好きであった。
ただ、イト以外の息長氏の侍女たちにとっては、扱いにくい童女であり、あまり好かれていなかった。
父、息長宿禰王も、この姫が特別な能力を持っているということに気づき、他の子と違って特別に目をかけている。タラシ姫に頼まれると、どんなことでも嫌と言えない。
この頃になると、息長宿禰王の娘のタラシ姫には、巫女としての特別な力があるということが、一族の中でも知れ渡っていた。
それが評判になるような出来事が、この年の春に起きた。
侍女のイトたちとともに、東の小高い山の麓まで、山菜を取りに出かけたときの事であった。
姫が突然立ち止まり、北西の山の方を指さして言った。
「海辺に人がいて助けを求めている。」
急に何を言い出すのかと侍女たちは困惑して、互いに眼を見合わせた。
山向こうの海岸まで、歩けば一日はかかる。
「姫様、海辺に人が見えたのですか? 助けを求める声が聞こえたのですか?」
イトが問うた。
「そうじゃ、私に助けを求めています。困っています。童女もいます。助けてあげたい。」
「しかし、山向こうまで、一日かかりますし、私どもが行っても、その地にたどり着くまでに日は落ちてしまいます。一度、屋形に戻られ、警備の兵士を行かせてはいかがでしょう。」
 周りの侍女は、困惑して固まっていた。
いつもながら、わけのわからないことを言うが、そういう時の姫は、目がつりあがり、童女らしくない怖い表情をしている。
姫は山を見つめながら少し考えていた。
目をつむり、何かをぶつぶつと話しかけていた。しばらくして、「わかりました」と独り言を言った。
イトの方を向いて、微笑んだ。
「近いうちに尋ねてくるでしょう。さあ、戻りましょう。」
この話は瞬く間に侍女の間に広まったが、イト以外、その話を信じる者は誰もいなかった。「山の神の仕業でしょう。」という話でその場は収まった。
その日から、三日ほどしても、人が尋ねてくる様子はない。
イトは気になり、姫に尋ねた。
「姫、先日のご神託の件なのですが、海辺の人たちは、どうしているのでしょうか。」
「あの時、私には見えたし、声が聞こえた。感じたままを述べただけだ。」
「実は、このことが息長宿禰王の耳にも入り、ご心配されています。もし間違いであったとすれば、父の威光にもかかわると・・・。」
「だれか、周りの者が言っているのであろう。イト気にするな。
昨夜、心配しなくてもよいから、この地を訪ねて参れと伝えておいた。きっと来る。」
イトにとっては大切な姫であり、姫が言うことに間違いないと信じているが、可愛げない童女であると、一族の者にはあまり快く思われていないし、息長宿禰王にかわいがられているというだけで、他の子供たちの嫉妬も受けていた。
「王の耳にも入っているとすれば、ただの間違いでは済まないかもしれない」とイトは心配していた。
間違うこともあるだろう、少し言葉に気をつけるように言っておこうと思い、息長宿禰王は、その日の夕方、タラシ姫を屋形に呼んだ。
なぜ父に呼ばれたのか、タラシ姫は知っていたが、平静な表情であった。
お辞儀をして父の前に正座した。
「姫、そちの母もかつては巫女であったが、そちも巫女になりたいのか。」
「別になりたいと思ったことはありません。」
「しかし、海辺に人がいるというご神託を下したと聞いたが・・・。」
「はい、そう感じました。」
「なぜ・・・」と言いかけたとき、「大王、大王」と言いながら警護の兵士たちがバタバタと屋形の庭に入ってきた。 「何事だ」と、側の者が声をかけた。
「異国の者たちが、救いを求めてまいりました。」
まさにタラシ姫のご神託が当たったということで、周りの者たちは驚き、顔を見合わせた。
「父上、彼らは飢えています。決して我らに害を及ぼす者たちではありません。どうかお助けください。」と姫は言った。

息長足姫 (三)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(26)

異国人たちは、伽耶(朝鮮半島の中南部プザン周辺)の住民であった。
当時(わが国の考え方では)、その地域は倭国の一部であり、倭人たちも多く住んでいる。彼らも倭国語が話せる。
 ある日、新羅が村に押し寄せ、それを逃れるために船で海に漕ぎ出して逃げたが、故郷に戻れず、漂流して倭国に流れ着いたという。
海流に乗れば、日本海沿いに自然と若狭湾にぶつかり、敦賀の浜にたどり着く。
 兵達と共に、数人の異国人たちが庭に入ってきて、正座した。
身なりもみすぼらしく、着の身着のまま逃れてきたというのがわかる。
一行の年長者が、息長宿禰王に拝した。
「王様、私どもは、何とか無事に海辺にたどり着くことができましたが、これからどうするか途方に暮れておりました。すると昨夜、夢に童女が現れ、湖の方へ参れと告げられました。それで湖を目指して山を越えて参りましたら、この屋形が見えました。それで、助けを乞いたいと参りました。」
そして、話し終わって屋形の中を見て、「アッ」と声を出した。
タラシ姫の顔が見えたからで、驚いて頭を下げ姫を拝んだ。四十歳前後の年長者の夢に現れたのは、タラシ姫に間違いなかった。
姫は優しく微笑んでいた。
巫女としてのタラシ姫の存在感は一挙に高まった。
異人たちは、漂流して海辺に着いた後、土地の豪族に食を求めたが断られ、追われるように山を越えて歩いてきた。近江の王に頼るかどうかは一種の賭けであった。
彼らは、朝鮮半島の進んだ技術を持っていたので、息長宿禰王は保護することに決め、彼らを優遇した。
彼らは朝鮮半島の新しい情報を生々しく伝えた。
朝鮮半島東部には、新羅という国家ができ、北部の高句麗は南下してきてソウルを都とした。西には百済があり、倭国の一部である伽耶諸国は小国のままでまとまっていなかった。だが、新羅も百済もまだまだ伽耶諸国を併呑する力はなかった。
北九州の倭人たちは、たびたび百済とか新羅に攻め入っていたが、それは戦と言うよりも略奪が主である。
これは新羅や百済にとっては大打撃であったし、時に反撃して、倭人のいる伽耶諸国に攻め入っていた。
北九州の豪族にとっては、朝鮮半島の南部は、倭国の一部と言う感覚があり、その情勢には敏感に反応して対応はずである。
だが、ヤマトにいると、朝鮮半島はあまりに遠く、その情報はほとんど入らないし、なかなか実感がわかない。
息長宿禰王は、成務帝にこの出来事について報告し、彼らから聞いた朝鮮半島の情勢を話した。
この出来事をきっかけに、息長宿禰王はタラシ姫を正式に一族の巫女とし、湖の畔に楼観を建て、その側に小さな館を住居として与えることにした。
タラシ姫は毎朝、湖の水で身を清め、楼観に昇り、朝夕祈るという務めが日課になった。
眠るのは、その側の小さな館である。数人の警備兵以外、男子は側に近づけなかった。
喜んだのは、タラシ姫の母、葛城高額姫(カツラギタカヌカヒメ)である。
タラシ姫が巫女として認められて、修行を始めたことは、母としての誇りであり喜びであった。
先祖が朝鮮半島から渡来した「天之日矛(アメノヒホコ)」であり、朝鮮より漂流してきた者たちとは、同族のような親しみを感じていた。彼らの話を聞くため、たびたび彼らのもとを訪ね、朝鮮での生活の様子を知りたがった。
「タラシ姫は自分たちを救ってくださった命の恩人でございます。また、母君も先祖は朝鮮より渡来された聞き、とても偶然とは思えません。さらに葛城氏の血を引いているというのを聞いてなお驚きました。我ら伽耶にも倭人たちが多くいますが、葛城氏の血を引く者たちもかなりいて、親しくしておりました。共に新羅と戦ったこともございます。」
彼らの長(オサ)が高額姫に言った。
「おう、それは何という奇遇、海神のお導きに違いない。」
高額姫はさらに喜んだ。
タラシ姫にとっては、巫女として勤めは退屈でしかなかった。イトから母と漂流者たちが親しくしていて、いろいろな話を聞いているということを聞いて、大変羨ましがった。
あの時、感じるままに口走ったことを後悔していた。
別に巫女になりたいと思ったことは一度もない。特に葛城の一族が朝鮮半島までいっているという話を聞いて、「私も行ってみたい」とイトに駄々をこねた。

息長足姫 (四)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(27)

「イト、私はおかしいのだろうか、こうして毎日祈っているような生活をしているだけでは物足りぬ。早くここから抜け出したい。」
「姫、そんなことを言ってはいけません、王の耳に入ると大変です。」
「この地は私のいるべき場所ではないような気がする。王に対しても父という気がしない。本当に私の父親なのだろうかと思ってしまう。」
イトは顔色を変えて、周りを見回した。
「物心ついたころから、ここは私のいるべき場所ではないと感じていた。神にも尋ねたが何も答えてはくれない。しかし、私は間もなくこの地を離れるように感じる。」
「姫、その話はここだけの話にしましょう。」
イトはため息をついた。そして、姫が生まれる前、海神の使いが湖に現れて、「海神の子を産む」と言った言葉を思い出した。もちろん今まで誰にも話したことはない。
姫にも話してはいけない秘密だと思っていた。

年が明けた。タラシ姫が巫女になって半年あまりが過ぎていた。
いつもの朝のように湖の冷たい水で身を清め、楼観に昇り朝日に向かって祈りをささげていたとき、背中の方でふと誰かが自分を見ているように感じた。
「だれか?」と振り返ってみたが、もちろん誰もいない。
今日の朝日を自分と同じように拝している者がいると感じた。自分と同じ感覚を持っている者が・・・。
眼を閉じた。姫の目の前に、あるはずのない海が広がり、その海が朝日に照らされて、光り輝いている。・・・美しい。
ふっとその感覚はなくなり、直ぐに何も感じなくなったが、心地よい感動が残った。
それからしばらくの間、朝のお祈りを続け、楼観から降りようとしていたとき、再び背後に気配を感じた。
誰もいないが、西の空の彼方に何かが見えると感じ、目を凝らした。
姫は西を向いて正座し、祈祷を始めた。
榊を手にし左右に払い、胸の前に両手で持って、瞑想をする。
三人の男子たちが見えた。
そのうち一人は海神の使いなのか、自分と同じくらいの男児で顔に入れ墨をしている。
もう一人の男子は清楚で高貴な顔をしていた。大王としての印である龍神の太刀をしている。
そして彼らの周りを巨大な龍神が取り囲み、睨んで今にも、飛びかかりそうである。
龍神の逆鱗に触れたのか、龍の目が真っ赤に変わっていて、恐ろしい形相である。
「危ない」と姫は思わず叫んだ。
龍神は姫に気づき、「何を邪魔する」というように睨みつけて、今度は姫に飛びかかろうとしてきた。思わず目をつむり頭を下げて、榊をかざした。龍神は、姫を通り抜けてそのまま飛び立ち、ものすごい速さで雲の上に飛び去った。 確かに姫は見た。
何が起こったのか、タラシ姫にとっても生まれて初めての経験である。しばらく呆然としていたが、気を取り直して、楼観から降りた。
イトが下で心配そうに姫を待っていた。楼観の上で、姫の叫び声を聞いたからである。 「姫、いかがされました。大丈夫ですか?」 「心配ない。イト、私は初めて龍神というものを見た。」
「龍神を見た・・・。さようでございますか、しかし無事で何よりでございました。」
「その場に三人の男子がいて、私を見て驚いた顔をしていた。いったい何が起こったのかはよくわからぬ。しかし、私にとって大切な人のような気がする。彼らも何かを感じたようだ。」

・・・きっと会える。

その日から半月ほど過ぎようとしていた。
葛城王の屋形の東方に小高い葛城山がある。そこからの河内の眺めは素晴らしく、西に河内湖が見える。船着き場が見え、多くの小舟が浮かんでいる。淀川・ヤマト川より海に繋がっていて、大船も湖内に入ってくることができた。 この地を目指してイソラとスクネたちは「大亀」に乗ってやってくる。

成務帝

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(28)

この物語で、今は成務帝の世である。
帝は二四歳の時に即位したから、このとき二六歳である。
古事記によると、成務帝に男子がなかったので足仲彦王子(仲哀帝)が継いだことになっているが、ヤマトタケルの死後だいぶ経ってから足仲彦王子は生れていることになってしまう。
それでヤマトタケルが架空の人物だったという説明も成り立つわけだが、そうでなければ、ここにごまかしがあると考えるのが自然である。
自分より年下の異母弟の皇太子に年上の足仲彦王子(仲哀帝)がなるということはどう考えても不自然である。
ヤマトタケルの存命中に生れたのだったら、それだけの年数、成務帝と仲哀帝の在位が重なる。これが真実であると思っている。

≪この時、ヤマトでは皇位争いと政治的混乱がおこり、成務帝、仲哀帝で、初代、神武天皇から続く三輪王朝は途絶えました。そして神功皇后による革命によって新しい河内王朝が誕生したと考えています。≫
景行帝が崩御して、二年ほどが経つ。
ヤマトタケルが死んだのは、景行帝と皇后である八坂入媛命(ヤサカイリビメノミコト)の策略によるという噂は今も根強い。
この、八坂入媛命一人が産んだとされている王子だけでも七人、王女は六人もいる。
それほど景行帝は旺盛な精力の持ち主だった。
その後に天皇となった成務帝の六人の弟のうち、間違いのない同母弟は、五百城入彦皇子(イオキイリビコノミコ)で、兄を補佐し王の権力を高めようとした。
他の大勢の異母兄弟は、隙があれば自分が王になろうと、虎視眈々と王位を狙っていた。
成務帝を支えているのは、母の出身地である美濃と、吉備郎姫(キビノイラツメ)の出身である吉備だと思われるが、なんせ非業の死を遂げたヤマトタケル王子の評判が高い。
景行天皇の正妃の子はヤマトタケルである。
本来ならば長子であるヤマトタケルが次の天皇になるのが普通であるが、非業の死を遂げた。
古事記を読むと、異母弟の成務帝は、長子の子である仲哀帝が即位するまでのつなぎ程度の扱いのように感じる。そのヤマトタケルの長子が、足仲彦王子であるから、本来の皇統に戻ったという論調になる。
当時、そのような考え方があったかどうか、確かではないが、ヤマト王権を支えていた氏族たちも「本来ならば・・・」と考えていた者がいたはずである。
それが成務帝の政治的な立場の弱さではなかったか。
逆に、足仲彦王子自身は、どう感じていただろう。
自分こそが正当な継承者と言う自負心があったはずだし、父ヤマトタケルの死について、成務帝の母である八坂入媛命の陰謀の噂話は、誰かれとなく、していたはずである。
我こそはという想いが、幼少の頃よりあった。そして、自分より年下の成務帝が天皇という立場になったという事実。 必然的に次の皇位争いが起こった。
成務帝には何人かの妃がいるが、不思議と身ごもった妃がいないのである。王族や氏族は、帝には子を身ごもらせる力がないと噂していた。
普通は、帝に権力があれば王位継承者を決めることができる。成務帝は、自分の弟、五百城入彦皇子(イオキイリビコノミコ)を王位継承者にしようとしたが、諸王の反対で断念した。
ヤマトの王権を支えてきたのは、物部、吉備、丹波などが主であったが、それらの氏族は独自の勢力を持った独立国のようなもので、同盟国のような立場で王権を支えている。
まず一族の勢力を強くすることが大切であった。そして成務帝は彼らの意向を無視するほどの権力を持っていなかった。
その点、足仲彦王子は、英雄ヤマトタケルの子であり、新時代の王にふさわしい資格を持っていたが、気性が激しく、物事を冷静に判断する能力に欠けていた。
つまり、人望が集まらない。
何かのきっかけで、この微妙なバランスが崩れれば・・・。

このような時に、スクネは、官として成務帝に仕えることになるのである。

鞆の浦

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(29)

瀬戸内の要所である鞆の浦(トモノウラ)は、現在の広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域である。古代より潮待ちの港として栄えていた。
瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み、瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。
このダイナミックな潮の流れを見てイソラは喜んだ。
その先には、景色が素晴らしい仙酔島が見える。スクネもこれから起こるはずのいろいろな出来事に不安を感じつつも、しばし風景を楽しんでいた。船からの景色は、なぜか見ているだけで心が休まる。
「スクネ様すごいです。海全体が動いています。しかし、なぜこのようなことが起こるのか、なぜ・・・」イソラは解らないことがあるたびに、船長に尋ねていた。
どうやら、月の満ち欠けに関係あるという話であったが、まだよく理解できない。
「なるほど常に海は動いている、一時として留まっているときはない。ちょうど我が心のように・・・。」
スクネがイソラに言った。
「イソラよ、お主ら阿曇族がこの海上を自由に行き来できるということは、素晴らしいし、うらやましい。我ら氏族は、国の民のため、一族の繁栄のためにいろいろなしがらみに縛られながら生きている。自分の思い通りに動くこともできぬ。私もこの年で、重い荷物を背負うことになってしまった。」
イソラにとっては少し難しい話のようである。
「何が重いのですか?」
イソラは今まで自由に生活してきたし、一族とか繁栄とか考えたこともない。
スクネは問いには答えず、ニコッと微笑んだ。
「各国同士が、もっと交易を盛んにして、モノが自由に動くようになれば、争いはなくなるやもしれぬな。」と言ったとき、スクネには、はっと閃くものがあった。
「そうか、そのためには、倭国全体が一つの国になればよいのだ。国の仕組みを変えればよい。」
イソラと話していて、スクネは何かを思いついた。
少し考えたいことがあるといって、船内に入っていった。そして筆を取出し、墨をつけて竹簡に何か文字を書き始めた。
イソラはまだ船長に聞き足りないことがいっぱいあった。
「なぜ月が潮の流れを変えるのか、よくわからぬ。」
実際の潮の流れを見て学ぶことは、海洋族の阿曇族にとっては、最も大切で重要な知識である。これを学ばせるために阿曇王は、イソラを船に乗せたと言っても良い。
船長は王子の旺盛な知識欲に、満足していた。
鞆の浦から、難波津に着くまでの数日間、話しかけるのもはばかられるような感じで、スクネは自分の考えをまとめることに没頭していた。
その後、住吉津に着くまで、思いついたようにスクネが話しかけ、イソラとライキは聞く役となり、毎夜のように話し合った。主に政治とか経済の話で、イソラにはちょっと難しい。スクネは二人に話ながら、自分でも確認するように、「そうか・・・」言いながら、気になる事を書き留めていた。
スクネの博学と志は、イソラとライキにとって深く感動的なものであり、憧れそのもので、よくわからないけれど素晴らしいものだと思った。
志賀島を出て、十日余りの航海であったが、瀬戸内の海は外洋と違って波は穏やかで、平穏な航海であった。
イソラとスクネが乗った大船は、鞆の浦を抜け摂津国の住吉津に入り、一旦帆を降ろした。スクネが都に行くには、この地が難波津より都に近いためである。

後の時代、遣隋使・遣唐使などの外交・交易活動の舞台となった大阪湾。その交通を保安・警備していたのが住吉津であり、外交・交易の玄関口となっていたのが難波津であった。 住吉津に神功皇后が建立したといわれるのが住吉大社であるが、もちろんこの時はスクネと縁がある住吉大社はない。 ここで、イソラとスクネは分かれることになった。
「スクネ様、必ずやまたお会いできると信じています。お元気で。」
「おう、イソラ、私はお主を本当の弟だと思っている。船長から多くのことを学び、海の大王となってほしい。私もこの倭国のために力を尽くして働くつもりだ。また会おう。」
「海の大王」というスクネの言葉は、深くイソラの心に残った。
「そうか、私は海の大王になる。わかりました、きっと海の大王になります。スクネ様は陸の大王になってください。」
思わず、スクネは笑った。
・・・陸の大王か、イソラもなかなか良いことを言う。しかし、一度きりの人生、男子たる者それぐらいの大志を持たなくてはならないものだ。よし、これからの宮づとめ、勇気が湧いてきた。
スクネと供の若者たちは、大船から小舟に乗り換え、河を上っていった。
イソラは小舟をいつまでも見送っていた。
その後、帆を上げ難波津に向かう。ここが「大亀」の目的地であった。

難波津

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(30)

「難波」は浪速、浪華、浪花とも書く。
瀬戸内海が現在のような形になったのは縄文時代のことで、当初の海岸線は生駒山の麓、現在の東大阪市まで入り込んでいた。この湾を河内湾と呼ぶ。
河内湾の入り口に南から突き出ていたのが現在で言う上町台地である。
その後、河内湾の入り口は堆積した土砂で埋まり(天満砂州)、2世紀から3世紀にかけて、河内湾は完全に瀬戸内海から切り離されて草香江と呼ばれる湖となった(河内湖)。
古墳時代に入ると、人々は水運の利便性を考えて瀬戸内海と河内湖の間に運河を掘削し、これを難波堀江(ナニワノホリエ)と名付けた。
河内湖の最奥部には草香津と呼ばれる港湾施設があり、瀬戸内海から難波堀江を通過して河内湖に入った船は、そのまま東進して草香津に向かった。
また難波堀江の途中にも港湾施設が建設された。これが難波津である。
『古事記』によると、神武東征で神武天皇は「浪速の渡」(ナミハヤノワタリ)を越えて湾に侵入し楯津(タテツ)に上陸しようとしたが、この地にナガスネヒコの軍勢が待ち構えていて、一時退却ということになる。
この地が、「日下」という地名であったことから、それが「日本」という国名の由来であるという説がある。
「日下」をクサカと読ませ「草香」とも書くとあったが、「日本」という国名になぜなったのか、調べ出すと興味が尽きない。
上町台地を中心とする古代の難波の地には,この後、応神天皇の大隅(おおすみ)宮,仁徳天皇の高津宮などがあり、神功皇后による革命の後、「河内王朝」の中心地となる。
また、古代難波(なにわ)の地名に、安曇江(あずみえ)という場所がある。
七四四年(天平一六)二月,難波に滞在していた聖武天皇が安曇江に行幸したことが続日本紀に書かれている。
正確な場所は明確ではないが、ここに、阿曇族のヤマトの拠点があったのは確かである。
「河内王朝の成立に大きくかかわった」阿曇族は、ここを拠点として、全国の海人達を統括したとみられている。
「阿曇族」は多くの地名を残している。
アヅミは、阿曇、安曇、厚見、厚海、渥美、阿積などと表記され、その足跡は瀬戸内海を経由して阿波、淡路、播磨、摂津、河内、近江におよび、琵琶湖の西側には安曇川の地名を残している。
また、長野県の安曇野、滋賀県の安曇川など、各地に「アヅミ」関係の地名が残っている。
イソラが初めて見た難波津には、大船や小舟などが集まり、大勢の人夫が荷物の積み下ろしをしている。
水路を挟んで、大小、数多くの倉庫小屋があり、各地の交易品が積み上げられていた。
イソラが乗ってきた「大亀」は、周囲を圧倒するほどの迫力があり、遠くから見てもすぐにわかる。
「阿曇の大亀」が入港したということで、その地の阿曇族の長が、地元の阿曇族の民を引き連れて、大船に挨拶に来た。
「阿曇のイソラ王子が来られた。次の阿曇王となられる方である。一族すべての者たちを集めよ。」という通達があり、一族総出で迎えるということになった。
その後、イソラとライキは、地元の長に連れられて安曇江にある屋形に入った。
もちろん大亀の船長や船乗りたちも一緒である。
その夜は、一族の大宴会となった。
イソラはまだ十歳の子供であり、酒はほとんど飲めない。
少し飲んだだけで顔が赤くなってしまい、少し気分が悪い。
立場上上座に座り、部族の者の挨拶を受けたのであるが、ライキの方を見て退屈そうな顔をしていた。ライキは、機嫌よく、どんどん勧められるままに酒を飲んでいて、イソラのことは気にもかけていない。
イソラは「少し気分が悪くなった。夜風に当たって、酔いを醒ましてくる。」といってその場を抜けた。
イソラにとって難波津の街の大きさは想像以上であった。
そして、意外に感じたのが、隼人族と思われる人々が多いということである。
色黒で、背が低く目が大きいのですぐわかる。人懐っこい表情をしていて、母の故郷ということもあり、イソラは特別に親しみを感じる。
入港してからの景色を思い出しながら、冬の夜空を見ていた。
「これほどのにぎわいのある街は、今まで見たこともない。わが奴国とは、比べ物にならない。しかもこの街に、わが阿曇一族がいる。」
誇らしい気持ちになった。
・・・海の大王になる。イソラはつぶやいた。
この数日後、イソラの乗った大船は、この安曇江で交易の品々をおろし、別の交易品を積んで、瀬戸内海から日向を目指して出航した。