葛城高額姫 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(19)

「ヤマトタケル王子が崩御された。」この知らせに、葛城王は衝撃を受けた。
葛城王は、以前から三輪王朝の崩壊は近いとにらんでいたが、これでその流れは止められない。
「これで、これまでの王族の中から誰が王になっても王権の強化は無理であろう。新しい時代に必要なのは、かつての卑弥呼のように諸王が仰ぎ見る権威を備えた王でなければならない。しかも祭祀の力だけでなく、武勇においても優れている必要がある。ヤマトタケル王子が唯一の希望であった・・・。その子はまだ幼すぎる。
これで政治は不安定になり、部族間の争いが多くなる。特に気を付けなければならないのは吉備国で東西に勢力を伸ばしており、自国の勢力を広げるのに懸命である。ひょっとするとこの機会に、三輪の王権を乗っ取ろうという思惑があるかもしれぬ。」
ヤマトタケルの東征に唯一、供として従ったのが吉備武彦であり、その娘はヤマトタケルの妃になっていた。葛城王には、このことが頭にあったはずである。
葛城王は、娘の高額姫に言った。
もうすぐ姫は婚礼を控えていて、嫁ぐ前の挨拶をしていた。
高額姫は父が言いたいことはわかっていた。
氏族間のつながりを強めるために、自分は息長宿禰王に嫁がねばならないのである。
葛城高額姫(カツラギタカヌカヒメ)にとって、第9代開化天皇の曾孫にあたる息長宿禰王(オキナガノスクネノミコ)との婚姻は、親が定めたものである。
一度も会ったことのない男子の元へ嫁がなければならないし、一度も言ったことのない場所へ父母の元を離れていかねばならないというのは、宿命とはいえ不安と寂しさにいたたまれなくなってしまう。
当時の氏族にとって、婚姻とは部族と部族の政略的な手段であり、そこに本人の意思が階りこむ余地はない。
葛城高額姫の母は但馬の豪族の娘であり、祖先は新羅の王子、天之日矛(アメノヒボコ)と言われている。その地は近江にも近く、母の一族が近くに住んでいるということで、母も良かれと思い縁談を勧めた。
「はい、よく心得ております。ところで父上、吉備国のように三輪の王権にとって代わろうという望みは?」
葛城王は一瞬、自分の耳を疑った。
おとなしく何事にも控えめな娘と思っていたが、とんでもないことを言い出した。
「とって代わる? 面白いことを申す娘じゃ、そこまでは考えてないが、何時、何が起こるかわからない時代になった。この先どうなるかはわからぬ。」
「はい」、父の顔を覗き込むような目になった。
「いま申したことは、決して口外してはならぬぞ。しかしなぜ、そのようなことを聞く。」
このような娘であったとは、・・・気づかなんだ。
「できれば、次の帝となられるような方のもとに・・・。」
それ以上、姫は言わなかった。
新羅王子の血を引いているからであろうか、自分の血統への誇りがあるからかもしれないが、葛城王は娘を見直した。
「約束だぞ。それと姫よ、婚姻の話があった時に話したと思うが、近江はそなたにとって未知の地ではない。そなたの祖先である天之日矛の血縁者や従者が多く住みついている。ひょっとすると息長宿禰王にも同じ血が流れているかもしれない。」
ついこの間まで子供だと思っていたが、女子は成長が早い。
案外、息長宿禰王を尻に敷くかもしれない。

この時期、景行帝はまだ存命であり、都は纒向日代宮(マキムクノヒシロノミヤ、現在の奈良県桜井市)である。
この年の翌年に、近江国に行幸、志賀高穴穂宮(シガノタカアナホノミヤ、現在の滋賀県大津市穴太)に三年間滞在した後、崩御される。
その後成務帝はこの地で即位し正式な宮とした。この時期はまだ王子である。
この行幸のきっかけとなったのが、ヤマトタケルの死であると想像する。裏で暗殺を企てた皇后はすでに亡くなり、その外戚の氏族の力もなくなっている。
『ヤマトしうるわし』と詠われたことでもあり、怨霊となったヤマトタケルが白鳥となって戻ってくる場所となった。真偽はともかく噂というのは止められない。
都でも噂になり、あることないこといろいろと風評が広まったのかもしれない。
何か天変地異があればすぐ「タタリ」となる。
纒向日代宮という場所にいたくなかった。
晩年求心力が無くなった帝も自らの衰えを感じたはずである。そこで息長氏の本拠地、近江国に行幸し、その地を宮とした。

葛城高額姫 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(20)

 高額姫が近江に嫁ぐために出発する前日の出来事であった。
葛城王のもとに兵が走ってきた。
「王、高額姫が・・・」と叫んだ。
兵士の報告によると、高額姫が鬼神に憑かれたように叫び声をあげているというのである。
高額姫は、巫女的な性格があって、時々神憑りになることがあった。
いつもは、衣を頭から被せ、体を押さえてじっとしておれば、しばらくして治まる。
今度もその神憑りだと思ったが、今回は様子が違う。葛城王が駆けつけたとき、すでに姫はいなかった。
「オーオー」と叫び声をあげ、湖の方に向かって駆け出したというのである。
「いったい何事が起こったのというのだ。」側にいた者に尋ねたが、要領を得ない。
「誰かが我を呼んでいる。誰だ―」と男のような声で叫びながら、急に外に飛び出したというのである。
「今、ヒダカが後を追っております。」
「そうか、それなら少し安心した。他の者はこのまま待っておれ。」と葛城王は、言って姫の後を追いかけた。 ヒダカは、葛城族の兵士の一人であり、葛城王の信頼も厚い。
姫とは幼馴染でもあり、今回の婚姻の旅に兵士の長として警護していく役割を担っていた。
 「姫―、姫―」と叫びながら、葛城王は後を追った。
婚礼前の大切な体である。もし娘の身に何かあれば、息長氏との関係も危うくなってしまうし、そのような姫の行状が知れれば、それだけで破談になってしまうかもしれない。
屋形から二里ほどのところに船着き場がある。
 その側にうっそうと葦の生い茂っている場所に、姫は居た。
姫を追ってきたヒダカは驚いた。
「オーオー」、姫が気が狂ったように上を見上げ、湖に向かって膝をつき両手を広げて、一心に何かを呟いていた。 大きな白鳥が、今にも姫に襲いかかろうとして周りを飛んでいる。
ヒダカは無意識に弓を手に取り構えた。
その光景を、追いかけてきた葛城王も見た。
「ヒダカ、射よーー。」と葛城王が叫ぶと同時に、ヒダカがその大白鳥に向かって弓を射た。
「あっ」という叫び声がして、姫の腕の中にその大白鳥が落ちてきた。
姫は大白鳥を腕に抱いたまま、気を失っていた。
「ヒダカ、このことは誰にも話してはならぬぞ。」
もちろんヒダカも心得ている。そして自分の立場も、姫に対する想いを現すことも・・・。
弓によって射ぬかれた大白鳥はすでに死んでいた。
このままにしておくわけにもいかず、穴を掘り埋め、その上にその辺にあった石を置いて、手を合わせた。この大白鳥がただの白鳥ではないということは、二人ともなんとなく感じていた。
「鬼神が姫に取り憑いたかもしれぬ・・・。」
その後、気絶している姫を抱きかかえて、ヒダカと葛城王は屋形に戻った。
しばらくして正気に戻った姫は何も覚えていなかった。自分が駆け出したことも、奇声を発して叫んだことも。しかし、自分の腕の中に何かが飛び込んできたという温かい感覚だけは残っている。
「父上、いったい何が起こったのでしょうか。」
「わからぬ。しかし悪い気はしない。後で巫女に尋ねてみよう。とにかく今は休め。」
「誰かが私のことを呼んでいたような気がした。私が自らの望み、呼び寄せたにちがいない・・・。」高額姫は、ぶつぶつと独り言を言っていた。
葛城王は、その夜、巫女を呼び姫に起こった出来事について説明し、何が起こったのかを尋ねた。
「山の神に襲われて念を残したまま崩御されたヤマトタケル王子の魂が白鳥に姿を変え、タタリ神となって都に舞い戻ってこられたという噂を聞いたことがある。まさにあの大白鳥がそうではないか。」
巫女は、神棚を前にして祈祷を始めた。榊を手にし、まず身を清めるための舞を舞い、続いて右回り左回りと順逆双方に交互に回りながら舞いはじめ、やがてその旋回運動はしだいに激しくなり、一種のトランス状態に突入して神がかり(憑依)、跳躍するに至って、その場に倒れた。しばらくして神託を下すことになる。
「姫は、次の帝となられるような方のもとに嫁ぎたいと思われておられました。その姫の強い想いが、あの大白鳥を呼び寄せたものと思われます。間違いありませぬ。ヤマトタケル王子の御霊も、拠り所を求めておりました。」
「姫の体に、王子の御霊が憑いたと申すか。」
「はい、間違いありませぬ。これから婚礼に向かわれる近江の地で、赤子を授かるとの神託でございました。ただ、その後がよく見えませぬ。」
巫女は答えた。
「・・・もし、姫に男子を授かることになれば、それはすなわちヤマトタケル王子の生まれかわりということになり、わが一族の血を引いた赤子が、次の時代の王となるということなのか。」
葛城王には、いろいろな思いがよぎる。
悪い話ではない。
「よし、わかった。もう良い。このことは決して漏らしてはならぬぞ。」

次の日の朝、何事もなかったように高額姫とヒダカに率いられた警護の兵士、それに姫に従う待女は、近江に向けて出発した。
いや、ヒダカから見ると、姫はまるで別人のように見えた。目つきが鋭くなり、威厳を感じるのである。今までの愛らしい女人という感じがしない。
ヒダカは昨夜の巫女の話は知らない。
「確かに、姫に何かが憑依している。これは何かの予兆であるに違いない。」
ヒダカとしては、何があろうと何としても姫を守ると覚悟していた。

葛城高額姫 (三)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(21)

初代の神武天皇から十代の崇神天皇までのうち、二代から九代までの八人の天皇は、紀記では系譜だけが伝わり、事績がほとんど伝えられていないため、よって後世の創作ではないかと考えられている。「欠史八代」という。
歴史上、ヤマト王権の王として実在が確からしいのは崇神天皇からだとされ、考古学的には、纏向遺跡の頃からだとされている。
それ以前に、「葛城王朝」というのがあり、その王の系図がヤマト王権の系図に紛れ込んでいるという「葛城王朝説」というのがあり、鳥越憲三郎氏の説が有名である。
欠史八代の天皇が、おもに奈良県葛城地方に宮を置いていたことから、崇神天皇から始まるヤマト王権以前に、奈良県葛城地方を拠点とした王朝があったのではないか? という説である。
魏志倭人伝で、卑弥呼が邪馬台国を統治したとされる年は、おおよそ、一七五年頃~二四八年頃である。同時期に造られた箸墓古墳が、卑弥呼の墓ではないかというのが、邪馬台国畿内説である。
この場合、邪馬台国時代の終わりと、欠史八代の時代の終わりが重なることになる。そうであれば、欠史八代の時代に、魏志倭人伝にある倭国大乱を経験したことになる。
考古学上では、瀬戸内海に高地性集落が作られているが、近畿では。記紀の欠史八代の項に、広域の戦乱を裏付けるような事績は書かれていない。

≪つまり倭国大乱は、北九州の国々の争いである。≫

邪馬台国九州説(東遷説)では、神武天皇と崇神天皇を同一とみなし、崇神天皇が九州から東遷したという説もある。この場合も、欠史八代の存在は否定される。
また、邪馬台国九州説(東遷説)で、欠史八代が実在したとすれば、卑弥呼が死に、神武が東遷した後で、欠史八代の時代がヤマトに存在したことになる。
すると時代が合わなくなり、そうした解釈は無理があるように思える。欠史八代は、存在しないほうが都合が良いことになる。
総合的に考えれば、欠史八代・葛城王朝とは、存在したとしても、日本全国を統治するような王権ではなく、葛城地方の小さな豪族集団だったという解釈が成り立つ。そしてその小さな豪族集団の系譜が、ヤマト王権の系譜と混ぜられていると考えると、つじつまが合う。その理由は、天皇家の歴史を古くみせるため?。
私は北部九州を勢力圏にしている邪馬台国と、その一部の勢力が近畿に移住して、ヤマト王権は共に並立して存在していたと考えている。
東遷と言われるようなものではなく、南九州の日向から一部の部族が移住していき、以前からヤマトに住んでいた部族との争いに勝ち、だんだんと勢力を大きくしていったと考えている。
いずれにしても、葛城氏が神武東征以前の物部氏の流れをくむ、古くからの有力豪族であり、かなりの勢力を持っていたということは確かであろう。
名門意識もあったかもしれないし、「何代か前までは我等がこの倭国全体の大王であった」という想いがあったはずである。
前置きが長くなったが、「ヤマト王権の正統な後継者であるヤマトタケル王子の御霊が大白鳥に姿を変えて舞い降りたという事実は、崇神天皇によって奪われた王権を取り戻すことができるかもしれぬ。」と葛城王が考えても不思議ではない。
その事実が、古事記では次のように書かれている。
白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。
日本書紀では、白鳥の飛行ルートが能褒野→ヤマト琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その三箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。
どちらも、河内に飛来した。
(・・・そして、葛城高額姫の体内に入り神功皇后が生まれた。その子が新しい河内王朝を創る。)

≪ヤマトタケルが亡くなり、その三年後に景行帝は崩御され、スクネが官として勤める予定の成務帝が天皇になってから二年後が、この物語の本来の時期です。
この地で神功皇后との運命的な出会いがあります。
このヤマトタケルが高額姫に憑依して誕生したのが神功皇后であるという伝説によって、河内王朝の正当化を示すのが「古事記」の考え方であると思っています。
客観的事実というよりも、当時の人たちの常識である怨霊思想の考え方なのです。
話が前後して申し訳ないですが、もう少しおつきあいください。≫

葛城高額姫 (四)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(22)

息長宿禰王には、数人の妃がいたが、一番若い高額姫を寵愛した。
姫が嫁いだその日から、毎日のように閨を訪れ、何かに憑かれたように荒々しく姫を抱いた。姫にはそれがわずらわしかった。他の姫に対する嫉妬ではなく、王に抱かれること自体が嫌なのである。

息長宿禰王はかなりの年輩であり、父と大して変りがない歳である。
若い女人が男子に対して抱くような愛情はほとんど感じなかった。閨での行為は義務的な行為であり、耐えるという気持ちの方が強い。
侍女たちは噂話をしていた。

「この頃の王はおかしゅうございます。高額姫の身におぼれ、他の妃をお抱きになりません。他の方がお気の毒でございます。」
「確かに高額姫は若く美しい、でもあれほど夢中になるのは、何か理由が・・・。」
「王を虜にする呪力をもたれているのでしょうか。そういえば時々、眼が怪しく光るような気がします。とても人の眼とは思えませぬ。」
「確かに、心の底を覗かれるような眼をされるときがあるような・・・。」

息長宿禰王も、姫を抱くとついむきになってしまう。事が終わった後は全精力を使い果たしたかのようにガックリと疲れてしまう。姫が若いからであろうと思うが、位負けというか見下されているというか、抱くたびに我を忘れるほどに荒々しい気持ちになる。
精力を吸い取られ、だんだんとやせ細るような感覚があった。

姫は元々華奢な体つきであったが、嫁いできてからは、肉が盛り上がるような感じで健康的な体つきになり、顔の表情も力強くなったようである。

葛城高額姫はすぐに身ごもった。
その話を聞いた息長宿禰王は、驚きそして残念がったが、「それは何よりである。めでたい。」と祝福した。なぜか、ほっとした。
そして、急に憑き物が取れたように、姫の部屋を訪れることはなくなった。
当時の王や有力豪族は何人もの妻を持つ。その妻が身籠ると身体には触れない。他の妻と閨を共にするか、新しい女人を妻にする。
姫は間もなく小屋のような狭い部屋に移った。寵愛を失った妃は憐れである。今まで仕えていた息長氏の侍女の数も減った。ただ何と言っても王の子を身ごもっている。王は、姫が男子を産むことを期待し、それなりの待遇は与えられた。

高額姫は、王が通ってこなくなったことで生き返ったような気持ちになった。葛城から近江に従って来た侍女のイトと過ごすことができる。子供のころから姫の側で仕え、姫を守るのが自分の役目だと思っている。

葛城王のもとに、葛城高額姫の懐妊の知らせが届いたのは、姫が嫁いでから四か月余りたってからであった。「おっーー、娘よ、でかした」、あの日の出来事を思い出した。
「わが一族の血を引いた赤子が、次の時代の王となる・・・。」
ヤマトタケルの御霊を持った赤子であり、葛城一族の将来を明るくしてくれる赤子のはずである。近江に数多くの祝いの品が送られた。

赤子が体内で動くようになってから、姫は一人の時、よく体内の赤子に話しかけた。
「赤子や、ぬしは元気そうじゃの、母の言うことがわかるかい。」
そう姫が言うと、体内の赤子が反応して動く。
「そなたが男子か女子かは私にもわからぬ。ただ女子は辛いことが多い。好きでもない男子に抱かれても我慢しなければならぬ。その点、男子は気ままに生きられる。
男子は女子と子供を守らねばならぬし、そのためには死を恐れずに戦わねばらならぬ。女人は男子に守られて生きる。だから男子に従うのが当たり前だというのは、男子の勝手である。私は好きでもない男子と閨を共にするよりも戦場に行きたい・・・。」
高額姫は自分に言い聞かせるように話しかけ、赤子が男子として生まれてほしいと願った。

 葛城でのあの日の出来事については、姫は何も覚えていないし、父からもその夜の巫女の御神託の話などは一言もなかった。
この頃の姫の楽しみは舟遊びだった。故郷の河内湖とは比べものにならないぐらい大きな湖で波もあったが、船の上からイトと二人でいろいろと故郷の話をしながら、遠くの山々を眺めるのが一番落ち着く。
こうして、近江に来て一年余りの歳月が経ち、産み月を迎えたが、なかなか出産の兆候は表れなかった。

葛城高額姫 (五)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(23)

その日の夕方、湖に霧がかかり、視界も悪く遠くの山々も見えなかったが、高額姫はイトを見つけ、言った。
「イト、これより湖へ行きたい。」
「これからですか、間もなく日も暮れ、暗くなりますし・・・、霧で山々の景色も見えませんが・・・。」
姫は湖が自分を呼んでいるような気がしてならなかった。その声に聞き覚えがあるような気がした。
 姫の屋形を警護している兵が気づいたときは、姫は霧の中に消えていた。
イトは懸命に止めたが、姫は何かに憑かれたように歩き、川岸の船着き場に行くと、勝手に小舟に乗り込んだ。
イトもあわてて乗った。
姫が船着き場に繋いである縄をほどくと、二人を乗せた小船は自然に霧の中を湖の方に流れていく。
「姫様、危のうございます。戻りましょう。」
「危なくはない。湖が呼んでいる。誰かが私に会いたいと言っている。」
姫は動じなかった。静かに小船は湖の中に進み、間もなく動きが止まった。
小船には一本の櫂があるが、イトもじっとしていた。
姫が以前から神憑りされるのは、幼き頃より知っていた。
「姫が言われるのだから間違いない、何かが起こる。」、今は祈るしかない。
「イトあれは何か、船のようなものが見える。」と姫が言った。

霧の中から船らしい黒い大きなものが見えた、湖の小舟ではなく、湖にはあるはずもない巨大な大船であった。しだいに近づいてきて、目の前に迫ったが人影が見えない。
「私は、葛城王の娘高額姫です。何処の誰じゃ?」と姫は船に向かって叫んだ。
衝突すると、イトは身を縮めたが、小舟のすぐ前で大船は止まった。
その大船は、胴体が横に広がり亀の甲羅のような形をしており、舳先に龍とも大蛇ともわからぬ神が頭を持ち上げて姫の方を向いた。

「おう、我は海神の使者だ。姫よよく聞け。」
舳先の龍神が話しはじめた。
「今宵そなたは王者の子を産むであろう、女児だ。だが並みの女人ではない。その女児は大きくなり新王朝を樹立し、倭国の王となる。吾は海神の命を受け、そのことを告げに参った。」
「女児が倭国の王者になる?」
「その通り、女王となる。」
「なぜ、私が海神の子を産むのですか、私が身籠っているのは、息長宿禰王の子です。」
「そうではない。しかし王はそう思うであろうが、それでよい。」
「海神とは?」
「倭国の国々が祀る神、綿津見の神、住吉の神、日向の神でもある。」
姫はいぶがった。
「住吉の神と日向の神がなぜ・・・。」と尋ねようとしたとき、その大船は目の前から音もなくスーと消えた。
湖は、霧に覆われている。
「今の話、聞きましたか。」姫はイトに尋ねた。
イトも、「確かに、私も聞きました。間違いありません。」とうなづいた。
「姫、戻りましょう。」
その日の未明、高額姫は女子を出産した。
実は、イトは一年前に高額姫の身に起きた出来事を知っていた。あの時、姫が神憑りされ、何かに取り憑かれたように屋形を飛び出して河内湖の方に走っていかれた。
今回の様子とは全く違う。

イトは、追いかけようとしたが、ヒダカが「俺が追いかける」と言ったので屋形で待っていた。姫がヒダカに抱きかかえられて屋形に戻った後、いきさつは聞いたが、葛城王から、「イトよ、決してこの事は姫に話してはならぬ」と言われたので、姫から「あの時私の身に何が起きたのか」と聞かれたことがあったが、わからないと言っていた。
ヒダカからは、「わが一族の血を引いた赤子が、次の時代の王となる・・・」というようなことだけは聞いていた。

大白鳥を抱きかかえたという話をヒダカから聞いていたので、今回身ごもったと聞いててっきり「ヤマトタケルの御霊を持った赤子が生まれるのか」と思っていたのであるが、男子ではなかった。
昨日の湖での不思議な出来事は、確かに夢ではない。自分も声を聞いた。
では、どういうことなのか。
この赤子は、海神の子であり、倭国の女王となる運命なのか?
この赤子が成長してヤマトタケルの御霊を持った子供を産むということなのか・・・。
住吉の神と日向の神の子ということは、九州の神々とも関係ができるのか?
考えれば考えるほど、わからなくなった。

息長足姫 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(24)

高額姫は、海神の使者が告げたとおり、女児を産んだ。元気な赤子であり、その産声は屋形の外まで響き渡った。
息長宿禰王は男子を期待していただけにがっかりした。王は息長氏の支族の女人に赤子を育てさせた。赤子は息長足姫(オキナガタラシヒメ)と呼ばれた。以後、タラシ姫と呼ぶ。
タラシ姫は風邪一つ引かずに元気に育ったが、高額姫は、しだいにやせ衰え、嫁いで来たころの逞しさが無くなっていった。
姫を産んだことで使命を果たしたのかもしれない。

赤子誕生の報を聞いた葛城王も、がっかりした。男子だとばかり思っていたからである。しかも、ヤマトタケルの御霊を持った男子が生まれるものとばかり思っていた。
息長氏の巫女を呼び、この事実について尋ねた。
いつものように神憑りの儀式が始まり、そして御神託が示された。
巫女は「あの時の御神託は間違いありません。ヤマトタケル王子の御霊を飲み込むほどの大きな海神に守られています。」と言った。
「私の思慮の範囲を超えています。私など足元にも及ばぬほどの御力をお持ちの赤子で在らせられます。もしかしたら、アマテラスの生まれ変わりかもしれませぬ。」
葛城王は、大いに喜び、祝いの品を息長宿禰王に送った。

息長氏は古代近江国坂田郡(滋賀県米原市)を根拠地とした豪族である。
その地は美濃・越への交通の要地であり、大津・琵琶湖北岸の塩津とも繋がる。鉄の産地でもあり、息長氏はその生産に関係していた。古代豪族の中でも謎の氏族で、先ず出自が不明である。
いろいろ調べたがよくわからない。
応神、允恭朝には后妃を出し、天武朝の「八種の姓には皇親氏族として「真人(マヒト)」を賜姓されている。皇親氏族として特別優遇された実績もなく、史書に見る限り実に影の薄い氏族だが、息長氏を除外しては古代史を語れない。
神功皇后の父親としての、息長宿禰王の名前が残るが、その資料も少ない。
息長というのは、「息が長い」という意味があり、このことから潜水を専門とする海人であったとも、また、「風を吹く」という意味もあり、風の神で、ふいごを使う製鉄の民であるとも言われている。
タラシ姫は、この近江の地ですくすくと育った。
幼少の頃より、普通の子供と違っていた。童女のころから周りの子と比べて身長も高く肉付きも良いし、女人らしくなく脚力も男子並みで動作も活発であった。
可愛らしいというよりも強い生命力を感じさせた。
イトたち侍女にとっては親しみやすい容姿だったが、姫が睨むと光の矢がはなたれたような目になる時がある。童女にして他人を寄せつけないような威厳が、備わっていた。
イトにとってはそれがまた誇りであり、忠誠心を強める。

息長宿禰王は姫をみて、「男子に生まれるべきであった」と残念そうに言っていた。
宿禰王には何人かの子がいたが、特に優れた男子がいない。新しい時代に必要なのは、王の後を継ぐ力強い王子である。
 タラシ姫が巫女的な能力を発揮しはじめたのは、五歳の頃からだった。
いろいろ不思議なことことが姫の周りで起こった。
ある日は、母と侍女のイトと三人で湖に遊びに来ていたときの事であった。水際で遊んでいたとき、急に、「母上戻りましょう。雨が降ってきます。」と言った。空に雲はあったが、天気は良く、雨が降りそうな感じはしない。
イトが尋ねた。
「姫様、なぜそう思われるのですか。」
「あっち」と西の空を指さし、「龍神が天に上る」と言った。西の空を見たとき、稲妻が光り、ほどなく雷鳴が轟いた。母もイトも驚いた。黒い雲が西の空からどんどんと広がりつつあり、なるほど雨雲が近づいてくるのが見えた。 あわてて、三人は屋形に戻った。
また、ある日は、「ヒダカがやってくる」と突然イトに告げたことがあった。
「葛城のヒダカが、当屋形に来るのですか」と問うと、「そうじゃ、明日来る。」と姫は答えた。「葛城の父より、品が届く。」
半信半疑であったが、姫に巫女的な能力があることをうすうす気づいていたため、イトはこの程度の事には、あまり驚かなくなっていた。
 タラシ姫が言った通り、次の日ヒダカが姫のもとにやってきた。
ヒダカにとっても姫の成長を見るのは喜びであり、何か機会を見つけては、たびたび葛城から近江までやって来た。ヒダカが来ると姫が言っていたということを聞き、ヒダカも驚いていた。
祝いの品は、薩摩の隼人から貢がれたゴウホラ貝であった。ゴウホラ貝は、琉球でしか取れない。首輪や腕輪などに加工される大変貴重な宝である。実は、巫女にとっては祈祷のための大切な道具であり、タラシ姫のために、葛城王がわざわざ取り寄せたものである。
葛城王も姫の様子を知りたがった。
そして、葛城氏の巫女の予言通り、タラシ姫が特別な能力を持っていることをヒダカの報告によって知り、喜んでいるということであった。