金印の謎 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(7)

スクネが阿曇王への挨拶を終え宮殿の外ででると、イソラが待っていた。
「イソラ、遊びに行こう。」
「スクネ様久しぶりですね。しかし今は冬、磯でモリを突くにしても寒いし・・・。」
「いやいや今日は、探検をしよう。」
「探検?」
「そう、島の探検じゃ、行ってみたい場所がある。」
言葉になぜか力強さがあり、いつもの感じと少し違っていたが、何でもいい。イソラにとってはスクネと遊ぶだけでうれしい少年であった。スクネは物知りでなんでも教えてくれた。
 宮殿の西側のほうにわずかばかりの平地があり、集落と田畑がある。 海岸沿いに島の周囲を回る道ができており、スクネはその道にそって歩き出した。イソラとライキは、その後をついていく行く。  集落を通り抜け、さらに二里ほど歩き続けた。 なお、一里は約三百歩、今の時間で五、六分で行ける距離である。
「スクネ様、どこまで行くのですか。」
 後からついていく行くイソラが尋ねたが、急いでいるらしく答えてくれない。そして、集落のはずれの岩場あたりで立ち止まり、遠く南西の方向の山を見たり、下を見たりしながら何かを探している様子で、「ここかな、いやちと違う」と独り言を言いながら周囲を見渡していた。
そして、ある大きな岩石に目を向け、その場所に近寄ろうとした。
人工の石碑のようで、周囲に縄が張り巡らされ、前に小さな鳥居がある。
その時、何かを感じたライキが思わず叫んだ。
「スクネ様なりませぬ。その場所は我が一族の存亡をかけて龍神を閉じ込めている場所だと言われています。もしその扉を開けば龍神が目をさまし、国中に災いが及ぶとの言い伝えがあり、絶対に近づくなという掟でございます。スクネ様と言えども・・・。」
 ライキが腰に下げた刀の柄に手をかけている。
「わかった、わかった、もうこれ以上近づかない。」
その殺気を感じてスクネは立ち止まり、ライキに向かい微笑んで言った。
「実は先日、初めて父から話を聞いたのだ。我が一族の宝である『龍宝』がある場所に眠っていると・・・。」
「龍宝とはなんですか?」
「我もよく知らん。ただ、その『龍宝』を得るために多くの部族が数十年にわたって争い、我が奴国も存亡の危機に陥ったという。その長年の争いは女王、卑弥呼の詔によって収まったが、その時にはすでに『龍宝』はいずれかに失われていたという。
父の話によると、その『龍宝の祟り』を封印するために我が祖先である奴国の王が、ある場所に納め封印したということであった。誰にも漏らしてはならぬと・・・。」
「その場所が、この龍神の祠なのですか。」
ライキが問うた。
「そうかもしれぬと思い、確かめに来た。ライキ、これを見てくれ。」
スクネは、腰にさしている太刀を外して、ライキに見せた。隣でイソラも覗き込んでいる。
奴国に代々伝わっている金銅の龍が彫られている柄に双環のついた立派な太刀である。
「父から聞いたのだが、この太刀にその秘密が刻まれているというのだ。」
太刀の刃の横に何やら文字のようなものが刻まれている。
「雷―宝―龍」という文字のようである。
「これだけでは何のことがわからず、父に問うたが、父は何も言わなかった。解らぬならそれでよい。ただ、この太刀だけは、次の世に伝えよということだった。」
「私にも何のことやら解りません。龍宝の隠し場所という話がなければ、誰が見ても何も思わないでしょう。」とイソラがいった。
「その通りだ。場所ということが解らなければこの文字に何の意味があるのか解らぬが、考え付いたことがあったのだ。それで此処へ来た。」
「どういうことなのでしょう。」ライキが聞いた。
「雷とは、雷山の事であると気がついた。しかもこの地に龍宮がある。さすれば、宝とは、あの湾に浮かぶ小島、宝島の事ではないか。雷と宝と龍の線上に龍宝を隠した。」
二人はうなづいた。
「なるほど、しかし『龍神の祠には近づくな。大岩によって蓋をしているが、その下には龍神が封じ込められている。』という掟でございます。過去にその場所に近づくだけで病によって死んだり、気がふれるものが出たとの言い伝えもあります。祟りほど恐ろしいものはありません。海神に逆らえば人の命などひとたまりもありません。 スクネ様、この世には知らないほうが良いこともございます。」
ライキが言った。
当初は訳が分からず、イソラは呆然と佇むだけであったが、イソラも『龍神の祟り』という話は何度も聞いたことがあった。
「あの岩石には近づいてはいけない。近づけば病で命を落とすことになる。」
 その岩石を眺めながらスクネは独り言を言った。
「なるほど、今更真実を知ったところでどうなるものでもない。忘れ去られたほうが良いのかもしれない。イムラ、今日は一日楽しく共に磯で魚を取ろう。しばらくは遊べなくなるから。」
気分を変え、落ち着いた声でスクネは言った。
「えっ、どうしてですか。」
「・・・実は父の命令でヤマトに下ることになった。」

金印の謎 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(8)

一族の長(オサ)となるべきスクネは、今年で十五歳になる。一人前の大人として認められる歳である。
有力氏族の子は一種の人質のようなもので、朝廷に臣として仕えなくてはならなかった。
女子の場合は、王族や有力豪族と血族関係を結ぶことで一族の存続を確保し、男子の場合は、一定期間、官として仕え主従関係を保つ必要があったのである。
それが将来、自分が一族の長となるために通らなければならない道であった。
「二度と会えないかもしれない。楽しく野山を駆け回ることもできなくなった。祖先は元々、この倭国の国王の一族であったのに・・・。」
何度となくそんな思いが過ぎる。
「スクネ様、また必ず会えますよね。私は何となく感じます。大きくなられたスクネ様がまたこの島に来られるような気がします。その時・・・。」
言いかけて、イソラは言葉を噤んだ。
 イソラは幼少のころから「神憑り」的な言葉を発することがあり、感じたまま言葉に出したが、スクネも同じことを感じたらしく目を見合わせて黙った。
「スクネ様、私にもその太刀を良く見せてください。」と何の気なしに、スクネが持っていた太刀に手がふれた瞬間の出来事であった。
「あっ」、二人同時に声を発した。
雷が落ちたような感じで、手がビリビリとして、太刀が一瞬黄金色に輝いた。
「龍宝」が眠るという大岩から何かが飛び出し、それと同時にスクネの太刀が輝き、イソラの背のあたりから、青色の炎のようなものが揺らいでいる。
その何かに飛びかかろうとした後、二人の周りを光が取り囲み、グルグルと回っている。
その時、東の空に赤い光の玉が現れ、光がその方向目指して、次の瞬間天に昇って消えた。
側にいたライキは、二人の声に驚いたが、何が起こったのかはよく解らない。
しかし、夢を見ているような感じで二人の姿が一瞬ぼやけて見えた。
気がつくと、二人とも力が抜けたように座り込み呆然としている。
「いったい何が起こったのだ。」
時間が止まっているように感じられ、二人にとって現実の光景とはとても思われなかった。どれほどの時間がたったのか、それともほんの数秒だったかもしれない。
「龍神が現れた・・・。」
イソラがつぶやいた。不思議な高揚感だけが残っている。
三人とも我に返り、顔を見合わせて微笑んだ。
「確かに、あれは龍神であった。赤玉を追いかけて天に上った。」

しばらくの時間、お互いに顔を見合わせていたが、「さあ、行こう」と言って立ち上がった。それから三人で近くの磯に降り、モリで魚を突き、取った魚はその場で捌いて火で炙り喰った。いつもの楽しい子供の遊びであった。

夕方になり、スクネが小舟で帰るのを見送った後、ライキがイソラに尋ねた。
「あの時、二人でじっと目を見つめ合っておられましたが、いったい何が起こったのでしょう。龍神が現れたと言われましたが・・・。」
「いろいろな風景が見えた。吾にもわからぬが、龍神が表れたような気もする。そういえば赤い光の中に天女がいたような・・・。いったい誰だろう・・・。」
確かにあの時、何かが起こった。
それは、何かに取りつかれたというような悪い出来事ではなく予兆に違いなかった。
それは三人だけの秘密になった。

≪紀元前100年頃、漢書地理志「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国をなす」。 紀元57年、倭奴国が朝貢「漢委奴国王」金印紫綬。≫

スクネが言った『龍宝』というのが、国王としての証しである「金印」のことである。
この物語の時代から千五百年あまり後に、一人の百姓によって発見されるまで『龍宝』は眠っていた。この発見された場所、今は公園になっている。
この志賀島の対岸にあるのが奴国と伊都国で、この場所から対岸を見れば、金印を隠匿した場所を、たとえば、「宝島(タカラジマ…福岡市西区今津の小島)左、雷山、石の下」というように、簡単な言葉で伝えることができる。 つまり志賀島で雷山山頂と宝島の左側が一直線に見える位置を決めれば、その直線上の石の下に金印が埋めてあるという意味になる。
もっと解りやすく言えば、「漢委奴国王金印発光之処」の碑の前から見ると、丁度、宝島の左側の背後に雷山山頂が見えるのである。
こう考えると、「なぜ、志賀島という辺鄙な場所で金印が発見されたのか」想像できる。支配者の象徴である金印を、新しい支配者に奪われたくなくて誰かが隠したのである。
その大切な金印が紛失したのだから、倭国大乱の後、新たな金印が必要になった。
邪馬台国の女王卑弥呼が魏への朝貢を行った理由の一つは、新たな倭国王としての権威づけだったと思われ、そのために新たに金印を求めたと考えられる。それが現在も発見されていない「親魏倭王」の金印である。
実は、イソラは小さいころに人にはなんしょで、あの大きな岩石の祠に行ったことがあった。人にダメだといわれると逆に興味を引くもので、何があるのだろうと興味を持ったのである。大きな岩石があるだけで、古い塚の跡かも知れないが、近づいて触っても全然怖さを感じなかった。
「龍神とはどんな顔をしているのだろう。」
その岩を手で撫でてみたのだが、その時は何の変化もなかった。

大亀

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(9)

スクネが帰った後、イソラは父に呼ばれて宮殿に上がった。母もなぜか側に控えている。
「イソラ、これはいい機会かもしれない。『大亀』に乗り船長に大船の扱いを学べ。今度の航海で、ヤマトの都を見てまいれ。母はまだ早いと反対であったが・・・。」
「本当ですか。ぜひお願いします。」イソラは喜んだ。
もちろん生まれて初めての経験であり、島を離れて生活するのも初めて。母が不安な顔で見つめているのもよくわかる。湾内や糸島半島を小舟で漕いで回り、二三日島に帰らずに過ごしたことはあるが、長旅は初めての経験である。まして初めての大航海でヤマトという都を見ることができる。
「奴国のスクネ王子も同船される。ヤマトまで送り届けるのもイソラの仕事だ。」
イソラはスクネと共に船旅ができるというだけで興奮した。もちろん側役のライキも一緒であるから、心強い。その日は興奮して寝れなかった。

次の日から出航までの数日間、イソラとライキは毎日「大亀」に通った。船長からいろいろなことを学ぶためである。 帆の上げ下ろしや櫂の漕ぎ方など、イソラにとってはかなりの重労働であったが苦にならなかった。朝早くから夜になるまで、見るものすべてが珍しく驚きの連続であった。
当時の船は、ある程度荷物を積み込み水面から沈ませないと船自体が安定しない。だから常に荷物を積み込んだ状態で出航する。
船にはすでに多くの荷物が積みこまれていた。イソラとライキもその荷積みを手伝ったが、中国や朝鮮の品や武器など物珍しいものが数多くあり、それらを見るだけでも楽しかった。
この物語の時代よりも五百年も前に大船はすでに造られている。
中国の資料によると、中国戦国時代の最大の軍船は全長二七・六メートル、幅三・七メートルあり、定員九一名であった。三ヶ月分の食料を積み込めたらしく、船員を除いて百名以上を運ぶことが出来たそうである。
波よけのためゴンドラのように船首がそり上がり、中央に帆柱が立ち、帆が結びつけられている。左右に十七本の櫂が取り付けられ、舵取りのための櫂が左右に一本ずつ付いていて、材料はクス材であった。
発掘される土器や銅矛などの分布をみても、広範囲である。現在の私たちが考える以上に、古代でも船による交流は活発であった。
イソラが乗る「大亀」は、これよりも一回り小さかったが、それでも当時としては画期的な船である。
 この時代の航海は「地乗り」といい、陸岸を見失わないように航海する。沖に漕ぎ出して帆や櫓で航行し、夜や逆風の時は陸地に寄せて碇を降ろして休む。海流の流れを利用したりする。
太陽と星の位置を見て方角を知り、長年の経験によって天候と風を知ることができた。
一説によると、当時すでに羅針盤らしきものも発明されていたらしく、星の位置で方向を知ることもでき、夜の航海も可能な技術もあったとも言われている。
航海にとって最も大切なものは、この羅針盤という方位を知るための道具と潮の流れや浅瀬を記した海図である。 航海は気象に関しては経験がものをいうが、この二つがあればある程度夜になっても、漁火を目安に航海が可能である。
それこそが、阿曇一族だけが持つ独特の門外不出の秘儀ともいうべき技術であったと想像する。
今回の航海の予定は次のとおりである。年に二回程度は、同じような航路で繰り返したと思われる。
まず玄界灘を東に向かい、宗像から関門海峡を通り瀬戸内海に出て、瀬戸内海を東に向かって航海し、ヤマトの河内を目指す。この航路は内海で波も穏やかであり、航海に関しては問題はない。
途中、吉備国にも立ち寄り、いつものように交易を行う予定である。
河内からの帰りは、瀬戸内海から豊後水道を南下して、日向の諸県(現在の宮崎県南部)まで航海する。この地は、イソラの実母の故郷であり親族も多い。大歓迎を受けるはずである。もちろんその地でも交易をするのが主な目的である。
大隅半島の隼人国に立ち寄り、その後、西回りに航路を取り黒潮を利用して北上し天草から松浦を経由して、この志賀島まで戻ってくる。
予定通りいけば、二月ほどで戻ってくることができるはずである。

航海 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(10)

いよいよその日が来た。
「いざ、我が未来への旅立ちの日である。」と、イソラは大船に向かって叫んだ。
ライキは、ニコッと微笑んだ。
年が明けてからまだ日が浅く肌寒い朝であったが、空は晴れ渡り、出航には絶好の気象条件であった。夜明けとともに錨を上げる。
すでにスクネは供の兵士二名と大船に乗船している。彼らはスクネの身の回りの世話と警護のために奴国の若者の中から選ばれた若者たちである。
イソラも父母との挨拶をすませ、ライキと共に乗船した。
阿曇王と母妃は、宮殿の航路の上に立ち、大船を見ている。
船長が阿曇王に向かって一礼し、右手を上にあげると、ドラの音がガーンガーンとなり、船乗りたちが一斉に声を上げた。
「ウォーーー」
その声を合図に錨が上がり、ドラの音に合わせるように櫂が動き出し、船は静かに動き出した。
イソラも今までは見送る側ばかりであったが、それでも感動で思わず涙がこぼれそうになる。まして、今回は船の上から宮殿を見ている、ぐっとこらえた。

湾から玄界灘に出ると急に波が高くなった。そのまま沖に漕ぎ出すと、明らかに海の色が黒くなる部分があり、これが対馬海流である。
この流れに乗ると、かなりの速さで東に向かって船が進み出した。途中、玄界灘に浮かぶ神の島、沖ノ島を目指して進む。
この島を崇拝する宗像族は、イソラたち志賀島の海人と同じように、高度な航海技術を持ち、宗像海人族とも称されている。朝鮮半島の加耶(カヤ)・百済(クダラ)との関係が強く、ヤマト王朝とも親しい。 彼らは「宗像三女神」と呼ばれる三人の女神を信奉している。
『日本書紀』によれば、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が、姉の天照大神(アマテラすオオミカミ)に邪心がないことを示すために、それぞれが持っている剣と玉を交換し、誓約(ウケイ)をした。 天照大神が素戔嗚尊の剣をとり、天真名井(アメノマナイ)にすすぎ、これをかみ砕いて口から息を吹きかけると、その息の中から三人の女神が誕生した。これが宗像三女神である。
三人の女神は、それぞれ田心姫神(タゴリヒメノカミ)、湍津姫神(タギツヒメノカミ)、市杵島姫神(イチキシマヒメノカミ)といい、田心姫神は海上に発生する霧を、湍津姫神は潮流の激しい様子を、市杵島姫神は神を祀る行為を表すといわれている。
これらの三女神を祀る三社、すなわち、沖津宮・(沖ノ島)、中津宮・(大島)、辺津宮・(田島)を総称した社が「宗像大社」で、沖津宮には田心姫神が、中津宮には湍津姫神が、辺津宮には市杵島姫神が、それぞれ祀られている。 この辺津宮から大島、沖ノ島を延長すると、対馬の北部を経て、韓国の釜山を見通す線上に並んでいる。つまり、朝鮮半島に至る海の道を掌握したのが宗像氏であると言われている。
イソラの阿曇族は、南方系の一族であり、宗像族は朝鮮系の一族だと考えればわかりやすい。同じ海人族であり関係は良い。

古事記に「因幡の白ウサギ」の話が出てくるが、梅原猛氏は、出雲の話ではなく、この話は、玄界灘の孤島の沖ノ島の話であるという。 
余談として紹介する。
宗像大社に伝わる神事として、10月に行われる「みあれ祭り」があるが、沖ノ島から、神を大島と田島に迎える儀式で、宗像神社の氏子である多くの漁師が参加する先頭に、この年できた新船二艘が立ち、大島と田島の祭神を乗せる。 その二艘の祭神が乗った船を、多くの船が守護するような形で、船団は沖ノ島を発し、大島、田島にやってくる。 毎年、地元ではニュースになり、その壮大な祭りを見ることができる。
氏によると、このありさまが、ワニが海に並び、その上をウサギが飛んでゆくようにも見え、その話そのものも、稲羽のウサギの話に似ており、島(沖ノ島)から陸への移動の祭りであるというのです。 沖ノ島には縄文時代から人が住んでおり、氏の仮説では、ここに宗像一族が住んでおり、朝鮮半島の政治的不安定化によって、宗像一族はこの島から引き揚げねばならなかった。
それを裏付けるかのごとく、沖ノ島の祭祀遺物は、7世紀半ばを過ぎると、めっぽう少なくなる事をあげている。 すなわち、ウサギは兎神、すなわち宇佐の神、つまり宗像一族であったと推測、しかし宗像一族だけの力では引き揚げが出来ないので、多くの船をもっている阿曇一族の力をかりて、引き揚げは無事終わったものの、この引き揚げにあたってトラブルがあったのではないかとしています。

ウサギ(宗像一族)は、ワニ(阿曇一族)に言います。
お前の族と、俺の族とどちらが数が多いか?
すなわち、沖ノ島を本拠地に、大島、田島に拠点を持っていた宗像一族、対馬と九州の志賀島を本拠にしていた阿曇一族は、職業が似ているだけに多年にわたり、協力関係もあるものの、様々な対立があったのかもしれない。 ウサギは白いから朝鮮系の民族、ワニは黒くて南方系の民族、確かにありそうで面白い話である。

航海 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(11)

出航の後、スクネとイソラは共に船先に立ち、船上から遠く小さくなる志賀島を見ていた。
イソラにとっては初めての旅の不安感と未知の土地に対する期待感などが入り混じっていた。ふとスクネを見ると、厳しい顔で唇をかみしめているように見える。話しかけるのもはばかられるようで、黙っていた。
大船は宗像沖を過ぎ、その後、大船は交通の要所である穴門(関門海峡)に入る。船内に入り、船荷の間に座ったが、二人とも無言である。
実は、出航前日の午後、スクネは父親に呼ばれて、これからの務めについて注意すべきことなどの指示を受けた。そのことを思い返し、いろいろと思いを巡らしていたのである。

「父上、いよいよ明日出航いたします。奴国の王子として一族の名に恥じぬように努める所存です。」
「よくぞ申した。お主の働きの如何で我が一族の命運が決まると言ってもいいほどの役目である。心して勤めよ。」
最初は、型通りの挨拶だけと思ったのだが、・・・一族の命運という言葉が気にかかり、さらに父に尋ねた。
「それほど難しい務めになりますか。」

父は、朝廷内の複雑な政治状況について知りうるかぎり語りだした。
スクネが官として仕える予定の成務帝の威光が故景行帝ほどでなく、朝廷を支える有力豪族間の力が強くなり、政治を思うままにしているというのである。
「このままでは皇位をめぐって争いが起きると見ている。普通ならば、小碓命(ヤマトタケル)が次の王位に就くと見られていたのが、非業の死を遂げられた。十年ほど前の出来事であった。
父である景行帝と妃の八坂入媛命(ヤサカイリビメノミコト)によって暗殺されたという噂があるのだ。そして、そのヤマトタケルの子である足仲彦王子(タラシナカツヒコ=仲哀天皇)の力が強くなりつつあり、父の無念をはらすため王位を狙っているという噂もある。」
その内容はにわかには信じがたいものであった。

「父が自分の子を暗殺しようとしたのですか。」
スクネには信じられない。
「ヤマトタケル王子は景行帝に嫌われていた。王子があまりにも武勇に優れかつ人望があったので、自分の王位を皇子に奪われはないかと恐れたのである。
そして王子は双子であり、生まれたときから忌むべきものだと思われていた。
逆に皇子が成人になると王子が即位するためには、父を殺さなければ、父から殺される危険があったということを意味するかもしれない。」
「自分が王になるために父を殺ろそうとする・・・。」
スクネには信じられなかった。
奴国では父すなわち部族の長の命令は絶対であり、逆らうことなど想像できない。一族の族長による合議もおこなうが、最終的には、奴国の王である父がすべてを決定する。
そして大切な決定をする前、必ず巫女の神憑りによって占う。
神の声を直接聞く審神者には、父が自らなる。そういう決まりができている。
さらに恐ろしい話になった。

「巡察使に命じて、都から遠くに離すというのも王子を殺す方法の一つだったかもしれないし、その危険を察して王子も都から離れることを選んだのかもしれない。
先の皇后だった母が死んで、叔母である八坂入媛命(ヤサカノイリビメノミコト)が皇后に納まり、その皇子(成務帝)が生まれると、新しい皇后は双子の大碓命、小碓命(オウスノミコト=ヤマトタケル)が邪魔になり重臣と結託して兄弟を暗殺しようとした。
皇后が景行帝をあおったのかもしれない。
もちろん噂だ。自分の子を王位につけるために、謀反の疑いがあるなどと盛んに吹き込んだ可能性もある。
このような動きは、どこからともなく漏れるものである。双子の兄の大碓命は皇后を殺そうと考えたが、父に殺されると思い、思い切って父を退けるクーデターを企て、小碓命を誘うが、小碓命が拒否したため争いになった。
結局、小碓命が兄を殺してしまった。
兄と同じ境遇なので、兄に同情して帝から詰問されても、その理由を告げなかったために兄殺しの罪に問われて、単身で熊襲征伐を命ぜられたという。」

航海 (三)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(12)

父と子の関係ほど難しいものはないのかもしれない。
子が自分を殺して王位を奪うなどと、考えるだけでも恐ろしい。そのために満足な兵力も与えず、危地に息子を送るとは・・・。
「その話は聞いたことがあります。熊襲を征伐して、ヤマトタケルの称号を得たという話ですよね。英雄でありスサノウの化身であると聞きました。」
神話によると、スサノウの性格は多面的である。母の国へ行きたいと言って泣き叫ぶ子供のような一面があるかと思えば、高天原では凶暴な一面を見せる。出雲へ降りると一転して英雄的な性格となる。
神名の「スサ」は、荒れすさぶの意として嵐の神、暴風雨の神とする説や、「進む」と同根で勢いのままに事を行うの意とする説がある。確かに、ヤマトタケル自身も、我はスサノウの生まれかわりであると信じていたのかもしれない。
父の話は続く。
「景行帝にとっては、予想外の成果だったと思われる。その帰り道、王子は出雲に入り出雲建と親交を結ぶ。しかしある日、出雲建の太刀を偽物と交換して太刀あわせを申し込み、殺してしまう。嘘でだましてやっつけることを平気でする。スサノウの化身といわれるのもこの横暴さのためかもしれぬ。 父も父だが子も子。このような一族が現在の倭国王であるという現実を心得ておくように。決して心を許してはならぬし、油断してはならぬ。」
父も父なら子も子、スクネは思った。
「心得ました、巷の評判とはいささか違いますね。王子が手柄を立てて凱旋したのは事実ですし、それなりの褒美はもらえたのですか。」
「褒美といえるかどうか、その後、景行帝は『東の方十二道の荒ぶる神、また伏はぬ人どもを、言向け和平せよ』と、熊襲征伐の褒美として命じた。」
「そんな馬鹿な、それではまるで死ねというようなものではないですか。」
スクネにとって父の話は、すべてが驚きであり衝撃を受けていた。
「景行帝には父としての情が少しは残っていたのかもしれない。これだけの仕打ちを受ければ、普通の者だったら身の危険を感じて姿を隠す。父としてそれを願っていたのかもしれない。だからあえて、辛く当たった・・・。」
「そんな、都合のいいことがあるもんですか。それはないでしょう。」
「皇后の後ろにいる有力豪族からの圧力を感じられていたのかもしれないが、そんな噂を聞いたことがある。」
父は続けた。
「蝦夷征伐には当初大軍を付けていた。いくらなんでも、今度は兄殺しの罰ではないのだから兵力をつけなければおかしい。しかし王子はスサノオの化身だと恐れられていた。大軍をつければ何時都に引き返してきて、クーデターに及ぶかもしれない。そこで、景行帝は副将軍を呼び戻し、軍事力を奪ってしまったのだ。」
「しかし、その蝦夷征伐もやり遂げるのですよね。伝説になっていますから、みな知っています。」
「そして、王子が蝦夷征伐から戻る途中、なぜか都で皇后が突然の病で亡くなってしまう。これもできすぎた話で、この裏に何かあるやもしれぬ。
これで朝廷内の雰囲気がガラッと変わってしまった。
自然と王子の凱旋を歓迎するムードが高まった。景行帝も実力をつけた王子を無視できないようになり、逆にすりよろうとしたのだ。そうしなれば自分の身が危ない。
王子は凱旋すれば政治の実権を掌握できる状況にあった。特に熊襲や蝦夷を平定した英雄ヤマトタケルだから、安定した政治が望める。
皇后の背後にいた勢力は焦った。今までの仕打ちに対する恨みは相当強いものであるし、王子が凱旋すれば、今度はわが身が危ない。
王子が尾張の国造の館に滞在していたとき、父帝から書状が届いていて、最後に伊吹山の山神とその手下の鬼達を退治して欲しいという願いが書いてあった。
それであくる朝、伊吹山に出かけるのだか、なんと草薙剣を置いて行ってしまったのである。『古事記』には素手で殺せると思ってでかけたことになっている。
王子が油断したのか、これがまた、よくわからない。
草薙剣があってこその英雄ヤマトタケルであり、そこに何かがあったはずである。
山神たちはヤマト政権に対して激しい憎悪を抱いており、ヤマトタケルが草薙剣を置いてくるのならヤマトタケルに一矢報いる最高のチャンスと捉えて、玉砕戦法で王子を襲った。
特に雹(ヒョウ)を降らせる作戦が功を奏し、王子は深傷を負い、高熱をだす。
そして、ヤマトを目前にして三重の能煩野(三重県亀山市〉で亡くなってしまう。」