阿曇磯良伝説

≪歴史小説≫阿曇磯良(アズミノイソラ)伝説、立志編(1)

2017年4月公開

≪プロローグ≫

 この小説を書き始める半年ほど前、この人物について、初めて知ったのは、「アントンイソラ」という聞きなれない音が、耳に残ったからです。
「阿曇磯良」を音読みすると「アントンイソラ」となります。この西洋風の名に興味がわき、いろいろと調べ始めました。すると、高良大社(福岡県久留米市)の祭神、高良玉垂命が磯良神だという説があることがわかりました。地元なものですから、どうしても気になります。

 玉依姫という名は、固有名詞ではなく、「霊が依る姫」つまり巫女の事です。いろいろな場面で登場します。古事記の山幸彦と海幸彦の神話にも登場します。
 玉依姫は白玉で潮干珠(しおひるたま)、山幸彦の妻となる豊玉姫は赤玉で潮満珠(しおみつたま)、その玉を使いこなすのが高良玉垂の神です。
 玉垂とはこの干珠(かんじゅ)、満珠(まんじゅ)を指します。
 「玉垂」が干珠・満珠だとすると、高良玉垂命とは潮の満ち引きを司る神と言う事になります。人は潮が引くときに、息を引き取り、潮が満ちる時に生まれます。潮の満ち引きは月のなせる技であり、月の神様とも言われる訳です。

 そして、「玉垂」は「玉を垂れる」という事で、「玉垂命」とは「珠を与える神」という意味になります。つまり、それは海神です。
 高良玉垂の神が海神だとすると、名前は綿津見(ワタツミ)神という事になります。
 綿津見神の子孫が阿曇氏、ここで、阿曇磯良と繋がります。
 磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠(干珠・満珠)を借り受けて神功皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだといわれています。

どうして、筑後平野の中心にある高良大社に、海神が祭ってあるのか。高良の神と言うのが、歴史上の伝説の謎の人物、武内宿禰という説も気になりました。
 天皇家とは関係なく、高良玉垂神は武内宿禰であると言われています。つまり、玉垂神と高良玉垂神は、別の人物???

さらに高良大社について調べました。次のように書かれていました。
「高良山の中腹に鎮座する高良大社は、その歴史は古く、続日本後紀の承和七年(840)に高良玉垂神として記載される筑後国一の宮である。 延喜式神名帳には高良玉垂命神社としているが、高良玉垂命は古事記・日本書紀などの神話に登場しない。現在こそ祭神は、高良玉垂命とするが、古くは、高良玉垂命神社は社名との考えからか、祭神を武内宿禰とする説が根強い。また他に、物部氏祖神、水沼氏祖神、藤大臣、大伴健将など諸説がある。」

次のような記事も見つかりました。
「神功皇后、その子応神天皇とゆかりの深い「八幡神」を祀る神社は、全国に数万社あり、その殆どが宇佐八幡宮を太祖として分祠したものである。
 それに比べ高良杜は、八幡宮の侍神として各地に祀られるも、その根源とも云える石清水の高良社が、元は河原(川原)社であり、高良大社も川原杜の佳字化(読みが同じでも字面とか意味の良い漢字に変えてしまうこと)と見るべきである。
 そのように各地の川原の地主神の川原社が高良社となり、其の内の幾つかが八幡宮の侍神に組み入れられたと見られる。」

 高良山の麓を流れるのが高良川で、筑後川に注いでいます。地元の地区名は、上川原と言います。これも何かの関連があるのだろうか。

大阪府寝屋川市大字打上(旧河内国交野郡打上村)、生駒山麓の標高百メートルの高地に高良神社がありますが、そこの祭神は武内宿禰です。

さらに、阿曇磯良は、実は幣立神宮とも関係が深いのです。
「幣立神宮には、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)が祀られているが、この神は天孫降臨や天の岩戸開きの時に祝詞を奏上する重要な神として登場し、おもに祝詞・言霊を司っている。大祓祝詞は天児屋根命によって生みだされたものとされる。  この地では、その末裔が幣立神宮の宮司を務めている春木家だと言われ、境内左奥を下ったところに天児屋根命と共に祀られた春木家の歴代神官の霊碑がある。」
この天児屋根命とは、阿曇磯良の事であるという説があります。

 興味がない人には、なんのこっちゃで全然面白くない記事です。 また、歴史小説とは言いながら、小説らしいドラマチックな展開もないし、ただただ私だけが楽しくて仕方がない内容になります。先にお断りしておきます。

≪志賀島神社公式ホームページ≫より

神功皇后は三韓出兵に際して、志賀島の阿曇磯良を召されました。そして龍神より干珠満珠を授かり、無事に三韓を平定して帰還されました。
志賀海神社にはその様子を描いた神功皇后出兵絵巻が残されています。志賀島には神功皇后伝説にちなんだ地名が多く残っています。
阿曇磯良を海国から召し出そうと7日7晩神楽を奏したところが舞能ヶ浜、志賀島にお着きになり願いがかなったと仰せられたところが叶ヶ浜、皇后が馬から下りられたところが下馬ヶ浜、志賀大明神に奉賽した際に馬が喜びいなないたので勝馬となったといわれています。 また志賀海神社裏手の山を勝山と称され、そこに櫂を奉られました。

≪余談≫

この物語の主人公である阿曇磯良に深く関係する人物が神功皇后と武内宿禰である。
『古事記』によると、海神・綿津見神の娘である豊玉毘売・豊玉毘売命(トヨタマビメ)の子であるとか、高良玉垂命であるとか、八幡宮との関係もありそうで、調べるとどんどん深みにはまってしまった。現在、志賀島には、全国綿津見神社の総本宮である志賀海神社がある。
対馬の綿津見神社には、海の守護神である綿津見三神と娘である豊玉姫と玉依姫や、豊玉姫の子の阿曇磯良を祀る神社があるが、その御神体である「亀石」は「磯良恵比須」と呼ばれ、周囲には三本足の鳥居が立ち、御社殿横の磐座とともに御神体石として祀られている。
ここで、面白い説を見つけた。
阿曇はヘブライ語で、「頑強」を意味することから、阿曇磯良は「強いイスラエル」と解釈できる。そして「磯良恵比須」もヘブライ語で読むことができ、「イスラエルの砦島」を意味する。 阿曇磯良(アズミノイソラ)を音読みすると「アントンイソラ」となる。その音に西洋風の響きがあり、元々ユダヤ系の一氏族ではないかなどと想像が広がる。
なお「君が代」もヘブライ語で解釈できるとのことであるが、これ以上想像が広がると物語が先に進まなくなるので、興味のある人は調べてみてほしい。 さらに、「磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神」と書かれてあるのを見つけた。

志賀島 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(2)

【物語が始まります】

 阿曇族の王子イソラの目の前に、後の世に博多湾と呼ばれる豊かな湾が広がり、数艘の釣り舟が浮いている。太陽の日差しを浴びてキラキラと輝く海、真冬の寒い朝なのに、その光が心地よく感じられ、イソラは朝日に向かって手を合わせた。
彼のいつもの朝の儀式である。
今日の朝日は一段とまぶしく輝いていて、なぜか胸が高鳴った。
「今日の日ざしは、何時にも増して、輝いている・・・。」
この時まだ十歳の少年だが、色黒でたくましく、顔や体に独特の入れ墨をしている。
湾の北に浮かぶ志賀島の南岸、そこに小さな集落があり、島民はその豊かな海の魚介類を取って生活している。その地が阿曇族の本拠地のひとつである。
そのような小さな島が、なぜ本拠地であるかと言えば、倭国と朝鮮を結ぶ航路の中心に位置していたからである。 阿曇族は海洋族であり、広大な海こそが彼らの領国である。
その集落の東端の高台に、イソラが住む「宮殿」がある。どこか南方の異国の建物のような独特の存在感のある建物で、高楼(こうろう)と言われる瓦葺の建物があり、宮殿入口にある門には「龍の彫刻」があった。この風景も異彩を放っていて、遠く湾の対岸からも見えた。
その高楼に立ち、東の湾内を眺めて、朝日に向かって手を合わせている少年の姿。
その場面からこの物語は始まる。

その門の両側に、矛を持った見張りの兵士が立っている。門の正面には階段があるが、その階段は浜まで続いていて、そこが船着き場になっている。
船着き場には大型の帆船が繋がれていた。
胴体は丸みを帯び、横幅が広がり、そこから櫂が左右に腕のように出ている。大人五十人ぐらいはゆうに乗り込める大型船である。船先が高くせり上がり、その先端に龍神の顔が彫刻されていて、海をにらんでいる。
中国で造られた大型船で、その最大の特色は、甲板で胴体が蓋われていることである。高波が船の中に入らないため転覆しにくく、波の高い外洋を航海することもできる。
遠くから見ると、そう『大きい亀』のような形をしていた。
当時の小舟は、大木をくりぬいた丸木舟であり、その胴体を横に二つ並べ、中心に帆を立てたものが一般的であった。壊れにくく意外と丈夫で、水が入っても沈没しないため、大型の丸木舟であれば外洋を渡り、朝鮮に行くこともできた。 それらの小舟に混ざって船着き場に繋がれてある大船の堂々とした姿は、ひときわ異彩を放っている。

その大船こそが、阿曇族の誇りであり象徴でもある。この船を使って、外洋を自由に航海し、中国や朝鮮、琉球などと倭国の各地との交易を生業としていた。
宗像神社「宗像大菩薩御縁起」によると、神功皇后の三韓出征の時、亀に乗った磯良(イソラ)が現われて加勢したとあるが、それがこの独特の形をした中国式の船のことである。
外洋に乗り出す前、この地で風待ちをするのが常であった。
 イソラが住んでいる「宮殿」については、現在でいえば琉球の首里城のようだと言えばイメージしやすいかもしれない。
 当時の住居は藁ぶき屋根で、大地に直接屋根がある竪穴式住居が普通であり、床があり瓦葺きというだけでも普通の建物とは全く別モノということがわかる。その宮殿のことを地元の民は「龍宮」と呼んでいた。

志賀島 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(3)

朝日を背にして、一艘の小舟が東方より島に近づいていた、
「王子、あそこに一艘の小舟が見えます。どうやらこちらへ向かって来ております。」
傍にいた海人(アマ)が、イソラに言った。イソラと同じように顔に入れ墨をしている。
入れ墨は海人独特の風習であり、当時としてはすでに珍しい風習であった。
その海人の名をライキという。日焼けで黒光りしたたくましい体をしていて、見た目より案外若いのかもしれない。 「久しぶりだな。奴国のスクネ様だろう。」うれしそうな顔で、イソラは小舟に向かって手を振った。遠くの小舟からも手が振られている。
スクネは幼いころからイソラの遊び友達であり、イソラが住んでいる志賀島付近は、魚釣りに絶好の漁場が多く、以前はよく小舟に乗って遊びに来ていた。

この物語で一族の王子のイソラに対して「王子」と呼びかけている海人(アマ)の若者ライキは、この時まだ二十歳の若者である。
イソラが生まれたときから側に使えていて、父母よりも共にいる時間は長く、漁の技術や船の操作、さらに武術や学問の師というべき存在であり、この物語でもこの後生死を共にする。
イソラが住んでいる志賀島の対岸は、今の福岡市、元々古くからの大国、奴国があった場所で、その奴国の君主の名を武内宿禰(タケノウチノスクネ)という。
代々、奴国の王は同じ名前を引き継ぐが、歴史上有名な伝説上の人物であり、ヤマト朝廷の中でも重要な役割を担う。なお、宿禰とは当時の高級官僚の呼び名であり、大臣という意味だと思われるが、この物語では、彼のことを便宜上スクネと呼ぶことにする。  

 イソラが手を振った相手、奴国のスクネはこの時、イソラよりも五歳ほど年上の若者であり、イソラにとっては兄のような存在である。
スクネは、中国の史書にも記載されている「漢委奴国王印」の金印で有名な奴国の王の一族の王子である。幼少より武術だけでなく、語学に特別の才能を発揮し、すでに中国や韓国の言葉を話すことができた。
さらに、琴を奏で歌を歌い、地元に住んでいる渡来人たちより仙術、易学なども学んでいる。特に琴を奏でることができるということは、特別の意味がある。
琴の音とは神の言葉そのものであり、琴を奏でるとは、祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える審神者(さにわ)になることであり霊的な才能を持っているということである。
奴国一帯は地理的な条件も関係しているが、大陸からのいろいろな情報や知識、先進的技術の入り口にあたり、中国や朝鮮など諸外国との往来の拠点になっていた。
渡来人なども多く住んでいたし、西隣にある伊都国には、窓口となる一大卒(進駐軍)の拠点もあった。
「漢委奴国王印」の金印はこの物語より二百年ほど前、倭国大乱といわれる北部九州部族間の争いがあり、奴国も一時征服されたことがあり、その時に滅失していた。
その大乱の後、「親魏倭王」の金印によって邪馬台国の女王、卑弥呼が倭国の女王と認められた。 そして、奴国は人口も多く今でも北部九州の大国であったが、一地方の県(アガタ)になっていた。
この物語の時代には、政治の中心はすでに近畿のヤマトに移っている。

断っておくが、ヤマト王権と地方の豪族の関係は、朝貢という形での関係であり従属していたわけでなく、それぞれの地域の氏族は、国として独立していたものと思っている。
国同士の関係は様々で、中には争ったり、姻戚関係を結んで共立していたり、安定した統一国家のような状態ではなかった。
当時の倭国では、地域ごとにいくつかの勢力に分かれていたと考えている。
北部九州の邪馬台国連合、中九州を本拠地をする狗奴国などの熊襲、南部九州の隼人。瀬戸内海の吉備国、山陰の出雲、そして近畿のヤマト王権等である。

阿曇族 (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(4)

イソラは海人(アマ)の一族である阿曇族の王子である。
阿曇族は海洋族と言われる独自の文化を持つ技術者集団であり、航海術に優れ、中国大陸南部の海人や隼人族とも血縁関係を結び、奄美、琉球などの海人たちと交流があった。
一般的な豪族と違い、大規模な領地は持たない。 広大な海こそが彼らの領地であった。

 ちなみに熊襲とは、九州中部、今の熊本県あたりに住んでいる部族の総称であり、一つの国ということではない。中心は邪馬台国と敵対していた狗奴国。中国の呉とか越の国の末裔と言われる。
北部九州の卑弥呼を中心とした緩やかな連合体、邪馬台国連合と何度か戦をしていて、どちらかというと仲が悪い。卑弥呼が呉と敵対する魏から「親魏倭王」の金印をもらったことが原因であるかもしれない。
それに対して、九州南部の今の鹿児島や宮崎を拠点とする隼人族は、ヤマトや北部九州の各国と仲が良い。 南方から移り住んできた部族であるが、一世代前、景行天皇の時代に巡幸があり、多くの部族がヤマトと血縁関係を持つようになっていた。
この時期以降、朝鮮半島の動乱から逃れて多くの百済系の民が移住してくることになる。

これから紹介する磯良(イソラ)の物語を始める前に、その時代背景のことを少し紹介しておく。
 この物語の時代は四世紀の中ごろから五世紀の初めのころの日本である。
邪馬台国の女王卑弥呼が生きていた時代から百年あまりのち、古事記による「神功皇后」の時代から中国の史書によると倭の五王の時代。
 あまりに古く、その歴史上の記録も定かでないために、ほとんどが筆者の想像の中で組み立てたものであり歴史というより「小説」として楽しんでもらいたいと思っている。
弥生時代にあたる三世紀の倭人(日本列島の住民)について記した『魏志倭人伝』中には、「男子皆黥面文身」との記述がある。
黥面とは顔に入れ墨を施すことであり、文身とは身体に入れ墨を施すことである。
水に潜って魚をとる海人が大魚の襲撃を防ぐまじないにしたのが、後に飾りとなったらしい。 この物語の主人公、イソラもその入れ墨をしていたのだが、もう過去の風習であり本人は醜いものだと思っていた。

ある資料に次のように書かれてあった。
・ 阿曇(アヅミ)とは「アマツミ」つまり「海人津見」の転訛だそうで、「ツミ」は綿津見神と同じで、「住み」の意味であるとか、「つ」は助詞で、「み」は「美」で美称であるとか言われるが、当に「海人」を名にし負う氏族である。
・ 阿曇氏は、金印(漢委奴国王)で有名な九州の志賀島の対岸にあった奴国の王一族であり、日本の海人族の代表氏族だとも言われ、日本全国の地名にその痕跡を残している。
・ 歴史では、筑前国風土記に神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄ったとの記述があり、阿曇氏の祖神である阿曇磯良が舵取りを務めたとされる記事が残っている。
「アマ」という音は、「天」から来たもので、「天孫」とか、「天ッ神」と同じで、外来の中国系の民族ではないかと思っている。
この物語の中で、神功皇后が三韓征伐の時イソラに頼ることになるが、一説には、エジプトあたりから船で来たユダヤ系の外来民族の末裔で特別な航海技術を持っていたとある。
スクネが、イソラのいる志賀島に来ている場面からこの物語が始まるが、つまり、彼らと繋がる事は、韓と倭国の間の制海権を手に入れるに等しい事でもあった。

今の福岡市東区に香椎宮という宮がある。『宮』とは王が住む住居という意味で、仮宮というのは巡幸の時に一時的にとどまる宮の事である。
その場所から、スクネは小舟を出して志賀島に来た。
なお、奴国の中心地は、私は現在の春日市あたりだと考えている。

阿曇族 (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(5)

「イソラ、久しいのう。」
小舟を降りて、にこやかな顔でスクネは近づいてきた。
いつものように、磯での魚釣りに出かけるものと思って、イソラが道具を取りに行こうとすると、それを察したのか、スクネが言った。
「いや、今日は父上に願い事があって参った。先に阿曇王にお会いしたい。」
イソラの側にいたライキに向かっていった。
いつもと違って、イソラの父上のことを「阿曇王」といったので、ライキも「あれっ」という感じがして態度を改め、姿勢を正してお辞儀をした。
服装も正装で、腰に金銅の龍が彫られている柄に双環のついた太刀を皮帯に吊るしていた。王族であることを示している。
「はい、承知しました。取次ぎをさせていただきます。それでは、まず宮殿の客間にご案内いたします。」
ライキに従ってスクネは船着き場の階段を上り、目の前にある龍宮門をくぐり宮殿内にある客間に入った。 いつ見ても、素晴らしい宮殿である。瓦葺の屋根、柱は朱塗りである。 阿曇族がいかに財力があるか、想像できる。
 いつものスクネの表情と違い少し緊張しているようで、声をかけづらい雰囲気であった。
 イソラも何事かと思いながら黙って後をついて行ったが、客間は政治的な正式な謁見の場であり、子供であるイソラは入ることはできない。
「太刀をお預かりします。」
太刀をライキに預け、客間に入った。
客間でスクネが座ってしばらく待っていると、阿曇王が客間に入ってきて上座に座った。
体は小柄であるが、ふくよかで優しげな顔である。顔にはイソラと同じように顔に入れ墨がある。

スクネは親しみを込めて静かにお辞儀をした。
「突然のお目通りお許しくださいませ。本日は阿曇王に願いの儀あり、参りました。」
「ほう、今日は改まって何事かな。スクネ王子にはいつもイソラが世話になっている。気にせずなんでも申してみよ。」
阿曇王は祖母が奴国王の娘であり、奴国の一族とは姻戚関係にあたる。当時、王には妃が数名いるのが普通で、姻戚関係を結ぶことで一族の繋がりを保っている。
なお、イソラの実母は日向の隼人族の娘であり、スクネの実母も同じく日向の出身であった。同族としての安心感が二人にあり、親しくなった理由かもしれない。奴国は倭国大乱の時以来、阿曇族と共に戦い、歴史的にも一族とのつながりは強い。

「ありがたきお言葉、感謝いたします。わたくしも今年十五歳になります。父の命によりこのたびヤマト(近畿)に下ることになりました。」
 地方の氏族の王子は、大王への忠誠の証しとして兵役に就かなければならなかった。ヤマト朝廷にとっては「人質」としての意味もあったが、それよりも地方の氏族としては中央の政治状況を知るためであり、政治的な勢力を保つためであった。
スクネの父、奴国王も、朝廷より臣(オミ)の位をもらい、政治に参画している有力氏族のひとつであった。時々、奴国王自身もヤマトに行っていた。
「おお、王子もそんな年におなりか。それは大切な勤めじゃ。今倭国は大きな転換期を迎えている。大いに励めよ。」
小さいころから知っているスクネが一人前の大人のように立派な態度で挨拶をしていることを喜び。阿曇王はやさしい声でスクネを励ました。
「それで、ヤマトまでの海路、あの大船に乗船させていただきたい。」
「それはたやすいこと。心得えた。安心してくだされ。我から船長に命じておく。」
阿曇王は、二つ返事で承諾した。

阿曇族は海洋族であり、倭国の各地に拠点を持っていて、交易を主におこなっている。 独特の航海術を持ち、遠くは中国から韓国の各国、九州だけでなく、本州の各地方に行っている。
たとえば、越後でしか取れないヒスイや矢じりなどに使われる黒曜石を調べてみると、東北から南九州まで広く分布している。これは海を通じての各地の交流の広がりを証明している。

大船は数日後に、吉備(現在の岡山地方)からヤマト(近畿の河内)まで朝鮮の百済からの物資を運ぶために出航する予定である。
当時の呼び名はよくわからないが、さらに通常の航路として、その後瀬戸内海を折り返して、各地で交易をしながらイソラの母の故郷、日向の諸県(現在の宮崎県)に寄り、大隅半島、鹿児島を回って、有明海に寄り、その後志賀島に戻ってくる予定である。
 なお、今回の航海で十歳になるイソラは初めて大船に乗ることになる。
航海術を教えるよう、阿曇王が船長に命じたのである。
まだ早いかもしれないが、以前から、ある程度の年になれば将来のために経験させたいと思っていた。

「でどちらに勤められるおつもりかな。」
スクネがどの氏族の元で勤めるのかを聞いた。
「はい、成務帝の元に行くように言われました。」
阿曇王は気になる事があるのか、少し顔を曇らせたが・・・。
「そうか、今の帝は・・・・、奴国王なりの考え方があるのであろう。」
それ以上は何も言わなかった。

以下、この物語とは直接関係ないが、この時代から四百年あまり後の律令時代の話である。
国司すなわち律令国家の地方官、任地に赴任しても、実際にその土地で働くのは、その土地を代々治める郡司であった。
したがって郡司がそっぽを向けば国司はその任務を果たせない。もし紛争が起これば、矢が飛んできたり放火されたり、どんな目に合うかもわからない。そこで国司はどんな手で郡司を手なずけるのか。
実際に、大隅国の隼人が大宰府から派遣された国司を殺害し、追討を受けるという事件も記録に残っている。 そこで、国司は郡司たちの子弟を都の下級役人に取り立てるのである。
郡司の子供が男なら、天皇や貴族の家で働き、女なら采女(ウネメ)すなわち下級の女官として働く。采女のなかには天皇の子を宿すこともあり大出世ということになる。
また、郡司たちの領地を国司が保証してやるということもある。そして、日々の宴会によって仲良くなる事を心がけたという。 なぜか、現代の役人と通ずるところがある。

阿曇磯良伝説、立志編

古代史、四世紀頃の時代の物語です