Japanese Historical Novel ≪歴史小説≫

Azumino Isora

阿曇磯良(アズミノイソラ)とは、いったいどういう人物なのか?

「神功皇后は三韓出兵に際して、志賀島の阿曇磯良を召された。そして龍神より干珠満珠を授かり、無事に三韓を平定して帰還された・・・」志賀海神社にはその様子を描いた神功皇后出兵絵巻が残されている・・・。
 2017年頃ブログに投稿した記事を再編。改めて文才のなさにため息をつきながらも自己満足の世界で楽しんでいます。長編小説になりました。
<歴史長編小説>阿曇磯良伝説は、次の五つの章に分かれています。
 謎の人物「阿曇磯良(アズミノイソラ)」を通して、当時の日本の姿を描いてみました。
 神功皇后、歴史上有名な伝説上の人物である武内宿禰(タケノウチノスクネ)、第十四代の仲哀天皇等々が活躍します。

Prologue


はじめに

 この小説を書き始める半年ほど前、きっかけは忘れましたが、この人物について初めて知りました。
 「阿曇磯良」を音読みすると「アントンイソラ」となります。この聞きなれない音が耳に残ったからです。西洋風の名に興味がわき、いろいろと調べ始めました。すると高良大社(福岡県久留米市)の祭神、高良玉垂命が磯良神だという説があることがわかり地元なものですから、どうしても気になります。
 龍神より干珠満珠を授かり・・・
 玉依姫という名は固有名詞ではなく、「霊が依る姫」つまり巫女の事で、いろいろな場面で登場します。古事記の山幸彦と海幸彦の神話にも登場します。
 玉依姫は白玉で潮干珠(しおひるたま)、山幸彦の妻となる豊玉姫は赤玉で潮満珠(しおみつたま)、その玉を使いこなすのが高良玉垂の神です。
 玉垂とはこの干珠(かんじゅ)、満珠(まんじゅ)を指します。
 「玉垂」が干珠・満珠だとすると、高良玉垂命とは潮の満ち引きを司る神と言う事になります。人は潮が引くときに息を引き取り、潮が満ちる時に生まれます。潮の満ち引きは月のなせる技であり、月の神様とも言われる訳です。
 そして、「玉垂」は「玉を垂れる」という事で、「玉垂命」とは「珠を与える神」という意味になります。つまり、それは海神です。

 高良玉垂の神が海神だとすると、名前は綿津見(ワタツミ)神という事になり、綿津見神の子孫が阿曇氏、ここで、阿曇磯良と繋がります。
 磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠(干珠・満珠)を借り受けて神功皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだといわれています。
 どうして、筑後平野の中心にある高良大社に、海神が祭ってあるのか。高良の神と言うのが、歴史上の伝説の謎の人物、武内宿禰という説も気になりました。
 天皇家とは関係なく、高良玉垂神は武内宿禰であると言われています。つまり、玉垂神と高良玉垂神は、別の人物???
 さらに高良大社について調べました。次のように書かれていました。
「高良山の中腹に鎮座する高良大社は、その歴史は古く、続日本後紀の承和七年(840)に高良玉垂神として記載される筑後国一の宮である。延喜式神名帳には高良玉垂命神社としているが、高良玉垂命は古事記・日本書紀などの神話に登場しない。現在こそ祭神は、高良玉垂命とするが、古くは、高良玉垂命神社は社名との考えからか、祭神を武内宿禰とする説が根強い。また他に、物部氏祖神、水沼氏祖神、藤大臣、大伴健将など諸説がある。」
 次のような記事も見つかりました。
「神功皇后、その子応神天皇とゆかりの深い「八幡神」を祀る神社は、全国に数万社あり、その殆どが宇佐八幡宮を太祖として分祠したものである。
 それに比べ高良杜は、八幡宮の侍神として各地に祀られるも、その根源とも云える石清水の高良社が、元は河原(川原)社であり、高良大社も川原杜の佳字化(読みが同じでも字面とか意味の良い漢字に変えてしまうこと)と見るべきである。
 そのように各地の川原の地主神の川原社が高良社となり、其の内の幾つかが八幡宮の侍神に組み入れられたと見られる。」
 高良山の麓を流れるのが高良川で、筑後川に注いでいます。地元の地区名は、上川原と言います。これも何かの関連があるのだろうか。
 大阪府寝屋川市大字打上(旧河内国交野郡打上村)、生駒山麓の標高百メートルの高地に高良神社がありますが、そこの祭神は武内宿禰です。
 興味がない人には、なんのこっちゃで全然面白くない記事です。
 また、歴史小説とは言いながら、小説らしいドラマチックな展開もないし、ただただ私だけが楽しくて仕方がない内容になります。先にお断りしておきます。

≪志賀島神社公式ホームページ≫より
 神功皇后は三韓出兵に際して、志賀島の阿曇磯良を召されました。そして龍神より干珠満珠を授かり、無事に三韓を平定して帰還されました。
 志賀海神社にはその様子を描いた神功皇后出兵絵巻が残されています。志賀島には神功皇后伝説にちなんだ地名が多く残っています。
 阿曇磯良を海国から召し出そうと7日7晩神楽を奏したところが舞能ヶ浜、志賀島にお着きになり願いがかなったと仰せられたところが叶ヶ浜、皇后が馬から下りられたところが下馬ヶ浜、志賀大明神に奉賽した際に馬が喜びいなないたので勝馬となったといわれています。 また志賀海神社裏手の山を勝山と称され、そこに櫂を奉られました。

≪余談≫

 この物語の主人公である阿曇磯良に深く関係する人物が神功皇后と武内宿禰である。
 『古事記』によると、海神・綿津見神の娘である豊玉毘売・豊玉毘売命(トヨタマビメ)の子であるとか、高良玉垂命であるとか、八幡宮との関係もありそうで、調べるとどんどん深みにはまってしまった。現在、志賀島には、全国綿津見神社の総本宮である志賀海神社がある。
 対馬の綿津見神社には、海の守護神である綿津見三神と娘である豊玉姫と玉依姫や、豊玉姫の子の阿曇磯良を祀る神社があるが、その御神体である「亀石」は「磯良恵比須」と呼ばれ、周囲には三本足の鳥居が立ち、御社殿横の磐座とともに御神体石として祀られている。
 ここで、面白い説を見つけた。
 阿曇はヘブライ語で、「頑強」を意味することから、阿曇磯良は「強いイスラエル」と解釈できる。そして「磯良恵比須」もヘブライ語で読むことができ、「イスラエルの砦島」を意味する。
 阿曇磯良(アズミノイソラ)を音読みすると「アントンイソラ」となる。その音に西洋風の響きがあり、元々ユダヤ系の一氏族ではないかなどと想像が広がる。
 なお「君が代」もヘブライ語で解釈できるとのことであるが、これ以上想像が広がると物語が先に進まなくなるので、興味のある人は調べてみてほしい。  さらに、「磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神」と書かれてあるのを見つけた。

Index


Isora01 志賀島、阿曇族、金印の謎、大亀
Isora02 航海
Isora03 ヤマトタケル
Isora04 葛城高額姫
Isora05 息長足姫、成務帝、鞆の浦
Isora06 難波津、志賀高穴穂宮、日向の諸県
Isora07 日向の諸県、大隅隼人、対馬海流、海神の子

Prologue 2

神功皇后について

 神功皇后は日本の第十四代天皇・仲哀天皇の皇后であり、三韓征伐や天皇後継争いで大きな功績を残した人物で、日本の第十五代天皇・応神天皇の母でもある。
 神功皇后には実在説と非実在説があり、どちらかと言えば実在性は否定されており伝説上の人物であるというのが一般的な見解。
 しかし、日本には神功皇后の伝承地が多数残されている。更に明治時代には切手や紙幣に神功皇后の肖像画が描かれていた。戦前までは、学校教育で「神功皇后は実在の人物である」と教えられていたのである。歴史の研究が進むにつれ神功皇后の実在性は否定されていき、現代では非実在説が濃厚になってきているが、各地に残されている伝承と歴史書の記述がほとんど一致している。
 その上、日本書紀だけでなく古事記でも、それぞれ神功皇后の説明のために一巻を使ってる。天皇以外の人間で、これほど詳しく説明されているのは皇后だけである。
 このように神秘的な謎に包まれている神功皇后だが、神話の中で武芸の才能や母としての強さを見せ、現代では勝運や安産を守護する神様として信仰されてる。
 亡くなった後、神社に祀られることになった神功皇后。2つの神となっている。
1つ目は住吉大神。
 熊襲征伐の折にお告げをした神々の中に、住吉三神という三人の神様がいた。三神の力で、神功皇后は熊襲征伐と三韓征伐をやり遂げたと言われている。深い縁があったためなのか、神功皇后は死後、住吉三神と一緒に祀られ、住吉大神と呼ばれるようになった。 2つ目は八幡神の母。
 神功皇后の息子・応神天皇は戦いの神、八幡神として信仰の対象になっている。このため神功皇后も八幡神の母として、武家社会では広く信仰されるようになった。

志賀高穴穂宮

 穴穂は滋賀県大津市穴太に比定されている。遺構は未発見であるが、同地にある高穴穂神社を宮址とする伝承がある。
 『日本書紀』によると、景行天皇が景行天皇58年から崩御するまでの3年間、志賀に居して是を高穴穂宮とすると記し、仲哀天皇が即位2年目に笥飯宮に遷宮するまで3代の天皇が宮居したとする。一方で『古事記』には成務天皇が近江志賀の高穴穂宮に居して天下を治めると記している。
 ここで、興味ある説を紹介します。

近江王朝説

 王朝交替説の一つで、三輪王朝と河内王朝に挟まれた景行、成務、仲哀の3代にわたって近江に本拠とした王朝があったとする学説。水野祐の三王朝交替説は諡号に「イリ」を持つ天皇皇族による三輪王朝と「ワケ」を持つ天皇皇族による河内王朝とするが、近江王朝は「タラシ」が諡号に含まれる3天皇1皇后を根拠の一つとしている。同時期には四道将軍を始め、尾張、丹波など畿外に関連した叙述が『記紀』に多くみられ、国造をなど王権による全国支配が進められたとされる。

Wikipedia 参照

初めて日本を支配した天皇…崇神天皇
10崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)
11垂仁天皇…三輪王朝
12景行天皇(オホタラシヒコオロシロワケ)
13成務天皇(ワカタラシヒコ)
14仲哀天皇(タラシナカツ)
 神功皇后=息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)
15応神天皇(ホンダワケ)
16仁徳天皇…河内王朝
*三輪王朝はイリ 河内王朝はワケが特徴。近江王朝系の諡号は「タラシ」を特徴とする。
 三輪王朝(イリ)や河内王朝(ワケ)とは異なる勢力系の王朝と考えられる。そして河内王朝の王位継承が途絶えた時、第26代継体天皇は都から遠く離れた北近江の地から迎えられた
 なお、舒明天皇=息長足日広額天皇(オキナガタラシヒロヌカ)…天智・天武天皇の父。
 継体・敏達天皇の妃の父=息長真手王である。
 天皇系図の中に頻繁に「息長」が現れる。(1つの豪族名が名に記される例は他に無い)
 つまり、王家に妃を出し外戚として皇族の扱いを受けていたのが「息長君」
 神功皇后(オキナガタラシヒメ)の存在を感じる。

Index


Isora08 阿曇族の抬頭、大改革、策略と政略
Isora09 策略と政略、宿禰の危機
Isora10 縁談、物部の誤算、運命的出会い
Isora11 運命的出会い、抗争の勃発
Isora12 抗争の勃発)、運命の日、盟約


Prologue3

武内宿禰の事績

 景行天皇(第12代)から仁徳天皇(第16代)までの5代に渡り武内宿禰の事績が記されている。
第12代景行天皇紀
  景行天皇25年7月3日条、同27年2月12日条
武内宿禰は北陸及び東方に派遣され、地形と百姓の様子を視察した。帰国すると、蝦夷を討つよう景行天皇に進言した。
  景行天皇51年1月7日条、同年8月4日条
天皇は群卿を招き数日の宴を催したが、武内宿禰と皇子の稚足彦(のちの成務天皇)は非常に備えて参じなかった。これを賞賛した天皇は特に目をかけ、稚足彦を皇太子に、武内宿禰を「棟梁之臣」に任じた。
第13代成務天皇紀
  成務天皇3年1月7日条
成務天皇は武内宿禰を「大臣」となし、同日の生まれであることから武内宿禰を寵した。
第14代仲哀天皇紀
  仲哀天皇9年2月6日条、2月22日条
仲哀天皇が遠征途上で死去すると、神功皇后と武内宿禰とは天皇の喪を秘した。そして四大夫に宮中を守るよう命じたのち、武内宿禰自身は密かに天皇の遺骸を海路で穴門へ運び、豊浦宮において殯を行なったのち、皇后に復命した。
神功皇后紀
  神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年3月1日条
神功皇后は斎宮に入り、自ら神主となって仲哀天皇に祟った神の名を知ろうとしたが、その際に武内宿禰は琴を弾くことを命じられた。
  神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年4月3日条
神功皇后が神田に儺河(福岡平野を流れる那珂川)の水を引きたいと思い、溝を掘ったが大岩にあたった。武内宿禰が皇后に召されて剣・鏡を捧げ神祇に祈ると、溝は通じた。
  神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年12月14日条、神功皇后摂政元年3月5日条
仲哀天皇の崩御を聞いて反乱を起こした?坂皇子・忍熊皇子兄弟に対し、武内宿禰は皇子(のちの応神天皇)を抱いて南海に出て紀伊水門に至る。そして武振熊(和珥臣遠祖)とともに数万の軍を率い、山背、菟道(宇治)を経て、逢坂(京都府・滋賀県境の逢坂山)にて忍熊皇子軍を破った。
  神功皇后摂政13年2月8日条、同13年2月17日条
皇后の命で太子を伴って角鹿の笥飯大神(福井県敦賀市の氣比神宮)を拝し、帰還後に開かれた宴では太子に代わって皇后に返歌した。
  神功皇后摂政47年4月条
新羅と百済とで貢物の問題が起こり、皇后が誰を百済に遣わしたら良いか天神に問うたところ、天神は武内宿禰をして議を行わしめ、千熊長彦を使者とするよう答えた。
第15代応神天皇紀
  応神天皇7年9月条
高麗人・百済人・任那人・新羅人らが来朝した際に、応神天皇の命でそれら韓人を率いて韓人池を造った。
  応神天皇9年4月条
天皇の命で武内宿禰が筑紫へ百姓の監察に遣わされた際、弟の甘美内宿禰が兄を廃そうとして天皇に讒言した。天皇は武内宿禰を殺すため使いを出したが、真根子(壱伎直祖)が身代わりとなって殺された。武内宿禰は朝廷に至って天皇に弁明すると、武内宿禰と甘美内宿禰は探湯で戦うこととなったが、武内宿禰が勝った。
第16代仁徳天皇紀
  仁徳天皇元年1月3日条
応神天皇の子の大鷦鷯尊(仁徳天皇)と武内宿禰の子の平群木菟宿禰とは同日に生まれた。その際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けた。
  仁徳天皇50年3月5日条
茨田堤に雁が卵を産んだことから、仁徳天皇と武内宿禰とは長生を讃えて歌を詠みあった。
その後『日本書紀』には事績の記載は見えず、允恭天皇(第19代)5年7月14日条に至って武内宿禰の墓の伝承が記されている。

Index


Isora13 回天、南海道、水沼君
Isora14 水沼君、豊国、穴門豊浦宮、筑紫の訶志比宮
Isora15 筑紫の訶志比宮、神の神意、神意の真相、磯良登場
Isora16 出生の秘密、三韓征伐の真相


Prologue4

武内宿禰の謎

 日本書紀他の伝承では景行天皇14年に生誕し仁徳天皇55年に亡くなったと伝えられている。「古代史の復元」では景行天皇14年はAD304年、仁徳天皇55年はAD424年であり、そのまま同一人物であれば121年生存したことになる。現在でも世界一の長寿になる寿命である。
  武内宿禰の「武内」は姓、「宿禰」は尊称と考えられ、個人名ではないとするとこの問題は解決する。
 この歴史小説に出てくる「スクネ」の父が初代、二代目が「スクネ」本人であると考える。
 景行25年に東国視察したのは初代武内宿禰で、景行14年に生誕したのは2代目武内宿禰、つまり「スクネ」となる。
武内宿禰生誕地の謎
 武内宿禰の生誕伝承を持つところが二か所存在している。一つは佐賀県武雄市の武雄神社でもう一つは和歌山県和歌山市松原83番地安原八幡神社の地で、境内の武内神社には、武内宿禰の産湯に使われたという井戸が残っている。日本書紀の記述によれば生誕地は和歌山県となるが、神社伝承には周辺に父も母も祀られていない。
 両親と思われる人物を祀る神社は福岡県にしか存在せず、屋主忍男武雄心命の子とされる武内宿禰(初代)は武雄神社の地で生誕したと考えられる。
和歌山にはその両親にかかわる伝承を持つ神社が存在しないので、和歌山で誕生した武内宿禰の父が武内宿禰と思われる。
 成務天皇3年(AD326年)、「スクネ」が大臣となっている。現行暦で22歳となっているので、初代武内宿禰(スクネの父)は50歳前後となる。
 その後仲哀、神功皇后時代に「スクネ」が活躍している。
 武内宿禰は仁徳55年(424年)に没しているので、この武内宿禰が仁徳55年まで生存していたとすれば武内宿禰は121歳まで生きたことになり、あり得ない。仁徳朝で活躍した武内宿禰は「スクネ」の子供であると思う。

Index


Isora17 三韓征伐の後、大和政権奪取
Isora18 大和政権奪取、倭国の女王、河内王朝
Isora19 九州王朝説、七枝刀の謎 、神功皇后の崩御、暗殺未遂事件
Isora20 暗殺未遂事件、武内宿禰のその後

その他の物語

 あとがき
 第一話 仲哀天皇の死の謎
 第二話 大和政権奪取
 第三話 『高天原の乱』

Prologue5

Afterword (あとがき)

 この小説を再編集するにあたり、再度いろいろと調べてみました。
 日本書紀の記述や古事記をもとに書きましたが、実際の動きには20年ほどの期間があり、 小説の設定が変わるので、新たな物語を書く必要が出てきました。
  • Nenpyou01(実際の年表)天皇の在位期間と古事記・日本書紀との比較
  • To be continue ~

    20210925 記


    安曇野について

     長野県にある安曇野の標高は500~800m。この山中の盆地を開発したのが古代日本を代表する海人族安曇(あづみ)氏である。
     安曇氏の本拠地は北九州の志賀島一帯。彼らの分布は、北九州、鳥取、大阪、京都、滋賀、愛知、岐阜、群馬、長野と広範囲にわたっており、「アツミ」や「アズミ」の地名を残している。その北限が安曇野ということになる。
    彼らはすぐれた航海術と稲作技術を持ち、古代の海人族の中でも最も有力な氏族である。連(むらじ)という高い身分を大和朝廷から受け、中国や朝鮮にもたびたび渡っていたとも言われており、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いでは、安曇比羅夫(あずみのひらふ)が大軍を率いて朝鮮にわたり、陣頭指揮にあたっている。
    また、788年には宮中の食事を司る長官奉膳(ぶんぜ)の地位についていることからも、安曇氏は大和朝廷を支えた有力氏族であったことがうかがえる。

     信濃の大社として名高い穂高神社(ほたかじんじゃ)は、この安曇氏の祖神である海神「穂高見命(ほたかみのみこと)」を祀っており、今でも同神社の祭日には何艘もの船がくりだしお互いにぶつけあう豪壮な行事を見ることができる。その昔天智元年に水軍を率いて百済(くだら)救援に向かった祈りの様子を表したものが始まりであると伝えられてる。
     安曇族がこの地へ来た時代は7世紀頃とされている。その理由については、大和朝廷の任を受けた蝦夷(えぞ)征伐であるとも、また、越国(こしのくに)の制圧のためとも推測されているが、決定的なことは不明である。
     私の推論ではあるが、きっかけになったのは「磐井の乱」だと思っている。別の項で述べたいと思う。
    では、それ以前に、この地に住んでいた部族はいなかったのか?

    八面大王の伝説が意味するもの

     この地からはたくさんの遺跡や古墳が見つかっている。
     梓川(あずさがわ)右岸には縄文時代では、唐沢(からさわ)遺跡や三夜塚遺跡(山形村)、熊久保(くまくぼ)遺跡(朝日村)、葦原(あしはら)遺跡(波田町)など。
     弥生時代になると、扇状地末端の湿地帯に集落が営まれたらしく、三の宮、こぶし畑、境窪遺跡(いずれも松本市)などがある。
     また、古墳は穴観音古墳、殿村古墳(横穴式)などが山形村で調査され、松本市新村でも13基の横穴式古墳が発見されている。
      左岸の安曇野(あずみの)でも縄文前期から中期にかけての遺跡が、烏川(からすがわ)、黒沢川(くろさわがわ)など水の得やすい扇頂部、扇端部などから出土しており、弥生式 土器も烏川扇状地の末端部でおびただしく出土している。
     古墳は、山の山麓部分、ちょうど左岸幹線-穂高幹線水路に沿うように分布していて、中でも有名なのは有明古墳群こと「魏石鬼岩屋(ぎしきのいわや)」。
     魏石鬼とは有明山(ありあけやま)の麓で勢力を持っていた八面大王(はちめんだいおう)という「鬼」であり、伝説では坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に成敗されたことになっている。
     しかし、合戦沢、耳塚、立塚、矢村など伝説に関わる生々しい地名も残っており、おそらくは大和朝廷の先兵である安曇族の侵入に対して最後まで抵抗した部族 だった。伝説上は「鬼」だが、地元では英雄視する声もある。いずれにせよ八面大王の戦いの頃、この盆地は大和政権の勢力下に入り、稲作が盛んになっていったと思われる。

    Links (リンク)

    現代語訳読みやすい古事記 リョウさんのホームページを参照。
     現代語に語訳されていて簡単な説明がわかりやすいです。
    ★「古代史の復元」 ホームべージを参照させていただきました。
     仲哀天皇の没年、神功皇后の年代推定、三韓征伐の時期等、詳しく考察されています。とくに日本書紀の年代改ざんについてはなるほどと思いました。
  • Koziki01 (古事記 第12代 景行天皇)
  • Koziki02 (古事記 第13代 成務天皇) 現代語訳と簡単な説明です。関連項目だけ再編集しました。
  • Koziki03 (第12代景行天皇時代からの出来事)第12代景行天皇の時代
  • Nenpyou01(実際の年表)古代史の復元で推定した、天皇の在位期間と古事記・日本書紀との比較
  • Nenpyou02 (応神天皇時代の出来事)
  • Nenpyou03 (4世紀の東アジア情勢と倭国の出来事)