自分の基準

ちょっと難しい哲学の話

 自分という存在を通して、自分の感じ取れる世界だけを基準に物事を考える。 すべての自分の言動にはしっかりと理由があり、すべてが正しい。
≪この事実を気づいていない人が多いのではないでしょうか。自分という存在がなければ、世界は存在しない。だって、その世界を認知する自分が存在しないのですから。つまり自分が世界を創り出している。≫
 でも…そこに他人の“未知の部分”が介入してくると、自分の中で、これまでいくら正しいことであっても否定せざるを得なくなることがあります。
≪そうです、自分の世界以外に他人の世界も存在しています。人の数だけ別々の世界が存在しています。≫

 だから、正しいことが、一つしかないと思い込んだり、ある人の言うことは絶対正しくて、ある人の言うことは信用できない、という基準は、いつでも壊される危険があるのです。
 なぜなら、自分がまだ感じ取っていないというだけで、正しいと思っていた相手が、これまでの自分を否定したり、信用できないと思っていた人が自分を助けることも十分にありえるからです。

≪こんな風に、自分について考える学問を哲学と言います。言葉が難しくて、わかりづらいと思いますが、自分が正しいと考えることは、他人を否定することになる危険性があると言いたいのです。≫

 自分の中の正しさしか見ていないうちは、それを否定されると痛みや不快感を感じます。その痛みや不快感の中に含まれているものは、いったいなんでしょう。
 これまで正しかったものを、変えなくてはいけなくなるという不満でしょうか。それは、人間が無意識に持っている自己防衛本能なのかもしれません。それがあるうちは、自分と他人との間に壁を作ってしまいます。
「他人との間に壁を作ってしまう」と自分でわかっていても、だからといって取り払うことなど不可能です。そこには、壁を作ってしまう理由があるのだから。
 理由そのものがなくならない限り、一度取り払ってもまた出来てしまうのが心の壁なのです。
 そこで、気がつきました。
 初めは壁があっても何でも良いので、他人の気持ちをいちいち自分のこととして感じようとしてみる。そうすれば、この壁は、意識せずとも自然に溶けてなくなってしまうものなのです。
「他人の想いを、自分のことのように感じる」ことは、「自分が無くなる」ということなのだから、そこには異質だとして否定すべきものがなくなります。
 つまり、他人と関わるときに、最初から「相手のことを自分のこととして感じよう」という姿勢で向かえば、壁など最初から存在できなくなるのです。
 仮に、壁を作ってしまったとしても、自分を否定されたような苦しみに悩んでいても、相手の心を感得できれば、きっと取り払ってしまえる。だからこそ誰かとの間に壁を作ってしまうとき、考えてほしいのです。
 自分の壁の中だけを見て、否定される苦しみを誤魔化すよりも、いちいち感じ取る作業をしたほうが、結果的に自分も楽になれます。でないと、否定される痛みに耐えられず、ますます壁を高くして閉じこもってしまうことの繰り返しになってしまいます。
 かといって、相手の気持ちになって、壁を取り払うことが出来ても、これまでの自分をいちいち否定していたら、何が正しいのかわからなくなって、不安定になります。
なぜなら、相手を感じるたびに受け取るものはバラバラだから。
相手の、新しい部分を感じ取りながらも自分の中の、揺るがぬ“正しさ”は存在しているべきなんです。

 自分を貶めず、相手をさげすまないためにはどうすればいいのでしょうか?
 自分の他人の感じる世界を、まるごと“自分のこと”として持てばいい。
 そうすれば、他人と関わるほどに、自分の軸は失われず、自分の世界が広がっていく。それだけ、面白くて魅力的な素晴しい世界になっていく。
「これまで正しかったもの」と「これまでにない異質のもの」の両方が、自分の中で共存出来るようになります。 存在する他人の数だけ、私たちは未知で未熟なのだ。そして、それだけの可能性を秘めているのです。
 ちょっと何かをわかるようになって、知ったかぶりしていた私が確かにいました。自分はいつでも未熟者で、常に誰かから何かを教わっている存在なのだと気がつきました。
心が納得しました。そしてなぜか、ホッと安堵しました。

他の人を気にかける

ダライラマ「思いやりのある生活」より

 他の人を気にかける感覚を伸ばすときに土台となるものがあります。意外に思えるでしょうが、自分自身を愛せる能力が基礎となるのです。
 自分自身の愛情は、何も自分に恩義があるので生まれるのではありません。それどころか、自分を愛せる能力の根底にある事実は、人はみな本来、幸福を願い、苦難をさけたいと思っていることです。
幸せになり、苦しみを避けたい欲求がなければ、自分を大事にする事はないでしょう。この事実にいったん気づけば、その他の有情の生き物にも広げることができます。


 この言葉を知ったとき、ある研修で生徒さんから報告があったエピソードを思い出しました。その時の話です。

 その研修では、「傾聴」についての話をしました。
人の話を聴くことの大切さを説明した後、実際の方法について、うなづき・相槌の仕方、姿勢や態度などを詳しく話しました。二日間の研修で、その二日目の朝、研修が始まる前に、その生徒さんが私の前にこられて、興奮した声で言われました。

「先生、ありがとうございました。奇跡が起こりました。」

 私は訳がわからず、キョトンとしていました。その生徒さんは、実際にこの「傾聴」の方法を使い、奇跡のような効果を上げたというのです

「先生、傾聴ってすごいですね。ほんとに昨日はびっくりしました。」
 周りの生徒さんも、その生徒さんのあまりの勢いに、いったい何が起こったのかと回りを取り囲みました。
「えっ、何があったんですか。」
「実は、私の父なのですが、80過ぎで末期がんなのです。病院に見舞いに行くのが辛くてですね・・・。いつも、見舞いに行くと、ここが痛い、あそこが痛いというのですが、私にはどうすることもできません。その声を聞くのがいやで、忙しいと自分に理由をつけて、最近は見舞いにいっていなかったんです。」
「わかります。お辛いですねーー。」
「それだけならいいのですが、あの看護士はどうのこうの、病院の待遇が悪いのと、何かにつけて文句を言うのです。 私は、『まあまあ、おとうさん、お世話になっているのだから・・・』と慰めてはいるのですが、その言葉を聴いている自分まで、いやな気持ちになってしまって・・・、さびしくなってしまいます。」
「お父さんは、辛いのでしょうね。何かにその辛さや苦しさや寂しさをぶつけないと、耐えられないのかもしれませんね。」
「そうかもしれません。それで、昨日先生から教わった『傾聴』をしてみたんです。形から入ることが大切と教わりましたから、微笑みながらしっかりと父を見て、こちらからは一言も喋らず、ゆっくりとうなずきながら父の話を聞きました。いつものように人の悪口を言うのですが、昨日はガマンして、『そうだね』とうなづきました。」
「そうですね、ついつい口をはさみたくなりますから、傾聴することはガマンが大切です。」
「二十分ほど父は話し続けました。私はじっと聞いていました。すると、急に黙ったのです。何秒間か、沈黙の時間が続きました。
 私が父の顔を見ると、それまで苦痛に苦しんでいた父の顔が、輝いたのです。
 本当です。
 パッーと光が射したような感じになり、顔の表情がやさしくなり、入院して初めて、こう言ったんです。『孫たちは、元気しとるか』と・・・。
私は、ビックリしてしまいました。
 末期がんで苦しんでいる父が、やさしい顔で、孫のことを気にかけてくれたのです。私は、思わず涙があふれて、『元気しとるよ』と言いました。

 それからしばらくは、孫たちの話題で話が盛り上がり、笑顔で病院を後にしました。父に対する感謝の念があふれ出し、帰りながら、涙がこぼれました。
家に帰って、妻に話しながら、また、涙があふれました。
先生、これは奇跡です。ありがとうございました。」

 その生徒さんは、話しながら、また涙を流されました。
 その話を聞いた私も、感動して、もらい泣きです。周りの生徒さんも、うなづいていました。その後の研修は、私にとっても思い出に残るすばらしい研修になりました。

≪この話は、以後の研修で毎回話すネタになりました。≫

人間だからミスをする

 人間だからミスをする。しかし、そのミスをどう考えるか、どう対処するかでその後の展開が変わってしまうものです。
 まず、ミスをしない人間はいないのですから、そのミスを責めても何も変わりません。なぜそんなことをするんだ」と原因を追究しても時間の無駄です。叱責することで自己満足するためでしょうか。
 そのミスの原因を考えて、ミスが起こらないような方法を考えることは確かに大切でしょう。
 原因を追究して、ミスのない製品を作る・・・不可能です。
 人為的なミス・・・防ぎ様がありません。
 すべてのものは劣化します。
 シンプルで、単一の機能しかもっていないものはミスがありません。複雑で多機能で便利なものにミスがついてきます。

 人間の生き方も同じではないでしょうか。
 ミス、失敗を発生させる生き方とは我欲です。これもしたいあれもしたいと次から次に欲望を膨らませてその結果、ちょっとしたミスで人生を台無しにします。

≪欲を持たなければミスは起こりません。失敗ではなく学びはたくさん経験しますが。≫

 与えられた仕事を誠実にこつこつとしていく仕事は小さな失敗はありますが、着実に人生を積み上げて幸せな一生を送ることになります。
 わかってはいるのです。
 しかし夢と欲を混同してしまう自分がいます。自分のためだけの夢は夢ではなくて欲です。

 話が横道にそれますが、世の中は自分のためだけの世界ではありませんから、うまくいくはずがないのです。
お金儲けをしたいと、投資する人がいます。株式が暴落しましたが、数字だけが一人歩きしています。買った人は存しましたが、売った人は儲けているはずですよね。それがばくちの世界です。
 それでバランスが取れているはずなのです。
 自然の摂理から、人間社会がしっぺ返しをされています。
 不動産バブルのころ、私は不動産業をしていました。現実にバブルの崩壊を経験しました。土地は、いくらといえばいくらです。価格が坪十万円の土地でも百万円の土地でも、そこに住んでる人が住み続ければ土地の価格は関係ないのです。(税金の評価は違いますが、これもその土地に値をつけて税金を取ろうとする政府の陰謀です。土地に税金をかけること自体が人間が考え出した錬金術です。)

 実際の土地を切り貼りしたり、持って行ったりすることができません。それに人間が値段をつけ、欲と欲のぶつかり合いで、価格を吊り上げてしまいました。土地は自然のものですから、それを切り貼りすることに無理がありました。
 人口が増えないのであれば土地を利用する人も増えないのですから、価格は上がるはずはないのです。新築の家を買う人は、古い家を処分しなければなりませんから、その古い家は廃墟になります。
 実際に、地方には、限界集落が発生しています。自然は平等なのですから、その自然のために何ができるかを考えて生きていくと、結果として自然から喜びを与えられるのです。

 話を戻します。
 人間だからミスをしますが、そろそろ自然からいいかげんにしろとしかられるのではないかと思います。
 いつまでも、人間の思うような世界が続くはずがないのではないかと考えてしまうのです。

潜在意識の活用

 「自分で認識できる部分」が意識(顕在意識)で、「自分で認識できない部分」が、潜在意識です。 人は意識する心で考えますが、人が習慣的に考えることは何であれ、潜在意識の中に沈み、潜在意識は人の思考の性質に応じて想像を行ないます。
潜在意識に関する知識があれば、人の全生活を変えることが可能となります。

 ふだん意識している部分よりも、 意識していない部分の方がはるかに大きく、そこから生み出されるパワーも、 当然のように潜在意識からのほうが圧倒的に大きいからです。
 潜在意識には世界を動かすほどのパワーが存在するといわれています。
 私が研修会などで、「内発的動機」を大切にせよとか、「楽しさ」が大切であるとか述べていることは、この「潜在意識が人の人生を創造している」と思うからです。
 たいていの人は、自分の状況や環境を変えようとするときに、外部の状況や環境に対して働きかけますが、これは間違いです。原因は、その人の意識する心の使い方、すなわちその人の考え方、その人の想像力の働かせ方なのです。
 境遇や条件などの、外側について考えるのは今すぐやめることです。それらにとらわれていては、いつまでたっても、その状況から抜け出すことはできません。

 外の状況を変えるためには、まず原因を変えなければなりません。
 潜在意識は議論することができませんから、その人が間違った暗示を与えると、それを真に受けて、状態、体験、事件という形で実現させ始めるのです。 その人の身に今まで起こったことはすべて、その人が信念によって潜在意識に刻み込んだ考えがもとになっています。
 もしその人が、すでに間違った観念を自分の潜在意識に送り込んでしまっているならば、それを克服する効果的な方法は、建設的な考え(アファメーション)を何回も繰り返すことです。
 そうすると、その人の潜在意識はその繰り返された建設的、調和的な考えを受け入れて、新しい健全な考え方と生活習慣を形成してくれるのです。

「結果には必ず原因がある」というのが、私たちの常識です。
失敗には失敗の理由があり、成功には成功の原因がある。
そのためには目標を明確化しないとダメだとかよく言います。
 そこで言う原因とは、外部の状況や条件を意味します。外部の状況は、一つでも、その状況をどうとらえるかで、対応は違いますし、その人の考え方で人生が変わります。いい状況を「イメージする」事で、人や組織は変化していくと言うのが私の考え方です。

客観的な「正しさ」はない

 以前、元暴力団員が、妻子を人質に自宅に立てこもり、それを包囲した警察官が死亡すると言う事件がありました。その暴力団員は、元妻が自力で脱出した後、警察の説得により投降しましたが、自ら断続的に110番して「撃たないで」などと命乞いをしたそうです。
 さびしくなってしまいました。人を殺しておいて、自分は「殺さないで」というのは、なんと身勝手な論理でしょう。

 人を殺してはいけないと誰でも言います。
では「なぜ、殺してはいけないの」と子供から聞かれたらどう答えますか。
 戦争で、多くの人が死んでいます。戦争で敵を殺すのは「正義」で、一人の人間を殺すのは「犯罪」です。多くの人を殺せば「英雄」です。
 こんな理屈は、子供には通用しません。
 そのテレビを見ていた人の中には、「なぜもっと早く助け出せなかったのか。」「あんなヤツは殺してしまえ」と思った人もいたのではないかと思います。アメリカでしたら、間違いなく射殺されていたと思います。

◆なぜ、人を殺してはいけないのか
「なぜ、人を殺してはいけないか」という難しい質問には、逆に考えれば簡単です。
人を殺しても良いと言う人は、人に殺されても良いという人です。
人に殺されても良いと考える人は、人を殺しても良いと考えても良いということができます。これが平等の論理であり、戦争の論理です。

 戦時中の兵士の考え方は、「戦争で死んだのだから、殺した相手の兵士を恨むということはない」のです。「相手も自分も命がけで必死の形相で戦い、傷つけ合い、殺しあいました。実際に戦友が、自分の側で殺され、自分も敵を殺しました。その人が憎くて引き金を引いたわけではない・・・。」
 義理の父から、このような話を聞いた時、私はズシンと重いものを持たされたような気がしました。
 義父は、実際にフィリピンに行き、そこで実際に戦った人です。側で戦友が何人も死んでいきました。自分も結核やマラリヤにかかり、命かながら生き抜いてきた人です。
 「殺されるか殺すか」のギリギリの現実の中で、戦争を戦ったのです。だから戦争を経験した義父は、平和のありがたさをいつも口にしていました。死ぬまで、心の傷として残っているそうです。
 実際に戦争の現場に行かなかった人は、「人を殺すことはよくない」と観念的に答えますが、そんな簡単な理論ではないのです。それでも、「家族のため、国を守るため」に戦いに行くという現実の厳しさがあります。
 自分から悪いことをしていると解った上で戦争を仕掛けることはありません。その人なりの「正義」が必ずあります。テロ行為をする人にも「正義」があるのです。
人が100人いたら100通りの正しさがあります。つまり客観的な「正しさ」は存在しないのです。
「正しさ」に固執すると戦いが起きます。
国どうしの戦争も、「正しさ」と「正しさ」の戦いです。
「何が正しいか」を考えると、人を許すことができません。
 自分を守るために、相手を殺しても良いという人は、相手もその身を守るために自分を殺しても良いという理屈を認めてあげる必要があります。
皆さんは、できますか?
正しいか間違いか、良いか悪いかではなくて、「何が楽しいか」で考えてみませんか。
人を許すのと許さないのと、どっちが楽しいでしょうか?
そうです、許すことで、自分の人生が楽しくなるのです。

「陰徳(いんとく)」

葉室 頼昭 (春日大社宮司)

≪代々天皇家の神事、政治の宗教的な側面にかかわってきた葉室家(藤原氏の系統)の跡継ぎとして生を受けた頼昭氏は数奇な運命をたどり、医者となり、東洋医学を学び、春日大社の宮司となられました。神に仕える者として、医者として真理を説かれます。≫

 生物のイノチが続くというのは、伝え、順応し、待つ。この三つで生物は進化を続け、イノチを伝えています。 この伝統を伝えるということ、そしていろいろな厳しい環境に順応し、去ってゆくのを耐えて待つことが必要なのです。
 しかし人間はそれだけではありません。
 人間が何のためにこの地球上に生まれたのかということが重要なのです。
 人間は他の生物とはまったく違った目的で誕生したのだと思います。
 つまりそれは神の世界を見て、こんなに素晴らしい美の世界だということを表現するために、神様は人間というものを産み出されたのだと私は考えています。それは人間だけが優れ、他の動物が下等というのではありません。
 ただ人間は、この目的のために進化を続けているということです。そして更に人間の場合、ただ進化しただけではイノチは伝わっていかないのです。
 そこに「徳」というものが必要だと私は思っています。
 とくに日本人はこの徳を積まないとイノチが子孫に伝わってゆかない民族だと思うのです。しかも陰徳という徳です。この陰徳というものを積んできた家が今続いているのであって、陰徳を積んでいない家は、イノチというものが続いていないように見受けられるのです。
 私は小さい頃よりおふくろから陰徳、陰徳と耳にたこが出来るくらい聞かされて育ちました。
 友達のために一生懸命にやって、友達が何も感謝してくれないこともありました。
 その話をすると、「それでいいんだ。それが陰徳。それが子供に伝わっていくから、それはそれでいい。むしろ感謝されないほうがいい。」と言われ、訳もわからず、そんなものなのかなと聞いてきました。
 その意味がいまこの年になってようやく分かってきたのです。
 普通、人はこれだけ尽くし世話をしたのだから感謝して欲しいと思うことがよくあります。しかしそうすると、もうそれは陰徳ではなくなってしまうのです。「感謝や見返りを一切求めない。」 人の喜ぶことをしていれば、それが一番いいのです。こういうことの積み重ねが陰徳になり、やがて子々孫々にまでその余徳が及んでゆくのです。

 この陰徳と関連して、大きな努力と小さな結果ということも大切なことです。
大きな努力をして小さな結果を望みなさい。この逆をやって小さな努力で大きな結果ばかりをもらっていると、いずれ滅びてしまう。
 例えば、百万円を儲けるため、Aという努力をして百万円儲かるんだったら、その何十倍も大きなBという努力をして、そして百万円を得るようにしなさい。
そうしたら陰徳で栄える。
こういうことなんですね。
それは努力の割に儲けが少ない。しかし、そうしたらその分、徳を積んで続いていくのです。
 この世の中というのは、栄えるというのではなく、続くということが一番大切なことなのです。会社がどんなに儲かっていても、潰れてしまっては元も子もありません。何ごとも、いかにしたら続くかということを第一に考えるべきなのです。

≪感想≫
 昨日、たまたま原稿にした「徳」の考え方が書いてありました。
・人間は、他の生物と違う目的で生まれてきた。
・神の世界のすばらしさを表現するために生まれ、その目的のために進化を続けている。
そして、そのためには
・感謝や見返りを一切求めない陰徳が必要である。
とかかれてあります。
 陰徳を積んだ家や会社が続いていくという言葉は、真理であると思います。

感謝には理屈はいらない

葉室 頼昭 (春日大社宮司)

  健康の話はいつもしているけれども、どうやったら健康になるかというのは、西洋医学でいう健康法とは全然違うことです。
 ジョギングをしたら健康になるとか、こんな食べ物を食べたら健康になるとかいうことではなくて、全くそんなこととは違って、宇宙の仕組みから見てどうやったら健康になるかということです。だからまず第一に、生かされているということに感謝しなさい。
≪そうです。まず感謝することからはじめます。≫

 自分で生きていると思うから病気するんですよ。
悩み、苦しみはすべて自分で生きているというところから出発する。自分で生きているということはあり得ない。 そんな生物は一匹もいない。生かされているという本当のことを知りなさい。そうしたら感謝するこころが生まれるでしょうということです。

 健康になりたかったら細胞を認めて褒めてやりなさいと言うんです。無数の細胞一個一個におまえはよく働いてくれるね、すごいね、おかげでおれは健康だ、ありがとうと認めてやったら、細胞がエネルギーを出してくれるよと言うんです。それを認めないで、自分の体だと思って一つも感謝しない。だから細胞が怒って病気になるんですよ。

 感謝もいまは間違っています。神さまにお願いして、お恵みがいただけたら感謝する。これは感謝とは違う。これは取引です。
 これだけお賽銭をあげるから、その代わり神さま、子どもを入学させてくださいという取引ですね。入学したらありがとうございますという。これは感謝でもなんでもないんですね。

 感謝には理屈はいらない。
 神さまありがとうございますといって、神さまと波長を合わせたら子どもが入学するということなんです。入学したから感謝するのではないんです。感謝したら入学するということなんです。世の中は逆さをやっているんですね。

 太陽の光は空気によって反射して初めて光と熱が出るわけでしょう。反射しなかったら光も熱も出ない。感謝しなかったら全然神さまは出てこられないんです。だから反射と感謝とは同じだと言っているんです。
 入学させてもらったら感謝しようかと。そんなふうに宇宙の仕組みはなっていない。反射しなければ出ないんですよ。感謝しなければ出ない。だから感謝しなさいと。

 そうすると何に感謝するんですかと言う人がいるんですね。何にと言うときにはもう感謝ではない。それは取引です。
 理屈なしにありがとうございますと言えたときが本当の感謝です。
そうすると神のお恵みが現れてくる。
これが本当のことです。
だからよく健康に感謝する。
健康でありがとうございました。
それは結構なんですよ。
でもそういう人に限って病気になったら感謝しない。
 たとえばお祈りで自分の病気を神さま、治してくださいと。ところがお祈りしてもさっぱりよくなりませんという人がいます。それは治らないですよ。
 私を健康にしてくださいということは、私は病気ですと言っているようなものです。
 自分は病気だから健康にしてくださいと言うわけでしょう。神さまに私は病気ですと言っているんだから、そうかと、そのとおりに病気になってしまう。だからどんなに病気でも、健康でありがとうございますと言いなさいというんです。そうしたら健康が来る。
 病気を治してくださいということは、私は病気ですと神さまに訴えていることですからね。

 自分も含めてどうしても自分の都合のいいことには感謝して、不都合なことには不平不満だらけになってしまいがちです。自分に不都合なことの中には大きな学びがあり、後になって「ああ、あれでよかったんだ。ありがたい」と思うことはよくあります。そんな理屈なしに素直に生かされていることに感謝できる人となりたいと思います。

罪や穢を祓う

葉室 頼昭 (春日大社宮司)

 祓いとは、罪(つみ)・穢(けがれ)を祓うということですね。
神道では「みそぎ」という言葉があるように、身を浄めるというのは非常に大きなポイントでしょうか。
 結局、日本人と西洋人の大きな違いは、西洋医学では、たとえばガンならガンという状態に体が変化したのが病気であると考えています。
しかし日本人はそんなことは考えていない。

我々人間の体というのは、神さまが完壁におつくりになった体だから、病気でそんなふうに変化するということはないのです。
 罪・穢と言いますが、「つみ」というのは体を「包む身」という意味です。
「つみ」というのは泥棒をしたとか、そういうことではないんですね。ああいう当て字を書くからわからなくなる。 「つみ」という日本語は、すばらしい神さまからの体を包んで隠してしまうということです。
「けがれ」というのは、穢という字を書いていますが、汚いというのではなくて「気枯れ」です。我々を生かしてくれる神さまの気を枯らしてしまうものが、「けがれ」なんです。
 そういうもろもろが体についてしまったために、もともとのすばらしい姿が見えなくなった状態が、病気であると考えるわけです。
もとは変わっていない。
 ですから、いま言ったように、どんな泥水でも、水は変わっていない。泥が混ざっただけだから、泥を取ったらまた澄んだ水が出てくる。こういう考え方をします。

 人間の体も水と同じで、どんな病気が来ようと、もともとはすばらしい体であり、それに罪・穢という異物がくっついているだけなのだから、それを消せばもとの体が出てくると考える。
私もそれが正しいと思います。
 そして、これを行なうのが祓いです。
 この祓いというのはすごいもので、世界で日本人だけが考えたものです。
 人間の体というのはそうやすやすと変化するものではない。神さまが百五十億年もかかってつくられた体が、簡単にばい菌や何かで侵されるわけがありません。神さまはそんな体にはつくっておられない。どんな状態になろうとも、もともとの人間の体はすばらしいんです。ただ、それをおおい隠すようなものがつくからダメになるというわけです。
 それがなぜつくかというと、すべて「我(が)」です。
 罪・穢は全部「我」によっておこってくるのですね。
 我欲があるから、いわゆる病気になったり、いろいろ悩み、悲しみが出てくるのです。だから、我欲を祓いなさいというのが「祓い」ということです。
--中略--
 人生というのは、何もかも祓いのくり返しなんですね。一生涯祓いつづけて、死ぬ間際になったら罪・穢が祓われて、神の真実の世界を見なければいけないんです。だから、本当だったら年寄りになったらおおかた祓われて、罪・穢の大元である我欲がなくなるはずなんですが、今は逆に年を取れば取るほど我欲が出て、ガンコジジイ、ガンコババアになっている人がいる(笑)。
これは神に反することです。
若いときは体力があるから、自分の我欲で生きようとする。そこで、それをなくすために、わざわざ自然は人間の体力を衰えさせている。すると我欲で生きることができなくなる。
つまりそれが年を取るということでしょう。
そうやって我欲をなくそうとしているんですね。
--中略--
 いかにしたら我欲をなくせるかということです。
神さまが神の世界を見なさいとおっしゃっている。
しかし、我がある間は見えない。
祓って祓って我欲をなくしたときに見えるんです。
ですから、人生というのは祓いそのものなのです。
--中略--
 我欲をなくすために祓いつくし、それで、本当の姿を持たなければいけない。これは、いつも私が言っている、理屈でものを考えるなということです。理屈で考えるからこういう世の中になったのだから、それを一度全部捨てる。
 神さまというのは理屈のない世界にいらっしゃる。理屈を言っている間は神さまは見えないわけですから、理屈を言わず、感謝しなさいと。

≪罪・穢はそもそも我欲のことで、これを“祓う”ことは我欲を捨て感謝の生活をすることだったのです。≫