第11話 誰が考えるのか

ロジカルシンキング

誰がどのように考えているのでしょうか? 「誰が」とは、「自分」のはずです。他人であるはずはありません。

では、この「自分」とは何なのか?
→自分の中に存在する理性であり知性であると思います。
この理性・知性はどのようにして「自分」に与えられたものなのか?
→先天的なものか、後天的な学習によるものなのか、どちらも関係するのか、これはわかりません。わからないけど確かに在ります。

このように言葉の概念を合理的に定義できなければ『考える力』とは何かを考えることはできません。
このような思考方法を「哲学」と言います。
 そして、「哲学」はロジカルに組立てられています。
 論理という意味を表す「ロジック」は、ギリシア語ロゴスに由来しています。この「ロゴス」の意味に、「神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。」とも書かれています。
神と繋がっているのです。
「わからないけど確かに在る」と感じるのが、宇宙の摂理であり、神という存在です。
論理的な思考、科学的な分析と神の存在は矛盾しないものだと思います。
どんな科学者も物理学者も数学者も歴史学者も、そして哲学者も、知性によって物事を追及してゆくとその先にある「わからないけど在るもの」を感じるようになります。
「自分」とは何なのか?という答えさえもまだ見つかっていません。
私が、「ロジカルシンキング」という言葉を嫌いなのは、表面的なハウツーの技術としてとらえられており、その奥にある科学的な法則性を考えていないような感じがするからです。
論理的に考えていくと、本質的なものに行きつくかも知れない可能性があるのに、中途半端な学問のように感じるからかもしれません。
ロジカルシンキングというテーマで、どこまで話を広げることができるか、わかりません。 とりあえず、このテーマでブログを続けてみようと思っています。

第12話 コミュニケーションの劣化

ロジカルシンキング

私たちのコミュニケーションには、どうして「論理性」が失われてしまうことが起るのでしょうか?

 私たちは自分の頭の中にある考えや情報を、整理・理解しないまましゃべることがあります。 その結果、適切な言葉に変換できず、もともと伝えたかったものとは違う情報が相手に伝わってしまいます。
話す時に、コミュニケーションの劣化が起ってしまいます。
もし「どうも上手く言葉にならないなあ・・・」とか「どういえばよいかなあ・・・」と思いながら話している時にはこのコミュニケーションの劣化が起こっています。

≪自分の想いが正確に伝わっていないと思ってください。≫

また、人が話を聞く時は、「自分の好きなように」聞く傾向があります。
聞き手が自分の「知識、経験、思想、価値観、好み」というフィルターを通して、勝手な理解をしてしまいます。 聞く時にも、コミュニケーションの劣化が起ってしまいます。

心理学用語ではこの劣化をメンタルモデルの干渉といいます。
さらに聞く時にはメンタルモデルの干渉以外に、記憶力や集中力の欠如によっても情報が簡単に欠落し、劣化が起こります。

≪物事の見方や行動に大きく影響を与える固定観念や、暗黙の前提のことをメンタルモデルと言います。≫

「勝手にイメージしていた・・・」「うわの空で聞いていた・・・」というあの状態です。
こうした情報の劣化は、世界各国で日々行われている様々なコミュニケーションで起こっている事なのですが、実は日本という国は、世界で最もこの劣化が起こりやすい環境にあります。
これは日本独自のコミュニケーションスタイルに原因があります。
これまで日本社会は、単一言語・単一民族という文化、社会背景のなか、長い年月をかけて、聞き手の理解力に依存したコミュニケーションスタイルを確立してきました。
相手が何を言いたいのかを聞き手が察し、意図を汲むということを、日本人はごく普通に、それも無意識に行います。 あいまいな受け答えも許されてしまうのです。
この反対で、欧米人は、言語に依存するコミュニケーション文化を確立しています。
この場合、相手には通じないという前提から始まるため、コミュニケーションは言語に依存し、論理的に話します。
つまり、相手に話したいこと、伝えたいことを明確にして言葉で表現しない限り、伝えたいことを伝えることができないという基盤ができています。

≪余談≫
ビジネスの現場で、英語を共通語にしようという会社が出てきていますが、その原因の一つに、この論理的思考の考え方があると思います。
   マーケティングなど、人間の購買心理などを論理的に分析しようという流れがあり、もてはやされています。  MBOという目標管理システムやPDCAサイクルなどの考え方です。
 一種の流行ではないかと感じているのですが・・・。

第13話 ハイコンテクスト文化

ロジカルシンキング

ビジネスの世界は、グローバル化が避けられません。必然的にロジカルコミュニケーションの必要性が高まってきたのです。

 このコミュニケーション環境を説明するのに役立つ概念として、アメリカの文化人類学者であるエドワード.T.ホールが唱えた「ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化」という識別法があります。
この識別により、国や地域のコミュニケーションスタイルの特長が理解しやすくなります。
ここで使われている「コンテクスト」とはコミュニケーションの基盤である「言語・共通の知識・体験・価値観・ロジック・嗜好性」などのことです。
ハイコンテクスト文化とはコンテクストの共有性が高い文化のことで、伝える努力やスキルがなくても、お互いに相手の意図を察しあうことで、なんとなく通じてしまう環境のことです。
とりわけ日本では、コンテクストが主に共有時間や共有体験に基づいて形成される傾向が強く、「同じ釜のメシを食った」仲間同士ではツーカーで気持ちが通じ合うことになります。
日本においては、「コミュニケーションの成否は会話ではなく、共有するコンテクストの量による」ことと、「話し手の能力よりも聞き手の能力によるところが大きい」です。

一方、欧米などのローコンテクスト文化ではコミュニケーションのスタイルと考え方が一変してしまいます。コンテクストに依存するのではなく、あくまで言語によりコミュニケーションを図ろうとします。そのため、言語に対し高い価値と積極的な姿勢を示し、コミュニケーションに関するいろいろな能力(論理的思考力、表現力、説明能力、ディベート力、説得力、交渉力)が重要視されることになります。
したがって、ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化ではコミュニケーションに対する考え方や求められるスキルが異なります。

 ≪余談≫
 日本では、話がうまいとか上手という人は、あまり評価が高くありません。目立たず黙って、裏で調整してコンセンサスを得るような人のほうが、なんとなく偉いような感じがします。
 これまでの政治の世界では、小沢一郎のような政治家のほうが、日本人には好まれる傾向がありました。この当たり前だった風土が通用しなくなってきました。
   地域社会の崩壊とともに、人と人のつながりが希薄になり、このハイコンテクスト文化が劣化してきたと思います。

第14話 文化の違い

ロジカルシンキング

ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化の違いについてまとめました。

ハイコンテクスト文化ローコンテクスト文化
聞き手の能力を期待するあまり下記のような傾向があります。
・直接的表現より単純表現や凝った描写を好む
・曖昧な表現を好む
・多く話さない
・論理的飛躍が許される
・質疑応答の直接性を重要視しない
話し手の責任が重いため下記のような傾向があります。
・直接的で解りやすい表現を好む
・言語に対し高い価値と積極的な姿勢を示す
・単純でシンプルな理論を好む
・明示的な表現を好む
・寡黙であることを評価しない
・論理的飛躍を好まない
・質疑応答では直接的に答える

 たとえば、ある商社で「先週の商談はうまくいったのかい」という問いかけがあったとします。
日本型のコミュニケーションスタイルでは、
「人間万事塞翁が馬。今の情勢の変動は激しく予断を許さないからね。今回の契約もどうなるかとヒヤヒヤしていたんだ。人間諦めないで最後まで頑張ってみるものだね・・・・」のように、問いに対する答えを直接的に伝えることよりも、周囲の状況や自分の感情などを詳細に説明することで共感を求め、肝心の答えは相手に推測してもらおうとする傾向があります。
一方、英語型のコミュニケーションスタイルでは、
"It was so successful. We got two new big contracts there."「非常にうまくいった。大きな新規契約を2つ結んだよ」のように、問いに対する回答や結果などの重要な情報を明確に伝えます。
推測しなければならないような回答は、伝達側の努力不足でありルール違反であり、非常に無責任なものととられます。
≪心の心のつながりを大切にするから、日本人にとっては、論理性とか合理性よりも、共感という感情のほうが大切だと思われています。合理的に割り切れない感情、この感情に素直に生きることのほうが大切だと思ってますが・・・≫
日本人とアメリカ人が会話をすると、アメリカ人が盛んに話し、日本人が聞き手にまわっているのをよく見かけます。 その理由は、一般には英語で会話しているからだと考える人が多いと思います。ところが実際にはアメリカ人と日本語で会話をしても、相変わらずアメリカ人の話す割合が圧倒的に多いのです。
1日の会話量を計測したある調査データによると、平均してアメリカ人は日本人の2倍の量を1日に話すそうです。
ローコンテクスト社会では、日本人が想像する以上に、言葉によるコミュニケーションが重要視されているのです。
グローバル社会は経験・知識・価値観・人生観・倫理観、その他宗教や歴史など全てが異なり、さらにお互いに偏見を持ちあっている現実もある、究極のローコンテクスト社会です。その中でかわされるコミュニケーションは、極言すれば「通じない」ことを前提にしなければならないと言っても過言ではありません。
つまり、グローバル社会においてはハイコンテクスト社会のコミュニケーションは十分に機能しないと言わざるを得ないでしょう。
本人は頑張っているつもりでも「コミュニケーションに熱心でなく、誠意がなく、能力もない」と評価されてしまう危険性が高いのです。
さらにグローバル社会ではコミュニケーション能力の評価が重要なポイントとなり、そこに仕事の能力をオーバーラップさせて評価する傾向が強いのです。どんなに素晴らしいアイディアや商品を持っていたとしても、表現力がないだけで受け入れられない危険性がつきまとってきます。
コミュニケーション力が十分でなければ、まともな人付き合いや仕事も難しい-----それがグローバル社会のルールです。
したがってローコンテクスト型コミュニケーションに対応していくことは、グローバル社会への第一歩と言えます。
さらにこの対応は国内においても求められています。日本という国家が本質的な国際化を遂げようとしているいま、グローバル化とは海の向こうのことではなく、日本国内を主な舞台として進行していることなのです。
インターネットマーケットには国境は存在しませんし、外資の進出などで日本企業が外国人とビジネスを行うことも増加の一途をたどっています。
また、日本人同士であっても、価値観が多様化し、特にビジネス社会においては若手社員と管理層の間に代表されるように、コンテクストを共有することが非常に難しくなってきています。
つまりローコンテクスト型コミュニケーション力の修得は、日本のビジネス環境において誰もが求められることになってきているのです。
異なる基盤を持つ者同士がコミュニケーションを行うためには、相手が自分の事を何も知らないという前提で、お互いが理解しやすいように話す工夫があります。

第15話 正しいとは

ロジカルシンキングと哲学

ロジカルシンキング

実践的なロジカルシンキングに行く前に・・・
≪ロジカルシンキングとは、「論理的に物事を考えること」、「相手に分かりやすく伝えること」です。その語源であるギリシャ語「ロゴス」には、言葉・理性の意味があり、世界万物を支配する理法・宇宙理性の意味もあります。また、キリスト教で、神の言葉の人格化としての神の子イエス=キリストの事です。 哲学も、物事を理性によって理解しようとするものであり、その手法は似ているなと思っています。
以下、池田晶子「人間自身考えることに終わりなく」より抽出し要約して紹介します。≫

 論理の正しさは、論理式に置き換えることで保証されますが、言葉の正しさは、どのようにして保証されるのでしょうか。
「正しい」とは、文字通り、正しいことです。
私にとっては正しいが、あなたにとっては正しくない、こういうのを「正しい」とは、そもそも言いません。「君の正しさは間違っている」とは、この言葉の使い方が間違っています。
「正しい」とは、特定の個人や集団にとってのみ正しいことではなくて、誰にとっても正しいということなのです。 誰にとっても普遍的に正しいというのでなければ、「正しい」ということの意味にはなりません。
≪ロジカルシンキングについて考える時、この言葉の定義について共通の認識がなければ、物事を論理的に分析したり判断したりすることは不可能であると思っています。≫

≪余談≫
この「正しいとは」どういうことなのか?
道理にかなっている。事実に合っている。正確である。
規範や規準に対して乱れたところがない。
まず、この「正しさ」とは何かを定義するところから、議論は始めなければなりませんね。
たとえば、「愛」という言葉があります。
愛は文学、道徳、哲学、宗教いずれの観点からいっても、もっとも根本的な観念の一つです。
しかし、西洋の概念と東洋の概念は違うようにも感じます。
「真の愛は自己を犠牲にしなければ達成することができないという、絶対的な愛、これがキリスト教の考え方です。  東洋には、慈愛・慈悲という言葉があります。
 仏教でいう「慈」は真実の友情で、「悲」は哀れみ、優しさを意味します。
辞書で調べてみると、次のような言葉がありました。
「他者を自己とまったく同じには愛しえないがゆえに、憐(あわ)れみの気持ちをもって他者をいたわり、他者に対して本来自己がいだく冷酷さを緩和する」というのが東洋的な知恵のあり方で、この考えから、孔子の「己の欲せざるところを人に施すなかれ」という教えが出てくるのだそうです。
同じ言葉でも、これだけ定義が異なるのです。

第16話 知らないという事を知る

哲学

自分は知らないと知っていたら、どうして人に教えることができるだろうか。

  ところで、自分は知っていると思って人に教える自分は、いったい「何を」知っているのだろう。
 この「知っている」とはどういうことか。
「何のために」知るのか、「何のために」学ぶのかと問われたら、どう答えるだろう。
たぶん、会社のため、将来のため、人生のため、それなりに答えるだろう。
それなら、「その人生とは何なのか」を知っているのだろうか。
「知る」とは、実際に役に立ってのみ、知ることであり得る。
泳ぎ方を本で読んで知ってはいるが、実際に泳げないなら、泳ぎ方を知っているとは言えない。
同じく、各種の知識を知ってはいるが、それを人生に役立てることができなければ、それを知っているとは言えない。
ゆえに、人生のためと他人に教える自分は、人生とは何かを知っていなければならない。 知らずに教えているのであれば、自分は知らないということを知らないわけである。

子供の教育ということについても同じことが言える。
じっさい、多くの大人は、子供よりも先に生きているから、自分のほうが人生を知っていると思っている。
 しかし、それはウソである。
 彼らが知っているのは「生活」であって、決して「人生」ではない。
生活の仕方、以下に生活するかを知っているのを、人生を知っていることだと思っている。
 そして、生活を教えることが、人生を教えることだと間違えているのである。
しかし「生活」と「人生」はどちらも「ライフ」だが、この両者は大違いである。
子供に「何のために生活するの」と問われたら、親はどう答えるだろう。
こういう基本的なところで大間違いをしているから、小中学校で仕事体験をさせようといった愚にもつかない教育になる。
そんなことは、社会に出れば、ほっといたって学ぶことだ。生活に必要だからである。しかし、生活の必要のない年齢の子供が、生活に必要な事を学ぶ必要がどこにあるのだろう。生活の必要のない年齢には、生活に必要のない事を学ぶ必要がある。それはこの年齢、このわずかな期間にのみ許された、きわめて貴重な時間なのである。

生活に必要でないことは、人生に必要な事である。すなわち、人生とは何かを考えるための時間があるのは、この年代の特権なのである。

≪こういう基本的なところで間違っているから、自分が行っている社員研修も、ハウツウを教えるような愚にもつかない研修になる?≫

第17話 自分で考えてください

哲学

「人生とは何か」とは、そこにおいて生活が可能となるところの生存そのものこれを問う問いである。
「生きている」、すなわち「存在する」とは、どういうことなのか。  この問いの不思議さに気づけば、それを純粋に知ることの面白さがわかるはずだ。

 大人になった我々は、「生活」に追われ、「人生」について考える時間もゆとりもないのかもしれない。
だからこそ、この本質的な問いに対して考えることが必要なのではないかと思っている。
いままで考えたことがないのであれば、今こそ考える時期できないかと思う。
  生活のための教育は、人生のための教育ではない。 生活のための教育しか受けなかった人間は、生活のために生きることしかできない。
いかに生活するかは知っていても、生きるとは何なのかを知らない大人は、たんに先に生きているだけであって、何を知っているわけでもない。

≪このことを知ってから、私は「我々はいかに知らないか」を研修テーマにすることにしています。どうせ教育をするのならば、人生のための教育を行いたいものです。≫
心理学を勉強し「哲学」的な話をしていると、人が身構えるのがわかる。 難しいもの、わからないもの、そして人生の現実とは関係ないもの。
で、私はよく「考える」という言葉を使う。
「人生の現実とは、世界が存在することであり、人が生きて死ぬことである。このことの何であるかを考えるのだから、考えるとは生きることである。」
「で、どうすればいいんですか?」
「だから、まさにどうすればよいかを考えることが考えることだ」と答える。
 トホホ。

≪余談≫
 研修などで、この言葉を聞くと、力が抜けてしまいます。自分の人生を、人に尋ねるということが一体どういうことなのか。
この重大性に気づいていない人が、あまりにも多いと感じます。
「アドバイスをすることはできますが、決めるのはあなたです。あなたの人生ですから・・・、自分で考えてください。」

第18話 どうすればよいか

哲学

『どうすればよいか』とは、ある意味で人生の常態である。
人生は自分が生きるものであるから、これを自分に問うのは理解できる。 しかし、この問いを他人に問うとはどういうことなのだろうか。

 「私はどうすればよいのでしょうか」。
 おそらく人は、他人に答えを期待する、他人に答えを求めるということに慣れすぎている。「自分で考える」ということをしたことがないから、考えることすら他人にしてもらうものだと思っているのだ。
 しかし、生きているのはその人であって、私はあなたではないのである。あなたがどうすればいいのか、私が考えるわけにはゆかないのである。

≪社員研修で話していても、似たような反応があります。
「どうすれば考えられるのですか」。
何かマニュアルみたいなものがあると思うのでしょう。
パソコンを開いて、問いを打ち込めば、答えは即座に返ってくる。
問いと答えはそのような関係にあると思っているのです。≫

答えのない問いを考えることが、考えることだ。
そう言っても、にわかには納得しないのは当然である。
 世の中これだけ情報があふれていても、本当に必要のないことを誰も知らない。人生の一大事、自分や家族の生きるか死ぬか、そんな時はどうすればよいかは、誰も知らないのである。
 もちろん、私も知らない。
知っているわけがない。
 人生とは、それ自体が、知らないものを生きることだからである。
 それが何なのか、それがどうなるのか。自分が知らないのを生きるのが人生である。

 知らないからこそ、考えるのだ。

第19話 生死とは何か

哲学

生死こそが人間のもっとも本質的な問題である。 しかし、多くの人は、生死を現象でしかとらえていない。
死に方のあれこれをもって死だと思い、本意だ、不本意だ、気の毒だ、立派だと騒いでいる。 しかし、いかなる死に方であれ、「死に方」は死ではない。

 現象は本質ではない。
 本質とは、「死」そのもの、これの何であるか、これを考えて知るのでなければ、まともに生きることすらできないではないか。  この当たり前が通じないのは、認めたくないからである。
 生きるのは権利であり、死ぬのは何かの間違いであると思っている。
 正死することにおいて、人は完全に平等である。
 すなわち、生きている者は必ず死ぬ。
 癌だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである。癌も心不全も脳卒中も、死の条件であっても、死の原因ではない。  全ての人間の死因は、生まれたことである。
 生命は素晴らしい、生きていることは奇蹟的だと礼讃するなら、死ぬことだって、同じく奇蹟的のはずである。 どうして生きていることばかりを奇蹟的だと言って、死ぬことのほうを奇蹟的と言わないのか。
 この場合の礼讃の本意は、「生きていればいいことがある。いろいろ楽しいことができるから」といった類のものである。だから楽しいことができなくなると、「生きていてもしょうがない」と、こう簡単に裏返る。
 以前、子供が自己か殺人かで亡くなった小学校の先生が、「生きていればいことがあったのに」と子供たちに教えていたが、こういう教育は良くない。
 生きていれば悪いこともあるではないかと反論されたら、どう答えるつもりだろう。子供にいきなり生命は尊いと教えるのは無理である。「なぜ」それが尊いのかを実感していないからである。
≪大人と言われるようになった私たちは、実感しているでしょうか?≫

第20話 確率は奇蹟ではありえない

哲学

貴いと実感できるのは、それが神秘なものだと気づくことによってしかできない。これは、自分の力を超えている、自分にはこれは理解できない。
こう気づくことによって、人は初めてそれを敬うという気持ちになるものである。畏怖の感覚と神秘の感覚は極めて近い。
 私たち大人が忘れているのだから仕方ない。

科学が宣伝している「生命の神秘」がある。
「精子と卵子が結合する割合は何十億分の一である。
これは奇蹟的な確立である。
私の存在は奇蹟的である。
あなた私もかけがえのない存在である・・・。」
 しかし、以下に奇蹟的な確率であれ、確率であるということは可能であるということだ。可能なことは可能なのだから、奇蹟的な事ではない。
 確率は奇蹟ではありえない。
 本当の奇蹟は、自分というものは、確率によって存在したのではないというところにある。
 なるほどある精子と卵子の結合により、ある生命体は誕生した。しかし、なぜその生命体が自分なのか、その生命体であるところの自分は、どのようにして存在したのか。
 これはどう考えても理解できない。
なぜ、こんなものが存在しているのかわからない。
 だから、奇蹟なのだ。
 なぜ存在するかわからないものが存在するから奇蹟なのだ。 なぜ存在しているかがわかるなら、どうしてそれが奇蹟であり得よう。存在するという事自体は、人間の理解を超えている。
 だからこそ、存在する生命は奇蹟であり神秘であると、正当にいうことができるのだ。
 生きることが奇蹟なら、死ぬことだって奇蹟である。
 なぜ存在するかわからない宇宙が、なぜか自分として存在し、それが生きたり死んだりしているのを見ているというのは、いったいどういうことなのか。
 生きたり死んだりしているとは、(何が)なにをしていることなのか。

 とまあこんなふうに、「奇蹟」の意味を考えてゆくと、とんでもないところに出てしまう。
 人生というものを、生きてから死ぬまでの一定の期間と限定し、しかもそれを自分の権利だと他者に主張するようなのが現代の人の人生観である。
 これはあまりに貧しい。
自分の人生だと思うから、不自由になるのである。
しかし、人生は自分のものではない。
生きるも死ぬも、これは全て他力によるものである。

第21話 生まれた原因は

哲学

「全ての人間の死因は生まれたことにある」と言ったが、ふとわからなくった。 死ぬ原因が生まれたことにあるのなら、生まれた原因は、何にあるのだろう。
「死因」とは聞くが、「生因」とは聞いたことがない。

  普通は、生まれた原因は、両親にあることになっている。
「精子と卵子の結合により、この自分は生まれた、存在した」とするものである。
しかし、これは生まれたことの条件であり、生まれたことの原因ではない。
 素直に考えれば、そもそも存在しないものが、生まれることができるはずがない。
生きていないものが死ぬはずはないのと同じである。
その意味では、存在するから生まれたのだということはできる。
存在が生の原因である。
したがって、死の原因も存在にある。

≪このロジックを理解できますか?≫


ところがしかし、「生まれた」ということは、生まれたというまさにそのことにおいて、生まれないこともできたということを含む。
そうでなければ、生まれたということの意味がわからない。
生まれないという事もできたにもかかわらず、生まれたのである。
だとしたら、「どうして」生まれたのだろうか。
生まれたことの原因は、やっぱり不明なのである。
 たぶん、「生と死」と分けて言い、分けて考えるところから、この面倒は生じている。
生がなければ死はなく、死がなければ生はない。
正確には、生がなければ死とは言えず、死がなければ生とは言えない。
生と死は対としての言葉であり、言葉がなければ生死は言えない、つまり「ない」。
 それで私は面倒だから、言葉以前のこの存在を指して「存在」と、言うことにしている。
「存在」は生死でもあり、生死でもない。
同じことを「色即是空」といった人もいる。
「人がなぜ生きるのか」と問われれば、私は「存在するから」と答える。
なお、「なぜ存在するか」と問われたら、「さあねえ」と答える。
よほど正直でしょ。